2章 それがふたりの絆というもの

第1話 仲が良いばかりでは無い

 そろそろ冬の気配も濃くなり始め、コートなどはもちろん、マフラーでお顔を覆う人たちも目立ち始めるころ。


「ほらあれや、最近の若いのは、あれやで」


 赤ら顔でふっくらとした体型のスーツ姿のおじさまがビールのグラスを片手に、カウンタ越しの厨房に立つ佳鳴かなるにとつとつと語る。


 しかしそのセリフはいろいろと言葉が抜けていて、あまり意味が通じない。要は酔っ払いのたわ言である。


 佳鳴は少しだけ眉尻を下げつつ、おじさまのお話に「そうですね」などと相槌あいづちを打つ。これも大事なお仕事のひとつだ。そう割り切らないとやっていられない。なにせそう愉快では無い内容なのである。


 この「煮物屋さん」ではお酒をお出ししているが、酷い酔っ払いになるお客さまはおられない。この様な酒癖のよろしく無いお客さまは珍しいのである。


 ご常連では無い。一見さんだった。


「セクハラだのパワハラだの虐待ぎゃくたいだの、あれや、そんなもんなぁ、俺ら当たり前なんやで。それが今じゃいちいち騒ぎ立ててさぁ。たかだか手ぇ触られたぐらいでなぁ」


 大声でまくし立てる。他のお客さまも苦笑するしか無い。


 結局そのおじさまは瓶ビールを2本空けて、ふらふらと緩やかな千鳥足で帰って行かれた。おじさまの姿がドアの向こうに消えた瞬間、他のお客さまの「はぁ〜」という溜め息が店内に響く。これまで潜む様にして詰めていた息を、一気に解放した様だった。


「あれが昭和のおじさんってやつやんねぇ」


 呆れた様に言う女性、こちらはご常連だ。門又かどまたさんが麦焼酎「兼八かねはち」の水割りで唇を湿らせ、続けて口を開く。


 兼八は大分県の四ッ谷よつや酒造が造る麦焼酎である。はだか麦を使い、試行錯誤の上に引き出された麦の香ばしい風味がふんだんに漂う逸品である。四ッ谷酒造の代表格とも言えるお酒だ。


「うちの会社にもおるで。令和の世の中で昔の常識を通そうとするおじさん上司。まぁ時代云々だけや無くて、常識が無いって私なんかは思ってまうんやけどなぁ」


 門又さんは背中の半ばあたりまで伸びたストレートの黒髪を、左側でサイドアップにされている。ほっそりとした輪郭のお顔で、仕事帰りの今はチャコールグレイのパンツスーツ姿である。まるで姉御の様な雰囲気の女性だ。


 その門又さんの隣で「うんうん」と頷くさかきさんも女性である。ふたりはこの「煮物屋さん」で出会い、親しくなられた。


 このお店以外で会うことはあまり無いみたいだが、この店には同じ時間帯に来られることが多いので、こうして隣り合って会話を楽しんでおられる。


 榊さんはふわりとしたブラウンのソバージュヘアが肩まで伸びている。体型は細身なのだがふっくらとしたお顔立ちで、柔らかな雰囲気をお持ちの女性である。榊さんもお仕事の後だが、ネイビーのワンピース姿だった。


「うちにもおるわぁ。事あるごとに肩とか腕とか触ってきてさぁ、気持ち悪いったらぁ」


 榊さんはそう言って、嫌そうに顔をしかめた。


「そうなん? セクハラパワハラに関しちゃ、講習とか無いん?」


「定期的にあるでぇ。でも自由参加やからねぇ、そういうの平気でする人に限って参加しないもんなんよぉ」


「それもそうか。自分には無関係って思ってるんやろうねぇ。無関係どころか周りに嫌な思いをさせてるって言うのにねぇ」


 なかなか辛辣しんらつである。しかし佳鳴は表情には出さずに、心の中で頷く。こっそりと同意見なのだ。


「そういえば店長さんたちって、会社とかで働いた経験ってあるん?」


 おや、お話の矛先ほこさきがこちらに向いた。佳鳴と千隼ちはやは「ふふ」と笑みをこぼす。


「ふたりとも会社員経験ありますよ」


 千隼が応えると、門又さんは「そっかぁ」と頷く。


「脱サラってやつやんね。店長さんなんかはもしかしたらあったんや無いの? セクハラとか」


 この場合、店長は佳鳴のことだ。千隼はご常連から「ハヤさん」と呼ばれている。


「ああ〜、ありましたねぇ。そんな酷いもんでは無かったですけど、程度云々じゃ無くて嫌なもんですね〜」


 会社員時代のことを思い出す。男性社員はしようと思ってしている訳では無いのかも知れないが、やはり服越しでも、特に親しくもない異性に触られるのは良い気分では無い。


「やっぱりあったかぁ。そう、程度の問題やないよね。いや、そりゃあ酷かったらもっと嫌やろうけどね?」


「あ〜あぁ、本当にもうそんな昭和親父たち絶滅してくれへんやろうかぁ」


 榊さんはそんな物騒な事を、「知多ちた」のハイボールを飲みながらぼやく。


 知多は飲料の大手サントリーが作るグレーンウイスキーである。原料はとうもろこしなどの穀物で、癖があまり無く穏やかな味わいだ。ウィスキーが苦手な人でも飲めるとされているほどである。


