ブロー・ザ・ウィンド 

@HAKUJYA

ブロー・ザ・ウィンド

其の一


悲しい事があるとレフィスはよくこのデッキに立った。

風が吹く。雨がどこかで降っているせい。

ちょうど、あの日もこんな天気。

一陣の風が吹いて途端に大雨。

親友だったティオが死んで、三年と二ヶ月も経った。

小さな頃から一緒にいて、二人で航海士になるのが夢だった。

今日は船の仲間の誕生日を祝った。

シャンペンを開けてコングラチレーション。

嬉しそうな彼の顔を見ていたら、たまらなくなった。

誕生日の少し前、ティオが死んだ。

十六歳。その年でティオは止まったまま。

この船で生まれた日を祝われることもなく、

彼を知る人もなく、ただ自分の心の中にだけ住んでいるティオ。


「おい、レフィス、何してんだ?そんな所で…まだ皆、中でやってるぞ?」

「あぁ、少し気分が悪くなっただけだから。

ほら、今日は天気悪くて…よく揺れるでしょ。気分が良くなったら行くね」

笑って見せた。

相手も少し笑って、すぐ、中に入っていった。

さっきより風が強くなっている。

短く切った髪だったが、それでも、うっとうしかった。

帰ることはありえないティオ…。

でも、生きてかなきゃね。

いつまでもティオの思い出に振られていちゃいけない。

「お前、勝気だからな。嫁の貰い手なかったら、俺が貰ってやるぞ。

糾し、俺にも嫁の来手がなかったら、だがな」

「あんたの事なんか頼まれたってお断りよ」

そう答えたけど、ティオだけが私を

お前…心の中に入り込む事を許された呼び方…

お前と、そう呼んだ。

今、心を閉ざし、あるいはテオの為かもしれない。

自分を「おまえ」と呼ばせる事を誰にも許していない。

『中に入ろうか、ティオ』

外とは違い、中は騒々しかった。

一人で突っ立っているのも妙だった。座れる場所を、と周りを見た。

テーブルの上にシャンペンとグラス。そっと、手に取って見た。

ラベルを見たら、それはテオの好きなシャンペン…。

「それ、好きなのか?」 

伏せてあるシャンペングラスを手に取るとレフィスに渡そうとする。

代わりにシャンペンをよこせと手で合図する。

「あ、ありがとう…」

グラスを親指、人差し指、中指、3本の指でつまむと

アランはシャンペンを取り上げるように受取った。

アランが良く冷えた薄い黄金色の液体をグラスに注いだ。

細かい泡がたち、それが軽くもりあがり、消えていくと

小さな飛沫がグラスの中で弾けてゆく。  

「イオス、二十歳。おめでとう」

小さく口の中でつぶやく。

「あんた、誕生日いつだっけ?」

「もうすぐ」

「で?」

「私もイオスと同じ」

「二十歳か。じゃあ、祝ってもらえるな」 

人生の節目になる年齢。

その年齢の者のお祝いは一人一人に、少し、盛大に祝ってくれる。

「俺も祝ってもらったよ。

次の年からはコック長が夕食の時にビールと1品、

余計に持ってきてくれて

『ハッピィ バスデー』って、あの顔で言うんだ」

「え?うそ」

無口でしかめ面。

でも料理の腕は一流。

こんなにおいしい物を人に食べさせようとする人だから、

外見とは違い、やさしい人だとは思っていた。

「ほんとさ!それに、皆の誕生日、良く覚えてて。

ラルフが船の中でパパになった時も

『せめてもな』って、子供の側にいけない、かみさんの側に行けない。

そんな淋しさを慰めるように『子供とかみさんを祝ってやれ』って

部屋にシャンペン届けてた」

「ふううん」

「だから、あんたのお祝いも、もう今から考えてるんじゃないか」

「…」

「だから、淋しい顔はよせよ」

「え?」

「そうやってあんたの事、思いをかけてくれる人がいるんだ。

何があったか知らないし、立ち入ったこと聞きたくもないけど、

少し気になった。

ゴメンな、気い悪くさせたかもな」

「あ、ううん。そんな事はない。ただ」

「ただ?」

「あ、なんでもない事よ」

レフィスがそう言うと、アランは自分で言った通り、

それ以上聞こうとはしなかった。

「さてと、私はそろそろ失礼するね。明日は早いし」

レフィスはグラスをテーブルに置く。

「おやすみ、と言いたい所だけど、部屋まで送ってやるよ」

「ぁ、いいよ。せっかくだもの…もう、少しイオスを祝ってあげてよ…

私のせいで、人数減らしちゃ悪いわ」

「ふん、そうか。じゃぁ、レフィスもいてやれよ。明日が早くてもさ?」

「御断り…少し酔ったくらいで

気安く名前呼ぶような男と一緒にいたくはないわ…じゃあ」

「ぁ、待てよ。あんた…そのまま、部屋に帰ったら

一人で泣いてしまうんじゃないかって、そんな気がして。

つい側にいてやれたらなって思って…

そしたら、あんたの事、レフィスと呼んじまってた…

あんたの言う通り気安い態度だったよ」

「…ごめん。もう行くよ、私」

「送らせろよ…そしたら

もう一回俺ここに戻って飲みなおすよ…それならいいだろ?」

「う…ん」

人、一人分アランとの間をあけてホールを出た。

部屋はホールから近かった。

すぐそこの階段を降りて、左。

部屋の前までくるとアランが手をふった…

「グッナイ…泣きゃしないよな…?」

少し、瞳をのぞきこむ様にかがんだ。

「泣かないわ…おやすみ…」

アランがレフイスの頬に掠めるように軽くキスをすると

「おやすみ…」

そう小さく言ってキャビンに戻った。

レフイスは頬に残ったアランの唇の跡を拭うように

頬をおさえていたが、頭を振るとそのまま部屋に入った。


アランの友達以上、恋人未満のキスも

今のレフイスには、惟、悲しいだけだった。

テイオへの気持ちも友達以上、恋人未満のまま変ることもなければ、

砕ける事もなく、育つ事もなく、

惟、そのまま海の底に沈んだテイオと一緒に

レフィスの心のなかに沈んだままだった。

「ティオ……もうすぐ、私、二十才だよ…なのに……」

ベッドに潜り込む前にレフイスは、小さな箱を開けた。

それはオルゴールの付いた、木で出来た箱だった。

中に入っている物は、テイオの日記。

テイオが死んで遺体もみつからないまま、

三ヶ月程たった、ある日。テイオの母親が、たずねてきた。

彼女は

「もう、あきらめなきゃって、思ったの。

部屋を整理して…あの子のもの…どうしょうってぼんやりみてたら

…これが…。一番仲の良かった貴方にもっていてほしい」

そういいながらも

「でも、もう、何もかも、忘れてくれるのが、一番いい…」

いきていたことさえ、なかった事にしてしまうことが一番いいという。

それが一番いい事だと思うと、

その日記を燃やしてしまおうと、思ったと言う。

そう思った時に、レフイスの顔がうかんだのだという。

「よめないの……。死ぬ前の日まで書いていたの。

なにを書いていたか、何を、思っていたか知ったら

もっと、もっと、辛くなる……。

レフイス。替わりに読んでくれって言ってるんじゃない。

私も読まないほうがいいって思う。

只、テイオの思いがここにかかれてあると思うと、

どうしても…もやせない…」

「いただきます…」

彼女の思いは痛いほど、判る。

誰からも、忘れ去られる事が

テイオにとって幸せであると認めれば認めようとするほど、

テイオの生きていた証を誰かと、共有したい。

「ご…ごめんなさい…」

涙ぐむ彼女の手から黙ってレフイスは日記を受取った。

でも、レフイスも彼女と同じ。

その日記を、開く事を畏れ、

小さな小箱に入れると決して読もうとしなかった。

航海士になると、決めてから、

初めての洋上訓練の時にも、やはりこの、日記をもっていった。

「テイオ、船だよ。船の上にいるんだよ」

そう、日記に呟いたのは、もう、一年も前の事だった。

航海士の試験にも合格した。

初めて、自分の船に乗る時も、やはり、日記を持ってきた。

哀しい思いに胸塞がられる時には、よほど、よんでしまおうかと、思った。

結局ただの、幼馴染でしかない友情だったと、判れば、

レフイスの中でシャンペンの様にぷつぷつと

泡立つようなテイオへの思いがもう、湧いて来なくなるかもしれない。

それが恋だったのかどうかさえ、定かでないまま、

泡はやはり、何かの拍子にレフイスの中で弾けて来るのである。

描く事のない、スケッチブックのデッサンの続きを、

はっきり見てしまえば…どんなに気楽になれるだろうか。

そう、思うくせに、若しそのデッサンが

レフイスへの恋の肖像画だったら……。

描く事のない、未来図があったのだとしたら、

自分が、どう、おもうだろう?

