第4話 ブラウンとダークグレイ

 聡美さとみ畑中はたなかさんに突き出した用紙は、裏が透けそうなほどに薄い紙だった。佳鳴かなるの位置からは内容がはっきりとは見えなかったが、茶色のラインがちらりと見えた。


「お前、なんでこれがここにあんねん!」


 畑中さんが怒鳴り、他のお客さまは何事かとびくりと肩を震わせ、視線が集まる。店内が一瞬静寂に包まれた。


「お騒がせしてしもうてすいません」


 聡美が腰を浮かせて、方々に頭を下げる。畑中さんは怒りで顔を真っ赤にさせていた。カウンタの上で握られた拳が小刻みに震えている。


 お客さまはまたそれまでの会話に戻る。ほとんどがご常連なので、そこは空気を汲んでくださるお客さまばかりである。


「だって出してへんもん」


「出しとけって言うたやろうが! 俺は仕事休めへんねんから!」


「婚姻届は土日祝でも深夜でも受け付けてくれるんやで。言うたやろ? それに私かてそんな簡単にお仕事休まれへんわ」


 聡美が訴えると、畑中さんは「ちっ」と怒りのままに舌打ちする。


「一緒に出しに行こうて言う私の言葉に応えてくれとったら、まだ私ももう少し考えたかも知れへん。でもそれすらも奥さんに丸投げするなんてね。もう無理やなて思ったわ。だから出さへんかった。あの瞬間、私のあなたへの情は消え失せた」


 聡美は畑中さんの目を見て、きっぱりと言い放った。


 聡美は確かに男性に尽くす女性なのかも知れない。だが理不尽の言いなりにはならないのだ。従順と言いなりはイコールでは無い。


「それに加えてだまし討ちの同居。馬鹿みたいに威張りちらすお義父さんとあなたと、ずっと死んだ目をしたお義母さんにこれ以上付き合う気は無いわ」


 聡美は淡々と言い、手にしていた用紙、婚姻届をびりっと真っ二つに破った。そしてせいせいした、そんな表情でふぅっと息を吐いた。


 そう、聡美は婚姻届を役所に出していなかったのだ。挙式を挙げ、披露宴もした。だが籍が入っていなければ法的に夫婦では無い。聡美はまだ独身なのである。聡美は畑中さんを見限ったのだ。


 畑中さんの怒りは止まらない。顔を赤く染めたまま、ふるふると肩を震わせる。


「何が不満やねん」


 押し殺した様な声だった。怒鳴ることも怒りを表しているのだろうが、これもまた存分に怒りが含まれている。プライドが傷付けられただろうこともきっと大きいだろう。


「全部が不満やわ。私はね、確かに旦那さんに尽くしたいて思った。でもそれを当たり前に思われることに違和感を感じて、それから考えた。あなたは私がプロポーズを受けてから変わったやんね。正確には地が出たんやろか。見事な男尊女卑やったね」


「男やから女を養って、守ってやらんとと思うんやろうが。そんなの男尊女卑でもなんでも無いやろう。お前はさっきから何言うてるんや」


「確かに専業主婦になったら養うてもらうことになるんやと思う。でもその分、女性は家事と育児、場合によっては旦那さんのお世話までするんやで。対等やで。いや、拘束時間は女性の方が多いわな」


「家事や育児なんて、誰にでもできることやろうが。男は責任を背負おて働いてるんやぞ」


 畑中さんが忌々しそうにそう言い捨てた時、客席から「あー、もうあかん」と呆れた様な女性の声が響いた。


 聡美たちより少し奥に掛けるご常連、門又かどまたさんだった。


「ほんまに、私結婚せんで良かったやんてしみじみ思うわー。こんなんに当たってたら人生台無し」


「まぁまぁ。こんな男性ばかりや無いですから」


 そうおっしゃって横で門又さんを宥められるのは田淵たぶちさん。田淵さんがおひとりで来られるにはお早めの時間だが、今夜は奥さまの沙苗さなえさんはご友人とお食事に行かれたのだそうだ。


「そりゃあ田淵さんは沙苗さんと労わり合うて協力しあってるからね。そんな旦那さんなら幸せなんやろうけど。田淵さんなら、沙苗さんが妊娠出産しても育休とか取ってくれそう」


「それは取りますよ。仕事は他の人に任せられますけど、育児はちゃいますからね。365日24時間、待った無しで生命を背負うんですよ。仕事と同じぐらい、もしかしたらそれよりよっぽど重いですよ」


「せやんねぇ」


 そう言って門又さんと田淵さんが笑うと、畑中さんが「ちょっと」と声を荒げる。


「なんですか、あなた方は。これは私と聡美の問題です。口を挟まんといてください」


 だが門又さんはひるみもせず、しれっとした顔で応える。


「口を挟んでなんかいませんよ。私はただ思ったことを言うただけです。仕事なんて誰かが代われることと、子育てを同列になんてできませんて。そりゃあ私かて会社員ですから、仕事の大切さは分かってますよ。でも家事かて子育てかて大事な仕事ですよ。それをしてくれって言うんやったら、軽んじたらいけませんよ。必ずひずみが出ますよ」


