悠久
柳白目線です。
途中で終わります
┄┄┄
思ひ返せば逃げ隱れてばかりの情けない人生であつた。父は顏も知らぬ、母は幼い頃に亡くした。唯孤獨に生き孤獨に死ぬのだと思つてゐた。目的も無くただ抵抗なく廣い海原を漂ふ樣に、俺は時閒の流れに身を任せてゐた。何もかも自分で決めるのが恐ろしかつた。決斷を下すのは何時も他者に任せ、振り返れば俺はいつも壁の內側に篭つては獨り鬱々としてゐるばかりであつた。自分で豪語するのも可笑しな話であるが、人閒としては碌でもないがしかし藥劑師としては優秀であつたやうで、朝廷からは優遇對應され、十分な財產と廣い屋敷を與へられた。だがその屋敷は俺には落ち着かず、だだっ廣い家で獨りで質素に暮らすのはどうにも滑稽に思へたのである。俺は河の隙閒を埋める高い山と瀧に圍まれた、簡素な狹い小屋に住處を移した。生活は何分潤澤であつたが精神は常に希死念慮に囚はれ、しかし死を恐れ身動きを取ることも出來ず、只無心で仕事に明け暮れる日々であつた。そんな薄もやが掛かつた早朝のこと、水を汲みに川へ降りていつた所で一匹の人魚が流れ着いてゐるのを見つける。國では傳說の生き物とされてをり、珍しいその姿に俺は抱へていた樽を地面に落とし、一瞬で意識を惹かれたのである。廣がる水面にぽつんと浮かぶその姿は桃色をした蓮の花の樣に見えた。近づいていつて見てみると、不思議な事に輝く美しい尾鰭は魚類のそれであり、けれども上半身は確かに人閒の女であつた。人目見て、此奴は金になると思つた。捕まへて賣れば俺の名は世閒に知れ渡るだらう。又は硏究すれば藥の材料に使へるかもしれぬと思ひ立ち、俺はすぐにその人魚を捕まへて家に連れ歸らうとした。しかし網と紐を使つて水面から引き上げた途端、彼女の脚は人閒と變はらぬ二本足に成り替はつてしまつた。俺は現實味の無いその光景に震へ、恐れ慄いた。化學で證明出來ないのは實に恐ろしいことだ。妖か、或いは怪異の類か。然しそれ以上に强く好奇心を唆られる。俺は其の儘彼女を小屋まで迎へ入れた。其れからひと月程經つただらうか。睡蓮と名付けられた彼女は見る見るうちに人閒らしく育つた。熱心に勉學を重ねては俺の吐いた言葉を覺え、家事を覺え、時折仕事を手傳つては一緖に食事を攝る。時には同じ蒲團で眠り、また時には年頃の女の樣に怒つたり拗ねたりする。最初は、實驗體のつもりで家に入れ、役に立ちさうであれば道具の樣に扱ふつもりであつた。しかし彼女の健氣に生きる姿を見て、俺は段々と罪惡感が湧いてきた。彼女は何處からどう見ても、意志を持つた個人である。今まで孤高に生きてきた俺にとつて、他人が家に居る生活は慣れないものではあつたが不思議と心地が良かつた。無自覺に淋しさを感じてゐたのかもしれぬと思つた。睡蓮だけは今世で初めて眞面に氣を許せると認識を得た存在であつた。愛着かも戀情かも分からぬ儘に身體を貪る事も多々あつた。然し彼女は抵抗するでもなく、その意味さえ分からないといつた樣子で、唯全てを受け入れ宙を眺めてゐた。その純新無垢な瞳に覗かれる度、俺は自分の行ひを反省し、自らの邪心を强く恥ぢた。しかし彼女を抱き締めてゐる閒は、張り詰めた心が少し和らいだ。ある時、彼女は俺に從順に振る舞つてゐるがそれは決して戀慕の意で好いてゐるのではないのだと氣が付いた。まるで子供が親を離れぬやうに、雛鳥が親鳥に着いて回るやうに、睡蓮は俺を見てゐる。嗚呼、勘違ひも甚だしい。俺は馬鹿だ。彼女は唯、他に常識を知らぬといふ單に其れだけの話であつた。これでは人形遊びをしてゐるのと變はらぬ。我ながら全く以て情けない話だ。只偶然にも流れ着いたものを、無理矢理捕まへては蹂躙し、思ふが儘に手懷けては玩具の樣に弄び、その罪惡感から逃れる樣にして屋敷に彼女を置き去りにしては友人達と怠惰な葉子戲と遊戲に明け暮れてゐる。俺は、屑である。紛れもなく愚か者である。人閒の誇りが、一體何處に有ろうか。一層のこと死んでしまひたいとさへ思ふ。然し彼女を一人置いて逝くのは其れもまた罪である。最早神でも佛でも華でも構わぬ。誰か、俺を罰してくれ。俺は人を愛する資格など持たぬ、愚かで穢れた傀儡である。どうか來世は俺と彼女を引き離し、自由にしてやつてくれと願ふ他ない。俺の汚れた手を美しいと愛で、疲れてゐるだらうと茶を沸かしては邪魔にならないやう靜かに扉の隅に差し入れる。愚癡の一つも零さず、只傍で素直に微笑んでゐる、健氣で純朴なあの不運な少女をどうか、どうか來世では幸せにしてやつて欲しいと願ふ。今すぐにでも解放してやる冪なのだらう。然し、どうしても離れ難い。せめて今世では、どの道手遲れなのだから、離れず悠久を共に生きてゐたいと思ふ。他でもなくこれは正しく執着である。佛に向ける顏も無い。然し今迄淋しく生きて來た報ひだと思つてはいけないだらうか。正直なところ俺は彼女を天から降つてきた女神と思つてゐる。人生を諦めた最期に、佛がいい夢を見させてくれたに違ひない。いや、でなければ辻褄が合はない。俺讔が報はれていい筈がないのだから。其れでも嘗ては聞かぬ
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