「テイオ……ずるいよ」

どうしょうもない結末を、

たった十六でひいてしまった幼馴染が残した物を、

もう一度手にとるとレフイスは、

おやすみを告げて小箱の中にしまいこんだ。

           


                 其の二     

 

翌朝は昨日の風が嘘の様に静まり、

波が穏やかな紺碧色にそまっていた。

白い波を泡立て船が進み

その跡が白く撹拌された飛泡で長い軌跡をつくっていた。

操舵室に入ると、

自動操縦から手動に切りかえる作業をしていたアランが

レフイスに声をかけた。

「おはよう。よく、ねむれた?」

「おかげさまで。シャンパンがきいたみたい」

「ん」

「ウオッチャーは?」

「セタが、メインで・・」

「ん、わかった」

航海日誌を開くとレフイスは自分の名前を書き入れた。

セタの朝までの日誌を読んでみたが、格別変った事もない。

夜半遅く風がぴたりとやんだことで

今日の天気を言い当てていた。

セタの書いてある通りだった。

やがて夏を迎える空は

その陽光のきらめきを練習するみたいに光出し

紺碧の海は明るく澄んだ青色に変っていった。

「さわやかだな。海のそこまですきとおっているようだな」

と、アランは呟いた。

「ウン・・・そうだね」

頷き返したレフイスの顔をアランは覗き込んだ。

「あんたはどうだい?」

「え?」

アランの言葉にレフイスは戸惑いを見せた。

「正直なもんだな」

レフイスの態度が心の翳りをあらわしてしまっていた。

「ん」

レフイスはアランの言葉に素直に頷いた。

「あんたさ。よく一人でいるとき、誰かの名前をつぶやいてるだろ?」

それもアランには気がつかれていたんだ。

レフイスは躊躇う事なく事実を認めた。

「恋人か?」

「ううん・・」

「恋人じゃない?」

「わからない・・ん・・だ」

言葉をとぎらせて答えたレフイスをアランはじっと見ていた。

レフイスの口からどう言う事なのか説明されるのを待っているようだった。

「幼馴染・・・」

「はーん。良くあるパターンだな。

離れて見ると変に恋しいくせに、

まともに顔を合わすと異性と言うより兄弟ぐらいにしかおもえない」

アランは納得した顔をした。

「でも、アンタ、いつも淋しそうだぜ。

それって、つまり、そういうことじゃないのか?」

幼馴染への感情は恋でしかない。

その事はアンタの顔がよく表わしているよと

アランはいいたかったのだろう。

「ウン・・・。かもしれない・・・」

「なんだよ?素直じゃないんだな?」

「だってね・・・・」

自分でも驚くほど素直に

レフイスは心の中の住人の事をはなし始めていた。


それは昨日のアランのおやすみのキスのせいかもしれない。

どんなに願っても現実のレフイスの世界にはテイオは存在しない。

あんなにくっきりと唇の柔らかさをレフイスに感じさせたアランのキスこそ

レフイスに生きている人の存在感を見せつけてしまっていた。

さらにその事がレフイスに自分から外にはでようとしない世界が

どんなにひどく心許無い心象風景でしかない事を感じさせていた。

「意地張って、甘えられなくなってんじゃないのか?」

レフイスの様子からアランの推理したことは、

本当によくありがちな幼馴染が抱えるトラブルだろう。

同じ様に歩きはじめ同じ時期に学業にいそしみ、

大切な存在と意識するより先にあらゆる所で

自分のレベルを見せてくるライバルになってしまう。

アランの言葉にレフイスは首を振った。

「あんた、さ。充分可愛いんだから、素直に胸ン中に飛び込んじまえよ。そいつもきっとあんたと同じ様に

素直になれるきっかけが掴めなくなってるんじゃ・・・」

手で顔を覆いはじめたレフイスの頬を伝った泪が

顎の線にまで滴を滑らせ小さな水滴をつくっていた。

「テイオは十六なの」

「年下、だってことにこだわってんの?」

レフイスは自分の言葉の足りてない所をつけくわえた。

「十六の、ままなの・・・」

「あ・・」

レフイスの言うそのままの年齢って事がどう言う意味か。

レフイスが重たい哀しみにとらわれていると知ったアランは

レフイスの肩を抱き寄せた。

「わすれちまえ・・よ」

レフイスは首を振った。

レフイスがテイオを忘れることはできない。

それに、誰も彼もテイオの生きていた事をどこかにおきざりにしている。

そんなのないよ。そんなのひどいよ。ねえ?テイオ。

いつのまにかレフイスは心の中のテイオに語りかけていた。

黙ったレフイスを見詰めていたアランは

冷たい言葉を投げかける自分を責めるように下を向いた。

「だとしたら、もう、四年もたってんだろ?」

「・・・・・」

「もうすんだ事だろ?

それにいつまでもテイオと一緒にいきられないって事、

アンタが一番よくわかってるじゃないか」

「ど・・う・・・いうこと?」

「テイオってやつは十六のままだ。

でもアンタは、17、18、19,20。

もうテイオじゃうめられない差を過ごしてきてんだ。

アンタは嫌でももう遠い昔の事にしなきゃなんなくなってる自分を

みとめたくないんだ」

「・・・・」

「そんな哀しい顔でテイオの事を

後生大事にかかえこんでいたってテイオだってよろこばないよ」

「・・・・」

「アンタの人生なんだぜ。アンタはテイオじゃないんだ」

「わ・・たし・・の?」

確かにレフイス自身の未来図でなく

あるはずもないテイオの未来図をみようとしていた。

テイオの未来図のに書きこまれているかもしれない自分の姿を

さがそうとしていた。

だからこそレフイスは日記を読めなかった。

そこにレフイスの姿がなかったら?

いや、あったとしてもそれは決して未来にならない事をしらされるだけだ。

「テイオの未来に自分をがんじがらめにしていた?って、そういうこと?」

「ああ。アンタの人生にとってテイオがどうであったか。

テイオをどうしたいか。

アンタは自分の人生をじぶんであゆんでいこうとしちゃいない」

「な、なんで、そんなこといいきれるの!?

あなたになんか、わかりゃしないことじゃない」

「判るさ。だってな。

アンタ、自分を好いてくれる男の事なんか

これっぽっちも考える余裕なんかもってない」

「え?」

「つまり、そういうこと。だから早くわすれちまえ」

アランはそう言うと真直ぐ前を見た。

洋上遥かに敷かれた一直線の水平の向こうを

こらしてみるようにしていたアランの姿は

レフイスにはレフイスの心の水平線の向こうまで

覗き込んでいるように思えた。


其の三

アランの何気ない告白はレフイスの中に留まっていた。

アランの言うとおり

レフイスは自分を巡る外の世界の事さえテイオに語りかけていた。

レフイスにとってどうなんだろう。

と、考える事を忘れていた。

アランは自分の告白を足下の元に断られてもよかったのかもしれない。

態々アランに具体的な例えを出されたその内容が

レフイスを考え込ませていた。

確かにレフイスは自分にとってアランがどうであるかを考え様とはしていない。

自分にとってどうであるか考えた末

アランの思いを丁寧に断ったって構わない。

だけど、レフイスは自分の外界の事として

どう対処して行こうかとは考えていなかった。

心のどこかでテイオにない現実の存在感をみせつけられ

うちひしがられていただけにすぎなかった。

それはレフイスのテイオへの思いが恋でありたかったせいなのだろうか?

恋をするならテイオとでありたかったという事だったのだろうか?

その思いをなくしたくない為だけに

逆に自分がテイオを縛り付けているのにすぎない?

 

