第二章 元魔王はうっかり目立ちたくない②
タクトの授与式を終えて聖堂を出た時、辺りは
池に近づくと、底に
『ステラ学院の秘密』に書かれていた通りだ。この池に向かって後ろ向きにコインを投げ込むと、水の
「こんなところまで俺を連れてきて、どうしたんです? 愛の告白なら、池に願うより、直接俺に言ってくれた方が確実だと思いますが」
アリアナに手を引かれたまま、ギルベルトが軽口をたたく。アリアナはムッとしたが、取り合わずに彼を池の
「アリアナ、本当にどうしたんです? ここは恋人がよく
「そうね。プライバシーが守られるという点では、逢瀬以外の
「は?」
「あの、アリアナ? これは……」
「回復薬よ。万が一の時に備えて、母が私に持たせてくれたの」
「なぜそれを俺に?」
「まさか私が気づいていないと思ってたの? あなた、本当は立っているのもつらいくらい魔力を消費してるんじゃない?
授与式でのことを思うと、自分の
「私が元魔王だとバレないように、選定石を壊してくれてありがとう。だけど、もうあんな
「ありがとうございます、アリアナ。ですが俺の魔力は一晩
アリアナが無言でギルベルトの肩を押す。そのままよろけるようにベンチに座った彼を見下ろして、アリアナはため息をこぼした。
「そんなフラフラの状態で何を言ってるの? 今こそ、その何かあった時でしょ?」
「ですが……」
「どうしても飲まないと言うなら、鼻をつまんで口から流し込むわよ」
アリアナがなおも
「な、何よ? 急に笑って」
「アリアナは昔から変わりませんね。自分だって元魔王だとバレそうになって大変な時に、そうやって人の心配ばかりして」
「現に今、私を庇ったせいで大変な目に
「なら、俺たちは相思相愛ですね」
「……やっぱりあなた、私に力ずくで回復薬を飲まされたい? 口だけ回復しても、
「いえ、結構です。ありがたく
ギルベルトが真顔でアリアナから小瓶を受け取り、中身を一気に飲み干す。「うっ」と顔を
「これで一晩寝れば、だいぶ回復するはずよ。あとは選定石の方だけど、あれってすごく高価で貴重な
粉々に
「百年前って言えば、『ステラ学院の秘密』に出てきた選定石のモデルになっていたかもしれないわよね。そんな聖具にも等しいものを私のせいで
選定石に
そう考えたアリアナは聖堂のある方をちらちらと気にかけ……不意に
「あの、ギル?」
「まさかと思いますが、選定石を自分で修理しようなどと考えていませんよね?」
「……ま、まさかー。ほとぼりが冷めた
「そういう心臓に悪いサプライズはやめてください。選定石のように高度で複雑な魔術具がある日
「でも、それじゃあ、あなたの負担が増すだけだわ」
アリアナとしては、なんとかギルベルトに
「今日助けてもらった分のお礼も
アリアナの
「何? 私にできることならなんでも……えっ!?」
アリアナは言葉を失った。アリアナの
「あ、あの、ギル? 何をして──」
「お礼、してくれるんですよね? なら、少しこのままでいてください」
「え、でも……」
「アリアナは、俺にこうされるのが
「べ、別に嫌じゃないけど……!」
ギルベルトは魔力が
(相手はあのギルなのに……)
アリアナはギルベルトの横顔をちらっと
(何事もあきらめちゃダメよ。まずは全力で周囲に馴染むところから始めなきゃ)
今日みたいにギルベルトに迷惑をかけないためにも、そしてこの学院で
アリアナは内心で
● ● ●
タクトの
召喚を終えた彼女の前には今、
(なんか私、浮いてない?)
人間の魔術師は魔術を発動させるために
そのせいか、学院のグラウンドは今、新入生たちが召喚した小型や中型のおとなしい魔獣たちで
アリアナを
そんな中、アリアナも目の前のドラゴンを見上げたまま動けずにいた。腰が
(私に呼ばれて来るなんて、もしかしてこの子……)
じっとドラゴンを見つめる。すると、ドラゴンの方もアリアナを見下ろしながらフシュフシュと連続で蒸気を
(この子、クッキーだわ! まさかこんなところで再会できるなんて!)
