不透明


 

 「禦前の心は禦前にしか解らない。」之はある恩師に言はれた言葉である。當時、俺と友人數名は先生の邸宅に勉强のために秋月の閒、泊まり込みで世話になつてゐた。彼は佛敎に通じてをり、藥學や縫合技術にも長けてゐた。技術だけでなく、精神的な向上の爲にも彼から得る學びは多岐にわたる。昔から人付き合ひを面倒だと思ふ性分ではあつたが、彼の邸宅で友人達と過ごすのはそれなりに樂しく、穩やかに秋を滿喫してゐた。しかし木々も寒々しく葉が落ち吹く風も冷え込む頃、俺は夜になる度、幼少期から未だに抱へてゐる慢心的な不安に襲はれた。一時は忘れかけてゐた己の精神の寂寞、茫漠さを思ひ知つた。どこからともなく不安感が湧いてきては心臟の邊りが壓迫されるやうな感覺を覺え、蒲團の中で胸を抱へては震へた。やがて耐へられず、先生に訊けば何か解決策が見つかる筈だと不思議と信じた俺は、夜の耽る頃、書棚部屋で資料を探していた先生の元を訪れた。最初は驚いた顏を見せたが、やがて茶を煎れて出迎へてくれた。これ迄に至る經緯や原因と思わしき不穩な出來事、樣々な昔のことを思ひ返しながら氣が濟むまで話し終へた後、いつの閒にか俺は息を切らしてゐた。手元の煎茶が冷えた手を暖めてゐた。先生は俺の肩をさすつて、首を縱に振り頷いた。俺の不透明な胸の內を、彼は本當は全て知つてゐたと思ふ。俺の求めてゐることが、結局は單なる共感や同意であるといふことを、子供じみた思惑を、何もかも察してゐた筈なのである。然し先生はやさしい言葉を與へたりはしなかつた。俺の抱へた淺はかな希望を一蹴してみせた。そんな理由はお前は、お前自身がとうに分かつてゐるだらうと、他者の同意を求めず常に己の胸の內側に問ひ掛けてみれば良いと、さう二言三言投げて、彼自身の部屋に戾つて行つた。暗い書棚の前に立ち盡くした俺は、頭を抱へて床に蹲り込んだ。ただ只管に情けない自分を恥ぢた。何故他人に理解してもらへると當たり前に思ひ込んでゐたのだらうと、强く後悔をした。そして先生の言ふ通り、凡ゆる理由は己の胸の內に既に持つてゐるといふ事實を俺は解つてゐた。事實を突きつけられ、然しどうしやうもなく情けない。今この邸宅に居座つてゐる人閒達の中で自分が一番情けなく、慘めで、心の弱い樣に思へた。窻から黑雲の切れ閒に月が見えた。こんな美しい月夜なのだから、今日に死んでしまはうかといふ純粹な發想が頭を過ぎつた。今になつて振り返れば齡十七の衝動的な感覺に違ひないのだが、當時は不安感と恥と後悔で精神が滅茶苦茶になつてゐたのだらう。其ればかりで頭がいつぱいになつて、自分は今すぐに死ななければいけない、いや死ぬべきだといふ思想に取り憑かれてしまつた。氣が付けば俺は小さな刃物一つを片手に邸宅の門を拔け、外へ飛び出してゐた。海岸沿ひの崖下へ身を潛め、岩を足に括り付けて手首を切つてそのまま底まで沈み自害しようと試みたのである。さうして

 

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