ドアを叩く音にレフイスは慌ててベッドから起き上がった。

ドアを少し開くとそこにアランがたっていた。

「あ?」

「すこし、いいかな?」

夜遅い個室への来訪は相手が女性であるならば

一層遠慮すべきことであろう。

勿論、アランにだって判っていることではある。

が・・

「ん。すこしだけ、なら」

レフイスの了承はアランが

ここにきたわけの半分以上を解決させていたが・・・

「あれから、まともに口をきいてくれない気がして、気になってたんだ」

アランはレフイスの部屋に入りながら

こんなに遅くに尋ねて来たわけを話していた。

「ウン・・。そうだね。さけてたか・・な」

「やっぱ?」

この間のウオッチャ―の時に

アランがレフイスに言った事はやはりレフイスを苦しめていた。

「だって、今まで生きてた半分以上の年月のなかに

テイオはいるんだもの。恋じゃなくっても取り去る事はできないよ」

アランの顔色がかすかに変わった気がした。

「ききたくないんだろうし、俺もいわなくてもいいって思うよ。

でもな、それはやっぱ、恋だったんだ」

「そうかな?」

『ああ。だから、忘れられる』

アランは小さな声でつぶやいた。

「え?きこえないよ」

「いや。なんでもない」

恋が作った空洞なら恋で埋められる。

いや、恋でしか埋められない。

でも、それをレフイスが求めて行くようになる為には

テイオへの恋であったと認める事が第一歩かもしれない。

それでもレフイスの空洞を埋められる相手が自分になるとは限らない。

けれどアランは哀しい恋の相手を恋だと認めようともせず

テイオにしがみついて生きてるレフイス自身をまず救い出したかった。

「なあ、アンタのテイオはこんなに温かくないだろ」

アランはレフイスを捉まえるとそっとだきよせた。

「あ!」

レフイスは小さく驚いた声を上げたけど

アランの胸の中から逃げようとはしなかった。

「ん?」

アランはそうだろ?って尋ねた。

アランの言う事はレフイスの頬にじかに伝わって来る様だった。

アランがレフイスの顔をしっかり包むと

更にアランの胸にピッタリと押さえる様に包みこんだ。

アランの体温の暖かさがひどく暖かく

レフイスの耳にはアランの心臓の音がとくんとくんと聞こえて来ていた。

それは愛しい者を抱き寄せる事の出来た

アランの生きてる喜びの声のようにも思えた。

安心しきって心ごと預ける事を許したくなるほど

アランの心臓の音も体温も暖かった。

「あ、ありがとう・・・」

レフイスはアランの体をむこうに押し遣った。

「又、気をわるくさせてしまったのかな?」

アランがレフイスを覗き込んだ。

さっきまでアランの胸の中に擁く事を許してくれた少女は

哀しい顔をしていた。

「あの・・」

レフイスが出そうとした言葉を止めたのが判った。

「いってみろよ」

「あの・・」

「はなしてくれよ」

「うん・・・」

レフイスが話し出した事はやはりテイオの事だった。

「生きてたら、テイオもこうだったのかなって、

こんなふうにだきしめてくれたのかな?って・・・」

レフイス。大事なのはそんなことじゃない。

アンタがテイオに抱締められたかったかどうかなんだ。

アランは口元に上がって来た言葉をかみ殺した。

そして、

「そうだったと思うよ。でも・・・」

レフイスはアランの言葉の続きに頷くと、自分で一言

「でも、テイオはいない・・・」

と、瞳を伏せた。

もう一度レフイスの手を取ろうかどうしょうかとアランは迷った。

レフイスがアランの示した好意は

テイオとの続きを模索させるだけでしかない。

それはアランにとってはあるいはとっても都合のいい事ではある。

どんなにテイオが遠い存在であるか、

どんなに手答えのない空虚な存在であるかを

レフイスに早く気がつかせてゆくことであろう。

が、その事はレフイスにこんなにまで哀しい顔をさせてしまう。

そして淋しい心を埋める為に

レフイスは一人になるとテイオを思って、そして、泣く事だろう。

そう考えるとアランは

自分がレフイスを支えられる相手になれない事を

思い知らされるだけだった。

レフイスの哀しい顔が自分のせいに思えて

殊更辛く感じられた時

アランの瞳がレフイスを見詰める事から僅かに逃げた。

「ん?」

アランが気がついたのは

ベッドの上に投げ出されたテイオの日記だった。

無造作に置かれた日記でしかなかったら

アランも気にとめなかっただろう。

僅かに煙にいぶられた跡が残った日記らしきものに

アランは目をこらした。

レフイスはアランの目に映った物に気がついた。

「テイオの日記なの・・・」

レフイスがその日記を一度は燃やそうとした事があるんだと

アランは思った。

だけど今のレフイスがそうである様にテイオの日記もやはり残っている。

こんな物があるばかりにレフイスは

尚更生々しいテイオの存在感に縛られてしまっているのだ。

アランの日記を見詰めた瞳の奥に

禍禍しい悪霊でも見る険しい光が浮んでいた。

だが、そのアランの瞳の光をかき消したのはレフイスだった。

「よめないの」

意外な言葉でもあった反面。

そうだろうなとアランを頷かせる言葉でもあった。

「あなたのいうとおりよ。もう、決着をつけなきゃって思うのよ。

でも、読めない」

「そんなもの、読んで決着がつくのか?」

「わからない」

「だろうな。読んで見て

決着をつけられたら良いって思いじゃ決着はつかないさ」

「どういうこと?」

「決着をつけるためによまなきゃ。

読んで決着をつけなきゃならなくなる事が書いてあったらって、

そう考えるからいつまでたってもよめやしない。

とっくに死んじゃったやつじゃないか?

なのに、テイオはアンタのなかじゃ死ねていない」

「死ねる?」

「そうさ。生きてたんだ。同じ様に死ねなきゃ生きてた事になんないんだ」

「あの・・・?」

アランのいう事はレフイスの頭の中を混迷させていた。

「生きてたって事を認めてやりたかったら

同じ様に死んだって事も認めなきゃ。

アンタの思ってるテイオってのはアンタが生み出したゾンビなんだよ」

「違う。そうじゃない。テイオは・・・」

「抱き締めてくれるか?

好きだよって頬を染めてつたえてくれるか?

アンタがそのテイオを見てあんたを幸せな気分にしてくれるか?」

「ちがう。でも・・・」

「アンタを悲痛なほど哀しい気分にさせてるのは、

アンタのテイオがゾンビだって事を哀しんでるからだ。

判ってるからだ」

「違う。ちがう・・・」

「違わない!だったら、読んで見ろよ。

これをよんでみろ。そして自分が愛されてた事を喜んでみせろよ。

死んだテイオがそんな思いを持っていてくれた事を素直に喜べない?

それは、あんたがテイオが死んだ事を認めてないせいだろ?」

ベッドの日記に手を伸ばしたアランは

レフイスにその日記を突きつけて見せていた。

レフイスはアランの手から日記を取り返そうとしたが、

アランはその手を振り払うと

日記を無造作に開け、その場所を読み出した。

『レフイスの言う通りの名前にするのも悪くはないんだけど。

僕はこのヨットにもっと色んな可能性をみつけてるんだ。

だからあんまし少女趣味な名前をつけちまうと僕まであ・・・』

レフイスが恐れる様に耳を塞いで座り込んでしまった。

「きけよ・・・」

レフイスはアランの声に小さく振り搾る様な声で答えた。

「そのヨットで死んだの。

大風を避ける為に沖にでようとして、

ヨットの事なんか大事にして、死んじゃったの・・・」

しゃがみ込んだレフイスが顔を覆い声を殺して泣き出していた。

肩が小さく震えていた。

その肩がアランがしようとしている事が

レフイスをこうまでも無残に苦しめるだけだと教えていた。

「・・・・すまなかった」

何を伝えればいい。

明るい笑顔を取戻してくれさえすればいい。

例え相手が自分でなくてもいい。

レフイスが愛されてる事に瞳を輝かせ頬を紅潮させ

生きてる事を精一杯喜べれたらいい。

それがテイオじゃ駄目なんだって事。

それにきがついてほしいだけなんだって。

ないてるレフイスだったけどそれでもアランは言ってみたかった。

「なあ。アンタの人生は死んだ人間を思って

悲壮感に包まれて終っちゃいけないんだ。

其れじゃ、アンタもしんでるって事なんだぜ。

生きてるって事は誰かを幸せにしてやんなきゃなんないって事なんだ。

アンタも誰かを幸せにしてやんなきゃいけないのに、

テイオの事ばっか考えて、生きてる人間所か

テイオを自分も回りも全部不幸にしちまってるんだ」

「まわり?」

かすかに小首を上げてレフイスはアランに問い直した。

「アンタが生きてる事をよろこんでる、皆さ」

「・・・・」

「皆、アンタに幸せな女の子であってほしいんだ」

「・・・・・」

レフイスの瞳の中の哀しい色が少しだけ薄らいだような気がした。

「この日記、俺がよんでいいか?」

「え?」

「アンタがそんなにまで忘れらんないテイオの思い、

誰もしらないんじゃ、たまんないだろ?」

アランの言葉はレフイスをかすかにうなづかせた。

「何が書いてあっても、私に教えたりしない?」

「ああ。アンタがいつか、自分でよめるときまでなにもいいやしない」

アランはテイオの日記を擦る様になでると

「じゃあ。もう、おやすみ」

と、いうと立ちあがった。              


其の四

小さくこごまってレフイスは膝を抱えていた。

自分でも何故アランの申し出を受ける気になったのか判らなかった。

只、テイオの母親の「忘れてくれるほうがいい」という言葉に

そうじゃないと言えなかった後悔が

アランの申し出を代償のように受け入れさせたのかもしれない。

『テイオが生きてた事を知ってくれる人間がほしい』

テイオの母親の心の底。

本音はそれだったろうけど、

諦めるしかない事を虚受しようとしている

彼女への反発であったのかもしれない。

納得しきれない思いを言出せないまま、

レフイスにとってアランの言葉は

押し殺した思いを一気に開放させてしまったのかもしれない。

それゆえにレフイスは

アランの申し出に頷いてしまったのかもしれなかった。

部屋に帰ったアランは

今頃テイオの日記をめくり始めてるのかもしれなかった。

そこにはなにがかかれているのだろう?

自分が読めない日記を安々と覗きこめるアランが憎くもあり、

羨ましくもあった。

日記を読んだアランが本当その内容を自分につげずにいるだろうか?

そして、自分はひょっとしたらむりやりでも

その中身を付きつけられる事を望んでいるのではないだろうか?

それをどこかで計算に入れて、

アランの申し出をうけいれたのかもしれない。

レフイスは事の成り行きに任せる気になっていた。

自分でこじ開ける事の出来ないものを

誰かが暴力的にでもこじ開けてくれる以外、

運命の流れを受け入れる手立てがない。

まるでそれは望まぬ悪漢による肉体的暴行であっても、

それでも体は大人の女になってしまう。

自分か大人の女になる事を望んだ少女が

強姦魔の前に身をさらけ出すかのようにしてまで、

レフイスは迎えなければ場ならない事の顛末に、

事の成り行きに従う気になっていた。

「なぜだろう?」

レフイスは自分に問いかけた時。

ふいにアランに抱き締められた時の

アランの心臓のとくんとくんとなる鼓動と

アランの体温がレフイスに蘇えって来た。

「いきている」

その存在の確かさがレフイスの体を通して

心の中にまで入りこんできていた。

『テイオ。なんで、死んじゃったんだよ』

レフイスは再び膝をだかえた。

昨日まで淋しくてたまらない自分を抱き締めるのは

自分しかいなかった。

でも。

『アラン?あなたは、なんで、そんなにあったかいんだろ?』

自分の淋しい手はレフイスが意識しないまま、

アランの温もりを求め始めているとは気が付かないまま、

レフイスは膝を抱いた手をさらにきつくすると

『テイオ・・・テイオ・・・・』

何度もテイオの名前を繰返し呼んだ。


同じ時刻。

やはりアランはテイオの日記を開いていた。

読みすすんで行くアランの瞳からいつしか泪が零れ落ち、

一筋の泪はテイオの日記の上に落ちた。

アランは最後のページをよみおえるとテイオの日記をとじた。

白いページはまだまだ続いていて、その続きがかきこまれることはない。

「無念だったよな」

アランは呟いた言葉に答えた。

「これじゃあ、死にきれないよな」

テイオの思いが残った日記は

あるいはテイオの心残りをはらされる事を

誰かに伝えたいが為に書かれたのかと思わされた。

「お前の最後の願い、なんとかしてやりたいな」

アランは日記に語りかけテイオの日記を枕もとにおいた。

テイオが死んだわけこそレフイスを一番くるしませるだろう。

が、テイオの心残りを晴らしてやりたい。

テイオが命を亡くすかもしれない事を忘れ、

レフイスに渡したかった物をとりにいったヨットの中で

テイオは命を絶った。

だが、それは今どこにあるだろうか?

海の底にねむったまま?

そしてこの事実をレフイスにどうつげればいい。

取り止めなく次々と思いが湧き上がる。

間欠泉の様に吹き出して来る思いを

アランもどうすればよいか考えつかないまま

何時の間にか空が明らんでくる兆が窓の外に見え始めていた。

まあるい窓の外を窺うと

やはり薄紫色の空の色が視界一面に染めていた。

アランは僅かな睡眠を貪る事にした。

枕を引寄せケットをかけ直すと

ゆっくりと眠りの中に身を落とし込んで行った。


其の五


明くる朝。

泣きはらした目元のはれが引ききらないレフイスにあった。

「いいかな?」

食堂の席は勝手に決める。

セルフサービスで自分のバケットに料理を並べたレフイスが

パンをほうばったアランの前に立った。

アランは少し慌てながらパンを呑み込んだけど、

言葉が出せる状態にはならなかったので

手でどうぞとレフイスに席を勧めた。

「ありがとう」

バケットをおくとレフイスはパンをちぎり始めた。

口の中のものをミルクテイ―で流しこむとアランは

「アンタ、それっぽっちしきゃたべないつもりか?」

レフイスのバケットの中身は

ロールパンが一つと少な過ぎるサラダと

そしてコップ半分もない僅かなミルクテイ―だけだった。

「あ、ちょっと食欲なくて・・・。これでも、少しはたべなきゃって」

レフイスにはそれでもたべようとしていることではあったのだが、

「アンタ。無神経だな。おまけにそんな自分を判ってない」

「あの?」

なにがアランの気にさわったのだろう!?