魔王時代、傷ついているドラゴンの子どもを拾って
アリアナにとっては、百年ぶりに再会した
「アリアナくん! ドラゴンを召喚するなんて、いったい何をしたんだ!?」
背後で上がった
「選定石のことがあるから、もしやと思っていたが、よりにもよってドラゴンなんて──」
「あ、あの、先生! 私は故意にドラゴンを召喚したわけじゃなくて──」
「実に
「……へ?」
アドラーに肩をたたかれ、アリアナはキョトンとした。そういえば彼は入学式でも魔獣愛を語るほどの魔獣好きだった。その目は今クッキーを見上げ、うっとり細められている。
「ああっ! 生きているうちにこの
(そうなの!?)
「ドラゴンと言えば『魔王の牙』が有名だよな? ほら、百年前の
「ああ。魔王の子飼いのドラゴンが
「え……」
学生たちのささやきを耳にしたアリアナは、大変
(それにしても、魔王の牙って……)
満足そうに甘えてクッキーばかり食べていたドラゴンに、そんなごつい二つ名は似合わない……と思うのは、やはり飼い主
「ドラゴンを使い魔にするって、本気かよ? アドラー先生もさすがに認めないよな?」
「万が一、彼女がドラゴンの
(え、何そのヴェノムって? 私、知らないんだけど)
学生たちの責めるような視線を感じたのだろう。クッキーを前にして目を
「あー、その、いつまでもドラゴンを
「あの、先生、ヴェノムってなんですか? 対魔兵器って
「おや、アリアナくん、君はヴェノムの話を聞いたことがないのかね?」
思わず
「ヴェノムというのは、今から百年ほど前に開発された毒物だよ。
「なっ……!」
アリアナは絶句してアドラーを見つめた。自分がその名前を知らなかったということは、おそらく魔王の死後に開発されたものなのだろう。
(そんな
「安心したまえ、アリアナくん。ヴェノムの使用や売買は現在、国際条約で禁止されてるし、その
「ただヴェノムの使用がなかったとしても、学生がドラゴンのようにプライドの高い魔獣を使い魔にする場合には、常に暴走と反逆のリスクを
アドラーの
魔王が倒されてから百年も
(クッキー、ごめんなさい。いつか会いに行くから待っていて。それまで少しのお別れよ)
召喚の魔法陣を破けば、契約前の魔獣はもといた場所に
「グルゥォォォォ!」と、地の底から
「うわっ! なんだ、今の!?」
「しまった! みんな
青ざめたアドラーが叫び、学生たちが
(クッキー!? まさかこれは暴走……じゃなくて! イヤイヤをしてるの!?)
アリアナは
「アリアナくん、
アドラーがタクトを取り出して宙空に魔法陣を描く。
(やめて! そんな
クッキーがグワッと口を開き、アドラーの方を向く。その
まずい、ブレスを吐く気だ! 止めなければ! でもどうやって!?
(ああ、もう! しょうがないわ!)
アリアナが自らの立場をかなぐり捨てクッキーの前に飛び出そうとした、その時だった。
「アリアナ、ここは俺が」
「……ギル!?」
アリアナが振り向いた時にはもうギルベルトが彼女を
アリアナが止める間もなかった。光の矢はクッキーの頭上に達するやいなや、パンッとハデな音を立ててはじけた。
辺りが目もくらむような
「い、今のはいったい……?」
「ギルベルトくん、君がやったのか!?」
魔術を発動し
(まさかギル、そんな……!)
