プロローグ

 エフィーミラ大陸の西の果て、朝と夕を深いきりおおわれる地にその城はあった。

 せきをふんだんに使って守りを固めた城に住むのはするどきばと角を持ち、大空をつばさかける魔族たち。彼らは今、まんの翼をたたみ城門前に整列していた。

 おごそかな空気の中、夕立のようにザーッと風を切る音が近づいてくる。いつせいに顔を上げた魔族たちの表情が明るくなった。彼らが視界にとらえたのは、夜空を閉じ込めたようなくろかみを風になびかせ、「魔王のひとみ」と呼ばれるむらさきずいしようそうぼうで城をへいげいするアルシオンていこくの女主人──魔王アレハンドラと、彼女に従う魔王軍の姿だった。

「陛下、ご無事のごかんを心よりおよろこび申し上げます。我が軍は陛下の指揮のもと、帝国南部にしんこうしてきた人間どもをいつしゆうしたと、そくより聞きおよんでおります」

 居並ぶ魔族たちを代表して、せんていこうの一人が降下してきたアレハンドラに奏上する。アレハンドラは彼の方をちらりと見やって、おうように「ああ」とうなずいた。

殿でん息子むすこのファビアーノは、たびいくさでもめざましい働きをしてくれた。また貴殿らも私が留守の間、我が城をよく守ってくれた。めてつかわす」

「ははーっ! もったいなきお言葉にございます」

 きようしゆくする選帝侯たちを前にして、アレハンドラの口元がフッとゆるみ、こうしつぼうはなやかないろどりが加わる。みなは思わず目をみはったが、そのやわらかなしよういつしゆんにして消えた。代わりに、魔王らしいかたい表情がその整った顔を再び覆う。

「皆も連日の戦いでつかれているだろう。しゆくえんは後日にして、今宵こよいはゆっくり休め」

 アレハンドラはそう言い放つと、皆の熱い視線を背に受けながら城に入った。その足で浴室に向かい、戦場で受けた返り血をきれいに洗い落としてから自室におもむく。

 アレハンドラは部屋で一人になって初めてフーッとかたの力をいた。がいせん直後だというのに、そのまま机に向かって座り、一番上の引き出しを開ける。

(よし、今ならだいじようだろう。しばらくはだれも入ってこないな)

 アレハンドラはとびらの方をちらっとり返ってかくにんすると、机の中にしまっていたペンやインクを次々に取り出した。次いで、二重になっている引き出しの底を持ち上げる。

 その下から現れたのは一冊の本だった。使われている紙はうすく、インクの発色もかすれがちで、安価な大量印刷の品だと一目でわかる。だが、その本の表紙にはかわ製のカバーがつけられ、大切に読まれているのもいちもくりようぜんだった。

 アレハンドラはゴクリとツバをみ込んで本を開くと、しゆつじん前に読んだページの続きに視線を走らせた。そのくちびるから「はぁぁぁー」となやましげないきがこぼれる。

(いい! すごくいい! ヒロインのフリーダをきしめて、『行くな。君のそんな顔、ほかの男に見せたくない』と耳元でささやくなんて……! かっこよすぎだ、エドガー!)

 胸をがすときめきにえきれず、アレハンドラは椅子いすの上でジタバタもだえた。

 人間たちから「エフィーミラののろい」とおそれられる魔王がほおを赤く染めながら夢中で読んでいる本のタイトルは『ステラ学院の秘密』。最近、人間たちの間で流行はやっている魔術学院をたいにしたれんあい小説だった。

 そもそもこの小説は、敵対している人間たちについて学ぶため、アレハンドラがせつこうに命じて買ってこさせた本の中にぐうぜんまぎれ込んでいたものだ。その内容はおおよそ戦に役立ちそうもなかったが、読んでいるうちに好きになってしまったものは仕方ない。

 今日も今日とてお疲れの魔王はお気に入りのこいものがたりにうっとりやされ……コンコンと扉をノックする音でわれに返った。あわてて本を二重底の下にかくそうとする。しかしその動きは、扉しに聞こえてきた声によってピタッと止まった。

