第5話 一人の歩き方


 だが、すべてのものには終わりが訪れる。人の命にも、幸福に満ち満ちた日々も。

 

 その頃のわたしは、海を見に行く事が月に数度あるかないかになっていた。美術館を作っていたといえば聞こえはいいが、言ってしまえば遺品整理だ。


 自分のしている事の本質だけは見失ってはいけない。幻想の世界を生きていくうえで最も必要な覚悟だ。わたしは彼女の遺していった物品の片付けに忙殺され、それどころではなかったのだ。


 気晴らしに、離れた街まで日雇いの仕事に行く日もあった。もちろん、毎回違う街。できるだけ大きな都市を選んだ。そこでなら、誰もわたしを知らない。気にも留めない。だから怪しまれる心配もない。


 滞在期間は短いときは数日。長ければ数週間にも及んだ。ちょっとした旅行のようで、これはこれで悪くなかった。同じ場所を再び訪れる事はほぼないだろうからと、スケジュールに余裕を持たせ、行楽色の強い旅程に仕立てた。


 ここでひとつだけ、想定外だった事を話そう。仕事中はなにも気にならないのに、観光をしているときだけは寂しさが吹き抜けた。彼にも見せたかった。おばあちゃんと一緒に来たかった。どこへ行って、どんな食事をしても、そんな風に考えてしまって。


 わたし一人では、旅先で足の不自由なおばあちゃんがなんの心配もなく過ごせるようにするのも、陸地では生きられない人魚の彼と遊ぶのも、ほとんど不可能に近いのに。


 写真に収めれば、雰囲気を伝える事はできる。お土産話を聞かせる事も。わたしはそれでも、大好きな二人と一緒にこの地を踏みしめたかった。……ああ、そうだ。大好きなひとたちと、いろんな場所を並んで歩きたかったんだ、わたしは。そうだったんだ。気付いたところで、それも叶わない夢だけれど。


 出発の日は鍵をかけるのも忘れて大きな玄関を飛び出し、帰宅すると門扉の閉まる音で現実に引き戻される。そんな日々の繰り返し。


 大好きだった村への愛は、いつしか空気の抜けた風船のごとく萎んでいた。おばあちゃんをはじめとして、優しい村人たちが好きだった。生まれた町ではなく、この村こそがわたしの故郷だと思っていた。でも、ここにはもう誰もいない。わたしの他に生きた者はいない、ゴーストタウンも同然だ。

 

 海に出るのもいいけれど、あの大岩の前で待っていたって、どうせ彼は来ない。近年、ますます忙しくしているあの人魚は、滅多にその影を見せなくなっている。最愛の恋人の活躍を、誰より喜ぶべきなのに……わたしは、会えない時間がつらかった。


 わかっていたのだ、最初から。人間同士の遠距離恋愛とは訳が違う事くらい。


 海中に連絡を取るための道具はまだないのだと彼は言う。『まだ』を強調していたのがなんとも彼らしくて、そういうところも好きなのだと再確認したのを覚えている。


 もし、海中にも電話機のようなものが開発されていたとしたら、毎日毎日、うるさいくらいにベルを鳴らして声を聴かせてくれていたことだろう。


 彼が人間だったら、電話はもちろん、手紙でだって近況報告ができた。


 わたしが人魚なら、泳いでそばに行って、海藻の隙間から覗く事など容易かった。わたしには特別甘い彼の事だ。突然そこから顔を出して声を掛けても、あたたかく迎えてくれたかもしれない。

 

 愛しい彼を感じる手段が断たれているというのは、愛に飢えているわたしには耐え難かった。


 長期間、生きて動くあなたを間近に感じられないと、不安で不安で仕方ない。


 『一度噛み付かれたら死を覚悟しなきゃいけないくらいの怖い奴ら』に殺されてはいないか。わたしなんかよりふさわしい人魚ひととの出会いがあったのではないか。


 次から次へと湧き起こる悪い想像に頭を埋め尽くされて、またわたしはわたしを見捨てたくなる。


 ……もう、ここへは来ないほうがいいのかもしれない。わたしにはわたしの、彼には彼の守るべきものがある。本来ならば、それだけでも手一杯のはず。


 …………ここ? わたしはいま、どこにいるの?

 

 磯の香り、打ち付ける波音。それから、珍しい形の岩――――……。なんと、広い広いあの家で考え事をしているうちに、わたしは恋人との待ち合わせ場所に来てしまったらしい。


 歩いていた気はする。船を漕いだ覚えはないが、そこに着いているからには、無意識に漕いできたのだろう。なにも考えずに辿り着けるほど、わたしもかつてはここへ来ていたという事だ。


 全身が歓喜の声を上げているのを感じる。潮騒や海風に包まれる感覚も最近は忘れてしまっていた。


 予定外だが、せっかくだ。日が沈むまでは、ここで過ごそうではないか。

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