七日七夜 白蛇抄第4話
只の死体でなかった。
内伏した死体のその髪が金色であった。
「面妖な」
そう呟いて近づいた如月童子は、
死体が女と判ると顔を見たくなった。
話しに聞く外っ国の紅毛人である。
思いきり蹴繰りその身体を転がした。
見れば先程まで生きていたのではないかと思う程
真新しい死人であった。
大きく見開かれたままの瞳は、空の色に似ていた。
「むううう・・」
如月童子は死体を担ぎ上げると、森の中に入った。
しばらく、歩くと頃合の良い窪地に死体を横たえ、
女が身につけていた物を引き毟った。
「ほう。ここも同じか」
軽く縮れた陰毛も頭髪の色と同じであった。
「ふむ」
如月童子は女だけの持ち物に指を押し込んでいった。
ぐうっと奥まで入れて行くと微かな温みが残っていた。
「やはり、死にたえたばかりか」
如月丸は下帯を解くと己の紫根をむずと掴み
女のほとに潜り込ませた。
ほとは、すでに力も失せ、
只、静かに紫根を滑らす道具にしか過ぎなかったが、
その美しい顔を見ていると如月童子はひどく高揚した。
死姦である。
女の顔を見ながら、童子は踊り狂うが如く腰を捻り、
くねらせ、突き動かし、
やがて胸の布を引裂きあらわになった乳を鷲掴みにすると
「おお・・お」
吼え声に似た呻き声を上げて果てていった。
女の顔を、目に焼き付ける様に食入る様に見詰ると、
そのまま童子は森の奥に入って行った。
これが如月童子が紅毛人を見た初めであった。
年が経つと如月童子は、その事が何度も思い起こされ
生きた紅毛人を抱いてみたいものだと思うようになっていった。
その後、女の死体は山童に無残に引き裂かれ、
食い散らされたであろうことは言うまでもない。
「おい」
「なんさあ」
伽羅が煩げに、返事をする。
「ほら」
手に持ったあけびをぐうと押し開き、伽羅に実を見せると
鏑木丸は口を押しつけ実を食らった。
「よう似ておろう?伽羅、わしにさせぬか?」
「はあ?あんたみたいな童に何ができるんね?」
鏑木丸は十五になる。
伽羅に淫交を求めたがあっさり、断わられてしまった。
「やれるかどうか。してみねば、判るまいて」
伽羅がけたけたと声を上げて笑うのを聞きながら、
鏑木丸は下履きを脱ぎ捨てると、伽羅の目の前に立った。
「ほう」
伽羅の笑い声が静まると、ごくと唾を呑み込む音がした。
「大人じゃないの・・・ふうううん」
ゆっくりと鏑木丸のものを見た伽羅の目が
ちらりと向こうの森影を見た。
「一度だけだよ」
「けちな事を言うな。邪気丸にはいつもやらせているだろうが」
「お黙り。いいかい?邪鬼丸の事は黙っておいで。そうしたら・・・」
伽羅の目が森影の方を見る。
「判った。それと、俺との事も黙ってろ。だろ?」
「ふ・・」
鏑木丸を叢に、寝転ばすといきなり、伽羅は、
鏑木丸の上にしゃがみ込んだ。
伽羅のずぶりと濡れた物に鏑木丸の物が飲み込まれてゆくと
伽羅が大きく尻を振り出した。
「おお・・・おお・・う、おう」
伽羅のほとに甚振られる様に
鏑木丸の男根がぐうぐうと反り返っては、
ほとの中を出入りして行く。
「うう・・ああ・・・・」
激しい勢いで腰を上下に動かしながら、伽羅は声を上げた。
伽羅の身体は鏑木丸の物を芯にして、
飛び跳ねる独楽である。
「あああ・・・よい」
踊り狂うような伽羅のほとがぐうううと
鏑木丸の物を締め上げ始め、
伽羅がいっそう喘ぎ出した。
「おお・・・おおうおうおうおうう」
しばらく、その声が続き、
やがて、伽羅の身体が鏑木丸の胸板にどうっと乗った。
動きを止めた伽羅のほとがひくひくと蠢きだすと
「ああああ・・・・・いくううう・・・・」
伽羅の声が鏑木丸の胸に振り絞る様に吐き出されると、
伽羅がぐんなりと身体を投げ出した。
「ああ・・あ、あんた。強いんだ」
「伽羅じっとしてろ」
「あ・・・ああ」
動けと言われても今はとても動けるものでもない。
伽羅の身体を叢に横たえると鏑木丸は
伽羅のほとにやっと自分の精を叩き込んだ。
「はっ。笑っておいでよ」
邪鬼丸が人間の女に夢中になっていると笑われた事が、
伽羅の自尊心を傷つけた。
人間の女なぞに負けておるのかと笑われたのと同じだった。
「あんたこそ、その内人の血が恋しくてほたえ狂うんだ」
そう言った伽羅だったがはっとした顔をして鏑木丸を見た。
その顔で、他愛の無いしっぺ返しの言葉でないと、
鏑木丸が気が付いた。
「どういう事だ?」
「はあっ」
大きく息を吐出すと伽羅は
「いいよ。言うよ。ほんとにあんた、知らなかったんだ?」
「あ?ああ」
「ふん。あのさ。あんた。
自分の御袋が死んだってのは聞いているよね。
人間はね。鬼ほど長生きできないんだ。
生きてたってどうせ今頃は婆さんさね」
「と、いう事は・・・・」
「ああ。あんた。人間との合いの子さ。おまけに倭人じゃない。
外っ国の女さ。如月童子、あんたのてて親がさ、
何処からか女を拾ってきてさ。あんたが生まれたんだよ」
「そうか・・・」
「厭だよ。そんな顔するなら、聞かなきゃ良かったんだ。
ああ、あ。言うんじゃなかった」
「そうじゃない。ちょっと、驚いたんだ。
わしも自分がほかと違うのは判っておったに」
「違うって?ああ、瞳の色が、少しだけじゃないか?
