第5話 オールグリーン

 聡美さとみ畑中はたなかさんの悶着があってから約2週間経った金曜日。煮物屋さんはいつもの通り18時に開店し、19時ごろには席も埋まりつつある。


 そろそろ春の花も芽吹き始めるころだろうか。良い天気が続いていて、街の植え込みにある植物たちはお日さまに向かって凛とそびえ立っていた。


 聡美が顔を出したのは、夕飯の時間帯が過ぎつつある21時ごろだった。お仕事帰りなのかベージュのスーツ姿である。膝下丈のフレアスカートが軽やかだ。


「あ、いらっしゃい」


「こんばんは〜。今日は渡したいっちゅうか、返したいもんがあってな」


 聡美は空いていた真ん中あたりの席に掛けて、佳鳴かなるから温かいおしぼりを受け取りながら「お酒でお願いね。ビールで。ドライにしようかな」と注文をする。


「かしこまりました」


 他のお客さまのお相手と同じ様に、しかし少しおどけた調子で返事をすると、聡美は「へへ」と目を細める。


 今日のメインの煮物は、牛肉と切り干し大根の塩煮。彩りはさっと塩茹でした豆苗である。


 菜種油で牛肉を炒め、牛肉から出た脂が透明になったら水で戻した切り干し大根を入れ、さっと炒めたら切り干し大根の戻し汁とお出汁を入れてことことと煮る。


 味付けは日本酒とお砂糖、お塩で付ける。干したからこそ生まれる大根の旨味を余すこと無く味わえる一品だ。


 小鉢はほうれん草とちくわの白和え、蒸しなすの明太子和えだ。


 白和えは白すりごまをたっぷりと使って、味わい深い味になっている。そろそろ旬も終わりを迎えるほうれん草はまだまだ肉厚で、絹ごし豆腐で作ったなめらかな衣の中でしゃきっとした歯ごたえを生む。


 茄子はひと口大の乱切りにしてとろっとなる様に蒸し、薄口醤油と煮切ったみりんで溶き伸ばした明太子で和えた。


 淡白ながらも甘い茄子にぴりっとした明太子が合わさって、豊かな味わいになるのだ。


 せんを開けたスーパードライの瓶ビールとグラス、続けて料理を受け取った聡美は「いただきます」と手を合わせて、まずは佳鳴が注いだ1杯目のビールをぐいとあおった。


「あ〜、仕事後のビール美味しい! 止められへんよねぇ〜」


 そう言いながら2杯目を手酌てじゃくで注ぐ。そして「あ」と声を上げた。


「忘れんうちに返しとくな」


 聡美はカウンタの下の棚に置いた赤いショルダーバッグから白い長4サイズの封筒を取り出し、立ち上がって両手で佳鳴に差し出した。


「この度はほんまにご迷惑をお掛けしました」


 そう言って頭を下げる。佳鳴はわけが分からず「ん?」と首を傾げた。


「なんや? これ」


「いただいたご祝儀。皆さんにお返ししてんねん」


 佳鳴は驚いて、とっさに「いやいや」と首を振った。まさか戻って来るなんて思わなかった。


「挙式と披露宴はしたんやから物入りやろ? 少しでも足しにしてや。え、ってことはあれからご破談になったん?」


 あの時の話では、結婚延期なのか破談なのかまでは判らなかった。そこまでの内容には及んでいなかったのだ。


「その話も聞いて欲しいて来てん。ともあれこれはお願いやから受け取って。ここ最近、こうしてお祝いいただいた人にお詫びして返して回ってるんよ。ほとんどの人がやっぱりいらんて言うてくれるんやけど、こっちもいただくわけにはいかんからほぼ押し付けてる。せやからお願い! ほんまにお願い!」


