第一章 元魔王に恋は無理ですか?①

「おい! ミーツェのやつ、そっちに回ったぞ! つかまえろ!」

 夏の日差しが木々の間にとうめいな光を落とす午後、森に男のせいひびいた。

 男が下草をみ分け追う先には、しっぽを立ててしつそうするやまねこのような生き物がいる。いや、よく見ると、その足先には猫とは思えぬほどするどかぎづめが生え、深くけた口からどうもうきばのぞいている。それはミーツェと呼ばれるじゆうの子どもであった。

 高位の魔獣ではないが、火属性の爪と牙は魔術師が術を放つ時に使うつえ──タクトのしんとして重宝されている。つまり、捕まえれば高く売れる。

「よし! もうげられないぞ!」

 男がミーツェの退路をふさぎ、タクトをかまえる。ミーツェはとっさに向きを変えて逃げようとしたが、その行く手にはすでに彼の仲間が先回りしていた。

「俺たちも生活がかかってるんでな。悪く思うなよ」

 男のタクトがあわく光り、宙空にほうじんえがく。追いめられたミーツェが「シャーッ」と鳴いて全身の毛を逆立てた、その時だった。

「そんなこと言われたって、うらむに決まってるじゃない! このみつりよう者が!」

「……っ!?」

 背後から上がった声に男がり返る。その時にはもう彼の意識はやみに落とされていた。身体からだがドサッとくずおれる音と共に、手からけたタクトが地面に転がる。

「なっ……!」

 男の仲間は目の前で起きたことが信じられずに硬直した。彼の前では今、こしに手を当てておうちになった少女が、倒れた仲間を無感動に見下ろしている。年の頃は十五、六だろうか。夜明けの空を思わせるむらさきがかった黒髪が印象的な、きやしやで美しい少女だ。男の目が正しければ、そのほそうでが仲間の首筋に手刀をたたき込んだように見えたのだが……。

 少女が顔を上げる。むらさきずいしようのようなそうぼうと目が合ったしゆんかん、男はゾワッと全身におぞが走るのを感じた。以前、密猟仲間に聞いたうわさのうめぐる。このシュトルツの森には美しい悪魔がまうのだと。その悪魔は若い少女の姿をしていて……。

「お、お前はシュトルツの悪魔……っ!」

 少女のこぶしが男のみぞおちにめり込んだ。

「初対面の相手を悪魔呼ばわりするなんて失礼な人ね! 今の私はどこからどう見たってつうのか弱い人間なのに」

 少女があしもとに転がった男たちを見下ろし、けんしわを寄せる。彼女は持っていたかごの中からあらなわを取り出すと、気絶している男たちをぐるぐる巻きにしばった。今日は森に薬草を採りに来ただけだったが、備えあればうれいなし。普段から荒縄を持ち歩いていると、何かと役立つものだ。今度時間のある時に、追加で作っておいた方がいいかもしれない。

 少女は荒縄の便利さを改めて見直しながら、男たちをひょいとりようわきかかえた。そのまま森の外までスタスタと歩いて行き、辺りに人がいないことをかくにんしてから下に降ろす。

 少女は男たちの額を軽く指でいてじゆもんを唱えた。それはおくかんしようする魔術の一種で、彼らが森で見た記憶をあいまいにしたのだ。これで二人が自分の姿を思い出すことはないだろう。あとはこうしてかいどうの横に転がしておけば、週に一度この辺りのじゆんかいに来る老役人が男たちを連れて村まで戻り、適切な処分を下してくれるという寸法だ。

 彼らは実に運がいい。明日あしたがその巡回の日だ。

「今日もいい仕事をしたわね」

 少女が満足して微笑ほほえむ。密猟者を捕まえたことで、めてもらわなくてもかまわない。

(今世の私は魔王じゃなくて、ただの人間だもの。森へ薬草を採りに来たついでに悪人を捕まえるのは、善良ないつぱん人の義務よね)