光の矢がはじける直前に、アリアナの耳は確かに拾っていた。彼女とクッキーにしか聞こえないほどの小声で、ギルベルトが「クッキー、バンッ!」と命じたのを。
あれはクッキー必殺の一発芸。お手とお座りをマスターした彼はご
「おい! あのドラゴン、死んだのか?」
「いや、ドラゴンだぞ? そう簡単には……うわっ!」
遠目に様子を
「ド、ドラゴンが従っただと……? そんな馬鹿な……!」
ご褒美のクッキーをもらえなくて、クッキーはご不満らしい。その口からブシュッと変な音を立てて蒸気がこぼれた。だがギルベルトがもう一度頭をなでると、ポンッという音と共に辺りに
「ドラゴンの変身……! 話には聞いていたが、まさか本当にあるとは……!」
「このドラゴンは私の使い
「え? いや待ってくれ、ギルベルトくん。君が
「
「そ、それはそうだが……」
「ドラゴンの生態については、まだ不明な点も多いと言います。私の使い魔にすれば、変身以外にも貴重な場面を
「…………………………」
アドラーが眉間に深い皺を何重にも刻み、理性と欲望の間で
ギルベルトがアリアナの方を向く。彼女がうなずくのを見て、その顔が
その後、アリアナの予想通り、アドラーはギルベルトがクッキーを使い魔にすることを表面上は
クッキーをギルベルトに
ただ一人、
こうして結果だけ見れば、すべて丸く収まったように思えたが……。
「ごめんなさい、ギル! 今日もあなたにすごく
使い魔の召喚を解いたあと、アリアナは昨日と同じ
ギルベルトはひたすら
「別に迷惑だなんて思ってませんよ。俺も久々にクッキーに会えて嬉しかったですし」
「ありがとう。ギルにそう言ってもらえて助かるわ。でも、通常授業が始まる前からこんなにトラブルが続くなんて……やっぱり私に普通の人間は無理があるのかしら?」
アリアナがぽつりとこぼした弱音に、ギルベルトは
「確かに、何かと規格外のあなたには、森に引き
「ううっ、そうよね。やっぱり私がこの学院にいると、何かと迷惑をかけて──」
「ですが、あなた自身はこんなところで夢をあきらめてしまって、本当にいいんですか?」
「え、夢? 急になんの話?」
首をかしげたアリアナを見て、ギルベルトがニヤリと意味ありげに口の
「前世からの夢だったんですよね? この魔術学院で、運命の
「…………っ!? ギ、ギル! なんでそのことを……!」
「あなた自身が俺に語ってくれたんですよ? 来世があるなら、『ステラ学院の秘密』のような学院生活を送って、ただ一人の相手を好きになり、その者から愛し愛される関係を築きたいと」
(あぁぁぁぁぁぁぁぁー!)
アリアナは声にならない悲鳴を上げて、その場にしゃがみ込んだ。前世でギルが『ステラ学院の秘密』の新刊を
あまりの
「どうしたんです、アリアナ? もう恋はしなくていいんですか?」
「いや、するわよ! する気満々だけど! でも……!」
これはいったいなんの
「いくら私が恋をしたいと願っても、相手がいないのよ! あなたも見てたでしょう? 選定石を純黒に染めちゃったり、ドラゴンを召喚しちゃったりして、ドン引きしてる同級生たちの姿を。こんな規格外の
「俺にしておけばいいじゃないですか」
「……え?」
「俺がアリアナの恋人になりますよ」
「……………………」
アリアナは頭が真っ白になった。何を言われたのか、すぐには理解できなくて、ギルベルトの顔を穴の開くほどじっと見つめてしまう。その視線に耐えられなかったのか、ギルベルトが照れくさそうに落ちてきた
「そんなに
「恋の、練習? 本当の恋じゃなくて?」
「……別に俺は練習じゃなくていいですけど」
「え? 何か言った?」
「いいえ、何も」
ギルベルトがなぜかすねた様子で
「魔術でもなんでも、うまくなるためには練習が必要でしょう? 恋も同じです。あなたが前世から
「練習って……確かにそういうことができたら私は助かるけど、ギルは? 私と恋の練習なんてして、あなたは本当にそれでいいの?」
今の自分が誰かを好きになって告白したところで、
「今世のあなたと私は対等な関係よ。それなのに、私だけが得をするなんて──」
「そうですか? 恋の練習をすることで、俺にも十分メリットはあると思いますが」
「え、どこに?」
「それは……秘密です」
ギルベルトが
「ちょっと! それじゃあ、いつまで
「気になるなら、わかるようになるまでいっぱい考えてください、俺のことを。答え合わせなら、いつでも喜んで受け付けます」
ギルベルトが
恋はしたい。その練習もしてみたい。でも、あのギルベルトを相手に?
自分と恋人の
ギルベルトが消えた先をいくら見つめたところで、答えは出ない。アリアナはある意味今世最大の難問を前にして、その場から一歩も動けずに頭を抱えた。
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