 その時、お店の開き戸が開いた。冷えた外気とともに顔を覗かせたのは、またご常連の男性、結城ゆうきさんである。コートなどは着ていないものの、暖かそうなグレイのマフラーで首を覆っておられた。


「こんばんは。行けます?」


「いらっしゃいませ。どうぞー」


 佳鳴がにこやかに応え、千隼も「いらっしゃいませー」と声を上げる。


 今は席数のそう多く無いこのお店に、お客さまは門又さんと榊さん、そしてこちらもご常連の山見やまみさんご夫妻の4名。お店の奥から山見さんご夫妻、1席空けて門又さんと榊さんが座っていた。


 結城さんは榊さんからひとつ空けて掛ける。佳鳴から温かいおしぼりを受け取って、気持ち良さそうに手を拭いた。ここで顔などを拭かないところが、結城さんが紳士であることの表れである。


「定食とお酒、どちらにされますか?」


「定食で。今日は仕事を持ち帰ってしもたんですよね。家に帰ったらまた仕事です」


「大変ですねぇ」


「若い子がミスってしもうて。明日朝イチでいる会議の資料作りですよ。その若い子と手分けしてね」


「結城さぁん、そのミスっちゃった若い子にパワハラなんてしてへんでしょうねぇ?」


 榊さんがからかう様に言うと、結城さんは慌てた様に「え、え」とどもる。


「も、もちろん気を付けているつもりなんですが。でもそう思われていたらやっぱりショックでしょうかね」


「あっはっは、そう思ってるんなら結城さんは大丈夫やわ」


 門又さんがそう言って快活に笑った。


「さっき帰ったお客さんが、いわゆる昭和親父でねぇ。あ、多分「煮物屋さん」初めての人。そんなの俺たちの時代じゃ当たり前やーってがなってたもんやから」


「ああ。それは僕の会社にもいますよ。反面教師や無いですが、気を付けなって思います」


「うんうん、やっぱり結城さんは大丈夫やと思うわぁ」


 榊さんも頷くと、奥から「いやぁ」と男性の声が届く。山見さんご夫妻の旦那さんだ。


「耳が痛い話ですわ。私も昭和生まれの親父ですから」


 山見さんの頭髪には白髪も目立つことから、そこそこ年嵩としかさが行っていると思われる。奥さんは綺麗な黒髪だが、細っそりとした首の年齢はなかなか隠せない。


 ご夫妻はひとつの2合とっくりからそれぞれのお猪口に、「神亀しんかめ」の熱燗あつかんを注ぎ合って仲良くちびりとやっていた。


 神亀は埼玉県の神亀酒造がかもす純米酒で、熱燗の専門とも言える日本酒である。辛口なのだが燗にすることでまろやかになり、濃厚なコクと米の旨みが楽しめるのだ。


「確かに私らの世代は、部下が失敗すると怒鳴ったりするんも当たり前やし、女性社員の肩を気安く触ったりするんもね、毎日の様にありましたからね。確かに女性に触るのはどうかと思いますが、怒鳴るのは部下のためを思っての側面もあるのかと思ってましたが……」


「怒鳴ることに関しては程度問題ですよ。あ、兼八の水割りお代わりちょうだい」


 門又さんが氷だけになったグラスをカウンタの台に上げながら言う。千隼が「はい」とグラスを受け取った。


「中にはただ感情的に怒鳴る人っていうのもおるでしょうしね。そういう人はセクハラもしますよ。ただ、これは子育ての話なんですけど、怒鳴って育てると脳に影響が出るんですって。精神的な成長を妨げるらしいです。なので問題行動が多くなったりするって聞きました。怒鳴られないためにずるいことをしてしもたりね。就職するころにはもう大人やから、そこまで影響があるかどうかは判らへんのですけど、例えば大事なことを相談してもらえへんかったり、ミスをした時に報告が遅れたり、そんなことはあるかも知れませんねぇ」


「あー、それは確かにそうかもぉ」


 横で榊さんが頷く。そのころには門又さんのお代わりはできていて、門又さんはそれを美味しそうに傾けた。そして結城さんの定食も揃って、結城さんは温かなお食事を前に「いただきます」と手を合わせた。


