第2話 食べられるようになった理由

 「煮物屋さん」の仕込みをするかたわら、牛すじ肉の料理も作って行く。


 まず、牛すじ肉は水から茹でこぼす。あくと脂で、沸いた湯はあっという間に黒くなって行く。一度水を換え、沸騰したらそのまま弱火で1時間ほど。


 その間に煮汁の準備。鍋で玉ねぎをしっかりと炒めてきつね色にしておく。


 牛すじ肉が茹で上がったら流水で洗い、包丁でやや大きめの一口大に切って行く。牛すじ肉は火を通してやっとまともに包丁が入る様になるのである。


 それを玉ねぎを炒めた鍋に加え、さっと炒めたらフルボディの赤ワインを入れる。しっかりと煮詰めてアルコールを飛ばし、とろみが付いて来たら、缶詰のデミグラスソースと水を入れ、ローリエを乗せて煮込んで行く。


「よっしゃ、牛すじ終わりっと」


 そう言って、ふぅと満足げな息を吐く千隼ちはやに、佳鳴かなるが「千隼」と声を掛ける。


「そろそろ煮物の味付けやってもて〜」


「お、はいはいっと。ありがとうな、姉ちゃん」


「どういたしまして〜」


 千隼が牛すじ肉に取り掛かっている間、佳鳴が煮物の下ごしらえを進めていたのである。


 その分、今日は小鉢を手軽なものにさせてもらった。しかし味は保証できるので、どうかご安心いただきたい。




 その日のメインは、豚肉を使った煮物だ。豚のかたまり肉と大根、ごぼうと茹で卵を柔らかく煮込み、彩りに蒸した旬のちんげん菜を添える。


 豚肉はほろりと柔らかくなり、旬に入った大根とごぼうは味が沁みてほくほくに仕上がる。卵はより分けた煮汁に漬け込んだので黄身が半熟だ。半分は一緒に煮込んで固茹でにし、お客さまにお好きな方を選んでいただくのだ。


 小鉢のひとつは玉ねぎと長ひじきの酢の物である。塩揉みしたスライス玉ねぎと、戻した長ひじきを甘酢で和えた一品だ。


 ひじきを始め海藻の旬は春とされているが、乾燥ものは年中楽しむことが可能だ。干すことで旨味も凝縮され、生とはまた違う美味しさを味わうことができるのである。


 しゃきしゃきの玉ねぎとさくっとした長ひじきの食感が面白く、口をさっぱりとさせてくれるのだ。


 小鉢のもうひとつは、白菜キムチと青ねぎのマヨネーズ和えである。

 白菜キムチは醗酵時間の短い甘いものを選んだ。長いものは酸味と醗酵臭が強くなってしまうので、好き嫌いが分かれてしまうのである。


 そんな白菜キムチと青ねぎの小口切りをマヨネーズで和える。マヨネーズは少量で、コクと旨味を足す程度である。しつこくならず、白菜キムチの味わいを引き立てるのだ。


 19時を過ぎたころ、店の開き戸が開かれる。顔をのぞかせたのは須藤さんだった。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ〜」


 佳鳴と千隼はいつもと変わり無い様につとめながら、須藤すどうさんをお迎えする。そして須藤さんは少し元気が無い様に見えた。


「こんばんは」


 そう微かな笑顔でおっしゃり、カウンタに掛けられる。温かいおしぼりを受け取って手を拭くと、「ん〜」と困った様に眉を潜めた。


「あの」


 須藤さんが意を決した様に口を開く。


「はい」


 佳鳴が応えると、それでも須藤さんは少しためらう様に口をつぐみ、だがまた「あの」と声を上げる。


「今日のご飯は、牛肉は使ってへんのですよね?」


 確かに今日は豚肉を使った煮物がメインなので、佳鳴は「はい、使っていないですよ」と返す。


「ですよねぇ。あの、実は、私が入ってた宗教団体、解体したんです」


 と言うことは。ずっと頭にあった、気に掛かっていた、新聞に掲載されていた宗教団体のことを引っ張りだす。


「もしかして、今朝の新聞で見たんですけど、牛の像を崇拝してはる宗教団体がどうこうってあって。あれが」


「はい。うちです。薬物を使ってたんが教祖とか上層部やったことと、団体そのものがそう大きなかったってこともあって、跡継ぎもおらんで、解体するしか無かったみたいで。新聞に載ったんは今日の朝刊ですけど、警察が入ったんは昨日の朝です。もううちの実家大騒ぎで、母から電話が掛かって来て大変でしたよ。何かの間違いや、警察の横暴やって」


