7章 牛がもたらすもの

第1話 食べられない理由

 ぴゅうと冷たい風が吹く様になってきた。外を行き交う人々はぐるぐると巻いたマフラーに顔を埋めている。


 世界には、そして日本には様々な宗教がある。その規模も様々だ。大規模なものからこじんまりとしたものまで、数え切れないほど存在する。


 ご常連である須藤さんも、とある宗教の信者だった。


「私、宗教上の理由で牛肉が食べられへんのですよ」


 そう言いながら、須藤すどうさんは柔らかく煮込んだ鶏肉をぱくりと食べ、「わ、美味しい! ほろっとほどける!」と顔を綻ばせた。


 牛肉が食べられないのなら、かのインド発祥の宗教かしら? と思ったが、どうやらそうでは無い様だった。


「いえいえ。日本由来の新興宗教です。牛の偶像ぐうぞうをご神体にしていて神聖化しているんで、牛を食べるんはご法度なんです」


「あら、その様な宗教団体があるんですね」


 佳鳴には初耳だった。あまり認知度の高く無い小規模な宗教なのだろうか。いろいろな信仰があるものだと感心する。


 佳鳴は無信仰ではあるが、宗教の自由、それはその通りだと思っている。信じることでその方が幸せになるのなら、それもまたひとつの生き方なのだろう。


「はい。私の意思で入ったんや無くて、私が生まれた時にはすでに両親が信仰しとったんで、自動的に入信させられたって感じなんです。なんでもう、訳も分からんまま、ですよ」


「ふふ。でも宗教に入られているご家庭やと、そう言うことも多いんでしょうねぇ」


 宗教二世と言われているものなのだろう。須藤さんが何気無くおっしゃるので、その流れで佳鳴は微笑んだが、それで苦しんでいる人もおられると聞いたことがある。須藤さんがそういう環境で無いのなら、それは幸いなのだろう。


「はい。両親がその宗教に入った理由が、なかなか子宝に恵まれへんかったからで。子どもが欲しくて、でもできひんで。そこで病院に行かずに宗教に頼ってまうところが、まぁなんともうちの両親らしいっちゅえばそうなんですけどもね。思い込みが強いっちゅうか。確かに当時は不妊治療があまりポピュラーでは無かったかも知れへんですが。男性不妊の周知も数年前ですしね」


 須藤さんはそう言って苦笑する。今は「煮物屋さん」の近くのワンルームマンションでひとり暮らしとのことだが、ご両親と同居されている時には、宗教にまつわるエピソードも多くあったのだろう。


「で、そのタイミングで無事に懐妊、私が産まれたっちゅうわけです。両親は驚いて大喜びで。そりゃあ信じようっちゅう気にもなりますよね」


「そうですね。言い方は乱暴ですけど、信じる者は救われるとも言いますし、その宗教に入らはったことで、「これで大丈夫」っちゅう安心とか余裕とか、そう言うんもできたんかも知れへんですね」


「そうですね。ストレスとかそういうんも妊娠するのに良う無いて聞きますしね。余裕っちゅうのは確かにそうかも知れません。でもお陰で、私にもちゃんと信仰しろってうるさぁて。あの、まぁ、思い込み強めの両親なんで」


 須藤さんは言って、また苦笑い。


 と言っても、その宗教は特別なお経などがある訳では無いそうなのだ。毎日朝晩、ご神体である木造の牛の像に願い事を祈るだけなのだそうだ。それは確かに信仰のハードルは低い。


「両親はその像を大事に大事にして、毎日柔らかい布でぴっかぴかに磨いてます。私がひとり暮らしを始める時に新しいのんを持たされて、神様入れてもろたから、毎日お祈りして綺麗にしなさいって。私はさすがに磨くまではしてへんですけど。ほこりを落とすぐらいで」


「ご両親にとっては願いを叶えてくれた神様ですから、そうしたくなるんでしょうね」


「そうなんでしょうね。まーだからかよそへの勧誘も熱心でしたよ。私はそれが嫌でたまらんかったんですけど、両親にとっては善意なんで、何を言うても治まらんくて。なので就職を機に家を出てまいました。学生のうちは家を出るなて言われとったんで。今でもやってるんかなぁ。誰かに迷惑掛けてへんかったらええけど」


 須藤さんはそう言ってうなだれる。宗教は自由、その通りだ。だが誰かに押し付けてしまったり迷惑を掛けてしまうのは、あまり良く無いことなのではと佳鳴も思ってしまう。


 物事に集中してしまい周りが見えなくなるというのは良くあることだ。ご両親はまさにその状態なのだろう。須藤さんはご両親ほど信心深くは無い様なので、冷静でおられるのだ。


「なので私、生まれてこのかた牛肉を食べたことが無いんですよ。ラーメンも牛骨スープはアウトです。市販のブイヨンとかコンソメも、牛の成分が入っているのでだめなんです。お店のもんやったら入ってへんことが多いんでいただけるんですけど」