 本物の一般人が聞いたらちがいなく首をかしげるような義務だが、少女はおおだ。

 この一風変わった価値観を持つ少女の名はアリアナ。今から百年ほど前に人間の国々をしんかんさせた魔王アレハンドラの生まれ変わりにして、現在はの少女であった。


 アリアナが魔王として最後に覚えている記憶は、ギルやファビアーノたち配下を従え、帝国の主要都市を落とそうともくろむ人間たちをげき退たいしに行った時のことだ。

 あの時点では、人間たちをらしてすぐ帰城するつもりでいた。それなのにせんとうちゆうで急に意識が途切れ、気づいた時には目線の高さが異様に低くなっていた。

 最初は敵の魔術で幼女にされたのかと疑ったが、違った。角も牙も持たないその身体はぜいじやくな人間そのもので、見知らぬ若い女性から「アリアナ」といとおしげに呼ばれていた。

 そう、魔王アレハンドラは辺境の森近くに住む人間の魔術師クラウディアのむすめ、アリアナに生まれ変わってしまったのだ。

 いまだに原因は不明だが、アリアナは転生と同時に前世の最後の方の記憶を失ってしまったらしい。しかも無理に思い出そうとすると、気絶しそうなほどのきようれつな頭痛におそわれるのだ。とはいえ、前世のさいを何も知らずにいるのも落ち着かない。

 そこで転生後のある日、アリアナは決死のかくで頭痛にえながら、母の蔵書を調べてみた。その結果、魔王アレハンドラは、ルートヴィヒ・フォン・クライスラーという名の勇者に戦場で討たれたと知った。そんな人間に心当たりのなかったアリアナは心底おどろいたが、彼女のきようがくはそれだけで終わらなかった。

 なんとこの百年後の世界では、魔族と人間の間に平和条約までていけつされていたのだ。今ではたがいの国に大使館を建てて外交官をけんし合ったり、魔獣のらんかくを禁止する条約などを結んだり、さらには民間レベルで貿易まで行ったりしているらしい。

(魔王がいなくなったたん、こんな平和になるなんて、私の努力はなんだったのかしら?)

 前世のアリアナはたびかさなる人間のしんこうから魔王として帝国を守る一方、長期のいくさを終えるために、人間との対話の道をさくし続けていた。元魔王の自分がいくら願っても実現できなかった平和が自分の死と共におとずれたなんて、なんとも皮肉で切なくなる。

 だが、アリアナは魔族と人間に争い続けてほしかったわけではない。平和な時代の──しかも人間の少女に生まれ変わったのであれば、どうしてもやりたいことがあった。

(今世こそ『ステラ学院の秘密』みたいに、こいするさわやかな青春を送るのよ!)

 魔王時代に大好きだった恋愛小説のことは片時も忘れたことがない。そればかりか、人間に生まれ変わってから苦心して全巻をそろえ、紙がすり切れるまで何度も読み返した。

 平和上等! 今こそあこがれの恋物語を実現させる時だ!

 しかしそう願う一方で、今のじようきようでそれが難しいことにもアリアナは気づいていた。

 密猟者たちを転がした街道の先を見つめ、人知れずため息をこぼす。この道の先には人間の村がある。ただし、村までのきよは大人の足でも最低半日。しかもその村はエフィーミラ大陸のはしに位置するヴァルトシュタイン王国の中でも、辺境中のど辺境。こうれいが進んでいるせいで、としごろの異性どころか村民すらほとんどいない。

(普通に暮らしていたら魔獣と密猟者にしか会わないようなかんきようで、私はどうやって恋をしたらいいの?)

 当然だが、出会いがなければ恋も生まれない。転生前には想像もしなかった難題を前にして、アリアナは一人頭を抱えた。


    ● ● ●


 西の空が夕焼けに染まり、静かな夜の足音がシュトルツの森にしのび寄る。

 密猟者たちをらえたあと森で過ごしたアリアナは、長くびた自分のかげを供に家路を急いでいた。彼女の背負っている籠には、森で採った薬草が詰め込まれている。

 魔族領に自生している動植物にはおよばないものの、この森で採れる薬草は魔力がんゆう量が高く、それを使って母が作る回復薬は「飲めば瞬時に魔力が回復する」と評判だ。今日も月に一度の行商人が来る前に「回復薬の仕込みをする」と母に言われて、アリアナは森に入ったのだが、さすがにゆっくりしすぎたかもしれない。

(森で一晩過ごしたところで私なら何も問題ないけど、母さんはきっと心配するわね)