 須藤さんはそう言って苦笑する。ご両親は熱心な信者さんだと須藤さんがおっしゃっていたので、それは確かに大ごとだろう。信じたく無い気持ちもあるだろうが、実際にこうした顛末てんまつを迎えてしまったのだから、受け入れるしか無いのだろうが、今はまだ難しいのだろう。


 信じていたものに裏切られた、そんなお気持ちもあるのかも知れない。勝手なイメージではあるのだが、宗教というのは信者さんにとっては清廉潔白なものなのかも知れない。だからこそ黒い部分が見えた時の衝撃が大きいのだと思う。


「私も生まれた時から入っとった宗教なんで、まぁ少し複雑な気持ちではあるんですけど、両親みたいに熱心や無かったですしね。まぁこうなったらなったでしゃあないかなって」


 そこで言葉を切り、「で」と言い、ごくりとのどを鳴らす。


「意図したわけや無いですが、信者や無くなったんで、牛肉を食べてもええ様になりました」


「あ、そうですね!」


 そうだ。須藤さんは宗教があって牛肉が食べられなかった。だがその大元が無くなってしまえば、戒律も無くなると言うことだ。


「なんで、牛肉を食べてみたいと思ってるんです。なんですけど、なんせ食べたことが無いんで、もちろん味を知らへんですし、私が美味しいて感じるかどうかも判らへんで。なんで迂闊うかつにステーキ屋さんとかに行くこともできひんで。それにせっかく生まれて初めて牛肉を食べるんやったら、絶対に美味しいこのお店でいただけたらって。なので今度また牛肉の煮物の時に来ますね」


「はい。お待ちしていますね」


 佳鳴が言ってにっこり笑うと、千隼が「姉ちゃん、これ」と、メインの煮物の土鍋の横で鎮座している、蓋がされた鋳物いものホウロウ鍋を指差す。


「ああ。そやね」


 佳鳴は須藤さんに「少し食べてみはります?」と問うてみる。須藤さんは「え?」と目を丸くした。


「少しお待ちくださいね」


 佳鳴は小鉢を出すと、鋳物ホウロウ鍋から中身をほんの少し取り分ける。それを手に上の居住スペースへ。ラップをしてレンジ少しばかりで温めて、また「煮物屋さん」の厨房に戻った。


 鋳物鍋に入れて蓋をしていたので、中身はまだそう冷めてはいない。だがやはり熱々が美味しいと思うのだ。


「お待たせしました」


 そうして佳鳴が須藤さんにご提供したのは、明日のランチ用にと千隼が仕込んでいた、牛すじ肉のデミグラスソース煮込みである。ほんの数切れを盛り付けた。それに小さなスプーンを添えている。


 須藤さんは置かれたそれをじっと見つめ、次に不思議そうな顔を上げた。


「これはなんですか?」


「牛のすじ肉を、デミグラスソースで煮込んだもんです。洋風のシチューですね。定番なんですよ。デミグラスソースの味がしっかりしてるんで、もし牛肉の味が苦手でも大丈夫やと思うんですが」


「デミグラスソース、聞いたことはあるんですけど、それも私初めてです」


「あ、そうですね。デミグラスソースは牛骨から煮出しますもんね」


 牛骨や香味野菜から煮出すフォン・ド・ボーに、小麦粉とバターで作ったブラウンルーと香辛料を合わせて作る。まさに洋風の牛骨ソースだ。


「そうなんですね。私、外食する時って、お店の人に牛を使ってないものを聞くので、デミグラスソースも外されてまいますよね」


「そうですね。せやったらこれは、須藤さん初めての牛すじ肉を、また初めてのデミグラスソースで煮込んだものになりますね。個人的な味のお好みはあると思いますけど、デミグラスソースは老若男女に広く人気のソースなんですよ。洋食屋さんに行ったらデミグラスソースのハンバーグなんていうんは定番です。お店それぞれのこだわりがあって、看板にしてはったりもするんですよ。これは缶詰のデミグラスソースですけど、赤ワインを加えて風味を良くしてます。ぜひ召し上がってみてください」


 佳鳴のせりふを聞いた須藤さんは恐る恐ると言った様子でスプーンを取り、そっと煮込まれた牛すじ肉をすくい上げる。それをゆっくりと、そして思い切ったという感じで口へと入れた。