 そこまで言われ、佳鳴はためらいながら「じゃ、じゃあとりあえず。ありがとう」と封筒を受け取った。中身は確認せず、そのままエプロンのポケットに入れる。


「良かったわぁ。佳鳴で最後やってん」


 聡美は心底安心した様に言うと、ほぅと息を吐いて腰を下ろし、2杯目のビールを飲み干した。


「他の人たちのところには隆史さんも一緒やったんやけどね、今日は遠慮してもろた。その方が佳鳴と話がしやすいからね〜」


「あはは。私で良かったらなんでも話してや。あれからどうなったんか聞いてもええん?」


「うん、あのな」


 聡美はお箸を動かしながら、話を始める。


 「煮物屋さん」を出た畑中さんは、実家に帰ると言う聡美と別れて家に戻った後、母親の表情などを注意して見てみたのだと言う。そうして母親とほとんど目が合わなかったこと、声をほとんど聞かなかったこと、そして能面の様な無表情に気付いたのだった。


 これからのことを話すためにカフェで待ち合わせをした時に、畑中さんはショックを受けた様にそう話されたそうだ。


「確かに母さんはちっとも幸せそうに見えへんかった。父さんが養ってるからそれで充分なんやと思ってたけど、違ったんやな」


 そこでお祝いをしてくれた方々へのお詫びとご祝儀の返還を決め、お伺いする日程や遠方の人への手紙の内容なども決めて、その場は終わった。


 そして訪問が始まった数日後、何度目かのお詫び行脚の待ち合わせの時、畑中さんは明らかに消沈して現れたそうだ。


「母さんが離婚届を置いて出て行った」


 リビングのテーブルに置かれていた無記名の離婚届と置き手紙。手紙にはこう記されていたのである。



 あなたが平日仕事で家にいなかったから我慢できていましたが、定年退職してずっと家にいるのかと思うと耐えられません。

 私は無料の家政婦ではありません。あなたに卑下されるいわれもありません。あなたとの結婚生活は不幸でしかありませんでした。



 そうしてお母さまが雇った弁護士を介してしか、やりとりが出来なくなったのだと言う。


 お母さまはお父さまの意思で携帯電話やスマートフォンを持たせてもらえなかったので、居場所が判らなければ連絡の取りようも無いのだった。お母さま方の祖父母はすでに鬼籍で、お母さまはひとりっ子だったので実家も無かった。


 自分が正しいと信じて疑わないお父さまは怒り狂い、弁護士に電話越しに怒号を浴びせたらしいが、聡美とのことがあった畑中さんは「そうか」と静かに受け入れたのだと言う。父親が激昂すればするほど、冷静になれたのだそうだ。


 そしてご自分もお父さまの考えに染まったまま聡美と結婚していたら、聡美を不幸にし、遅かれ早かれ自分も三行半を突き付けられたのだろうなとしみじみ感じたとのことだった。


「俺も家を出るわ。自分のことは自分でやって、家事もやって、その大変さとかを実感したい。子ども産めへんから子育ては無理やけど。それに父さんと離れた方がええと思う」


 畑中さんはやはり聡美のことを諦められないのだと言う。ならお父さまに刷り込まれたと言っても良いその意識を変えなければならない。


 養うだけでは無い、本当の意味で妻と、家族と幸せになれる方法を知らなければならない。


「正直、小さなころから思い込まされてたことやからね、どこまで変えられるか判らへんけど、自分がそうなんやって知ってるんと知らんのとじゃ、奥さんとの接し方も変わって来ると思うし。だから少し待ってみようかなて。情は無くなったやろかて思ったけど、別れたぁ無いて言われたら絆されてしもうて。甘いやろか」


 聡美はそう言って苦笑するが、佳鳴は「ううん」と穏やかに首を振る。


「縁を繋ぐかどうかはやっぱり本人の心次第やもん。聡美がそれを選んだんやったら、今の時点では間違いや無いと思うで。聡美、結婚焦ってるて言うてたけど、昔と違って今は適齢期みたいなんも上がってるし、そんな気にすること無いで。子どもは若いうちに産んだ方が楽やって言うけど、一緒になった人とちゃんとした家庭を築けんと意味無いと思うし。って、相手もおらん私が言うことや無いか」