 母のクラウディアは、アリアナの目から見てもゆうしゆうな魔術師だ。それがなぜ辺境の地でかくれるように暮らしているのか知らないが、彼女の娘に対する愛情は本物だった。

 元おうの魔力を受けいで転生した自分は、ほかの子どもと違うところも多々あっただろうに、彼女はそのすべてを個性として受け入れた上で、普通の人間として育ててくれた。そのおかげで、今ではアリアナも胸を張って自分のことを「普通の人間だ」と言えるまでになった。そんな大切な恩人相手に、帰りがおそいせいで余計な心配をかけたくない。

 アリアナが足早に森を抜けると、ひらけた視界に丸太を組んだだけの簡素な小屋が映った。もう母が中でゆうたくを始めているのか、えんとつから白いけむりがたなびいている。

(このミルクたっぷりでキノコのがきいたかおりはクリームシチュー? でも、今日は私の誕生日でもなんでもないわよね?)

 アリアナは歩きながら首をかしげた。母の作るシチューは下ごしらえのめんどうなキノコをふんだんに使うため、特別な日でないと作ってもらえない。それがどうしたのだろう?

(まぁ、私は毎日でも食べたいくらい好きだから、作ってもらえてうれしいけど)

 アリアナは足取りも軽く小屋に入り、奥に向かって「ただいまー」と声をかけた。

「お帰りなさい、アリアナ。帰りが遅いから心配したわよ」

 クラウディアが台所から出てきて娘をむかえる。その格好に、アリアナは再び首をかしげた。いつもの魔術師然としたローブ姿と違う。今夜の母はめったにしないしようをして、よそ行きのワンピースを着ている。もう夕方なのに、どこかへ出かけるのだろうか?

 娘のまどいに気づいたのだろう。籠を受け取った母がアリアナに微笑みかける。

「あなたもえていらっしゃい。今日はこれからお客様がおしになるのよ」

「お客様? 行商のヨナスおじちゃんじゃないよね?」

 クラウディアの作る回復薬を買い付けに来るヨナスとは長いつき合いだが、アリアナの記憶にある限り、こんな風に彼をかんたいしたことはない。

「ほら、お客様はもうすぐ来ると思うから、あなたも急いで」

 アリアナは不思議に思いつつも、母に追い立てられるようにして自室へおもむき、めったに着る機会のないいつちようのワンピースに着替えた。鏡に映った姿はいかにも年頃の娘といった様子だが、この格好を見せたいと思う相手には残念ながらまだめぐり合えていない。

(いつか私も、『ステラ学院の秘密』みたいな運命の恋がしたいなぁ……)

 こみ上げてきたため息をみ込んで台所にもどる。そこでは夕食のたくを終えた母が椅子いすこしけていた。ワンピース姿の娘を見て、その目が嬉しそうに細められる。

「そういう大人びた格好が似合うようになるのは、もっと先のことだと思っていたのに、早いものね。アリアナ、すごくきれいだわ」

「ありがとう、母さん。私も来月で十六歳になるし、こういう服もそろそろ着られるわ」

「そう……。ついこの間あなたを産んで、この森に越して来た気がしてたのに不思議ね」

「え……」

 アリアナは意外に思って母を見返した。今まで彼女は娘の自分が生まれる前後のことをかたくなに話そうとしなかった。それなのに、どういう風のき回しだろう。母からこの話題を出すなんて、今日これから来るお客様と何か関係があるのだろうか?

「ねぇアリアナ、母のひいき目を差し引いても、あなたは驚くほど強い魔力にめぐまれているわ。王都で『勇者の再来』とうわさになっている人にも、きっと引けを取らないほどよ」

(……うん、勇者かぁ)

 アリアナは思わず遠い目になった。元魔王としては、かく対象に勇者以外の相手を選んでほしいところだが、そんな娘の心のなど、クラウディアが知るよしもない。彼女は娘の顔をじっと見つめていたが、ふとしんけんおもちになって続けた。

「アリアナ、あなたは今でもステラ学院に入学したいと思ってる?」

「……母さん?」

 今夜は本当にどうしたのだろう? めったにしないオシャレをしたかと思えば、今度は急に魔術学院の話題をってくるなんて。

『ステラ学院の秘密』のたいとなった魔術学院は王都に実在する。最初にその話を聞いた時、アリアナはなんとしても入学したいと願ったが、入学には貴族かきゆうてい魔術師のすいせんが必要だと聞いて泣く泣くあきらめた。それがどうして今になってし返すのだろう?

