第2話 喧嘩の原因が判らない

「大丈夫やって、田淵たぶちさん。そう深刻なもんで無いんやったら、夫婦なんてすぐに仲直りできるて」


 夫婦の大先輩とも言える克子かつこさんの明るい言葉に、田淵さんは「そうやとええんですが」とまた気弱に応える。


「あ、定食をください」


 これもまた珍しい。田淵さんはいつも少しだけお酒を楽しまれるのだ。


「喧嘩中やのに飲んで帰るんはさすがにね」


 そう言って、田淵さんは苦笑を浮かべる。


「あの、これが深刻なんかどうか、俺にもよう判らんくて困ってるんです。家内がなんであんなに怒ったんやろうって」


「田淵さん、それって喧嘩て言うより、奥さんが一方的に怒ってる感じ?」


 門又かどまたさんが聞くと、田淵さんは「ああ、そうなのかも知れません」と応える。


「ん〜、私らは独身やからぁ、奥さんの気持ちがどこまで理解できるか判らへんけどぉ、良かったら話してみるぅ? 克子さんもいてはることやしぃ」


 すると田淵さんは少し考えた後、「そうですね」と頷く。


「確かに俺だけやとお手上げです。聞いてもろてええですか?」


「私らで良ければ、いくらでも聞くで!」


 克子さんの頼もしいお言葉に、田淵さんは「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。




 田淵さんご夫妻は、フルタイムの共働きである。お子さまはおられない。


「せやので、家事は分担してます。料理は家内、掃除は俺、洗濯干すんとたたむんは自分のもんは自分でって。共有のものはその時々で」


「そこはちゃんとしてはるんやね」


 門又さんの言葉に田淵さんは「はい」と応える。


「家内にばかり負担を掛けたく無いので」


 さかきさんが「うんうん」と頷く。


「最初のうちは、家内はほぼ毎日夕飯を作ってくれとったんです。朝は惣菜パンとかで互いに手間が掛からん様にして、昼はそれぞれ社食とかで済ませて。なんですが、最近晩ごはんにスーパーやコンビニで惣菜そうざいを買うて来る様になったんです」


「もしかして、田淵さんそれをとがめたりしはった?」


 門又さんの問いに、田淵さんは「いやいやまさか」と慌てて否定される。


「仕事が終わってから炊事をするんは大変やと思います。俺もひとり暮らしをしてる時はそんな気力残らんかったですし、外食とかコンビニばかりでしたから。なので惣菜なのはええんです。弁当でもええですし」


 となると、残りの主な家事は洗濯と掃除のふたつになる。


「なので掃除はこれまで通り俺がやるとして、洗濯をもう少し任せられへんかってお願いしたんです。そうしたら怒ってしもうて」


 田淵さんが話し終えると、一同は「うーん?」と唸ってしまう。田淵さんはここで目の前に揃ったお料理に手を付け始めた。


 今日のメインは鶏だんごと野菜の含め煮である。


 鶏だんごはもも肉と胸肉の挽き肉を合わせて、さっぱりさせつつもしっとりとこくのある鶏だんごにしている。お塩を少しだけ加えた鶏挽き肉をもったりとするまで手でこね、卵も加え、味付けは日本酒と生姜とお醤油を少々。


 野菜はそろそろ走りの白菜と人参、蓮根を使う。白菜は芯までとろとろになる様に煮込み、人参はほろっと柔らかく、蓮根はねっとりとした歯ごたえになる。


 鶏だんごから出た旨味が野菜を包み込み、全体が柔らかく優しく仕上がっている。彩りには小松菜の塩茹でを添えた。


 これまた旬を迎える小松菜は、大阪府の各地で育まれている名産品である。府内のスーパーなどでも手軽に手に入れることができるのだ。しっかりと太い軸に青々と厚みのある葉っぱ。その旨味を存分に味わっていただきたいものである。


