第50話 『ひとの気も知らないで』
「どうしたん? なんか忘れも、」 僕がそう言いかけたとき、大きく、想子さんがつまずいて転びそうになる。僕は、慌てて両手を広げて、想子さんを受け止める。思わず、抱きしめる僕の腕の中で、想子さんが、
「ダイ! ダイ!」 勢いよく繰り返し、僕の名を呼ぶ。
「はい。はい」 僕は戸惑いながら返事をする。
「ダイ! 待ってて。絶対ダイのところに帰ってくるから」
そして、立て続けに、言う。
「私が、帰る場所は、帰りたい場所は、世界中で、たった1つ、ダイのところだけやから!」
(想子さん…… )
僕は、声も出せずに、夢中で彼女を抱きしめる。もしかしたら、僕は、今泣いてるのかもしれないけど、自分でもわからない。ただとにかく、僕にとって、一番の幸せの呪文を、繰り返す――――彼女の名前を。
(想子さん。想子さん。想子さん……)
想子さんが、僕の背中に回した手が、僕のシャツごと、ぎゅっと僕を抱きしめる。
「想子さん。もしかして、本に挟んだやつ、見てくれたん? 」
やっとの思いで、訊く。
「うん。見たよ」
「僕が、電車でうたた寝してたときに?」
「ううん。家で。荷物確かめてるとき。……嬉しかったよ。すごくすごく」
「そうか」
なんて答えたらいいんだろう。嬉しすぎて、びっくりしすぎて、頭が回らない。僕は、彼女を抱きしめたまま、まばたきを繰り返す。
「ダイ」 想子さんが僕を呼ぶ。
「ん?」
「ダイ」 柔らかな声。
「ん?」 僕は、少し、腕を緩めて、想子さんの顔をのぞきこむ。
想子さんが、にっと笑って、僕を見て言った。
「ダイの大根役者。寝たふり、下手すぎ。ほんとに、……ひとの気も知らないで」
(え? え? 気づいてたん? え? )
「ダイ」
想子さんが、真っ直ぐに、僕を見つめる。僕も見つめ返す。
次の瞬間、
「大好きやで」「大好きやで」
僕らは、ほぼ同時に言った。ほんの少し、僕の方が早かったかもしれない。
「想子さん」「ダイ」
また声が重なる。想子さんと僕は、思わず、笑ってしまう。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
今度こそ、検査場に向かう想子さんの背中を見送る。
何度も振り向きながら、入っていく彼女を見送る。
『ひとの気も知らないで』
そう心の中でつぶやきながら、僕は、どれほど多くの季節を越えてきただろう。
でも、ぜんぜん気づいてなかった。
想子さんも、同じ言葉を、つぶやいてたってこと。
――――『ひとの気も知らないで』って。
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