二章 いつわりの妃②

 たくを終えた紅姸の姿は庭にあった。冬花宮の庭は様々な草花が植えられている。冬花宮の名前から冬にちなんだ花木も植えられ、その一つであるろうばいは季を終えていた。この蝋梅は良く手入れがされているので、来冬にけば甘い香りを放つだろう。いまはたんかいどうといった春の花が支配し、もくれんの香りがする。特に牡丹は良い。春を支配するように大きく開いた花弁は見事である。

 花は心地よい。ながめてもれても、心にたまったおりけていくようである。これから光乾殿へ向かう緊張を、この牡丹がやわらげてくれる気がした。

 牡丹に触れようと手をばし──そこで紅姸は気づいた。

 は空にあるというのに、雨雲におおかくされたかのように冷えていく。周りの景色は変わらないが紅姸だけはその変化を感じ取っていた。空気がぴりと張りめ、重たい。かすかに流れた風が血のにおいを運んだ。

りようだ。どこか近くにいる)

 紅姸のそうぼうは庭から、その先へとあちこちをめぐる。近くにはいない。血のにおいはそこまでくないので遠くにいるだろう。空気の重たさは北方から西方へと移動していた。

 妃宮はたかべいに囲んで区切られ、冬花宮もそれにならっている。鬼霊は冬花宮のしき内にはいないようだった。となれば、高塀をえた近くを歩いているのか。

もんは開いている。鬼霊が冬花宮に入るとすればここしかない)

 紅姸は息をみ、門の方をじいとにらみつけた。身がこわばっていて、額を冷やあせが伝う。

 重圧を放つそれはゆっくりと移動し、ついに──開け放たれた門から、血のにおいが濃く香った。

(いた。鬼霊だ)

 鬼霊はだれでもにんできるが、その気配を感じ取るのは鬼霊の才を持つ者だけ。ほとんどの者は鬼霊の認知を視覚にたよるため、視界に収めるほど鬼霊に接近しなければ気づかない。

 ぐっと手に力を込める。だが今ははらえない。鬼霊のおもいをほどかずに花わたしをしてもじようには渡れないのだ。一時消えたとしてもまたすぐに現世を彷徨さまようこととなる。

(いま花渡しをできなくとも、鬼霊のとくちようや行動を知っておきたい)

 紅姸はじっと門の方を睨みつける。鬼霊が姿を見せた。黒のかおぎぬで顔を覆い、い上げたもとどりに銀のかざりが見える。銀のようだ。じゆくんを着ていることからによにんだろう。宮女が歩揺をすことはあまりないので、あれは妃だと紅姸は結論付けた。

 鬼霊の左胸にべにしやくやくが咲き、花びらはそこから広がっている。紅花の咲く位置からして、左胸に傷を受けて生を終えたのだろう。

 鬼霊は紅姸に気づかず、こちらに向かってくる気配はない。はくは破れてかたから外れ、それを引きずりながら一心に歩を進めている。

 そうしているうちに鬼霊の姿は塀にはばまれて見えなくなった。西に向かっていたように見える。門扉に近寄り、鬼霊の行き先を確かめようとしたが、目をらせども姿はなく、あの重い空気も和らいでいった。

 見えなくなったからと鬼霊が浄土に渡ることはない。じようしない限りまた現れる。

 門扉から身を乗り出して消えた先をじいと眺める。すると、背後から声がかけられた。

「そこで何をしている」

 り返ると秀礼がいた。清益や武官を連れているが、誰もあわてる様子はなかった。ここを通り過ぎた鬼霊と入れちがいになったのだろう。紅姸は身を正し、ゆうした。

「先ほど鬼霊を見ました」

「鬼霊が? 気配はしないが」

「消えてしまいました」

「ならばついせきは厳しいか。その鬼霊はどうだった。お前から見て気になるものはあったか」

「いえ……」

 そう答えながらも引っかかることがあった。

(胸の紅芍薬は水にれたようだった。まだかわいていない。きっと最近鬼霊になったはず)

