第3話 それはきっと女性だけが判ること
18時、開店時間になった。
「先ほどはすいませんでした。もう入れますか?」
「はい、どうぞ。いらっしゃいませ」
千隼が奥さまを中に促す。1番奥の2席には、念のために「予約席」のプレートを置いておいた。
「いらっしゃいませ」
「ご注文はどうされますか? うちはお料理が決まっていまして、それにご飯とお味噌汁を付けて定食にしていただくか、おつまみにしてお酒を付けるかを選んでいただける様になっています。あ、ソフトドリンクでも大丈夫ですよ」
「お料理は決まっているんですか?」
「はい。今日は肉豆腐と、ブロッコリのおかかマヨ和え、ひじきと大豆の炒め煮です」
「あ……そうなんですか」
奥さまはわずかにショックを受けた様に見えた。その意味が判らず、佳鳴はひそかに首を傾げる。千隼もカウンタの中に戻って来た。
「あの、じゃあお酒でお願いします。ビールで」
「瓶ビールになりますが、よろしいですか? スーパードライと一番搾りがありまして、中瓶と小瓶をお選びいただけます」
「はい、大丈夫です。スーパードライでお願いします。中瓶で」
「かしこまりました」
佳鳴がアサヒスーパードライの瓶ビールを出し、
「瓶ビールお待たせしました」
「ありがとうございます」
奥さまはグラスを受け取り、そこに佳鳴が良い泡を立ててなみなみと注ぐと、それをごっくごっくと音を立てて一気に飲み干した。
「はぁ〜、美味しい!」
そうして浮かべる笑顔は、先ほどとは打って変わって生き生きとしていた。
「ビールお好きなんですか?」
佳鳴が聞くと、奥さまは笑顔のままで「はい」と頷いた。
「ビールもですがお酒が好きで。いつも外では生ビールなんですが、たまには瓶ビールもええですね」
「生ビールのサーバが置けたらええんですけどね。場所を取るって言うのもあるんですけど、ビール樽の交換やサーバの洗浄が大変そうで、断念しちゃいました」
佳鳴が言うと、奥さまは「ふふ」と笑みをこぼす。
「確かに。でも居酒屋なんかに行くと、生ビールあるのにわざわざ瓶ビールを頼む人もいますしね」
そんな話をしながら、佳鳴たちはお料理を用意する。
千隼が盛り付ける肉豆腐は、たっぷりの牛肉で作っている。長ねぎは厚めに斜め切りにし、
牛肉と長ねぎ、椎茸から出た甘みと旨味を木綿豆腐が蓄え、とても良い味わいになる。
ブロッコリのおかかマヨネーズ和えは、こちらも時季のものだ。小房にして蒸したブロッコリの粗熱を取って、マヨネーズを全体に薄くまとわせ、削り節で和えた。
甘みを引き出すために柔らかく蒸したブロッコリに、マヨネーズのコクとおかかの旨味がまとう。シンプルだが味わいの深い一品だ。
ひじきと大豆の炒め煮は、水で戻したひじきをごま油で炒め、水煮大豆を追加してさっと炒めたらひたひたのお出汁、お砂糖、みりん、日本酒、お醤油で煮て作る。
味出しのためにお揚げも入れている。お揚げから出た優しい旨味を淡白なひじきが吸い、煮汁をまとった水煮大豆もふくよかになる。ほっとする一品だ。
「はい、お料理お待たせしました」
3品をカウンタの台に乗せると、奥さまが「ありがとうございます」と言いながらそれらを受け取る。グラス2杯目のビールを半分ほど飲み、奥さまは「いただきます」と言いながらお箸を取った。
まずはひじきと大豆の炒め煮の小鉢を手にし、一口運ぶ。それをゆっくりと噛んだと思うと、奥さまの目からほろりと涙が溢れた。これには佳鳴も千隼もぎょっと驚いてしまう。
「お、奥さま? どうされました?」
「あの、料理に何か?」
ふたりが慌てて聞くと、奥さまはお箸と小鉢を置いて「いいえ」と首を振る。そして気分を落ち着かせるためか、ビールを一口飲んだ。