尋ねかけたレフイスの言葉を遮ると

アランは自分のバケットのパンを一つ。

ポーチ・ド・エッグを一つと

生ハムをレフイスのバケットの中に突っ込んだ。

「あ・・の・・・」

「それだけ食べたら、俺の言った事の意味をおしえてやるよ」

心なしかアランの声が明るく弾んでいて

屈託ないやさしい響きが篭っていた。

「ん・・・」

ほんの少し口を付けたハムの冷たい感触が喉をとおった。

「おいしい」

「たべろよ」

「ん・・・」

思いの外レフイスの食欲がそそられ、

結局レフイスはアランに渡された物もキレイにたべおえた。

「で、なに?」

「あん?」

「さっき、食べたら教えてやるって・・あの、無神経だって」

「ああ。そのこと?

それは、つまり、良い傾向だってことなんだけどね。あのさ・・」

「なに?」

「いや、アンタさ」

「レフイスでいいわ」

レフイス自身、自分の言出した言葉に戸惑っていたが

アランのほうがもっと驚いていた。

「あ?あ、いや。え?」

「それで?」

「詰り、あん、いやレフイスが無神経だって、のは・・・」

レフイスの名前を何気なさげに呼ぶふりはして見せたが

アランの頬はそれだけで軽く染まっていた。

「俺。昨日、あん・・レフイスをいいほどなかせちまったんだぜ。

その相手にさ、食欲ないなんていわれちまったら、たまんないだろ?」

「あ、ごめんなさい」

「でも、それでいい」

「?」

「レフイスにとって、そんなになってる自分を

俺にはかくさなくていいってことだろ?」

「あ?」

「ちがう?」

レフイスは答えられなかった。

自分でも気が付いてない思いを急にみせつけられても

それが自分の思いであるかさえさだかでない。

それにレフイスを覗き込んだアランの瞳は

『好きだよって頬を染めて伝えてくれるか?』と、

尋ねたその内容その物におもわされてもいた。

「ぁ・・」

レフイスの胸の中に小さな胸の響きが聞こえた。

ふいに目覚めた子りすはいきなり首を擡げて辺りをみわたすが、

その前にきっとこりすもとくんと鳴る自分の胸の音を

聞いたにちがいないことだったろう。

ふいになった心臓の生きてる音に

レフイスの鼓動がさらにことことと音を立てているのがやけに意識された。

「もういかなきゃ、ごちそうさま」

「あ、ああ。あの・・・」

「なに?」

「また、たずねていいかな?」

レフイスの部屋への来訪のことをアランはいっている。

「そうね。考えとく・・・」

「そう・・・」

アランがひどく淋しそうに見えたが

レフイスはそのまま返事を濁らせて席を立った。


それから一ヶ月もすぎただろうか。

レフイスは中央のホールのど真中にたっていた。

渡されたシャンパングラスの中に船長が

「おめでとう」

と、言いながらシャンパンをそそいでいた。

順ぐりに側に寄って来た仲間も

レフイスの二十歳の誕生日を祝う言葉をかけて行った。

その中にはウォッチャ―を脱け出して来たアランもいた。

「おめでとう」

アランがレフイスに一言告げると

「あとでいく」

と、レフイスの部屋への来訪を告げてシャンパンをつぎたした。

「あんまり、のみすぎるなよ」

アランはシャンパンの瓶をテーブルの上におくと

「じゃあ」

アランはウォッチャ―に戻って行った。


二十歳の祝いを洋上で迎える事なぞ、

学生だった時にはレフイスは思っても見なかった。

そんな事をぼんやり考えているレフイスのそばに

料理長がニコニコしながらよって来た。

「え?」

しかめっ面で無口な料理長が、らしくもない笑顔をみせている。

本当にあの料理長なんだろうかとレフイスを

一瞬戸惑わせる、やさしい笑顔だった。

料理長にもレフイスの戸惑いがつたわっていた。

「はーん。アランのいうとおりだったな」

料理長は、つぶやいた。

「あの?」

「この笑顔は俺のあなたへのバースデイプレゼント」

「え?」

「きにいってくれたかな?」

「あ?はい。とっても、すてきです」

「うん。そう、ねがいたいね」

「あの?さっき、アランがいったって?」

「おや?ずいぶんみみざといね」

「あ、すみません」

「いーや。おこってるわけじゃないさ。アランが言った事きになる?」

「・・・すこし」

「うん。あなたがアランと仲が良いのは、しっているんだ。

だから、アランにレフイスは

どんな料理を喜んでくれるかなってたずねたんだ」

「あ、はい」

「そうしたらな。特別料理を注文されたんだ。

これが又、難しい注文でな。今回で一番手の込んだもんだな」

料理長の言葉にレフイスはあたりの席をぐるりと見渡した。

「そこにはないよ」

気がつかない様子のレフイスを料理長はくすりと笑った。

「ここにあるんだ」

料理長は満面の笑顔を見せると自分の顔を指差した。

「あ?あ・・はい・・・・」

やっと、アランの注文がなにであったのかレフイスにも判った。

「あなたを喜ばせるのはそれが一番だってな。アランのやつ・・」

「はい」

零れて来る涙をレフイスは指で拭った。

「ありがとうございます」

料理長はレフイスの肩をポンとたたくと

「気に入って貰えて嬉しいよ。

でも、このプレゼントを本当にくれたのはアランだよな?

アランに会ったら特別注文の料金は高いぞっていっておいてくれ」

「え?・・・はい」

吹き出しそうになるのをこらえながら

レフイスは料理長の笑顔をもう一度見つめた。

レフイスの胸の中に暖かい水溜りがしみだしてきていた。

生きてる人をよろこばせなきゃ。

そういったアランの心遣いが

レフイスの中にある凍えた水溜りを瞬時に暖めていた。

「さあ。俺の手でつくった料理のほうもたべてやってくれ」

料理長はレフイスに小さく手を振ると厨房に戻って行くようだった。

船の中の人員が全て祝いの場所に顔をだせるわけではない。

顔を出せる乗務員も仕事柄や持ち場にもよる。

アランのようにウオッチャ―の役にあたると

操舵室の中にこもりきりになる。

本来はウオッチャ―になったらここまで、でてこれるわけはない。

ウオッチャ―の相方がだれだったのだろうか?

アランはこっそりぬけだしてきたのだろうか?


ほんの二時間ほどのパーテイはやがて終焉をむかえ

レフイスの十代から二十代への区切りはこんな形でくっきりとひかれた。

部屋に戻ったレフイスの耳に

遅い時間にドアをたたくのを憚る静かなノックの音がきこえてきた。

ドアの鍵を開けると、少し草臥れた顔のアランが立っていた。

「おつかれさま」

レフイスがドアのノブを掴んでいた手を離して

アランにどうぞと手の平を部屋の中に向けて流す様に泳がせた。

「うん。いい誕生会だった?」

「ええ」

「一緒に祝えなかったのが残念だったよ」

足元を固定された小さな木製のイスにアランは座った。

たかが二十才の女の子でしかない船員一人に

個室が貰えるのも航海士という身分のせいだろう。

6㎡程の細長い部屋にはベッドとロッカー。

そして小さなテーブルとふたつのイスがしっかり固定されていた。

そのイスにアランは草臥れた体を乗せていた。

「でも、チャンとあなたからのプレゼントはいただいたわ」

「俺から?」

「ステキな笑顔っだったことよ」

「あ?しゃべっちまったのか・・・」

アランは料理長が見せた笑顔を想像したのだろう。

内緒の約束だったのだろう。

が、喋ってしまった料理長の事を怒るまもなしに

アランが笑い出していた。

「俺もみたかったな」

言ってる口の端が想像に耐えかねて笑いをこぼし始めている。

「料理長が代金は高いぞって、伝えてくれっていってたわ」

「アンタ、ん、んん・・」

アランは軽く咳払いをして言い直した。

「レフイスがよろこんでくれたなら、やすいもんだ」

とくん、とレフイスの中で心臓がなった。

続いて聞こえてくる鼓動の音もはっきりと大きく感じられた。

アランにレフイスの心臓の音を聞かれてしまいそうに思え

レフイスはアランの側を少し離れた。

けれど、明るい茶色の瞳がレフイスをじっとみていた。

アランの茶色の瞳の中にはレフイスがしっかりと映り込んでいた。

突然レフイスは理解した。

何かが始まっていることを。

アランの瞳の中に自分が映りこんでいる事がレフイスを安心させている。

自分の姿が映りこんでいるかどうかさえ

知る事も出来なくなった存在の不確かさに比べ

アランの瞳は限りなく透明に近い茶色の中にレフイスをとらえていた。

アランの瞳に映ったレフイスの姿がー生きてる事―を実感させていた。

「アランは、色んな事を教えてくれるんだね」

アランが言ってた言葉をレフイスは反芻していた。

テイオの事を話した時、

アランは哀しみの中に沈んでいるばかりなら

レフイスもいきているとはいえないっていいたかったのだろう。

哀しみを与える事しか出来ないで存在しているって事は

結局テイオと同じように死んでしまってる自分だったのだと判った。

死んだ人間が出来る事が哀しみを与える事だとするなら

レフイスも確かにそうだった。

テイオと一緒に自分まで死なせてしまっていたのだ。

でも、アランの瞳はそんなレフイスをしっかりみつめていた。

『私でも、誰かを喜ばせられる?アラン、そう教えてくれてるんだよね』

とくん、とレフイスの心臓が頷いた気がして

レフイスはアランをもう一度見詰め直した。

「あのさ」

アランがレフイスの顔を少し眩しげに見詰め返しながら話し始めた。

「なに?」

「ああ。もうちょっとで休暇だろ?」

「あ、ああ。そうだね」

一年近くの航海をおえる時期がすぐそこまできていた。

船は乗客をおろし次の航海にむけての化粧直しと

メンテナンスの為にドッグいりをすることになる。

調整を終えた船が次の航海を迎えるのは3ヶ月の休暇を終えた

初冬の頃になる

アランの瞳に映ってる自分の姿を

見出す事が出来なくなるんだと思うと、

レフイスは

「あえなくなっちゃうんだね?」

思わずつぶやいた。

レフイスのつぶやきにアランがびっくりした顔でレフイスをみた。

「あ?私、なにかへんなことをいった?」

「あ、そうじゃない。

レフイスがそんな事言ってくれるなんて思ってもみなかったから・・・」

「あ・・」

自分の出した言葉はレフイスの本当の心?