 鬼霊が咲かす紅花のつやは鬼霊が死んだ時期を示している。紅姸が見た鬼霊の紅花は、花弁にあまつぶとどまらせているように艶々とかがやいていた。昔に殺された妃とは考えにくい。

(鬼霊のことは後にしよう。まずはみかどのろいについて調べないと)

 深追いする時間はない。紅姸は秀礼と共に光乾殿へと向かった。


 光乾殿は帝が住まう殿である。ほかの宮に比べてごうせいな造りをし、外敵をさまたげるため妃宮よりも厳重に高塀で囲っていた。宮城で最も警備の厚い場所でもある。門にはが立ち、その顔つきはこわばっていた。

 だが、空気を重たく感じるのは衛士のきんちようかんからだけではない。いくつもの門をけて光乾殿に近づくと、紅姸はまゆを寄せた。足をみ入れた時から、腹の底に重たくひびくような、どんよりとしたいやな気を感じるのだ。じっとりと汗ばみ、ねばついた水にらわれたかのように体が重たい。

(秀礼様が言っていた『鬼霊かのろいのたぐい』は、当たっているかもしれない)

 他者に強いうらみをいだき、他人をおとしめるために行うものがじゆである。これは恨みの力を主としているが、よほど強く恨まなければ呪詛はけられない。呪詛は、しきを要するものが多く、他者に与えるえいきようは仙術より大きく、そのだいしようとして術者に影響をおよぼす。特に生者をのろい殺すなど命にかかわるものならば、大きな代償をはらわなければならない。

 秀礼は鬼霊とまじないの二たくを提示したが、光乾殿を包む独特の重たい気から呪詛の可能性が高い。だが──。

(かすかに血のにおいがする。呪詛だけじゃない……どこかに鬼霊がいる)

 鬼霊独特のにおいがした。鬼霊がいる場所から強く放たれるので、辿たどれば鬼霊に行き着くのだが、光乾殿のよどんだ気がじやをする。

 あたりを見回すが鬼霊は見当たらない。視界にあるのは光乾殿の庭に植えられているもつこうばらだ。他にも植物はあるが、なぜか木香茨が気になった。いんうつな気の中で悲しげに咲く木香茨から目がはなせない。

 その時、前を歩いていた秀礼が足を止めた。紅姸も木香茨から慌てて視線をがし、秀礼の視線を追う。秀礼が止まったのは、光乾殿からかんがんがやってきたためだった。ぼくとうあいいろばんりようほうは清益と似た格好だが、清益に比べて体格は凜々しく、顔つきもさわやかだ。

かんたつ、久しいな。元気そうじゃないか」

「どうも。秀礼様も変わらず元気なようで。それでこのむすめが──」

 韓辰と呼ばれた宦官は、秀礼を相手にしてもしつけな言動をしていた。しかし秀礼はこれをいやがる素振りなく、顔をほころばせている。清益と接する時のようにきんちようが和らいでいることから、旧知の仲のようだ。

 秀礼と数言交わした後、韓辰の視線は紅姸に向けられた。

うわさってやつですかね」

「ああ。さいは帝にも伝えたはずだ。えつけんの申し入れもしているが」

 これに韓辰は、あきれたように笑う。相手が第四皇子の英秀礼とあってもものじしないごうたんさが見て取れた。

「残念ながら、本日はまだお目覚めになっていませんよ。昨晩はひどくき込んでいたんで、きも悪かったんでしょうね」

「では謁見は厳しいか」

 韓辰はうなずいて認めながら、再び紅姸を見やる。足先から頭までめつすがめつ眺めるので気分はあまりよくない。その品定めを終えると、韓辰は鹿にするように鼻で笑った。

「しかし……秀礼様が仙術師の娘と言っていたから、期待したんですがね……ずいぶんせ細った娘じゃあないですか。それにあいそうで、可愛かわいげがない。本当に仙術師ですか?」