 母の真意がわからずに、さぐるような目を向けてしまう。そんな娘の視線を正面から受け止め、クラウディアが何かを決意した様子で口を開こうとした、その時だった。

 アリアナはハッとしてとびらの方を向いた。

「アリアナ? どうしたの?」

「今、馬のいななきが聞こえた気がしたんだけど」

「え、本当?」

 クラウディアが耳をすませる。今度は彼女の耳にも、かいどうけてくる馬のひづめの音が聞こえたらしい。その顔がぱぁぁぁっと明るくなった。

「アリアナ、お客様がとうちやくなさったんだわ!」

「ちょっ! 母さん!?」

 げんかんに駆け寄ったクラウディアが、ノックも待たずに中から勢いよく扉を開ける。

 アリアナは目を丸くした。そこにいたのは品の良い四十がらみの男と従者の二人連れだった。急に扉が開いておどろいたのか、馬を下りた格好のままこちらを見上げて固まっている。二人とも、こんな辺境では見たこともないほど洗練された衣服に身を包んでいる。

(え? この人たち、まさか貴族?)

「ウェルナー! あなた、本当にウェルナーなのね!? 会いたかったわ!」

 母が男に駆け寄る。男のじゆばくが解けて、顔にかがやくようなみがかんだ。

「長い間待たせてすまなかった、クラウディア! やっと君たちを迎えに来られたよ!」

「ああ、ウェルナー! こうしてまたあなたに会える日をずっと待っていたわ!」

 ウェルナーと呼んだ男にひしときしめられ、母の目になみだが浮かぶ。それを見ていた後ろの従者ももらい泣きをして「よかったですね」としきりにうなずいている。

(なに、この状況……。私、完全におくれたんだけど)

 これが物語であれば、辺境の森に隠れ住む母子を迎えに来た貴族の正体なんて一つしかないだろう。だけど、そこまでドラマティックな展開が現実にあるとは思えない。

 涙をぬぐったクラウディアが混乱しているむすめの方を振り返る。彼女は少し照れくさそうな、それでいてこの上もなく幸せそうな笑みを顔にたたえて告げた。

しようかいするわ。この方はウェルナー・フォン・コルティッツはくしやく。あなたのお父様よ」

「……………………」

「ちょっとアリアナ!? なんで急にほっぺたをつねるのよ!?」

「いや、私もついに目を開けたままもうそうをするようになったのかと思って」

「そんなわけないでしょう! あなたは今日から伯爵れいじようになるのよ! これで、あなたさえ望めばステラ学院に入学することだってできるわ!」

「え、ステラ学院に?」

 アリアナは今度こそほおをつねることも忘れて絶句した。

(私は元魔王なのよ? それが人間の少女に生まれ変わっただけでも驚きなのに、今度は伯爵令嬢になって、あのステラ学院に通うって……本当なの?)

 とつぜん降っていた幸運に、やっぱりこれは妄想ではないかと疑ってしまう。だがクラウディアとウェルナーの二人は真剣そのもので、うそをついているようには思えない。ぜんとしている娘が現実を受け入れるまで、二人して静かに寄りいながら待っていた。


    ● ● ●


 魔王時代、数多くのしゆをくぐりけてきたアリアナにもいまだにきんちようする時はある。

 伯爵令嬢アリアナ・フォン・コルティッツになってから一ヶ月後、付け焼きの令嬢教育を終えたアリアナはステラ学院の講堂に足をみ入れ、こっそり深呼吸をり返した。

 父である伯爵が訪ねてきた晩、母のクラウディアが語った話によると、彼女は宮廷魔術師として働いていた時に伯爵と出会ってこいなかになり、アリアナをもったらしい。

 ところが義母がこのけつこんに大反対したため、辺境の森でアリアナを産んで育て、伯爵とは文通で愛をはぐくむようになったという。その時点では伯爵と結婚するつもりもなかったため、娘のアリアナには事実を伝えずにいたのだが、今から一ヶ月前に義母が他界したことを受けて、母子共々伯爵家に迎え入れられることが決まったのだそうだ。