「ううん、それほんまにそう思う。ただ結婚して子どもを産むだけや幸せになれへんって。そりゃあそうやんね、相手あってのもんやもんね。一緒になる人とその辺の価値観が大きく違うたらしんどいやんね。私は今んところ、隆史さんが言うてた男尊女卑めいたのに全く賛同できひんねんけど、これからの隆史さんを見て、私が合わせて行かなあかんところもあるやろうし。あ、先々一緒になるんだったら、やけどな」


「そうやね。畑中さんかて、ええところもあるんやろ?」


「どうやったかなぁ〜」


 ここで聡美は大げさに首を傾げてしまう。


「ほら、プロポーズ前の付き合うてるだけの時の接し方が、どこまで素やったんかが今となっては判らんからねぇ。言うたやろ、プロポーズ受けてから素が出てきたぽいて」


 聡美は苦笑交じりに言って、蒸しなすの明太子和えを平らげる。「美味しかった!」と一旦お箸を置き、2本目に差し掛かったスーパードライを傾ける。


「ん〜、もしかしたらなんやけど、結婚が決まって、もう奥さんとして接してもええって思ったんかも知れへんで。遠慮はいらんって言うか。まだお付き合いしてる段階やったらあかんけど、結婚するんやから構わんか、みたいな」


「なるほどなぁ、そう言う見方もあるか。確かに遠慮しとったんかもな。まぁ付き合うてる時も強引なところはあったから、片鱗みたいなんは出とったかも知れんけどな。それも今やから思えることで、その時は男らしいとか思っとったんよこれが。のぼせてしもてたんやなぁ」


 聡美はそう言って、また苦笑い。


「ほんまに佳鳴には感謝やで」


「ん? 私なんかしたっけ?」


 佳鳴は確かに話は聞いたが、それだけだ。こうすることを決めたのは聡美自身である。


「ほら、「尊重し合えんと続かへん」が無かったら、違和感感じたまま婚姻届出してたかも知れへんかったからね。援護射撃してくれたあのお客さんたちにもお礼言いたい。私の話だけやったら多分聞いてくれへんかったと思うねん。あの人たちが言うてくれたから、隆史さん、意識を変えようとしたと思う」


「確かに第三者の意見やもんね。身内の話やとないがしろにされがちでも、別方向からの話やったら聞けたりもするやろうし。あのお客さまたちには私から伝えとくで。聡美、いつ会えるか判らんやろ」


「そうやね。私はそう頻繁ひんぱんに来れるわけや無いからなぁ。その時にこれお渡ししてくれる? お礼」


 聡美はバッグと一緒に置いておいた紙袋から、てのひらに乗るサイズの箱を3個取り出した。白とブラウンの可愛らしいパッケージである。


「サブレやねん。これぐらいならお気を使われることも無いと思って。あ、味は美味しいで。ひとつは佳鳴と千隼ちはやくんで食べてな」


「私たちにまで? そんな気ぃ使うてくれんでも」


「大丈夫。他の人にはもっと大きな手土産持ってってるから」


 聡美は笑って言って、箱とそれに合わせたショッパーをカウンタの上の台に並べた。


「ん、じゃあありがたく。ふたつは預かるな」


「賞味期限もそこそこ長いの選んでるから、間に合う様に渡してもらえると思う。よろしくね。さぁて、こうして婚期も無事延びてしもたから、佳鳴もまた遊んで。月曜日が休みやったやんね。有給取るから昼飲みしようや。奈江なえにも声掛けてみよっと。夕実ゆみはまだ難しいやろか」


「ええね。楽しみにしてる」


 佳鳴が応えると、聡美は晴れ晴れとした顔で笑った。




 聡美は大事な友だちなのだから、幸せになって欲しいと心底思う。聡美自身が早く結婚したくて焦ってしまったと言うが、結婚は幸せになるための手段のひとつなのだから、あながち間違いでは無いのだろう。


 しかし結婚しただけで幸せになれるわけでは無い。人と人との関わりなのだから、尊重し合って、労わり合わなければ成立するものでは無いのだ。


 畑中さんがこれからどう価値観を変えて行くのか、変わって行けるのか。それが聡美と幸せになれるものなのかどうかは、聡美と畑中さんが決めることだ。


 佳鳴は聡美の友だちとして、朗報を心から願う。

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