「お休みのところ失礼します、陛下。ギルです。陛下におわたししたいものが」

「入れ」

 発言を食い気味にさえぎったせいだろうか。一瞬、なんともみようちんもくが落ちてから扉が開けられる。

 中に入ってきたのは二十歳はたちほどの青年だった。あわきんぱつのかかった顔ははくせきの美青年と呼ぶにふさわしいほどたんせいな造りをしている。その深い海色の瞳で見つめられれば、どんな女性でも心が浮き立つことだろう。ただし、相手が人間であれば。

 ギルと名乗った青年は、魔王アレハンドラの配下においてただ一人の人間であった。

「人間の街へ斥候に出向き、ご命令の品を買い求めて参りました。……って、なんですか? その手は」

「買ってきてくれたのだろう? 『ステラ学院の秘密』の続編を」

「……はい、おおせのままに」

 ギルが苦笑しながら、アレハンドラに小説の新刊を手渡す。紫水晶の瞳が一段とかがやきを増し、硬質な美貌に心底うれしそうなみがかんだ。

「ありがとう、ギル。先月出版されたばかりの新刊をもう読めるなんて、ゆうしゆうな配下を持って私は幸せだ」

「それはよかったです。しかし、陛下も変わっていらっしゃいますよね。敵対する人間の書いた小説で戦の疲れを癒やすなんて。あなたは人間がにくくないのですか?」

「……………………」

 ギルがふとこぼした問いかけに、アレハンドラの顔から笑みが消える。ややあって、彼女は肩をすくめながら答えた。

「我が帝国にめ入る決定を下した人間の王たちや、それに賛同している者たちを好きになることは確かにできないな。でもギル、君だって人間だろう?」

 アレハンドラからまっすぐに見つめられ、今度はギルが笑みを失う。今でこそ魔王城にんでいるが、彼はしようしんしようめいの人間だ。七年ほど前に少年兵として戦場で使い捨てにされ、ひんの重傷を負っていたところをアレハンドラに拾われて配下に加わった。

「陛下、俺は……」

「別に君を責めているわけじゃない。魔族の中にだって様々な性格や価値観の者がいるように、人間の中にだっていろんな者がいると言いたかっただけだ」

 まどうギルを前にして、アレハンドラは一言一言を言いふくめるように続けた。

「相手をひとくくりに敵として、『人間』として憎むのは簡単だ。そうすれば、戦で相手をこうげきする時に余計なことを考えないで済むだろう。だが、そんな風に世界を敵か味方かの二つに分けていたら、いつかきっと大切なものを見落としてしまう。……そう、例えばこの『ステラ学院の秘密』のように!」

「…………はい?」

 しんけんな顔で話に聞き入っていたギルが、思わずといった様子でまゆをひそめる。アレハンドラはかまわずに本をギュッと抱きしめて続けた。

「人間の書くものをすべて敬遠していたら、私はこの本と出会えなかった。らしい物語をつむぐ者は種族に関係なく敬うべきだろう? 私は平和な世の中で、愛読書について皆と語り合いたい。無益な戦を続けるより、その方が何倍も有意義だと思わないか、ギル?」

 魔王からキラキラした目で同意を求められ、ギルはたまらずき出した。

「なんだ、ギル? 何がおかしい?」

「いえ、陛下は本当に『ステラ学院の秘密』がお好きなんだと思いまして。そのような本を読まなくても、あなたならお相手はより取りみどりでしょうに。ファビアーノ様なんてあなたのお相手に選んでもらえたら、かんに身をふるわせてへいふくしそうですよ」

「いや待て! そんな恋人、私はいやだぞ。というか、恋人に拝まれている時点でその恋はたんしているだろう!」

「そういうものでしょうか?」

「ああ。私が求めているのは、対等な立場でたがいのことをおもい合っては胸をジリジリ焦がすようなあまっぱい恋だからな。学院を舞台にしていれば、なおよい。……と言っても、まぁ魔王の私にはえんのない話だが」