それでも・・・あんた、綺麗だよ」
「綺麗?」
「ああ、そうだよ」
鏑木丸の頬に手を伸ばすと、
その頬を両手で挟み込み軽く唇を重ねた。
「じゃなきゃ、あたしが、あんな気になりゃしないよ」
「邪鬼にかまわれなんだ意趣返しでなかったのか?」
それもある。淋しくもある。いい加減、ほたえも溜まって来ている。
美しい鏑木丸が思っていた以上に大人だったことも、
伽羅をその気にさせた。
身体を合わせてみればそう、悪くもない。
鏑木が慕ってくるのも小気味よい。
どうせ、邪鬼も余所に女がいるのなら、
伽羅に、鏑木がいるのも悪くない。
そう、考えると
「鏑木。先に帰れ」
「え?」
「誰かに見られとうない」
「今までだって」
「御前が、我の男になったは、見るものが見たら判るに」
「ぁ、伽羅?ほんにか?」
「ああ」
伽羅が己と、この先の馴れ合いを持ってもよいと聞くと、
鏑木は素直に喜んだ。
「ならば、先に帰るに」
「ああ」
「今度は、何時?」
「御前がとこに行くに」
「判った」
あっさりした性格で、表裏が無い。
下手な嘘もつかないし、逆に誤魔化しも出来ない。
御人よしといえばそういう事になる。
口はきついが芯の所で優しい女である。
いくつか年上であるが、
ひょっとすると鏑木丸の中の母親を弄る思いが
伽羅に惹き付けられていたのかもしれない。
鏑木丸が向こうの方に行くのを待って、
伽羅も森に入っていった。
「伽羅」
伽羅を呼ぶ声が響いた。
邪鬼丸の声であることは判っているのだが、
鏑木との後だけに流石に伽羅も心の内が穏やかでない。
できるだけ平静を装ったつもりだった。
「な、なんだよ」
「ほ。連れない答えだな。ぼうずの物で満足したって事かい?」
「な、何の事さ?」
「とぼけるな。おりゃあ、あそこの木の上で、
お前が鏑木の物に跨って踊り狂ってたのをずうっと見てたんだ」
「え・・・」
「伽羅。来い」
邪鬼丸が伽羅の手を掴むと、ぐっと跳び上がった。
「この木じゃ」
そう言うと邪鬼丸は伽羅の身体を抱き寄せながら
器用に木の枝を支えにして背を幹にもたれさせた。
伽羅のほとを剥き出しにすると膝を抱え込み体を持上げ
自分の男根をぐうううと突き立てて行った。
「はううう」
「じっとしてろ、暴れると落ちるわ」
ぐいぐいと邪鬼丸は好きな様に伽羅のほとを責め捲る。
宙に浮いたほとから陰茎が引き抜かれ、擦られ、
ほとの入り口際までたぶ実が出かけると又、突き入れられてゆく。
「あっあっあっあっ」
間断ない、細かな心地良さが鋭くて伽羅が声を上げる。
「しっ・・静かに」
邪鬼丸が動きを止めると伽羅を浮かし上げたまま、
己の物をじっとさせた。
「ふん・・鏑木か」
鏑木丸が、伽羅を探しているのであろう。
二人のいる木の下を歩く鏑木丸の足がふと、とまると
肩に落ちた物を手で拭った。
「?」
何気なく上を見上げた鏑木丸の目に映った物は
男根を付き込まれたほとだった。
それと判るまでしばらく鏑木丸もぼうとして見ていたのであるが、
そのほとから鏑木丸の肩に落ちた物と同じ物が
つううと糸を引いて落ちていた。
鏑木丸が気がついたのが判ると
邪鬼丸は再び、ゆっくりと動き出した。
「おお・・おお・・・」
それが、伽羅の声と判ると鏑木丸のこめかみがぴくりと動いた
「いつまでも、見やるな。伽羅がの、口直しだとよ。
なにや、下の口がたいそう不味い物を呑み込んだとな」
言いながら伽羅に声を上げさせる動きを早めた。
「ああ・・・うあ、おお、よい・・・。邪鬼、もう、もたぬ・・・
いきよる・・ああ、いきよる、はあああああ」
つらつらと、ほとから滑りが落ちくる物を見ると
鏑木丸は踵を返した。
「伽羅。よいの・・」
あくめを迎えている伽羅のほとに
邪鬼丸が己の物を激しく突き立ててゆく。
「おおおう・・・・」
邪鬼丸が果てる声を上げると、やっと伽羅の身体を離した。
「なんさあ」
「なにが?」
「我の物がよいなら何故、人間の女子の所になぞゆく?」
「もう行かぬわ。伽羅のが良い」
「ふん。どうだか。それに、新羅の事も・・・どうするのえ?」
新羅は伽羅と同じ女鬼である。
「決っておろうが、夫婦になるのはもう決められた事じゃわ」
「ふん。そうしておいて、人間の女子の所に通うか?」
「もう行かぬて。じゃが、伽羅はわしの物じゃ」
「新羅を娶っておいて我を抱くと言うか?」
「厭か?うん?」
「厭じゃ」
邪鬼丸の物が再びそそり立って行くのに気がついている伽羅である。
それが又、伽羅の中に入りこんで行く。
「伽羅の口はそういうがの」
伽羅の中に蠢く物に伽羅が声を上げ始める。
「こちらがわしを離しとうないと言うておる」
「ああ・・・」
「厭か?」
「あ、ああ」
「言うてみい。厭か?」
「ああ。良い・・・」
新羅は、伽羅の事も人間の女子の事も気が付いてはいない。
それを良い事に、夜毎、日毎、人の姿に身を映して
遊び呆けている邪鬼丸である。
「人間の女子なぞに・・・」
喘ぎの中からまだ、恨み言をいう伽羅である。
「良いではないか。御かげで伽羅のが良いのがよう判ったと言うておろう」
「ふん。人間の女子はまぐわいを金に換える。
そのような女子になんで、邪鬼丸が現をぬかすか判らぬ」
「ふん。売れる程の物であったと思わぬか?」
伽羅の悪態に邪鬼丸が言い返す。
まだ、悪態を返してきそうな伽羅を黙らせる為にも、
邪鬼丸は更に深く己の物を伽羅の中に突き込んだ。
「おおう・・・」
「その物より良いというているのであろうが・・・」
その事は伽羅も邪鬼丸の言葉で気が済んだのであろう。が、
「新羅の事は?もう、抱いたのか?」
「もう、よいではないか・・・」
邪鬼丸の動きが激しくなって行く中、
伽羅ははっきり判った。
『邪鬼は伽羅でなく新羅が、ようなったゆえ、
人間の女子の所へ行くのを止めたのだ。
目新しい物好き故な。
が、直にまた飽きて里に通うようになるに決っておる』
伽羅の思ったように邪鬼丸は後に又里に通い出すのである。
そこで見かけた女に狂ったが為、
邪鬼丸は命を落とす事に成るのであるが、
今の邪鬼丸にはそんな事が判る筈もない。
気が済まぬのは、鏑木丸である。
頭上で乱行をおこなうのを黙って見た後は、
その足ですぐ新羅の元に走っていったのである。
我の男にすると言うたのが新羅と邪鬼丸のこともある。
邪鬼丸を諦めて鏑木一本にするという事であると思うたのが
己の子供ぶりであり、
女の業の深さに謀れたと思うと如何せん悔しくてならない。
「新羅。我の男が木の上でほたえ狂うておるぞ」
「え?」
「行ってみて、我の目で確かめて見ればよい」
脱兎の如く駆け行く新羅の顔が、ひどく恐ろしげなのがちらりと見えた。
「ざまあみろ」
吐き捨てる様に呟くと鏑木は考え込んだ。
このまま、ここにおれば邪鬼丸の意趣返しをくらうに決っている。
伽羅にも厭な目で見られるに決っておるし、
鏑木も伽羅をもう、見たくもない。
鏑木はそのまま居を移す事に決めていたが、
それを何所にしようか考えていたのである。
「新羅。すまなんだの」
知らぬでもよい邪鬼丸の裏切りを新羅に教え
二人に一泡吹かすのに新羅を利用した。
結果的に新羅を苦しめてしまう事だけが
鏑木の心の中で小さな痛みであった。
それから鏑木は南紀の方に足を運び、大台ケ原に居を構えた。