私はアランのことをあえなくなったりしたくないって思ってる?

レフイスが自分の心を覗きこんで戸惑い始めていた。

「うれしいよ」

レフイスに戸惑いを隠す間も与えずアランはレフイスを抱き寄せた。

「レフイス。休暇にレフイスのところをたずねていい?」

暖かい息の温もりと一緒にアランは寄せ付けたレフイスの耳もとに

囁く様にたずねた。

アランの思いがレフイスの心をわきたたせ身体の中の血が大忙しでレフイスの中を駆け巡っていた。

「ええ。待ってるわ・・・・」

やっとそれだけ答えるとレフイスはアランの胸の中に顔をうずめた。

アランの手がレフイスの頬を挟みこみ

恋人のキスを与えて来るアランをレフイスは静かに受け止めていた。

アランが照れた顔でレフイスにおやすみをつげると

もう一度レフイスの頬を手ではさみこんだ。

「約束のキス・・・」

アランが瞳をとじた。

「うん・・・」

少し項垂れてレフイスはアランにキスを渡した。

自分からのキスはレフイスの中のテイオをやけに意識させていた。

「じゃあ」

アランは部屋に戻って行った。

ドアをゆっくり閉めるとレフイスはベッドの上に座りこんで膝をだかえた。

多分、テイオは恋をする事もないまま死んだのだろう。

テイオを置き去りにしたまま

レフイスひとりテイオの知らない世界にいこうとしている。

「裏切りだよね?」

テイオの事を考えると泪がレフイスの膝をぬらしてゆく。

「テイオ。誕生日おめでとうって言いたくなんかないよね。

どんどんテイオが遠くになっちゃうだけだよね。いえないよね?」

年齢もそうだったろうけど、

テイオとの距離がどんどん遠ざかって行くのは

アランのせいばかりじゃない。

何よりもレフイスの

大人の女性としての感情がどんどん成長して行ったせいだろう。

幼友達のままじゃいられない性の違いを

意識しなければならなくなる局面を迎える前にテイオはいなくなった。

レフイスが一個の女性である事を教えてくれるのは

テイオだったのかもしれないし、テイオじゃなかったのかもしれない。

でも、いま、アランの腕に包まれた時に

レフイスの中の女性がめぶきだした。

「愛されたいよ。あんなに暖かくだきしめられたいよ」

テイオじゃどうしようもないレフイスの心の餓えをアランが包みだしていた。

でも、自分からそれをもとめる事をレフイスは恐れ責めていた。

なのに、アランとあえなくなると思った時。

レフイスの心は戒めを破り 

目をそらしていた感情がレフイスの口をつかせた。

「テイオ。肩をだいてよ。寒いよ・・・・」

幼馴染が既にレフイスの恋の年齢の対象にさえなっていない事を

がっしりとした青年の胸の広さが

レフイスに暗黙の内に教え込んでしまっていた。

レフイスはアランの胸の厚みを、

聞こえて来る心臓の音を首を

振って頭の中から追い払おうとしていた。

「テイオ・・・・」

唇がテイオの名前を呟いたまま、

レフイスは眠りの中に落ち込んで行った。

                           


其の六

やけつくような真夏の日差しが

アランの首筋から額から所構わず汗を吹き出させていた。

一陣の風が路地を吹きぬけ、風の中は潮の香りがみちていた。

荷物を肩から下ろし

アランは首筋に巻きつけていたタオルで汗をふいた。

海の近くのレフイスの家までもう直ぐだった。

荷物を担ぎ直すとアランはレフイスの家をめざした。

入り江を取り巻く様に家々が立ち並んでいる。

その中ほどの赤い屋根の家。

天辺に胴色がすっかり緑青色になった風見鶏がついてるから

すぐ判るとレフイスはいっていた。

アランの目に風見鶏がくるくるとまわるのがみえた。

吹き止んだ風が風見鶏を止め

レフイスの言うとおり緑青色の風見鶏が赤い屋根に映えていた

ふき返した風が風見鶏を再びくるくると回らせ始めると

レフイスに早くおいでよと言われている様に思えてアランは足を早めた。

レフイスの家のチャイムをおすと

中から少し年老いた女性の声がきこえた。

玄関に立ったアランの姿をドアを開けた女性がみつけると

「アランさん?」

アランは自分の事を説明することもいらなくなった。

突然の来訪の非礼を詫びる言葉も。

「レフイスから聞いていてよ。さあ、どうぞ・・・」

と、いう女性の歓迎の言葉にすりかえられた。

「あ、はい。あの・・・」

レフイスがアランがいつきてもいいように

配慮してくれていたことも嬉しかったが、

それは裏を返せばレフイスがアランの来訪を

心のそこから待ち望んでいた事にもなる。

だけど。

アランの困惑に女性、レフイスの母親が答えをだした。

「レフイスは今、でかけてるの」

「あ、そうなのですか・・・」

「あの・・」

レフイスの母親はアランの顔をじっとみつめていたが

「あのこから色々聞いてらっしゃるんでしょ?」

と、確かめる様に聞いた。

娘をわざわざ尋ねて来るほどの青年が、

その青年の来訪を心待ちにしているレフイスが

御互いの感情を確かめあうことがあったことだろう。

それと同じ様にレフイスが閉ざした心を開く為に

青年がレフイスからテイオの事も

なにもかもさらけだされたのではないのだろうか?

「あ・・あの、テイオの?」

「ええ」

やはりレフイスは青年に心を開き

幼馴染の名前さえ口にだしていたのだ。

「テイオの日記をかえしそびれてもいたし・・・」

「え?あなたに。あ、あなた?

それを、あのこのかわりによんであげてくれたの?」

「はい」

レフイスの母親は膝においてた手で涙を拭った。

「ありがとう」

「いや、そんな・・・」

「あれから四年も経つというのに

航海から帰ってきてもテイオの日記を膝にのせたまま

又じっと海をみてるだけのレフイスをみてなきゃならないって

覚悟してたのよ。

でも、帰って来たレフイスが最初に

『母さん。友達がたずねてくるわよ。よろしくね』っていったの」

レフイスの母親の膝に置いた手が再び零れ落ちる泪を拭い出した。

楽しげに喋り出した船に乗った話しの中の半分以上が

アランと言う名の男の人の話しだった。

「レフイスの言うとおり、綺麗な瞳ね。

それで私にもようやくわかったのよ。

たずねてくれる友達の名前がアランだっていうことも、

それと、レフイスの嘘も」

「嘘?って」

「友達なんかじゃなくってよね?」

「あ・・・」

「ちがっていて?」

「まだ、はっきりとは・・・」

「そう」

レフイスの母親には判っていたことだったのだろう。

テイオへの心を取り去ってしまう事がまだまだむつかしいことを。

だいいち、そうでなければ青年が

レフイスをたずねてくることはないだろう。

それどころか

今頃はレフイスが今年はかえらないよって

アランの元から電話をよこして

両親そろってレフイスを変えた青年を見届けにいっていたことであろう。

「あのね。レフイスが随分変わったのは本当なのよ。

帰って来たレフイスの替わり様に私も黙っておこうかと思ったの」

「あの?」

不安げな話し振りは

アランの内心を穏やかにさせて置けるわけもなかった。

顔色が変わったアランを見詰めていたレフイスの母親だったが

「愛してくれてるのね」

と、アランの変化のわけはそこにある事をみとめると

「あのね。テイオの亡骸があがったの」

「ああ・・」

「それで、テイオの墓にいってるの」

「ああ、でかけてるって・・・」

「ええ」

レフイスはテイオの前に座りこんだままなのだろうか?

「やっと、笑顔を見せ始めてるこだったからいいたくはなかったの。

でも、もう乗り越えなきゃなんない時期じゃないのかなって?

