第37話 なんなん、それ?
「ただいま~」
帰宅して、玄関のドアを開けると、リビングの方から、ピアノの音が聞こえてきた。想子さんだ。
このところ、彼女はピアノにハマっている。もともとピアノは好きだったけど、今は、毎日のように弾いているようだ。
「ようだ」というのは、基本僕が留守の間に弾いてるらしいからだ。
今日も、僕が、リビングに顔をのぞかせると、
「おかえり~」と想子さんは極上の笑顔で言って、ぴたりと弾き終えた。
僕が受験生だから、気を遣っているのかもしれない。
「ええよ。ずっと弾いてて」
「大丈夫。もう一時間半ほど弾いてるから」
「そんなに? 今、めっちゃピアノにハマってるんやね」
「うん。ハマってる。なんかさ、ピアノの音って、すごいよね。ピアノだけで、いろんな楽器の音を感じるくらい、音が豊かやよね」
「うん。そやな」
想子さんは、今、ドラマ花村礼シリーズ2に、ハマっているのだ。それで、ピアノ熱が高まっているらしい。
2では、1のときに行けなかった街を次々訪れている礼は、日本全国くまなく旅する気満々みたいだ。
日本には、まだまだ知られていない素敵な街や景色、そして、美味しいものがいっぱいあるんやなぁと、毎週、僕も楽しみにしているけれど。
それでも、前のように、録画して何度も見直す時間的余裕がないのが、残念だ。
想子さんが、ピアノの蓋を閉めて、振り返って言った。
「ねえ、ダイ。……私さ、イギリス行ってもいいかな?」
「え? あ、ああ。大丈夫やで。何日くらい行くの?」 僕は、びっくりしつつも、 なんでもないように答えた。
少し驚いたけど、僕は、家事は一通りできるし、さみしいのを我慢しさえすれば、数日間くらい、どうってことはない。さみしいのさえ我慢できれば、だけど。
「……2年くらい」 想子さんが、歯切れ悪く、ぽそりと言った。
(ちょ、まってまって。年、って言った? 年って?)
「なんなん、それ?」
「いや、みどり先輩が、ほら、ダイも知ってるやろ、大学時代の1年上の先輩。イギリスに留学するらしくて。で、私と、むこうで一緒にハウスシェアせえへんかって」
「なんで、先輩の留学に、想子さんがついて行くん?」
「ついて行くわけじゃないよ。私も行きたいな、って思ってて。そんな話したら、一緒にハウスシェアして住んだら、心強いねって。仕事は、インターネットでデータ送るとかできるし」
(私も行きたいな、って。なんなんそれ? なんなんそれ? そんな話、今までしてなかったやん)
心の中で、嵐が起きている。
ほとんど叫びだしそうになっているのに、喉が凍りついたようになって、声が、出せない。
(どういうこと、どういうこと、どういうこと……)
「お父さんとお母さんに相談したら、自分たちが今住んでるところに、住んだらいいって言うてくれて。かわりに、ダイの受験もあるし、自分たちが帰国するからって」
(どういうことどういうことどういうこと……)
心臓の音がずっとドクドク激しく鳴り続けていて、何も考えられない。
(まってまってまって、想子さん、なんでそんな大事なこと、なんで、今まで僕にひとことも言わへんかったん)
「なんで、なんで今まで、そんなこと、言うてへんかったやん……」
僕は、絞り出すように、やっとの思いで声を出した。
「そんなん、言うてへんかったやん、きいてへんよ、そんなん、そんなん……そんなん……そんなん」
僕は、ばかみたいに繰り返す。
呆然としたまま、想子さんを見ると、なんだか彼女は青ざめた顔をしていた。
僕が、ここまでショックを受けると、思っていなかったのかもしれない。
「ごめん。びっくりさせて。前から行きたいなって思っててんけど、なかなか決心つかんくて。言い出されへんかってん」
「……」
「大丈夫。今は、スマホやパソコンで、すぐに、連絡も取れるし、なんかあったらすぐ帰ってくるし」
ひとの気も知らないで、想子さんは、もう、行ってしまった後の話をする。
(違うって! そんなことが聞きたいんと違うって! そんなこと言うなよ!)
「想子さんの、ばか!」
僕は叫んで、2階へ駆け上がり、自分の部屋に入って、ドアに鍵をかけた。
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