「それなんです!」


 聡美が我が意を得たりと言う様に立ち上がる。椅子ががたっと音を立てた。


「佳鳴が言うてくれた言葉を頭に置いて、それから式まで考えて、でも巧くまとまらへんで。でもね、婚姻届をひとりで出しに行けて言われた時にもうあかんなて思ったけど、それでも実際あなたの実家で一緒に暮らし始めたら、あ、やっぱりあかんわって更に思ってもた。尊重どころか、人間扱いされてるかすら疑問だったわ。お義父さんとだけ会話らしい会話して、私にはあれしろこれしろって言うか、「早く仕事辞めろ」って言うだけ。そんなん夫婦の意味すら無いわ。せやから婚姻届出せへんかった。私は尊重しあえて大事にしあえる人に尽くしたいから」


 畑中さんも憤慨のまま立ち上がる。畑中さんの性格なら、女性である聡美に物理的にでも見下ろされるのは嫌だと思うのだろう。


「俺はそんなにおかしいか? 嫁との接し方ってそんなもんやろ?」


「あなたは、お義父さんがお義母さんにそうしてたんを見て育ったから、そう信じ切ってんねん。実際は違う。少なくとも私の両親は違うた。お母さんはあなたのお母さんと同じ専業主婦やったけど、家事とか子育てとか、お父さんは感謝してた。いつもありがとうて言うてた。私ともたくさん遊んでくれた。お父さんとお母さんはその日にあったこととか話したりして、笑い合うたりしてた。あなたの家とは全然違うねんで」


 聡美の言い聞かせる様な言葉に、畑中さんはショックを受けた様に立ちすくむ。それでもわななく口を開いた。


「けど俺は親父に言われたんや。男は威厳を持て、男は女より偉い、責任がある、いつでも優位に立つもんや、仕事以外は嫁にやらせればええって」


「威厳はともかくとして、男女どちらが偉いてことは無いで。優位に立つて言うのも一緒や。責任かてそう。お義父さんにそう教えられて、実際にそうしてるところを見て、完全に刷り込まれたんよ。私は子どもも欲しい。仕事は時間に区切りがあるけど、育児には無いんやで。小さな子は目が離せへんねんで。小さなうっかりが生命に関わることもあるねん。そこに家事まであるんやで。そんなん尊重しあえんと、労わり合えんとできるわけ無いわ」


「あ、ちょっとええですか?」


 そこで、田淵さんが控えめに手を上げる。


「実は、僕の父親がそんな感じでしたよ。そこまで極端や無かったですけど、家事と育児は母に任せっきりやったなぁ。まぁ時代もあったかも知れへんですけど。母はいつも家で動いていて。母が病気になったりしても、何もせぇへんでだらだらしている父親見てるとね、僕はそうならへんでって思ったんですよねぇ。そんな時は僕が手伝いしてましたけど」


「そうなんや。でもそれじゃあ、お母さまの子育てが上手やったんかもね。お父さまが反面教師になったんや」


 門又さんが感心した様に言うと、田淵さんは「そうやと思います」と神妙に頷いた。


「男女が持ってる元々の違い、体力とか力の強さとか、そういうんはありますけど、立場とか能力とか、そういうんは男女関係の無いもんやっていうんは母親にも言われてました。母親も僕に父親みたいになって欲し無かったんでしょうね。実際学校では男より勉強できる女子はたくさんおったし、就職したらしたで、僕より優秀な女性はたくさんいますしね。部署はちゃいますけど、女性の管理職もいますよ。格好ええんですよこれが」


「今は女性社長さんも多いもんね」


「そうなんですよね。年収何億円とか、もう僕なんか足元にも及びませんよ」


 田淵さんは言って、からからと笑った。


 すると畑中さんは本当に衝撃を受けた様で、ふらりと椅子に腰を下ろした。畑中さんには思ってもみなかった現実なのだろう。


「そんな、俺の職場は女性を管理職になんかせんって」


「それは隆史たかしさんの会社が古い体質やからやで。女性は事務でしか雇わへんて言うてたもんね」


「古い、んか?」


 畑中さんは呆然と呟いた。


 一昔前は結婚するまでの腰掛なんて意識で就職する女性も多かったと聞く。実際女性が総合職などに就くのは難しかっただろう。だが今は女性の社会進出も増え、社長や管理職を務める女性も多い。特に先進的な大企業には多く見られる現象である。


 畑中さんは時代錯誤のお父さまと勤務先、そのふたつに囲まれて価値観をアップデートできなかったのだ。それは環境のせいであって、畑中さんの責任では無いのかも知れないが、時代への視野が狭いことは到底見逃せることでは無い。人生を共にする結婚相手を不幸にする価値観は決して看過できるものでは無いのだ。


「古いねん。でも古いのが悪いんや無い。それを当たり前やと思って、誰かを、この場合は女性を軽んじたり蔑視べっしするのがあかんねん。隆史さん、あなた、お義母さんが幸せそうにしてんの見たことある? 少なくとも私にはそう見えへんかった。お義母さんが笑てるん見たことあらへんよ」


「母さんは父さんに養ってもろてるんやから」


「それだけやったら幸せにはできひんねん。夫婦は成り立たへんねんで」


 聡美がそう言い放つと、畑中さんは愕然とした表情でうなだれた。

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