あなたっていう存在が現れたから

テイオもやっと死んだんだってつげにきたんじゃないかって

そう、思えて」

「そうだと思います」

「話した事をゆるしてくれて?」

アランは首を振った。

「ゆるすもなにも、テイオのそれはいつごろだったのですか?」

「3ヶ月くらいまえよ」

「だったら、御母さんのいうとおりです。

僕はその頃にレフイスの側にいるようになったんです。

多分テイオは僕の気持ちを知って

レフイスを僕に託す為にもあがってきたんだ、と。

だから、御母さんが話してくれてよかったんだとおもいます」

「そうね」

この青年はテイオの日記をよんでいるんだ。

レフイスも知らないテイオの思いを、考えを、事実をしっている。

「いやじゃなかったら、レフイスをむかえにいってくれるかしら?」

「あの?」

レフイスの母親は青年の戸惑いを見越して慌てて言葉を告いだ。

「お墓までの道は地図に書いてあげるわ」

きたばかりの所の墓がどこをどう行けばよいか

皆目見当がつくわけがない。

「あなた。やさしいこね」

「え?」

「俺でよくってよ」

「あ?レフイス。そんなことまで?」

「礼儀正しくて、けっして変な奴じゃないよって私にまできづかってくれて。でも、俺って言ったってちっともかまわなくてよ」

「はい」

喋ってる間にレフイスの母親が書いてくれた地図を受取ると

アランは外に飛び出した。


入り江を望む丘の上まで続く小道を下草が覆い隠していた。

この熱さの中を墓を訪れる者も少ないのだろう。

踏まれる事がなくなって下草は延び放題に伸びていた。

いつ頃レフイスがこの下草を踏んで墓に上がって行ったのか

判らないほど下草は人が通った跡を消し去るかのように

一端はしゃんとのびたったのだろう。

そのあとでこの熱さに蒼い葉をしなだらせていた。

と、なるとレフイスは随分

朝早くからこの場所にきているということになる。

小道を上がりつづけると平たく開けた場所がアランの前に広がった。

切り開かれた場所は風が心地良いほど吹きすさんでいた。

いくつもならんでいる墓石の列を目で追いながら

その前にいるレフイスを探すアランの目に大きな木立が映った。

その木の影にレフイスは座りこんでいた。

まだ新しい墓がレフイスの前にあった。

墓に寄り添う様にレフイスは座りこんで眼下に開ける海をみつめていた。

『レフイス』

アランは走り出した。

人の気配を感じてレフイスが振向いた時

アランはレフイスの前にたっていた。

「あ」

小さな喜びと驚きが入り交ざった声がアランの耳元に聞こえたとき

レフイスはアランにだきよせられていた。

アランの耳もとの驚きの声はそのまま哀しい泣き声にかわった。

来て良かった。

アランはそう思った。

レフイスをこれ以上ひとりでなかせたりしない。

アランはレフイスの慟哭が静まるまでレフイスをだきよせていた。

レフイスはやっと顔を上げた。

「母さんにきいたんだ?」

「ん」

「きてくれたんだね」

「ああ」

「テイオが・・・」

「うん」

「ごめんね」

「いいさ。はなしちまえよ」

「うん」

哀しみが喉をしめつけてしまうのかレフイスは

少し息を整えると零れる涙の顔のまま話し始めた。

「漁師の網に絡みつくように上がって来たんだって。

テイオかどうかなんかもう判んなくなっていたんだけどね。

男の子の、15、6の男の子だって。

テイオんちに連絡が入ったの。

叔父さんも叔母さんも信じたくない気持ちだったと思うんだよ。

だって、ひょっとしてどこかでいきてるかもしれないじゃない。

でも絡みついた亡骸が小さなペンダントをつけたままだったの。

テイオのものだって・・・」

レフイスの喉が小さく震えるような音をたてていた。

「ねえ、おかしいよ?そんな物でテイオだなんていいきれる?

テイオじゃないかもしれない。なのに・・」

「どこかで本当はいきてるって?そういうこと?」

「・・・・・」

「ありえないよ」

漠然とした死を受け入れる事は容易なことだったのかもしれない。

が、テイオの死が確実なものであるとレフイスを納得させるには

テイオの亡骸は変わり果てすぎていた。

そんな亡骸ひとつで

それがテイオであるという事実を

受け入れたくないレフイスだったのだろう。

若し、もっと早くテイオが綺麗な姿のまま

レフイスに死を見せつけていたら

レフイスはもっと早くテイオの事に踏ん切りをつけれてたのかもしれない。

なんでもっと早くうかんでこなかったんだよ。

アランはテイオへ小さな責めを感じていたが、

テイオはそのまま、レフイスの中で死んでしまいたくなかったんだなとも

考えさせられていた。

そのテイオが今更の様にレフイスに自分の死を証したのも、

やはりテイオがレフイスをアランに託す事を選んだからだとおもえた。

テイオの気持ちがそうであるのならば・・・。

「レフイス。ありえないんだ。

もしテイオが生きていたなら、どんな事があっても

君の元に真直ぐ帰って来てる」

「なんで?なんで、そういいきれるの?」

レフイスはしばらく口を閉ざして下を向いたが、

アランが答えようとしないのが判るとレフイスから切り出した。

「テイオの日記にはそういう事がかかれていたの?」

レフイスが聞けば今度こそ

はっきりと知りたくなかった事実がアランから明かされる。

けれどレフイスは一歩ふみだそうとしていた。

レフイスのその勇気はアランの存在のせいだったかもしれない。

「まだ、ききたくないんだろ?」

アランの言葉にレフイスはわずかに頭を振った。

「きいてしまっていいの?」

躊躇がレフイスの動きを止めさせていたが、

やがてレフイスはこくりと、うなづいた。

「テイオが、嵐の日にヨットを沖に出そうとしたのは、

確かにヨットを外界に出して大波を遣り過ごそうとしたんだとは思う。

でも、それは二次的な事だったと思う」

「どういうこと?」

「テイオがそんな日にわざわざヨットの所にいったのは、

ヨットの中に隠しておいたものをとりにいくためだったんだ」

「・・・・」

「テイオはヨットの中に君に渡したいものをかくしておいたんだ」

「・・・・」

「君への恋をつげるための、きっと君がうけとってくれるはずの、

・・・ステデイーリングを」

アランの腕は泣き崩れそうになるレフイスをささえていた。

「だから、何があっても君のもとに帰ってきて、

テイオは心をつげようってするはずなんだ。

決心してたんだ。幼馴染を脱け出すぞって・・・。

テイオの未来図には君がいたんだ」

レフイスの震える肩をアランはしっかりつかんだ。

「だけど、テイオは死んだ。

君に心を伝えきれなかった無念だけを残して・・・」

レフイスは胸の中を巡った思いをくちにだした。

「私がもっと早く日記をよんでたら、

テイオはもっと早くみつかったってこと・・・かな?」

「たぶんね。テイオがみつかったころに俺が、日記をよんだんだ。

君への思いが伝えられるだろうって判って

テイオは今度こそ君の中での死を選びとったんだと思う」

「・・・・」

「だから、それはテイオだったんだ」

「思われてたんだね?」

「ああ」

「テイオは・・・・」

「幸せだったとおもうよ。

きっと、最後までレフイスの事を思って死んだんだ。俺はそう思う」

「それが、しあわせ?」

「そう。胸一杯に愛する人を抱いてたんだ。幸せだったと思うよ」

「私の事なんか、好きにならなきゃなきゃ。

テイオはリングをとりにいったりして死ぬことはなかったん・・・だ」

「そういう考え方はやめたほうがいいよ」

「でも・・」

「俺がもしこのまま、しんじまうことがあっても

レフイスに逢えた事はよかったって思うよ」

アランの心とアランの言葉がレフイスの胸にいたかった。

「いやだ。そんな事、いわないでよ」

何時の間にかテイオへの追慕より

アランへの思いの方に心を占められている事に

レフイスはきがついていない。

「もう、これ以上、大切な人をなくしたくない・・・・」

レフイスがテイオへの哀しみより、

目の前にいるアランに大きく心を捉えられている事を

アランはなによりも確実なものとして感じ取っていた。

                           


 