「そう思うと、確かに食べられるもんは結構制限されてしまうかも知れませんね」


 佳鳴は作ることも好きだが、食べることも大好きである。もちろん牛肉も大好きだ。なのでアレルギーならともかく、こういった理由で食べられないとなるとかなり悲しい。


 だが須藤さんは食べたことが無いとおっしゃっているので、その美味をご存知ない分ダメージは少ないのかも知れない。


「もう家を出てもうてますし、私自身そう熱心な信者でも無いんで、思い切って食べてまおうかなって思ったこともあるんですけど、なんや両親に後ろめたぁて。結局牛肉は食べないままで」


「では牛肉を食べようと思ったら、脱会しないといけないんですね」


「そうですね。でもまだそこまで考えてへんで。牛肉を食べたことが無いんで、その味を知らへんですしね。友だちには「人生の半分以上損しとる」て言われるんですけど、そもそも食べたことが無いんでなんとも。それにそこまで困っていませんしね。牛肉だけなんで、そんな神経質にならんでも避けられることも多いんで。それに脱会するとなると、まずは親を説得せんとあかんので、それが大変です。そこまで抜けたいと思っているわけや無いんで、説得材料も無いんです」


「ではうちに来はる時は、表のお品書きをよくご確認くださいね。うちは基本食材としてでしか牛肉を使ってませんので」


 煮物も小鉢も多くは和食なので、市販のブイヨンなどを使うことは滅多に無い。だがこちらも注意して、須藤さんの戒律を破ってしまうことの無い様にしなければ。


「はい、気を付けます。ここのご飯とても美味しいんで、また来たいです。自炊苦手なんで、近くにこういうお店があるとほんまに助かります」


 須藤さんはにっこりと頷いて、また鶏肉を口に運んだ。




 ある日の朝、起き出して来た千隼ちはやは新聞を取りに郵便受けへ。千隼と佳鳴かなるはニュースなどは新聞で収集している。パソコンを立ち上げたり、スマートフォンで検索するより手間が掛からないからだ。


 千隼はダイニングテーブルに着き、コーヒーを手に新聞をぱらりとめくる。すると中面にあった小さな記事が目に付いた。


  新興宗教団体、警察の家宅捜査入る


 ざっと読んでいると、どうやら違法薬物が関わっている様だ。物騒やなぁと思いながら読み進めて行くと、「牛の像を崇拝」とあり、「あれ?」と引っ掛かる。


 確か須藤さんが入信している宗教も、牛の偶像をご本尊としていたはずだ。


 新聞にはその団体の名称が出ていたが、須藤さんの入信先は聞いていないので、そこなのかどうかは判らない。さて。


「なぁ、姉ちゃん」


「ん?」


「これ」


 千隼は正面でカフェオレを飲む佳鳴に新聞をずらし、くだんの記事を指差した。佳鳴はそれに目を通すと、「牛」と呟いた。


「須藤さんを思い出すねぇ。彼女が入信されているところなんやろか」


「どうなんやろうな。牛を神聖視してる宗教が多いんか少ないんか判らんし。いや、少ないんか?」


「普段関心が無いから判らへんよね。もし須藤さんのところやったら、次に来はった時に話に出るかも」


「そうやな。ま、今俺らが気ぃ揉んでもしゃあないか」


「そうそう。私らは今日もご飯食べて、仕込みして、お店を開けるだけやで」


 もし須藤さんが信仰している団体なら、須藤さんへの影響が気になる。熱心では無いと言っていたが、曲がりなりにも関わりがあるのだから、冷静ではいられないかも知れない。


 だが千隼と佳鳴が今、何ができると言うのか。そうだ、何も無いのだ。千隼たちができることは、いつもの様に「煮物屋さん」を開けることだけだ。


「じゃ、飯作るか」


「私は洗濯からやな」


 千隼と佳鳴は、空になったカップを手に立ち上がった。




 きのこたっぷりのクリームパスタと、玉ねぎとレタスのコンソメスープでランチを済ませた佳鳴と千隼は、豊南ほうなん市場で買い出しである。


 お肉屋さんを覗くと、今日は牛すじ肉が特売だった。これはじっくりと煮込んだら、美味しいメインが出来るだろう。だが。


「……もしあれが須藤さんのところやったら、今日牛肉を使うんはためらってまうわ」


 摘発されたあの宗教団体が、須藤さんが信仰されているところなのかどうかは分からない。だがなんとなく躊躇してしまう。なんだか申し訳無いと思ってしまうのだ。


「俺もや。あー、でもこうなると食いたくなるやんなぁ。やらかく煮たやつ旨いもんなぁ」


「ほな明日のお昼用に今日仕込んどく? 1晩置いたら味も良く沁みるで」


「そうやな、そうするか」


 今はあのニュースに少し影響されてしまっているが、明日になれば大丈夫だろう。佳鳴が牛肉を食べなくなるなんてありえない。


 そうしてふたり分の牛すじ肉を買い込み、ふたりは買い物を続けて行った。

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