 れんあい小説としては王道の展開でも、まさかそれが自分の身に起きるなんて、アリアナは未だに信じられなかった。しかし、それでも現実はいやおうなしに目前にせまってきている。

 一度に五百人を収容できるステラ学院の講堂は今、ほぼすべて新入生と在校生でまっていた。その全員がこんしんを基調とした制服を着ている様は、まさに圧巻の一言だ。

 前世からがれ続けてきた光景にアリアナはうっとり見入りそうになり、ゆるみかけた頬をあわてて引きめた。あこがれの聖地に来られて嬉しくても、気を抜いてはいけない。

(しっかりするのよ、アリアナ。これから始まる入学式は、ある意味いくさと同じなんだから)

 戦で初戦の入り方が大事なのと同じように、学院生活もはじめがかんよう。『ステラ学院の秘密』のようなキラキラした青春を送りたければ、まずは周りの人間たちにしっかりむことだ。そしてあわよくば好印象をあたえ、友達になってもらいたい。

(フリーダみたいな女の子と友達になって『ステラ学院の秘密』の感想を語り合ったり、エドガーみたいにかっこいい人と恋に落ちたりするためにも、がんらなきゃ!)

 アリアナは気合いも新たに講堂内を見回した。だいに人で埋まっていく中、前方に空いている席を見つけて足を止める。そのとなりには、緑のねこが印象的な少女が座っていた。緊張しているのか、両手をひざの上に乗せ、こわばった表情で入学式の開始を待っている。

(いいわね、彼女)

 少女は一人、自分も一人。となれば、やることは一つしかない。

 アリアナはものを見つけたもうきんるいのように目を光らせ、少女に近づいて行った。気づいた少女が顔を上げる。探るような目を向けられ、アリアナはゴクリとツバを呑み込んだ。

「ご、ごきげんよう。お隣、よろしいかしら?」

「……ええ、どうぞ」

 少女がややぎこちない仕草で席をめてくれる。アリアナはグッとこぶしにぎりしめた。

(やったわ! 私、あのステラ学院で同級生と会話をしたのよ! あのステラ学院で!)

 重要な点なので何度も繰り返す。アリアナにとってはまさに記念すべき瞬間だったが、少女の方は何やら興奮しているアリアナを見て、不可解そうにまゆをひそめている。

 いけない。最初からこんなに感動していては先が思いやられる。自分はまだ少女の名前すら聞いていないのに。アリアナは少女の隣に腰掛け、改めて笑顔で話しかけた。

「はじめまして、私はアリアナ・フォン・コルティッツっていうの。あなたは?」

「……ロザモンドよ」

 笑顔のまま、会話がれた。

(えーと……こういう時って、次は何を話せばいいんだっけ?)

 アリアナは伯爵家で習った社交マニュアルをあせる脳内で必死にけんさくした。初対面の場で会話に詰まった時は、とにかく相手をめて共通の話題につなげろと言われたはずだ。

 ならば、あれしかない。よし!

「ロザモンドって、すごくてきな名前ね。れんさの中にもしさを感じて、ときめくわ」

「……は? なに、その口説き文句みたいな言葉。鹿にしてるの?」

「……え?」

 耳に痛いほどのちんもくがアリアナの周囲を包んだ。

(まさかはずした!? 『ステラ学院の秘密』では、初対面の時にエドガーがフリーダの名前を褒めたことで恋が始まったのに! というか、これって口説き文句だったの!?)

 温かな友情が始まるかと思いきや、返ってきたのはブリザード並みに冷えたまなし。おう時代だって、人間からここまで冷たい目を向けられたことはなかったと思う。

 アリアナは固まった笑顔の下で、誤解を解く方法を必死で模索した。しかし彼女が次の策に打って出ることはなかった。魔術師らしいしつこくのローブに身を包んだ学院長が二十名ほどの教師じんを引き連れて講堂に現れたからだ。

「新入生のみなさん、ステラ学院に入学おめでとうございます」

 だんじように進んだ学院長が笑顔で皆に話しかける。アリアナはロザモンドの方を名残なごりしげに見やってから前を向いた。彼女ともっと話したかったが、式中の私語は厳禁だ。