其の七


真夏の空は抜けるように青く、

白い砂浜を歩く二人の上で太陽は

夕刻の時まで灼熱の熱さをかえる事なく

照りつづける事を約束していた。

「あーーあつーいーーなんとかしてくれー」

アランの叫び声にも似た懇願をよそに

太陽はじりじりという音さえ立てそうに勢いを増していた。

「一番熱くなる時間だもの。しかたないよ」

「およがないのか?」

海に逃げこむ事を目論んだアランの瞳がちらりとレフイスをみた。

レフイスはアランの泳ぎに行こうという誘いには応じなかった。

「なんでさ?」

「ん。あのね、今日から、女の子なの」

「え?あ、ああ。そう」

アランは少し面喰ったけど、

アランも女性の機能を当然理解している年齢である。

女性への配慮も小さな頃からの教育でおそわっている。

「ざんねんだな」

「うん」

「せっかく、ビキニをみれたかもしんなかったのに」

「え?」

「スタイルいいもの」

「やだ。いままで、どこみてたわけ?」

「ぜんぶ」

アランはそう言うと砂をけって海にはしりだした。

レフイスの全部をみていたいんだよって

アランはいいたかったのかもしれない。

でもレフイスの性を意識してしまうアランを

男の子なんだよねってレフイスは思った。

テイオは少年のままレフイスの心に留まり

男である事をレフイスに意識させる事はなかった。

気恥ずかしいほど女性である事を意識させられる

異性としての眼差しはテイオにはなかった。

年齢だとレフイスは思う。

又、こんなふうにアランの眼差しによって

レフイスも自分が女性である事を知らし召させられ、

アランの好意がレフイスが女に生まれた事を感謝させてゆく。

そして、いつかレフイスは女性である事に誇りをもつことになるだろう。

それが全てアランの愛からはじまる。

自分がこんなにまで女性である事を意識させられる事がなかったように

レフイスも又これほど誰かを男性なのだと意識した事はなかった。

『テイオ。私達は巣の中でじゃれあっていた小猫だったね』

アランを見ると浮んだブイに捕まってレフイスをみつめていた。

レフイスがアランの探し当てたのが判ると

アランは手をふって見せレフイスのいる浜辺に向かって泳ぎ始めた。

上がって来たアランは

「向こうの岬の方にいかないか?」

と、たずねた。

レフイスは持っていたバッグの中から

タオルをとり出してアランにわたした。

アランが脱捨てたTシャツはレフイスが拾い上げておいたが

アランは始めから泳ぐつもりだったのだろう。

バミューダを掃いてきていた。

でも、薄手の生地が水に濡れて

アランの足にまとわりついていて歩きにくそうではあった。

岬まで30分は歩かなきゃならないだろう。

「よくってよ」

「あ?しんどい?」

「ううん」

「じゃあ。いこう」

一端町並みの中に入りこんで岬に行く前に二人は軽い昼食を取った。

テラスのイスはこんな客に構えてプラスチック製の物が並べられていた。


岬に辿りつくとさすがに浜辺ほどに人はいなかった。

が、それでも海中からそそり出た岩肌の高さが

格好の飛びこみ場所になっていて

何人かの少年がたむろしながら飛び込みを繰返していた。

「あの高さだと結構こわいんだぜ」

「勇気のみせどころ?」

頭から綺麗に海の中に落ちこんで行くものもいれば

鼻を摘まみながら足から落ちて行く少年もいる。

深く沈みこんで慌てて息を継ぎに浮上して来る様子が

岩肌の高さを思わせた。

「ん。勇気のみせどころだよな」

アランは自分に向かって言うとレフイスに向直った。

「レフイス。好きだよ」

「え?」

「一緒にいきてゆこう」

「あ・・」

「返事はむりかな?」

「・・・・」

「御免。いそぎすぎたよ・・・」

良く回転する頭は一瞬一瞬のレフイスの表情を捕えて

次々と判断を変え言葉をだしていった。

アランは少しいたたまれなくなってレフイスの側を離れたかった。

「むこうのほう、潜ってみてくる」

『せっかちだったよな』

アランは自分が逸りすぎたのが悔やまれていた。

遠ざかるアランの後ろ姿を見詰めながらレフイスは考え込んでいた。

『テイオ。どうしょう・・・』

アランの事は決して嫌いじゃない。

でも、まだ今のレフイスにはアランを受け止める自信がない。

アランに気が付かされる色んな事に驚かされるばかりで

レフイスは自分の気持ちの整理さえつかなくなっていて

レフイスの引出しには

テイオの事やらアランの事やら

あの料理長の笑顔やら

アランの事を話した時の母親の顔やら

テイオの叔母さんの事

突然のテイオの再びの死の宣告。

やって来たアラン

そして、今も突然のアランの言葉。

レフイスの心がどうなのかを考えるより先に

目の前の事は煩雑な手間をかけなきゃ片付きそうにもないほど

レフイスの中でごった返していた。

自分をとらえる煮凝りがなんであるか、

アランという火にあおられてしまえば

すぐさま解けてしまう煮凝りでしかない事が判らないまま

レフイスは溜息をついた。

『こんな気持ちのままじゃどうしょうもないよね!?テイオ。そうだよね?』


海のそこには大きな石が角を削られ丸みを帯びて転がり込んでいた。

波の流れに石の下の小石が浚われ

石はごとりと音を立てて出来たくぼみに落ち込んで行った。

そうやって次の場所に石は少しづつ移動してゆくのだろう。

アランは自分とレフイスの様子が石に重なってみえた。

「あわてちゃいけない」

アランを包みこむ大きな自然だって

こんなに緩やかにしか変化をもとめやしない。

台風や地震さえ起こす力のある自然だって

日々は緩やかにすすめようとしている。

アランは息を継ぎに波間に顔を浮びあがらせた。

岸辺でレフイスが心配そうにアランの潜った辺りを見詰めていたが

浮びあがって来たアランを見つけるとホッとした顔を見せていた。

海はレフイスにとって、

大切な人をいつ飲みこむか判らない場所でもあった。

『大丈夫だよ』

アランはレフイスに手をふって見せた。


「かわいいひとだね」


突然の声の方をアランは振向いた。

波間に洗われ、わずかに水面に地肌を覗かせている岩の上に

声の主はいた。

「上がって来るのをまってたんだ。ここらへんの人じゃないよね?」

さっきまで飛びこみを繰り広げていた少年の内の一人であろうか。

潮に煽られて金色の髪がぱさついていた。

深い海を思わすダークブルーの瞳が日に透き通ると

緑を帯びた色を見せていた。

「あ?待ってたって?」

「ウン。ここはきれいなところだろ?」

「ああ」

「もう少し先まで行ったら良いよ。

さっきからアオブダイの群れが周遊しているんだ。

見事だよ。それを教えたくてね」

「へええ」

少年は向こうのほうの仲間を振りかえると小さく手を振った。

「おいでよ」

少年はその場所に案内してくれるつもりの様だった。

岩場から再び波間に身体を滑らすと少年は泳ぎだした。

アランは誘われるまま少年の後をついて泳いだ。

「あ。そうだ。まだ、いるだろうな」

少年は独り言を呟くと急に泳ぎを止めて

「このあたりに、さっき・・・」

そういった顔がまっさかさまに反転して

水上に突き出た腕がアランにおいでと合図をすると

少年の身体が海の中に消えた。

アランは少年と同じ様に身体を捻ると水中に入って行った。

少年が手招きをしている側の岩の隙間をのぞきこむと

でこぼこした身体の魚が身を潜めていた。

その側には薄桃色のイソギンチャクが触手を広げていたし

波の動きに身体の筋肉をかすかに振るわせて

岩肌に捩りつくようにして蛍光色に近い青いうみうしもいた。

波の上まで顔をだすと少年は

「さっきのがかくれみのうお。あおうみうしは判ったよね?

ピンクのイソギンチャクは・・あ、そうだ」

すぐさまアランは少年を追いかけならなければならなかった。

少年は海の底の岩をおこしあげた。

少年の側によって行くアランは岩の下から逃げ出して行く

円盤の身体から八方に足を伸ばした蜘蛛のようなヒトデを見つけた。

少年は自在に海の中を泳ぎ回り

小さな貝殻を手にもつと再び波間に浮びあがった。

「なに?」

手の平に貝殻を乗せてじっとしている少年の側にアランは泳ぎよった。

「しぃぃ」

静かにしろと少年は言う。

やがて少年の手の平の中の小さな貝殻がむくりと置きあがると

中から青紫色のつめが見えた。

それがヤドカリだと判る頃には

少年の手の中を這いずり回り

手の平から海の中にぽちゃりと落ち込んで行った。

「あは」

小さなヤドカリは自由になるために逃げ出したのだろうけど

水面に落ちた瞬間の衝撃に身体を貝殻の中に閉じ込めたものだから

貝殻は一気に海底におちこんでいった。

「びっくりしただろうな?」

「たぶんね」

「あの黒いのは蛸じゃないよね?」

「ヒトデ。ハリケーンみたいな形をしてるだろ?

みんな、あいつを見つけたらハリーにあったっていうんだ」

「ふうーん」

「おいでよ。そろそろ。アオブダイがくるよ」


少年の金色の髪は陽光をくぐもらせた海の光の中では

薄い碧の色に染まって

肩口まで伸びた髪の長さが逆立つ様に波にゆらゆらとゆれていた。

光の中を一陣の青いきらめきが閃いたと思った瞬間

アランと少年は群舞するアオブダイの流れの中にのみこまれていた。

その間は30秒もあっただろうか。

数えきれないほどの紺碧がアランの目の前をながれ

アランの身体のほんの数ミリ脇も紺碧色に覆い尽くされて

色が流れていった。

泳ぎ去った群れの数は壮大なものだった。

音もなく泳ぎ去ったはずのアオブダイの姿が消えると

しいいいんと静まりかえった静寂が流れ

やがてやっとアランの耳に岩を洗う波の音がきこえてきた。

アランは再び波間に延び上がって行った。

「ああああ。スゴイよ!圧巻だった」

「うん」

「もう一度みたいな」

「しばらくは無理だよ。あいつらこの入り江を一周してるんだ。

30分はまたなきゃなんない」

少年が時間の事を口にだしたものだから

アランも少年を束縛していた時間が気になった。

それと、

「あ?友達をほうっておいていいのかい?」

「ああ?あいつら?かまわないよ。それより御兄さんは!?

恋人が心配してない?」

少年にはレフイスがアランの恋人に見えるんだと思った。

「ここなら、レフイスからも見えてるさ」

岸辺から随分遠かったけど

アランは水面を蹴る様にして延び上がって手を振った。

レフイスが手を振るのがみえた。

「レフイスっていうの?」

「ああ」

「意味しってる?」

「え?あ。しらない。意味があるんだ」

「風っていう意味だよ」

「へええ」

「ここらへんの女の子にはよくつけられる名前だよ。

と、いう事は、彼女はここの人?」

「ご名答」

「あの。まだ、帰らなくて良いなら手伝ってほしいことがあるんだ」

「いいよ」

「ウン。本とはね。あいつ等のそばから離れたのも、そのためなんだ。

好きな子に挙げようって思っていて持ってた物があったんだ。

そこらに置いといたらあいつ等にみられちゃって、煩くきかれるし、

ポケットに入れたまま泳いでたんだ。

あちこち覗いて探険してる内になくしてるのにきがついたんだ。

探しにいこうって思ったら、お兄さんを見つけてしまってさ。

それよりアオブダイをみせてあげたくなっちゃったんだ」

「ありがとう。御礼にといっちゃあなんだけど、一緒にさがしてあげるよ」

「ウン。心当たりはあるんだ。

でも潮の流れが強い所だから流されてるかもしれないし、

岩が動いて下敷きになってるかもしれない」

「どんなもの?」

「あのね。白い大理石みたいな石の小箱なんだ」

少年は手で小さな四角を作って見せた。

「薄い小さな箱なんだ」

少年の心当たりの場所までアランは少年の後を追いながら泳いだ。

地元で毎日の様に泳ぐ夏を

何度も過ごしている少年の泳ぎは達者なものだった。

アランがやっと追いつく頃には

すでに少年は海の底に潜り込んで小箱を探していた。

少年が潜った辺りにアランも身を沈めた。

海に突き出た岩が外海からの波を防いでくれていたが廻りこんで来る波が引く時の潮の流れは確かに早かった。

少年は潜りこんだ場所を潮の流される方へとかえていた。

アランは少年の側に潜りこむと

少年は波に崩された岩の塊をどかしはじめていた。

随分前に崩れ落ちたと思われる岩の欠片には

藻が植えていたし、よめがかさやたまきびなどの

小さな貝が付着していた。

その下に小箱などあろうはずもないが

それでも岩の隙間にでも流れこんだのを見つけたのかもしれないと

アランも岩を動かす手伝いを始めた。

何度めかの息継ぎにアランが水面に顔を出したすぐ後に

少年が小箱を差し上げる様にして上がって来るのが見えた。

「ああ。みつかったんだ」

アランがホッとしたのは無理もない。

少年は見つかるまでその箱を探すつもりじゃなかったのだろうかと

思わせる程必死な顔をしていた。

思いつめている表情の少年が

それでもアランにアオブダイを見せてやる事を先にしたのが

不思議な事に思われた。

「よかった」

少年は箱をしっかり握り締めていた。  


其の八


アランは少年と二人で一番近い岸に向かって泳ぎ始めた。

「彼女は、泳がないの?」

「え?ああ」

「ふうーん。でも、もう夏は終るよ」

「え?」

「アオブダイが群れて来るのはもっと先なんだ。今年ははやい」

「そうなんだ・・・」

「残念だね」

岸辺に辿りつくと

レフイス達のいる浜辺をみていた少年の顔が暗く翳った。

どうしたのだろうと思うアランに少年は悲しげに呟いた。

「御免。せっかく、一緒に探してもらったのに・・・これ、もういらない」

言葉をとぎらせて少年は小箱をアランにみせた。

「どうしたの?」

焼けた浜辺石はごろごろと大きくアランの足元を

おぼつかなくさせていた。

「彼女には僕じゃない、好きな人がいるんだ」

アランが見た向こうの浜辺に上がった少年の群れの中から

一人の少年が、いつのまにきたか判らない少女の肩を抱いていた。

そういう事かとアランは合点が言った。

「言わない内から諦めちゃうの?」

「ウン。だって、しかたがないよ」

「心だけでも、うちあけたくないの?」

「彼女はもう僕の気持ちは、しってるんだよ。

しっているはずの彼女が他の人に惹かれているのがみえたら

潔くあきらめるしかないだろ?

