第6話 初恋・協定
何を言われたのか、しばらく理解できなかった。
衝撃の事実の連続で疲れた脳は鈍く、しかしこちらを見つめる瞳に否が応でも促される。
「お前、何言ってるんだ……?」
「私と付き合わないかって聞いてるの。もちろん、恋人として」
もう一度、強調するようにじっくりと告げられる。俺の混乱は余計に深くなった。
俺達は今、初恋に敗れたという話をしていたはずだ。それなのに恋人にならないかなんて、突拍子がなさすぎる。
「……それはアレか? フられたから復讐で俺達が付き合って、見返してやろう的な……」
「ぜんっぜん違う」
違うのかよ。じゃあなんだ?
「高峯は、失恋から立ち直る方法ってなんだと思う?」
「何って……わからねえよ」
唐突に投げかけられた質問に、俺はすぐに答えた。
一般的な方法なら思いつく。
心ゆくまで遊んで発散するとか、何かに打ち込むとか、いくらでもやりようはあるだろう。
でも今の俺は、そのどれもで自分の気持ちが上向く気がしなかった。
「あたしは、新しい恋をするのがいいんじゃないかって思う」
「まあ……よく聞く手段の一つだな」
だが、それこそ無理な話だ。
俺の恋心は小百合一人に長年定められてきた。今更他の誰かを好きになろうと言われても、難しすぎる。
「無理だ、って顔してる」
「エスパーかよ……」
「でもさ、だったらどうするの? 自然と折り合いがつくまで待ち続ける?」
「……それは」
「一ヶ月? 一年? それとも高校を卒業して、大人になってもずっと抱え続けるわけ?」
……今度は答えられなかった。
ああは言ったものの、実際再起するのにどれだけ時間がかかることか。
今の俺は七年も熱情を注いだものが無くなって、真っ暗闇に放り出されたような気持ちでいる。
心のほとんどを占めていた初恋の消失は、ちょっとやそっとじゃ埋まらない。
「その顔、やっぱり目処が立ってないんだ」
「っ、そういう晴海はどうなんだよ。すぐに吹っ切って、次の恋愛をするのか?」
自分の意気地のなさを揶揄されたようで、俺は苦し紛れに言い返す。
「そんなはずないじゃん。高峯なら、わかるでしょ?」
しかし、鋭い眼光で返された言葉ですぐに自分のミスを悟った。
今の晴海は、俺と同じくらいの悲しみを感じているはずなんだ。それなのに……。
「……ごめん。今のは忘れてくれ」
「ん。……あたしもわかんないよ。どうしたらこの恋を思い出にできるのか、全然思いつかない」
胸の辺りに手を置いて、晴海は呟く。
「新しく人を好きになるって、どういうことだろうね? これまでの気持ちをなかったことにしてしまうってこと? それって本当に恋なの?」
「……俺に聞いても意味ないだろ」
「だよね。ごめん」
俺も、そしてきっと晴海も、一人を追いかけすぎた。
だからその質問への答えなど、持ちようがない。
多くの人は、初恋を叶わないものとして体験するはずだ。
想いが遂げられない悲しさと辛さを経験して、そこから恋愛における妥協や潮時というものを学ぶ。
俺は今日、ようやくそのスタートラインに立ったんだから。
「初恋だから仕方ない。そんな一言で終わらせるには、この大きな恋を続けすぎちゃった」
「……ああ。俺は、小百合以外の誰かをそういう対象に見れない。知らないんだ、そのやり方を」
もしかしたら、二度と誰かを好きになれない可能性すらある。
そんな不安さえ感じてしまうほどに、俺は恋愛において無知だった。
「──でも、あたし今、あんただったら好きになれる気がしてる」
「……はぁっ!?」
もう何度、今日は驚かされただろう。
呆気にとられる俺に、一転して晴海は優しく笑いかけてきた。
「高峯はさっき、この失恋を強引に終わらせたくないって言ってたよね。それってすごく辛いことだと思う。なのに自分から選ぼうとするなんて、誰にでもできることじゃないよ」
「だって……そうするしかないだろ? 他に方法がないんだから」
あらゆる一般的な解決策が通じなさそうなら、もはや消極的方法しかない。
女々しかろうがなんだろうが、そう思ってしまうのは間違ってるだろうか?