 アレハンドラは大好きな恋愛小説と、部屋のそこかしこにられている魔王のもんしようを見比べて、声にならないため息をこぼした。

「ギルも知っているように、魔族は上にいただく者に対して、自分にはない強さやげんを期待するものだ。魔王の座がしゆう制でない以上、彼らは魔王に恋愛もけつこんも求めない。というより、恋に浮かれている魔王になんて誰も従いたくないだろう。生まれ変わりでもしない限り、私に恋愛は無理だ」

「では、来世ならいかがです? 来世で陛下は恋をしたいとお考えですか?」

「は? 来世?」

 ギルの思いがけぬ提案に、アレハンドラが目を丸くする。自分から生まれ変わりを口にしてみたものの、そんなことが実際にあるなんて信じていたわけではない。

「でも、そうだなぁ……。もし来世があるなら、『ステラ学院の秘密』のような学院生活を送ってみたいものだな。そこでただ一人の相手を好きになり、その者から愛し愛される関係を築きたい。……って、そう言うギルには何か望みはないのか?」

「俺ですか?」

 完全なとばっちりだろう。ちゆうからずかしくなったアレハンドラに話を振られ、ギルがおどろいたように目をしばたたかせる。彼は一瞬考え込んでから、ゆっくり口を開いた。

「そうですね。もしも来世があるなら、俺にもやりたいことがあります。生まれ変わっても、俺を陛下のおそばに置いていただけませんか?」

「…………? 別にかまわないが」

「あなたの配下としてではありませんよ? 来世ではあなたの笑顔も泣き顔も……それにがおも、一番そばでどくせんしたいんです」

「ん? 寝顔?」

「わかりませんか? 毎晩あなたのとなりで、あなたの寝顔を見ながらねむりにくのです。時に耳元で『愛してる』とささやきながら」

「…………っ!」

 そばにいるというのは、そっちの恋愛的な意味か!?

 熱を帯びたあおひとみが、驚いてこうちよくするアレハンドラをまっすぐに見つめ返す。その口元に、いつものギルらしいイタズラっぽい笑みが浮かんだ。

「俺と恋に落ちそうですか、陛下? 耳まで赤くなっていらっしゃいますよ」

「いや、これはその……」

「なーんてね。今の、どうでした? 『ステラ学院の秘密』に出てくるエドガーのセリフよりときめきましたか?」

「なっ……!」

 楽しそうに笑うギルを見て、アレハンドラの顔にカーッと血が上る。

「ギル! 君はまたくだらない冗談を言って! おうをからかうんじゃない!」

「すみません。あなたの反応がかわいらしくて、つい」

「そういうセリフは百年早い!」

 赤くなった顔を見られたくなくて、アレハンドラはギルの頭をわしゃわしゃとなでた。

 そうだ、ギルにときめくなんてありえない。自分にとって、彼は年のはなれた弟のような存在だ。彼の方だって、自分に対してそれ以上の感情は持っていないのに。

 案の定、ギルは何も言わずにうつむき、されるがままになっている。やがてアレハンドラが手を離すと、彼は乱れたかみを手早く直して一礼した。

「では陛下、お望みの品もおわたしできましたし、今宵こよいはこれにて失礼いたします」

「ああ、今日はせつこうに出てつかれただろう。早く休め。今後も君のかつやくに期待している」

「期待しているのは、俺が持ち帰ってくる小説の方ですよね?」

「……いいから、早く休め!」

 再び赤くなったアレハンドラを見て、ギルがクスクス笑いながら退出する。

 本当にこりないやつだ。初めて会ったころのギルは、感情のない人形のようにうつろな目をした少年だったのに、いつの間にか魔王の自分をからかうほど生意気に育つなんて。だが、この他愛たわいもないやりとりを楽しんでいる自分にアレハンドラは気づいていた。

 今世はこれでいい。ギルやファビアーノたち配下の者と共に、魔王として魔族のていこくを守るために身命をささげよう。だけど、もし来世があるなら、その時は……。

 一人にもどった部屋の中で、ギルからもらったれんあい小説を手に取る。

 この時のアレハンドラはまだ知らない。このわずか数ヶ月後に、戦場で人間の手にかかって殺される未来を。そして自分をったその人間こそが、史上最悪の魔王をたおした勇者と呼ばれるようになることを。

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