 じっくりと味わいながら噛み締める。その表情は徐々に明るく輝いて行った。


「美味しい……! 牛肉とソース美味しいです! わぁ、ほんまに美味しい!」


 そう嬉しそうに声を上げた。残りの数切れも次々に口に運んで行く。


「牛肉ってほんまに美味しいんですね! これは確かに人生の半分以上損しとったかも!」


「お口に合うて良かったです」


 千隼が言うと、須藤さんは笑顔で「はい!」と元気良く頷いた。


「今度は牛肉がメインの日に、思いっ切りいただきたいです。楽しみです!」


「ぜひお越しください」


 佳鳴はにっこりを笑みを浮かべ、続けて口を開く。


「牛肉は焼いたり炒めたりしても美味しいですから、機会があったらいろいろ試してみてください。これはすじ肉なんで、赤身のお肉やったらまた味や歯応えもちゃいますし、ホルモンなんかもいろいろありますしね」


「あ、そうですよね。お肉売り場で見たことがあります。これからはそういうのにもチャレンジしてみたいです。調理の仕方が判らへんのですけど、どこで食べられるんでしょうか」


「焼き肉屋さんとかホルモン焼き屋さんでいただけますよ。お友だちとご一緒されてもええかもですね」


「そうですね。私に「損しとる」て言うてた友だちが牛肉好きなんで、付き合うてもらおうかな。その時にいろいろ教えてもらおうっと」


「ええですね。楽しんで来てくださいね」


「はい!」


 須藤さんは満面の笑顔で応えた。




「で、姉ちゃんも焼き肉が食いたなったと」


「うん。さ、焼こう焼こう」


 須藤さんの牛肉デビュー日すぐ後の「煮物屋さん」定休日の夜、千隼と佳鳴は駅近くの焼き肉屋さんで、鉄板を挟んで向かい合っていた。


 まずは塩タンだ。炭で熱せられた熱々の穴あき鉄板に乗せるとタンはじわじわと縮んで行き、それが収まるとひっくり返す。タンにしては厚みがあるが薄切りなのでさっと焼くだけで大丈夫だ。


 焼き上がった塩タンをしぼったレモン汁でいただく。柔らかなタンが持つ甘みとほんの少しの癖、それがレモン汁と程よく調和して、口の中に広がる。


「あ〜美味しい! やっぱりタンは塩焼きが好きやわぁ」


 佳鳴がうっとりと目を細めると、向かいで千隼も「おう」と頷く。


「俺も。タンシチューなんかも旨いけどな」


「須藤さん、焼き肉行かはったかなぁ」


「どうやろか。あの時はめちゃくちゃ感謝されたやんなぁ」


 佳鳴と千隼は話しながらトングを動かす。自分で食べるお肉は自分で好みに焼く。料理人ふたりの焼き肉風景である。


「ほんま。うちのお昼ごはん少しお分けしただけやったのにね。お金まで払うて言われてもたもんね」


「あれは断るんに骨が折れたやんなぁ。あんな少しやったし、金なんてもらわれへんて」


 その時のことを思い出したのか、千隼は小さく笑う。


 須藤さんは本当に嬉しかった様で、何度も何度も佳鳴たちに頭を下げ、ぜひ商品代を支払わせて欲しいと食い下がった。


 それを佳鳴たちは丁寧に何度も辞退し、どうにかこうにか引いていただいた。


「ほんまにうちのお昼をほんの少しお分けしただけなんで受け取れません。またうちをご利用いただけたら、それで充分ですから」


 渋々ながら引き下がってくれた須藤さんは、「はい」と力強く頷いた。


「もちろん何度でも来ます。これからは牛肉の煮物の日も来れますから。私も牛肉が好きになると思います」


 須藤さんが信仰していた宗教団体が失われたことは残念だったのだろう。だが熱心では無かったことを前提にして、それでも不謹慎かもしれないが、牛肉が食べられる様になって、なおかつ好きになれそうだとおっしゃるのなら、須藤さんにとっては良かったのでは無いだろうか。


 食は生活を豊かにする。少なくとも佳鳴と千隼はそう思っている。「煮物屋さん」がその一助になれば良いと思っているし、そうなれる様に日々尽力している。


 そうなると、やはり食べられないものが少ない方が、幸せになれる確率は高くなるのではと思う。牛肉が食べられる様になれば市販のコンソメやブイヨンはもちろん、カレールーだって使える様になる。他にも便利に使えるものが増えるだろう。


 須藤さんは自炊が苦手だとおっしゃっていたが、牛肉が食べられないことで使えないソースや素なども多かっただろう。これからはきっと幅も広がるに違いない。


 塩タンの皿が空になり、佳鳴たちは続々と運ばれてくるロースやカルビを次々と焼いて行き、その旨みを大いに堪能たんのうする。


 須藤さんもこの幸せを享受きょうじゅされただろうか。だったら良いなと、佳鳴と千隼は絶妙に焼けたロースをたれに浸し、口に放り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る