 痩せ細っているなどは確かにその通りだが、初対面の者にようしやなく言われるのは不快だ。紅姸はぐっとくちびるんだものの、いかりを表に出すことはしなかった。冷えた表情でじっと韓辰を見つめる。すると、となりの秀礼が呆れたように息をき、韓辰をたしなめた。

「声が大きいぞ。あと、その発言は彼女に失礼だ」

「おっと。これはすみません」

 秀礼に指摘されて韓辰は謝ったが、それは紅姸に向けてではなく、秀礼に対してのように感じられた。秀礼は声量を絞り、韓辰に言う。

「彼女の力は本物だ。私が確認している」

「今度こそうまくいくといいんですがね。実はにせものだったとならないことを願うばかりですよ。行方ゆくえ知れずになったとみなに噂されても知りませんよ」

 その物言いから、秀礼が今までに仙術師を連れてきたことは本当だと判断した。おそらくは韓辰も仙術師を快く思っていないのだろう。

「とにかく、お会いできないのなら仕方ない。我々はもどる。では韓辰、あとはたのむぞ」

「わかっていますよ。こっちのことは任せてください」

 韓辰は紅姸を良く思っていないが、秀礼にはしんらいを寄せているのだろう。にいとみをかべた後うやうやしく揖礼する。しかしこれは秀礼に向けてであり、華妃である紅姸には目もくれなかった。


 帝への謁見は成らなかった。病の原因をさぐりたかった紅姸としては残念なところだ。

 紅姸と異なり、秀礼はこれを想定していたらしい。そのことに気づいたのは冬花宮に戻ってからだ。彼はひとばらいをし、紅姸と清益、藍玉が残ったところで口を開いた。

「紅姸。こうけん殿でんに行って、わかったことはあるか?」

 帝には会えずとも得られるものがあるかもしれないと、秀礼は考えているのだろう。その意図をみ、紅姸はしっかりと頷いた。

「光乾殿の気はよくありません。ぶるいするような気の重たさからして呪詛が関係していると考えられます」

「私もそう思う。あの場所に長くいれば目眩めまいがする。しかし、韓辰や清益はまったくわからないと話しているが」

「鬼霊の才、つまり鬼霊や呪詛といったものにびんかんな感覚を持っていなければ、その気配に気づきません。清益様や韓辰様が気づかないのは鬼霊の才を持たぬためでしょう。鬼霊の才を持たぬ者は、鬼霊が現れても視界に入るまで感知できません」

「私だけが目眩を起こしたというのは鬼霊の才を持っていたためか」

「その通りです。秀礼様の身のうちにある鬼霊の才が、呪詛の気配を感じ取ってしまったのでしょう。わたしも、長くあの場所にいれば同じようになっていたかもしれません」

「鬼霊の才は、私よりもお前のほうがすぐれているのだから、ひどく影響が出るだろうな」

 鬼霊や呪詛を感じ取ることができるのだから、秀礼も鬼霊の才を持っている。だが、同じ鬼霊の才でも優れているのは紅姸だ。紅姸は、宮女の鬼霊がれんぎようの近くにひそんでいたと気づいたが、秀礼はこれを感じ取っていない。そして今回も、優れた鬼霊の才を持つ紅姸だからこそ気づいたものがあった。

「光乾殿の話に戻りましょう。呪詛が関係していると思いますが、それだけと断定はできません。鬼霊のにおいが混じっていました」

「なんだと。呪詛か鬼霊のどちらか、ではないのか」

「呪詛ならば鬼霊が放つにおいはしません。それに鬼霊だけであれば空気があれほど淀むこともないでしょう」

 息苦しいほどのじやは光乾殿に限られて、道中で感じることはなかった。また鬼霊のにおいは、鬼霊がいる場所を中心としてただようものである。これも光乾殿に近づいてようやく感じ取ったのだ。となれば光乾殿のより近くにいる、もしくは潜んでいるのかもしれない。これらのことから、紅姸は推測する。

「帝の身を苦しめるのは、鬼霊と呪詛の二つと考えます」

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