 今日のメインは牛すじと根菜の煮物だ。


 煮物の牛すじはしっかりと下茹でをして、余分な脂とあくを除いている。1回目であくを茹でこぼし、2回目では白ねぎの青い部分と生姜を入れて臭みも取る。


 そうして柔らかくなった牛すじを、こんにゃくとごぼうや人参などの根菜と一緒にお出汁でことこと煮るのだ。味付けはお砂糖と日本酒、お醤油でシンプルに。


 冬に近付くにつれ、根菜はどんどん甘みを増して美味しくなって来る。


 器に盛り付けたら小口切りにした白ねぎを振り掛けた。


 ほっくりと煮上がった根菜とぷるんとしたこんにゃく、とろぉりとなった牛すじは優しくも味わい深い味に仕上がっている。


 小鉢のひとつはシンプルなポテトサラダ。茹でたじゃがいもを粉吹きにして水分を飛ばし、熱いうちに荒く潰してお塩とお酢を加えておく。


 合わせる具は塩揉みした玉ねぎときゅうり、短冊切りにしたハムだ。味付けのマヨネーズはしつこくならない量を入れ、白胡椒も効かせる。定番でほっとする味だ。


 きゅうりと言えば夏の代表格だが、やはりベーシックなポテトサラダには欠かせない。幸いにも豊南ほうなん市場の八百屋やおやさんで張りのあるきゅうりを見つけることができた。


 小鉢もうひとつはほうれん草のおひたし。こちらも定番の作り方。茹でたほうれん草の水気を絞ってお醤油で洗い、器に盛って、お醤油を落としたお出汁を掛け、削り節をふわっと掛ける。


 そろそろ旬になるほうれん草の味がしっかりと感じられ、シンプルだが馴染みの深い味。今日は煮物とポテトサラダがしっかりめの味なので、おひたしは口の中をさっぱりとさせてくれる一品だ。


「解ります。僕は上司の立場ですけど、あまり部下が萎縮いしゅくせん様に気を付けてるつもりです。僕も上司に怒鳴られてええ気がしませんでしたからね」


 結城さんが言いながら、お味噌汁をずずっとすすって顔を綻ばせる。今日はたっぷりあさりのお味噌汁だ。


 あさりの旬は春と思われがちだが、実は秋にも旬を迎えるのである。産卵期を前に身入りが良くなり、旨味成分が増すのだ。


「また怒鳴られる、怒られるって思うとぉ、すごく言いづらいわよねぇ。叱られるならともかくねぇ。叱られると怒られるって混合されがちやけどぉ、まったく別物やねんからぁ」


 榊さんが言うと、山見さんの奥さま克子かつこさんが「わはは」と豪快に笑い声を上げる。


「門又さんと榊さんは、将来子ども産んだらええオカンになりそうやな」


 その言葉にふたりはきょとんと顔を見合わせて、「あっはっは」とおかしそうに笑った。


「いえいえ克子さん、私たちもうアラフォーですから!」


「そうですよぉ。もう結婚はほぼほぼ諦めちゃってますぅ」


 門又さんと榊さんは独身なのである。そして今はあまり結婚願望は無いらしい。


「何言うてんの。ふたりともええお嬢さんやんか。まだまだこれからやで」


 山見さんはいつの襟付きのトップスにスラックスという服装で、紳士といった風情なのだが、克子さんはいかにもな大阪のおばちゃんなのである。今日も大阪マダムのトレードマークとも言えるヒョウ柄のトレーナーだ。ボトムはデニムパンツである。


 服装の好みも性格もかなり違うご夫婦だが、いつもとても仲良しなのだ。和やかにお話をされながら「はっはっは」と上品に笑う山見さんと、「わはは」と豪気に笑う克子さん。佳鳴から見ても羨ましいと思ってしまう、とても素敵なおふたりなのである。


 そんな話で店内が沸いた時、またお店の開き戸が開かれた。顔を見せたのは、これまたご常連の田淵たぶちさんだった。


「いらっしゃいませ。今日は珍しくお早いんですね」


「いらっしゃいませ」


 佳鳴と千隼が続けて声を掛けると、田淵さんは「ええまぁ、はは……」と力無さげに小さく笑う。


 田淵さんは既婚者で、このお店に夕飯を食べに来られるのは、仕事で遅くなった日だけと決めておられるらしい。


 このお店はたいがい24時ごろに閉店なのだが、だいたいは21時以降、ぎりぎりの23時ごろに来られることも珍しく無かった。それも1、2週間に1度ほどだ。ご家族に負担を掛けないためなのだと言う。


 なのに、今日はまだ19時半だった。


「ええ。あの、実は家内と喧嘩をしてしもうて」


 田淵さんは言いながら、結城さんからひとつ離れて掛けた。


「それは……」


「あらぁ……」


 門又さんと榊さんが呟き、店内に不穏な空気がかすかに流れた。

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