 小鉢のひとつは。焼きかぼちゃの和風マリネ。厚めにスライスしたかぼちゃをオリーブオイルでこんがりと焼き、お出汁やワインビネガーなどで作ったマリネ液に浸け置く。


 かぼちゃのほっくりとした甘みとビネガーの酸味が合わさり、爽やかな一品だ。


 小鉢のもうひとつは、椎茸としめじのもみじおろし和えだ。厚く切った椎茸とほぐしたしめじを多めのごま油で炒め、大根と鷹の爪をすり下ろして作ったもみじおろしで合えた。


 鷹の爪は控えめにし、大根のさっぱりさを押し出している。それがごま油で味付けされたきのこに絡み、ふくよかな味わいを生み出すのだ。


 今が旬のきのこ類はぱんぱんに身が張って、まるで輝く様である。


 田淵さんはほんの少し冷めてしまった鶏肉だんごを美味しそうに頬張り、「あ〜優しい味が沁みる〜」と顔を綻ばせた。


「確かに買い物の手間はあるけど……あ、惣菜は家で他の皿に移したりしてる?」


 門又さんによる聞き取りは続く。


「はい。それはしてくれます。その洗い物も」


「じゃあ奥さんにとって、やってることは今までと変わってへんって意識?」


 門又さんが首を傾げ、榊さんが「あ」と声を漏らす。


「実は食器洗いが大嫌いでぇ、その負担が大きかったとかぁ?」


「食洗機を使ってるんで、そう面倒では無いと思うんですけど、それでもあかんかったんでしょうか」


「あらま、食洗機やなんてめっちゃええやん。羨ましいわ。それは奥さん、凄い助かってると思うで」


 克子さんの言葉に、田淵さんは「そうでしょうか」と不安げな声を上げる。


「私もそう思うなぁ。それやったら正直、田淵さんの方に負担が大きい様に聞こえる。でも奥さんにとっては違うってこと?」


「奥さんの方が残業が多いとか?」


 結城ゆうきさんに聞かれ、田淵さんは「いいえ」と首を振る。


「家内はほぼ毎日定時で上がっているみたいです。俺も定時で終わることが多いですが、1時間俺の方が遅いです。職場も俺の方が遠いんで、家内は買い物をしても6時には帰ってるんですけど、俺は7時を過ぎることがほとんどです」


 やはり、聞けば聞くほど奥さんの負担がそう大きくかたよっているとは思えない。むしろ今は田淵さんの方が大きいと感じる。皆さんはまたうなってしまった。


「判らん」


「判らへんわぁ」


「ごめんやで。私にも判れへんわ」


 女性のお三方が済まなさそうに言い、佳鳴かなるも「すいません、私にも判らないです」と目を伏せた。


「いえ、話を聞いてもろてありがとうございました。少し気が楽になった様な気がします。帰ったら家内に聞いてみることにしますね。俺だけで勝手な結論を出しても間違えると思いますし」


「それがええでしょうね。やはり男では女性の心は判りません」


 結城さんがしみじみとそう言う。


「私らが女でも判らへんのは独身やから?」


「私は既婚者やけど、判らんかったで」


「いやぁしかし、田淵さんは偉いですなぁ」


 門又さんと克子さんが首を傾げる横で、山見さんが感心した様に言う。


「私は妻に家事も子育ても、私の世話までもさせてしもてましたから、ずいぶん苦労を掛けてしまったと思います」


「あらあんた、私は専業主婦やったんやから」


「そういうのも時代なんですよ、きっと」


 山見さんご夫婦の言葉に、門又さんが笑顔で言う。


「結局はふたりがええ様に折り合いを付けられるんが1番ですよね。今でも専業主婦になりたいって女性はおりますしね」


「そうやで、あんた。私はあんたのお陰で外で苦労せずに済んだんやから。3食昼寝付きっちゅうやっちゃ」


 克子さんはそう言って明るく笑う。すると山見さんは「そう言うてもらえると救われるで」と表情をほころばせた。




 翌日、佳鳴と千隼ちはやは開店準備を進める。今日のメインは肉豆腐。小鉢はブロッコリのおかかマヨネーズ和えと、ひじきと大豆の炒め煮だ。


 できあがったそれらを器に盛って写真を撮り、プリントの間に試食がてらの晩ごはんをいただく。


 並んでカウンタに掛け、いただきますと手を合わせたその時、まだ鍵を掛けているお店の開き戸ががたがたと音を立てた。


 それは風によってドアが叩かれた、などでは無く、明らかに何者かに開けられようとしている様な、ドアノブががたつく様な音である。


 姉弟は顔を見合わせて、一瞬警戒する。が、次にはとんとんとノックされた。


 千隼が立ち上がり、ドア越しに「はい」と、警戒心をわずかに残したまま応えると、「開店時間前にすいません」とくぐもった声が聞こえた。


「こちらに度々お邪魔させていただいてます、田淵の妻です」


 続けて言われ、千隼は慌てて開き戸を開ける。するとそこに佇んでいたのは、わずかに緊張した面持ちの、スーツ姿の小柄な女性だった。


「あの、少しお話させていただいてええですか?」


 田淵さんの奥さまが遠慮がちに言う。千隼は「はい。どうぞ」と店内に促す。奥さまは「すいません」と会釈しながらおずおずと入って来た。


「開店時間は6時ですよね? その時間にまた来ますので、1番奥の2席を空けておいていただくことはできますか? 主人を待ちたいんです」


「はい。大丈夫ですよ」


 千隼が言うと、奥さまは表情をほっと和らげる。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 奥さまは一礼して、お店を出て行かれた。


 奥さまが抜き打ちで田淵さんを待つと言うことは、昨夜仲直りできなかったと想像できる。これは。


「まさかここで夫婦喧嘩勃発ぼっぱつ!?」


 千隼が少しわくわくした様に言うので、佳鳴は「こら」とたしなめる。


「それは判らへんけど、うーん、巧く仲直りくてくれるとええけどなぁ」


 佳鳴は腕を組んで渋面を浮かべた。

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