 時を同じくして講堂をおおっていたけんそうがピタッとやみ、緊張と期待の混じった視線が壇上に集中する。学院長は最後まで笑みを絶やさずにあいさつを行い、すぐ後ろの教師陣とこうたいした。この入学式では、教師たちが一人ずつ自己紹介と担当教科の説明をする流れらしい。

(一年生のうちにしゆうすべき授業は実践魔術学に魔術記号学、歴史学、薬草学と、それから……卒業まで三年もあるのに、最初の年からずいぶん詰め込むのね)

 教師陣の話を聞いているうちに、アリアナは次第に不安になってきた。魔王時代につちかった知識や、転生後に母から教わった教養はあっても、それがこの学院でどこまで通用するかわからない。しかも『ステラ学院の秘密』のような青春を送るためには、授業の課題をすべてこなした上で、運命の相手や気の合う友達を見つけなければならないのだ。

(休みの日には小説のたいとなった聖地もじゆんれいしたいのに、時間あるかしら?)

 これから始まる学院生活に不安を覚えたのは、アリアナだけではなかったらしい。隣を見ると、ロザモンドやほかの新入生たちもこころもとない顔つきで教師陣の話に耳をかたむけている。そんな中、一番としかさの老教師が長いローブをひるがえしながら壇上に進み出た。

「長くなったが、教師たちの紹介はじゆう学担当の私、アドラーで最後だ。私が新入生諸君に望むことはただ一つ。どうか学院生活をおうして、私の愛してやまない魔獣たちのように奥深く、少しでもおもしろみのある魔術師に育ってくれ」

「え、愛してるって魔獣を?」

 新入生たちがおどろいてアドラーを見上げる。彼らのように都市部に住む人間が魔獣とれ合う機会はあまりない。物語に出てくるきようぼうな魔獣か、タクトや魔術具の素材になった魔獣しか知らない彼らにとって、魔獣愛を公言する老教師は完全な変人に思えたのだろう。

 アリアナはアドラーが気分を害するのではないかとした。が、彼はこういう反応に慣れっこなのか、ざわつく学生たちを見下ろして、口のはしをニヤリとつり上げた。

「君たち、魔獣を甘く見ないことだな。使い魔のけいやくを結ぶことで、魔獣はわれわれの大切なパートナーにもなるし、その身体からだは貴重な素材にもなる。私の授業では、使い魔から素材に至るまで魔獣のあらゆるりよくをみっちり教え込むつもりだから、期待していてくれ」

 アドラーがちやっ気たっぷりに笑い、年に似合わぬさつそうとした足取りで壇を降りて行く。

(さすがステラ学院。先生たちも個性的ね。魔獣にここまで好意的な人間は初めて見たわ)

 これは想像以上に期待できるかもしれない。明後日あさつてから始まる授業に思いをせてアリアナが目をかがやかせた、その時だった。

「次は、新入生代表による挨拶。ギルベルト・フォン・エーベルナッハくん、前へ!」

 司会の教師が名前を呼んだたん、講堂の空気が変わったのをアリアナははだで感じた。

(え、何この感じ? みんな急にかしこまって、どうしたの?)

「エーベルナッハって『勇者の再来』と言われている筆頭こうしやく家の次男か?」

 不思議に思うアリアナの耳に、ざわめきにも似た話し声が聞こえてきた。

「彼は子どものころに調べた魔術の適性が、あの勇者と同じ全属性だったってうわさだ」

「彼のもとにはえんだんさつとうしてるんでしょう? けするなら、在学中がチャンスよ」

(……いったい何者なの? すごすぎるわ、ギルベルト)

 次々と飛び込んでくる噂話のハデさに、アリアナは耳を疑った。噂がすべて本当なら、彼は『ステラ学院の秘密』のエドガーをえるいつざいかもしれない。「勇者の再来」という二つ名は好きになれなくても、現実ばなれしたその設定には十分興味をそそられる。

(公爵家の次男というからには、王道の王子様タイプかしら? それともヒーローのライバルとなるような、少しかげのある美形とか?)

