第4話  ずっと誰かを

 うっうっうっ。ずずず……


 夜遅く、隣の部屋からすすり泣きが聞こえる。僕は、ちょうど、課題のレポートを書き上げて、一息入れようと思ったところだった。

(どうした? 想子さん。)


 僕は、部屋を出て、隣の部屋のドアをノックする。

「う」 

 短く返事があって、また鼻をすする音がする。僕はドアを開けて、中に入る。想子さんは、ベッドにもたれて、本を膝にのせている。

「どうしたん?」

「う。……これ。」

 彼女は、1冊の本を差し出す。

 タイトルは、『たそかれ』。(朽木祥/福音館書店)

 本の表紙には、月の光を浴びて、背の高い椅子か何かに座っている人物の絵がある。よく見ると、足は、ちょっと人間のものとは違う。頭には、なにやら、皿のような……


「河童やねん」

「この子はね、学校の、取り壊される予定の古いプールに棲みついてる河童やねん。仲間が、自分たちのもとへ帰ってくるように、何度説得しても、どうしても、そこを離れようとせえへんねん。」


 想子さんは、言葉を切って、僕の顔を見上げる。僕は、黙ってうなずき、想子さんは続ける。


「この子は、友達を待ってるねん。60年間ずっと、ひとりで。もうその人が亡くなっていて、帰っては来ないことを、この子は、わかっているけど、それでも、その人のことを忘れないでいて、待ち続けてるねん。


 さびしくてたまらなくて、それでも、その人のことをずっと大切に胸に抱いて、ひとりぼっちで、生き続けてきたこの子のために、自分たちにできることは何か?

 この子の想いを知った、仲間の河童と、その友達の、人間の女の子が、一生懸命奔走するねん。途中、中学生に目撃されて、校内で、河童騒動が起きたり、いろいろあるんやけど……。


 戦争で失われた、たくさんの命や暮らし、永遠に叶わなくなってしまった夢や約束。ほんとにあまりにもたくさんのものが戦争によって失われてしまうということを

静かに切々と訴えかけてくる本でね。めっちゃ胸に響くすごくいい本やねん」


 時折、涙をぬぐいながら、その本について話してくれる想子さんを見ていると、僕まで、ついつい目がうるうるしてしまう。


「読む?」

「読む」

「じゃあ、まずは、こちらから」

 もう一つ差し出されたのは、

『かはたれ』(朽木祥/福音館書店)

 同じ作者の本だ。

 瞳の大きな、幼い河童が、何か、草束のようなものを抱えている。

「この子と、人間の女の子の出会いが描かれてて。この二人のことを知ってから、『たそかれ』読むといいよ」

「ん。わかった、ありがとう」

 僕が、部屋に戻ろうとすると、

「今から読むん?」

「うん」

「じゃあ、ここで読まへん? お茶いれてくるし」

「あ、うん」

 そういえば、レポートが終わったから一息入れようと思っていたんだった。


 想子さんは、ローテーブルに、二人分の紅茶を運んできて、静かに置いた。僕は、想子さんの向かい側の壁にもたれて座る。紅茶を一口飲む。香りで、ほっとやすらぐ。

 想子さんが、次に手に取ったのは、同じ作者の本で、

『パンに書かれた言葉』(朽木祥 小学館)

 素敵な装丁で、タイトルも、なんだか心ひかれる。見た瞬間、僕も読みたいと思った。


 僕は、想子さんから渡された『かはたれ』を開く。なんだか地味目な表紙だと思ったけれど、その子河童の目に僕はすっかりつかまってしまった。


 読み終えたとき、とうに、日付は変わっていた。

 本を置いて、冷めた紅茶を飲みほす。

 僕の向かい側で、想子さんが、本を膝にのせたまま、ベッドの端にほっぺたをのせて、眠っている。


 僕は、想子さんの膝の上の本をそっと取り上げて、しおりを挟んでからテーブルに置く。それでも、目を覚まさない彼女を、そっと抱え上げて、ベッドにおろす。その目じりに、涙のあとがある。


 誰かを、ずっと大切に思い続けずにはいられない、誰かの為に、精一杯、自分にできることをせずにはおれない、そんな河童たちの想いが、僕の心にしみている。


 報われるとかどうとか

 そんなことは関係なく

 ずっと誰かを思い続ける。

 大切にし続ける。

 それは、僕には、果てしない修行のように、思えていたけれど。

 今夜は、さびしい河童と一緒に、眠ろう。


 気持ちよさそうに眠る想子さんのほっぺたを人差し指で、かるくつつく。

「んにゃ」

 気の抜けるような声をだして、想子さんはぽてっと寝返りを打った。


(ほんとに、まったく、……ひとの気も知らないで)

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