「だよね。あたしもおんなじこと考えてた。でも苦しすぎて無理かもって、すぐに諦めたよ」
「……晴海は晴海なりのやり方をすればいいんじゃないか?」
「そう──だからあたしは、次の恋をすることにした」
次の瞬間、一人分空いていた距離がなくなり、鼻先を柑橘系の香りがくすぐった。
整った顔が近づき、思わず生唾を飲む。
「ここで負けたままに、終わったままにしたら、きっとあたし達の心は止まる。誰かを好きになったって上手くいかないって
「た、確かに、そうなる可能性は高いが……」
「あたしは嫌。ちゃんと進みたい。この初恋が、痛いだけの傷になってしまう前に」
真っ直ぐな目で、はっきりと晴海はこの感傷を拒絶した。
「だ、だからってなんで俺を好きになるなんて話になるんだよ?」
「あたしは今、すごく高峯に興味を抱いてるんだよ。おんなじ風に失恋したのに、少しずつでも向き合おうとしてるそのひたむきさにね」
その気がないとはいえ、こんな美少女に興味があると言われて心臓が跳ねた。
謎の動悸を動揺だと慌てて言い聞かせ、顔をしかめる。
「ただの同族意識じゃ……」
「そうかも。けど、いいきっかけだと思うんだ。あんたとなら一緒に乗り越えられる気がする」
「乗り越える?」
「そう。あたしとあんたが一緒にいる限り、この失恋をなかったことにはできない。そうやって無理矢理でも向き合い続ければ、一人で抱えるより早く克服できると思わない?」
その言葉に、ようやく晴海が何を言いたいのかを朧げながら分かってきた。
彼女は俺にこう提案しているんだ。
──二人で失恋を脱却し、新しい恋をできるか試してみよう、と。
「そんな無茶苦茶な……」
「あたしは高峯となら、それができるって感じてる。たかが初恋、そう言ってやり過ごさないで、ちゃんと終わらせようとしてるあんたとなら」
「だが……」
「じゃあ、高峯は一人で何年も苦しみたいの?」
そう。結局問題はそこに帰結する。
俺は口先だけじゃなく、ちゃんと自分の夢を終わらせられるのか?
そう考えた時──俺は、まったく自信がないことに気がついた。
「難しいよね。できるはずがないって思う。あたしもそうだから」
「っ、晴海……」
自分の中に没頭していた意識が、彼女の言葉に掬い上げられる。
「辛い、苦しい、なんであたしを選んでくれなかったの……こんな思いをまたするなら、もういっそ恋なんて。そう考えちゃうよね」
そう切実な眼差しで訴える彼女は、確かな俺の理解者だった。
今この瞬間、同じ悲しみを感じているからこその言葉だ。
「だったら、ここで今、〝次〟を始めようよ」
「ここで、次を……?」
頷いて、彼女は話を続ける。
「初恋に負けっぱなしじゃいられない。いつまでも落ち込んでるなんてもったいないもん。だからあたしは、今シンパシーを感じてるあんたと恋がしてみたい」
「……マジで言ってんのか?」
「マジだよ。少なくとも、あたしは今の高峯の気持ちを誰より理解してる自信がある。あんたも、少しはあたしの気持ちに共感してくれてるよね?」
「あ、ああ」
「だったら、やる価値はあるよ。恋人になって、互いを知って、この興味がいつか恋になれば……」
……この失恋を、単なる傷じゃなくて〝次の恋に進むためのほろ苦くも良い思い出〟に変えられるかも。
晴海が言いたいのは、きっとそういうことだろう。
……でも、結局それは互いを傷つけることにしかならないんじゃないか?
もしも本当に好きになってしまったら、きっとそれぞれが好きだった人の影を感じたとき苦しくなるだろう。
大きく傷ついた心は、その可能性を考えて怯えていた。
「ねえ、高峯。二人で守ろうよ、あたし達の心を」
「っ!」
そんな俺の心さえ見透かしたように、晴海は言葉を紡いだ。
「苦しくてもいい。今は好きになれるかどうか考えなくてもいい。でも、傷ついたこの心をそのままにするのだけは駄目だから」
だからと、彼女は俺の手を強く握って。
「あたしと高峯で、新しい恋の始め方を探そう?」
彼女の目には、強い決意があった。
これからどうすればいいのかさえわからない俺とは違う、未来を掴もうとする意志が。
とても同い年とは思えないほどに真っ直ぐで、眩しくて──その純粋な瞳に、俺は。
生まれて初めて、小百合以外の女の子を心底綺麗だと、そう思った。
「……駄目? あたしみたいなのはタイプじゃない?」
少し、不安げな色がその一言で入り混じる。
全力で寄り添ってくれようとしている晴海に、俺は……。
「晴海は、俺でいいのか?」
「あたしは、高峯がいいな。さっきも言ったけど、ああやって自分の気持ちを大切にできるあんたなら、好きになれると思う」
……そっか。晴海は、俺を選んでくれるのか。
女の子にここまで言わせといて渋ってるのは、かっこよくないよな。
それに、晴海となら……また自分を変えられるのかもしれない。
「……俺、かなり頑固なんだ。結構長い間、引きずると思う」
「うん、いいよ」
「小百合のことばっか考えてたから、他の女子との付き合い方なんてわからない」
「そこはまあ、これからに期待ってところかな」
「晴海のことを好きになれる自信も、ない」
「ふふん。これでもあたし、先輩に好きになってもらうために色々頑張ってたから。案外コロッといっちゃうかもよ?」
優しく言葉を返してくれることに、俺はふっと脱力した。
それから怯える自分の心を叱咤して、真っ直ぐに晴海の目を見る。
「そんな俺でもいいなら……その、これからよろしく」
「うん。よろしくね、高峯っ!」
屈託なく笑う晴海に、俺も出来る限りのやり方で笑い返した。
こうして、俺は晴海陽奈と付き合うことになった。
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