 ついくせで、小説に出てくるような人物を想像してしまう。そんな中、一人の少年が前方で席を立つのが見えた。彼がギルベルトだろう。あわきんぱつらし、颯爽と壇上へ向かう後ろ姿だけでも、すでにふんがかっこいい。これは期待できそうだ。

 アリアナはワクワクして席から身を乗り出した。いや、アリアナだけでない。講堂中の視線が集まる中、ギルベルトが壇の前に進み出る。その海色のひとみちようしゆうを見下ろした瞬間、アリアナは心臓がドクンとね上がるのを感じた。

(えっ……! ギル? まさかギルなの!?)

 深い海色のそうぼうにも、落ち着いたたんせいな顔立ちにも、そのすべてに見覚えがあった。いや、正確には目の前のギルベルトの顔には、あの頃のギルより深いかげりが落ちて見える。それでも他人のそら似とは思えないほど似ていた。

(だけど、ギルのはずないわ。彼は人間だったもの。もし仮に今生きてるとしたら、百歳を超えるおじいちゃんになってるはずよ。じゃあ、まさかこのギルベルトは彼の子孫?)

 新入生代表の挨拶が耳をどおりしていく中、アリアナはギルベルトと呼ばれた少年の顔を穴の開くほどじっと見つめていた。その時だった。壇上のギルベルトと目が合った。海色の瞳がアリアナを映して限界まで大きく見開かれる。

(えっ! まさか本当に……?)

「失礼」

 ギルベルトがコホンとせきばらいをして、何事もなかったかのように挨拶を続ける。彼がアリアナの方を見ることはもうなかった。それでも、あの一瞬で十分だった。

(あの反応、ぐうぜんじゃありえないわ。彼は確かに私がだれかをにんしきしていた)

 しかし、彼があのギルであるはずがない。ならば、いったい誰なのだろう?

 彼の正体を確かめたい。でも、どうやって話を切り出せばいい?

(魔王軍とあなたの関係について教えてもらえませんか?……なんて正直に聞けるわけないわ。全部私のかんちがいだった場合、しんあつかいされるのは私の方だもの)

 もんもんなやむアリアナをよそに、挨拶を終えたギルベルトが席にもどって入学式は終わった。

 教師陣が退出したのを見届けてから、学生たちも次々に席を立つ。食堂で昼食を取って、午後から始まるタクトのじゆ式に備えるつもりなのだろう。仕方ない。自分だけ講堂に残るわけにもいかないし、ギルベルトのことはあとで確かめるしかないだろう。

 入学初日から悪目立ちしたくなかったアリアナは、皆について自分も講堂を出て行こうとした、その時だった。不意に列の後方がザワザワしだしたのを感じてり返る。

(みんな、いったい何をさわいで……あっ!)

 アリアナは絶句した。人波をかき分け、まっすぐこちらに向かってくる人がいた。

 前世のギルより背は低い。だが、その瞳に宿る意志の強さはあの頃と寸分も変わらない。

(まさか……でも、そんな……)

 相反するおくそくがアリアナの胸中でせめぎ合う。その面前でギルベルトが足を止めた。

 周りの学生たちが何事かと注目する中、金に輝くかみがふわりと揺れて見えた。次の瞬間、驚きに目をみはるアリアナの前で、ギルベルトがかたひざをついた。

 ああ、知ってる。これは、魔族たちが魔王にはいえつする時の仕草だ。魔王の配下たちは、こうしてゆいいつあるじである魔王の前で片膝をつきながらこうべを垂れ、そして……。

 ギルベルトがアリアナの手を取る。熱を帯びた海色の瞳にとらわれ、ビクッとふるえた手のこうに口づけが落とされた。まるで大切な宝物に触れるように、そっとやさしく。

「お久し振りです、陛下」

 ギルベルトがアリアナにだけ聞こえるほどの小声で告げる。前世で耳んでいた声よりもいくぶん若い。それでもなつかしい呼び名を耳にして、アリアナは胸がいっぱいになった。

(……ああ、ギルだ。この人は、あのギルなんだわ)

 どうして彼もまた生まれ変わったのか、その理由はわからない。それでも自分がギルを見間違えるはずがないと、アリアナは不思議と確信していた。

 ギルベルトがアリアナを見つめる。その顔は、今にも泣き出しそうなうれいを帯びていた。

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