「ごめんなさい、あの、美味しくて」
そう言って、バッグからハンカチを出してそっと涙を
美味しくて? 佳鳴と千隼は困惑顔を見合わせる。
「やっぱり、これぐらい美味しいご飯を作れんとあかんのかなぁ。私、がんばってたつもりやねんけどなぁ」
そう言うと、また新たな涙が浮かぶ。それもまたハンカチで押さえた。
もしかしてこれは、田淵さんとの喧嘩に関わることなのだろうか。佳鳴は恐る恐る聞いてみる。
「あの、差し出がましくてすいません。実は昨日田淵さんが来られた時に、奥さまと喧嘩をされていると聞いて。もしかして当店に何かありましたか?」
「いえ、いいえ、違うんです。このお店は全然悪く無いんです」
奥さまは慌てて首を振られる。
その時、お店の開き戸が開く。見ると姿を見せたのは田淵さんその人だった。
「あれ、田淵さん? お早くないですか?」
千隼が言うと、田淵さんは「いやぁ」と
「営業先から直帰でええって言われて。ああ、まだ6時過ぎなんですね。って、あれ、
田淵さんは奥さまの姿を見て、大いに目を丸くする。
「ヨシくん」
奥さま、沙苗さんは田淵さんをそう呼んで、ずずっと鼻をすすった。
「え、どうしたん沙苗さん。確かに今日も外で食べて帰るって言うてたけど。沙苗さんが怒ってる理由が判らんくて情けなくて悪いんやけど、でもあの」
田淵さんは焦ってせかせかと沙苗さんに近付いて行く。すると沙苗さんは情けない様な表情を浮かべた。
「ヨシくん、私悪い癖で、ふたりきりで家で話したら、また感情的になってまうと思って、それなら人目のある方が冷静になれるかなって。ここはヨシくんのテリトリーやから、私が来たらあかんかなって思ったんやけど、ここならヨシくん絶対に来るからって」
「感情的になってまうって言うんは、それは俺も確かにどうしたらええんか困るけど、テリトリーとか無いで。沙苗さんが良かったら、ふたりで来たってええんやから」
「そうなん?」
「そうやで」
沙苗さんは少しほっとした様な表情になる。
「田淵さん、いらっしゃいませ。おしぼりをどうそ」
佳鳴がおしぼりを出すと、田淵さんは「あ、ありがとうございます」と受け取り、沙苗さんの隣に掛けた。そして沙苗さんが飲んでいる瓶ビールを見て。
「沙苗さん飲んでるんやね。じゃあ俺ももらおうかな。ビールで」
「はい。かしこまりました」
田淵さんは沙苗さんときちんと話ができるであろうことに安心されたのか、表情を和らげる。佳鳴は瓶ビールとグラスを台に上げた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
田淵さんが瓶ビールとグラスを取ると、沙苗さんが素早く瓶ビールを取り上げる。そして「ん」と田淵さんのグラスに注いだ。
「ありがとう」
田淵さんは嬉しそうにそれを受け入れる。沙苗さんは自分のグラスに残ったビールを飲み干し、手酌で新たに注いだ。それをふたりは自然に重ねた。
ふたりは喧嘩中、正確には沙苗さんが怒っているのだが、ここはさすがご夫婦と言ったところか。
「ヨシくん、ここのご飯美味しいね」
「うん。そうやね」
「私、こんなに上手に作られへんで」
「え、沙苗さんのご飯、美味しいで」
田淵さんがきょとんとした顔で言うと、沙苗さんは「でも」と目を伏せる。
「ヨシくんはご飯がお
沙苗さんが言うと、田淵さんは「え?」と不安げな表情になる。
千隼も訳が判らないと言う様に首を傾げるが、佳鳴だけは心中で「あ〜そういうことかぁ」と納得し、密かに小さな息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます