第一章 元魔王に恋は無理ですか?①
「おい! ミーツェのやつ、そっちに回ったぞ!
夏の日差しが木々の間に
男が下草を
高位の魔獣ではないが、火属性の爪と牙は魔術師が術を放つ時に使う
「よし! もう
男がミーツェの退路をふさぎ、タクトをかまえる。ミーツェはとっさに向きを変えて逃げようとしたが、その行く手にはすでに彼の仲間が先回りしていた。
「俺たちも生活がかかってるんでな。悪く思うなよ」
男のタクトが
「そんなこと言われたって、
「……っ!?」
背後から上がった声に男が
「なっ……!」
男の仲間は目の前で起きたことが信じられずに硬直した。彼の前では今、
少女が顔を上げる。
「お、お前はシュトルツの悪魔……っ!」
少女の
「初対面の相手を悪魔呼ばわりするなんて失礼な人ね! 今の私はどこからどう見たって
少女が
少女は荒縄の便利さを改めて見直しながら、男たちをひょいと
少女は男たちの額を軽く指で
彼らは実に運がいい。
「今日もいい仕事をしたわね」
少女が満足して
(今世の私は魔王じゃなくて、ただの人間だもの。森へ薬草を採りに来たついでに悪人を捕まえるのは、善良な
本物の一般人が聞いたら
この一風変わった価値観を持つ少女の名はアリアナ。今から百年ほど前に人間の国々を
アリアナが魔王として最後に覚えている記憶は、ギルやファビアーノたち配下を従え、帝国の主要都市を落とそうともくろむ人間たちを
あの時点では、人間たちを
最初は敵の魔術で幼女にされたのかと疑ったが、違った。角も牙も持たないその身体は
そう、魔王アレハンドラは辺境の森近くに住む人間の魔術師クラウディアの
そこで転生後のある日、アリアナは決死の
なんとこの百年後の世界では、魔族と人間の間に平和条約まで
(魔王がいなくなった
前世のアリアナは
だが、アリアナは魔族と人間に争い続けてほしかったわけではない。平和な時代の──しかも人間の少女に生まれ変わったのであれば、どうしてもやりたいことがあった。
(今世こそ『ステラ学院の秘密』みたいに、
魔王時代に大好きだった恋愛小説のことは片時も忘れたことがない。そればかりか、人間に生まれ変わってから苦心して全巻をそろえ、紙がすり切れるまで何度も読み返した。
平和上等! 今こそ
しかしそう願う一方で、今の
密猟者たちを転がした街道の先を見つめ、人知れずため息をこぼす。この道の先には人間の村がある。ただし、村までの
(普通に暮らしていたら魔獣と密猟者にしか会わないような
当然だが、出会いがなければ恋も生まれない。転生前には想像もしなかった難題を前にして、アリアナは一人頭を抱えた。
● ● ●
西の空が夕焼けに染まり、静かな夜の足音がシュトルツの森に
密猟者たちを
魔族領に自生している動植物には
(森で一晩過ごしたところで私なら何も問題ないけど、母さんはきっと心配するわね)
母のクラウディアは、アリアナの目から見ても
元
アリアナが足早に森を抜けると、
(このミルクたっぷりでキノコの
アリアナは歩きながら首をかしげた。母の作るシチューは下ごしらえの
(まぁ、私は毎日でも食べたいくらい好きだから、作ってもらえて
アリアナは足取りも軽く小屋に入り、奥に向かって「ただいまー」と声をかけた。
「お帰りなさい、アリアナ。帰りが遅いから心配したわよ」
クラウディアが台所から出てきて娘を
娘の
「あなたも
「お客様? 行商のヨナスおじちゃんじゃないよね?」
クラウディアの作る回復薬を買い付けに来るヨナスとは長いつき合いだが、アリアナの記憶にある限り、こんな風に彼を
「ほら、お客様はもうすぐ来ると思うから、あなたも急いで」
アリアナは不思議に思いつつも、母に追い立てられるようにして自室へ
(いつか私も、『ステラ学院の秘密』みたいな運命の恋がしたいなぁ……)
こみ上げてきたため息を
「そういう大人びた格好が似合うようになるのは、もっと先のことだと思っていたのに、早いものね。アリアナ、すごくきれいだわ」
「ありがとう、母さん。私も来月で十六歳になるし、こういう服もそろそろ着られるわ」
「そう……。ついこの間あなたを産んで、この森に越して来た気がしてたのに不思議ね」
「え……」
アリアナは意外に思って母を見返した。今まで彼女は娘の自分が生まれる前後のことを
「ねぇアリアナ、母のひいき目を差し引いても、あなたは驚くほど強い魔力に
(……うん、勇者かぁ)
アリアナは思わず遠い目になった。元魔王としては、
「アリアナ、あなたは今でもステラ学院に入学したいと思ってる?」
「……母さん?」
今夜は本当にどうしたのだろう? めったにしないオシャレをしたかと思えば、今度は急に魔術学院の話題を
『ステラ学院の秘密』の
母の真意がわからずに、
アリアナはハッとして
「アリアナ? どうしたの?」
「今、馬のいななきが聞こえた気がしたんだけど」
「え、本当?」
クラウディアが耳をすませる。今度は彼女の耳にも、
「アリアナ、お客様が
「ちょっ! 母さん!?」
アリアナは目を丸くした。そこにいたのは品の良い四十
(え? この人たち、まさか貴族?)
「ウェルナー! あなた、本当にウェルナーなのね!? 会いたかったわ!」
母が男に駆け寄る。男の
「長い間待たせてすまなかった、クラウディア! やっと君たちを迎えに来られたよ!」
「ああ、ウェルナー! こうしてまたあなたに会える日をずっと待っていたわ!」
ウェルナーと呼んだ男にひしと
(なに、この状況……。私、完全に
これが物語であれば、辺境の森に隠れ住む母子を迎えに来た貴族の正体なんて一つしかないだろう。だけど、そこまでドラマティックな展開が現実にあるとは思えない。
涙を
「
「……………………」
「ちょっとアリアナ!? なんで急にほっぺたをつねるのよ!?」
「いや、私もついに目を開けたまま
「そんなわけないでしょう! あなたは今日から伯爵
「え、ステラ学院に?」
アリアナは今度こそ
(私は元魔王なのよ? それが人間の少女に生まれ変わっただけでも驚きなのに、今度は伯爵令嬢になって、あのステラ学院に通うって……本当なの?)
● ● ●
魔王時代、数多くの
伯爵令嬢アリアナ・フォン・コルティッツになってから一ヶ月後、付け焼き
父である伯爵が訪ねてきた晩、母のクラウディアが語った話によると、彼女は宮廷魔術師として働いていた時に伯爵と出会って
ところが義母がこの
一度に五百人を収容できるステラ学院の講堂は今、ほぼすべて新入生と在校生で
前世から
(しっかりするのよ、アリアナ。これから始まる入学式は、ある意味
戦で初戦の入り方が大事なのと同じように、学院生活もはじめが
(フリーダみたいな女の子と友達になって『ステラ学院の秘密』の感想を語り合ったり、エドガーみたいにかっこいい人と恋に落ちたりするためにも、
アリアナは気合いも新たに講堂内を見回した。
(いいわね、彼女)
少女は一人、自分も一人。となれば、やることは一つしかない。
アリアナは
「ご、ごきげんよう。お隣、よろしいかしら?」
「……ええ、どうぞ」
少女がややぎこちない仕草で席を
(やったわ! 私、あのステラ学院で同級生と会話をしたのよ! あのステラ学院で!)
重要な点なので何度も繰り返す。アリアナにとってはまさに記念すべき瞬間だったが、少女の方は何やら興奮しているアリアナを見て、不可解そうに
いけない。最初からこんなに感動していては先が思いやられる。自分はまだ少女の名前すら聞いていないのに。アリアナは少女の隣に腰掛け、改めて笑顔で話しかけた。
「はじめまして、私はアリアナ・フォン・コルティッツっていうの。あなたは?」
「……ロザモンドよ」
笑顔のまま、会話が
(えーと……こういう時って、次は何を話せばいいんだっけ?)
アリアナは伯爵家で習った社交マニュアルを
ならば、あれしかない。よし!
「ロザモンドって、すごく
「……は? なに、その口説き文句みたいな言葉。
「……え?」
耳に痛いほどの
(まさかはずした!? 『ステラ学院の秘密』では、初対面の時にエドガーがフリーダの名前を褒めたことで恋が始まったのに! というか、これって口説き文句だったの!?)
温かな友情が始まるかと思いきや、返ってきたのはブリザード並みに冷えた
アリアナは固まった笑顔の下で、誤解を解く方法を必死で模索した。しかし彼女が次の策に打って出ることはなかった。魔術師らしい
「新入生の
時を同じくして講堂を
(一年生のうちに
教師陣の話を聞いているうちに、アリアナは次第に不安になってきた。魔王時代に
(休みの日には小説の
これから始まる学院生活に不安を覚えたのは、アリアナだけではなかったらしい。隣を見ると、ロザモンドや
「長くなったが、教師たちの紹介は
「え、愛してるって魔獣を?」
新入生たちが
アリアナはアドラーが気分を害するのではないかと
「君たち、魔獣を甘く見ないことだな。使い魔の
アドラーが
(さすがステラ学院。先生たちも個性的ね。魔獣にここまで好意的な人間は初めて見たわ)
これは想像以上に期待できるかもしれない。
「次は、新入生代表による挨拶。ギルベルト・フォン・エーベルナッハくん、前へ!」
司会の教師が名前を呼んだ
(え、何この感じ? みんな急にかしこまって、どうしたの?)
「エーベルナッハって『勇者の再来』と言われている筆頭
不思議に思うアリアナの耳に、ざわめきにも似た話し声が聞こえてきた。
「彼は子どもの
「彼の
(……いったい何者なの? すごすぎるわ、ギルベルト)
次々と飛び込んでくる噂話のハデさに、アリアナは耳を疑った。噂がすべて本当なら、彼は『ステラ学院の秘密』のエドガーを
(公爵家の次男というからには、王道の王子様タイプかしら? それともヒーローのライバルとなるような、少し
ついくせで、小説に出てくるような人物を想像してしまう。そんな中、一人の少年が前方で席を立つのが見えた。彼がギルベルトだろう。
アリアナはワクワクして席から身を乗り出した。いや、アリアナだけでない。講堂中の視線が集まる中、ギルベルトが壇の前に進み出る。その海色の
(えっ……! ギル? まさかギルなの!?)
深い海色の
(だけど、ギルのはずないわ。彼は人間だったもの。もし仮に今生きてるとしたら、百歳を超えるおじいちゃんになってるはずよ。じゃあ、まさかこのギルベルトは彼の子孫?)
新入生代表の挨拶が耳を
(えっ! まさか本当に……?)
「失礼」
ギルベルトがコホンと
(あの反応、
しかし、彼があのギルであるはずがない。ならば、いったい誰なのだろう?
彼の正体を確かめたい。でも、どうやって話を切り出せばいい?
(魔王軍とあなたの関係について教えてもらえませんか?……なんて正直に聞けるわけないわ。全部私の
教師陣が退出したのを見届けてから、学生たちも次々に席を立つ。食堂で昼食を取って、午後から始まるタクトの
入学初日から悪目立ちしたくなかったアリアナは、皆について自分も講堂を出て行こうとした、その時だった。不意に列の後方がザワザワしだしたのを感じて
(みんな、いったい何を
アリアナは絶句した。人波をかき分け、まっすぐこちらに向かってくる人がいた。
前世のギルより背は低い。だが、その瞳に宿る意志の強さはあの頃と寸分も変わらない。
(まさか……でも、そんな……)
相反する
周りの学生たちが何事かと注目する中、金に輝く
ああ、知ってる。これは、魔族たちが魔王に
ギルベルトがアリアナの手を取る。熱を帯びた海色の瞳に
「お久し振りです、陛下」
ギルベルトがアリアナにだけ聞こえるほどの小声で告げる。前世で耳
(……ああ、ギルだ。この人は、あのギルなんだわ)
どうして彼もまた生まれ変わったのか、その理由はわからない。それでも自分がギルを見間違えるはずがないと、アリアナは不思議と確信していた。
ギルベルトがアリアナを見つめる。その顔は、今にも泣き出しそうな
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