おめでとうっていってやりたいだろ?」

アランは小さく頷くしかなかった。

レフイスの恋の相手が死んでいると判るまでは

アランも同じ様に考えていたからだった。

「だから。ウウン。だけど・・・」

少年は渡せなくなった物の行方をアランの手にあずけるようにぎらせた。

「あ?」

哀しい結末にアランは言葉を失っていたが

自分の首にかけられていた紫水晶のペンダントを

小箱を受取る替わりに渡した。

「君のやさしさへの御礼と、

それと新しい恋に出会える励ましには・・なんないかな?」

少年は黙ってアランの差出したペンダントをうけとった。

「ありがとう」

少年が零れて来る涙を手の甲で拭くとにこりとわらってみせた。

「彼女が幸せなら、それでいいんだ」

華奢な体の少年の中にやさしい男性が眠っているのもしらないまま

彼女との恋は幕をひかれてしまった。

「あの。こっちから、帰るよ」

切り立った崖の中を縫う様な小さな小道が見えた。

少年が二人とすぐに顔を合わせたくないのもわからないでもない。

「レフイスも君の親切にはきっとお礼をいいたかったとおもうよ」

少年がアランに教えてくれた感動は

レフイスにもきっと御礼をいわせたことであろう。

「ウン。おしあわせにね」

少年は失った恋を哀しむより

アラン達の事を祈ると崖の方に向かって小走りに去っていった。

「ありがとう」

アランが大きな声でもう一度叫ぶと少年は

「こっちこそ、ありがとう」

と、手をふって見せた。

少年が無事に崖道を登りきるのを見届けると

アランはレフイスの元に走り出した。


帰って来たアランの目の中でレフイスの笑顔が崩れて行くと、

レフイスは突然、なきだした。

「どうしたの?」

アランはレフイスの肩に手をおいた。

「だって・・・」

アランが何度も海の中に潜りこむ度に

レフイスはアランが海上に顔をだすまでの

ほんの一、二分の間がひどく息苦しくて

胸の中が締付けられるような不安をかんじていたのだという。

「だいじょうぶだったろう?」

「うん・・・」

だからこそレフイスの張り詰めた神経がほっとゆるみ

アランの姿を見た途端に涙がこぼれおちた。

アランが海に潜っている間中、

レフイスはアランの存在が自分にとって

どんなに大きくなっているかをおもいしらされていた。

容赦なくつきつけられた新しい気持ちとの邂逅は

レフイスに重大な決心をさせていた。

―この気持ちをアランにつたえようー

そう決めたのにレフイスはアランの顔を見たらなんにも言えなくなった

零れ落ちる涙はアランの存在が

こんなにもレフイスの心に深くなっている事だけを自覚させていた。

『だいすきだよ』

アランの腕がレフイスを包んで行くのを感じながら

レフイスは気がついた心を胸の中で言葉にしていた。


岬からの帰り道を歩みながら

アランは少年に見せられた色んな驚きを話して聞かせた。

「ごめんね」

レフイスが泳げたらレフイスが見せてあげたかったことを

少年が替わりにしてくれていた。

「なんにも御礼ができなかったね」

「ペンダントをわたしたんだけどね」

アランは少年に渡された小箱をレフイスに見せて

小箱を渡されたいきさつも話した。

「どうすればいいかな?」

「何がはいってるかわかんないけど、今はあけないほうがいいよ」

小箱の中に染み込んだ海水を

真水で洗い流してしまわなければならない。

けれど真水で流す直前までは

小箱の中の海水が付着したままの物を空気に晒さない方がいい。

レフイスはアランが身体を拭いたタオルが乾ききってないのを

思い出すとタオルに小箱をつつんだ。


レフイスの家にたどり着くと

「シャワーをあびてらっしゃいよ」

海から上がった身体を無造作に拭いただけの身体に

アランはTシャツを羽織っていただけだった。

レフイスはアランが浴室の意の中に入りこむと

浴室の前の洗面台に栓をして、

タオルに包みこんだ小箱を置いて蛇口を捻った。

洗面台いっぱいに水が貼られると

水道の線を細めてレフイスはその場を立ち去った。

こうしておけばシャワーを浴び終えたアランが

小箱に気が付く事であろう。

十分も立っただろうか。

アランがレフイスを呼ぶ声が聞こえた。

「なに?」

用意されたバスタオルを纏ったままのアランは

不思議そうな顔をしていた。

「どうしたの?」

アランの表情にレフイスはそう尋ねたのに過ぎない。

「あの?これさ、こうだったっけ?」

アランのいうものをレフイスは見た。

「あれ?」

洗面台の中の小箱はレフイスが受取った時とは違って

一面が薄い緑の藻におおいつくされていた。

「だっけ?」

「ううん」

おかしな事があるものだとレフイスは思った。

アランに渡された小箱は

確か、白い大理石の表層を見せていた筈だった。

レフイスの訝しげな表情を見て取るとアランは

「だよなあ」

不可思議な思いのまま小箱を手に取ると

水の中につけこんだまま箱を開いて見た。

『リングだ』

思いあったった事をアランは確かめるために、

リングを箱の中から取り出すとリングの内側を覗いて見た。

箱の様子から考えても、

もう随分長い間箱は海中に眠っていたに違いなかった。

けれど、プラチナのリングは腐食を免れ、

アランの手の中でしっかり輝いていた。

外の様子と中の違いがアランを当惑させていたが

アランはリングに掘り込まれた文字を拾い取るように何度も読み直した。

「レフイス」

「なに?」

「きみのものだ」

「え?」

そこに彫られた字は間違いなくレフイスへのテイオからの思いだった。

19**・7・21・レフイスtoテイオ。

もう1つのリングには同じ様にやはりレフイスの誕生日が刻み込まれ、

テイオtoレフイスと刻み込まれていた。

さらに二人の出発がこの時であるという題字も刻み込まれていた。

「・・・・・」

レフイスは渡されたリングをずいぶん長い間・・・・眺めていた。

が、やがて一言

「そっかあ」

と、言ったけど、何もかも理解したレフイスだったのに、

もう、涙を流さなかった。

アランは現れた少年の一言一言を今更の様に思い返していた。

「レフイス。あの・・・」

少年がテイオの化身だったのだろう。

テイオの言った言葉をアランはレフイスに告げるつもりだった。

だが、レフイスはアランの言葉を沈黙の中に紡いだ。

「アラン。何があっても、もう、まよわなくてよ」

テイオが見越したとおり

確かにアランに惹かれているレフイスの思いはレフイス自身が認めた。

「あ・・・・」

「貴方が一人で海に潜った時良く判ったわ。

このまま浮んでこないんじゃないかって

恐ろしく不安な気持ちが私を捉えるたびに、アラン。

私は、貴方を愛し始めてるんっだって。

だから、テイオのことは・・・・」

レフイスの言葉を聞いたアランは

黙りこくったままの唇をレフイスの唇に重ねた。


翌朝二人はテイオの墓に向かった。

登り詰めた頂上にはやはり涼やかな風がふいていた。

アランが思った通り、近づいた墓にはちかりと薄紫に光る物があった。

アランがテイオの墓にかけられた

自分の紫のペンダントを無造作に取るのを見

たレフイスは小箱をテイオの墓の前に置いた。

黙ったままアランは頷いた。

レフイスはしっかりとアランを見つめてやはり、こくりと頷いた。

アランはレフイスの首に薄紫のペンダントをかけた。

レフイスが選び取った人生はまたアランが選び取った人生でもある。

『一緒にいきてゆこうな』

無言のまま囁くアランの瞳にレフイスはしっかりと頷くと

アランの胸の中に初めて自分から飛びこんで行った。


涼風にあおられながらひき返した道の途中で

アランはテイオの墓をふりかえった。

アランの目の中には崖を上った少年の姿があった。

自分の墓にもたれかかり少年は二人を見送っていたが

アランの振りかえった姿に少年が小さく呟くのが

アランには聞こえた気がした。

それはアランには

「コングラチレーション」

と、きこえていた。

ハッピーと言うのはあるいは偶然の産物であるかもしれない。

自然と成る事に付いてそういうのかもしれない。

けれど同じオメデトウでありながら

コングラチレーションは本人の努力の結果による御祝いの言葉である。

その言葉を少年が選んでアランに伝えたのは、

アランが努力の末にいとめたレフイスの恋心に

少年こそが一番感謝している

と、いう事をいいたかったのかもしれない。

『任せて置けよ。もう、安心してねむりゃあいいんだよ』

アランが胸の中でそう呟くと

フッと少年の姿がかききえ、

白い墓石の上を風ばかりがふき過ぎていった。

                 

                              

― 完 ―

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