そうする内に邪鬼丸の祝言も滞りなく済み果て、
半年もせぬ内に邪鬼丸の非業の死を伝え聞いた。
そこに伽羅が現れたのである。
邪鬼丸が幼名を改めようという前、
邪鬼丸のまま、その命を散したのである。
「ここに来やるな」
「・・・」
「わしはお前など要らぬわ」
「じゃが、もう、あそこには居られぬ」
「居ったではないか」
「く・・」
鏑木丸の告げ口によって新羅に邪鬼丸との仲を暴かれながら
それでも伽羅は邪鬼丸恋しさに
邪鬼丸が新羅を娶った後も隠れ住むように
伯母小山に棲みついていた。
邪鬼丸との密か事も新羅の目を盗んで繰返している内に
邪鬼丸の里通いが始まったのである。
惚れた弱みもある。
妻でもない伽羅はそれを黙って気がつかぬふりをするしかなかった。新羅の手前もある。
もう、お前とは会わぬ。
そう言われるのが恐ろしかったのである。
が、邪鬼丸の色狂いがとうとう祟り目にはいった。
悪辣な陽道の手に掛かり邪鬼丸が非業の死を遂げると、
伽羅は伯母小山を後にした。
そして、この大台ケ原に住み着いた鏑木丸の元へ
足を運んだのである。
「あそこにおっても、もう、邪鬼丸はおらぬ・・・」
やっと口に出した言葉に
「ふん。それ程、邪鬼丸が良うて、などか、わしとよう通じたの」
「・・・」
伽羅の目から落ちる涙を見詰めていた鏑木丸であったが
「本気じゃったのか?邪鬼の子は留まらなんだのか?」
首を振る伽羅であった。
「新羅は孕みおる・・・」
うめく様に呟く伽羅だった。
人間の女子に負けたというて悔しげに涙した伽羅が、
子の事でも新羅に負けたと泣く。
それでも追い求め耐えてきたのも邪鬼丸故であった。
が、その邪鬼丸ももう居ない。
「哀しゅうて・・・淋しゅうてならん」
「一度だけだぞ」
鏑木丸は伽羅につと手を延ばすと伽羅を引寄せた。
己の中のほたえに身を任すと
二人はそのまま重なり合っていった。
朝には伽羅の姿は無かった。
この後。
伽羅は、鏑木丸の心に詫びる為か、
捨つられた悪道丸を拾い上げ育てて行くのであるが
それは後の話。
「安堵龍!?案、暗,土、竜」
当て嵌まる簡単な字を思い浮かべて
一語ずつ音を発っしてかなえは、
地面に小枝で字を書いて見せた。
アンドリューはそれをなぞると
かなえの書いた下に同じ様に字を書いてみせた。
かなえは次に
「か」「な」「え」
と、一言ずつ区切って、かなえと地面に書いてみせた。
「くぁ・ぬぁ・え?」
「ああ・・そう。かなえ」
「くぁぬぁえ」
「そうです」
アンドリューはじっと地面を見ていた。
そして暗の字を指さし「あん」と言うと、二本の指を出し、
土の字を指差すと「どう」と言って一本の指を出し、
竜の字を指して「るうう」と言って三本の指を出した。
それでかなえはアンドリューの言う事が判った。
かなえの字が一語一音に対し暗土竜に字は夫々音数が違う。
「ああ」
かなえはもう一度平仮名で字を書いた。
「あ、ん、ど、り、ゅ、う」
同じように一語ずつ音を声にして
暗土竜の字の横に書いて見せた。
「アンドリュー」
二つの字を見比べながら男は何度も自分の名前を呟いた。
「この国には色々な文字があります」
そう言うが通じる訳がない。
なのに、アンドリューはふんふんと頷きながら聞いている。
可笑しな人。
いや、優しい人なのかもしれない。
その日から、かなえは暗土竜に言葉を教え始めた。
この国で無事に生きて行く為には食う、寝る所に住む所。
それに継いで大事な事である。
かなえは自分を指差し
「わ、た、く、し」
と、教えた。
「くぁなぁえ」
「そう」
そして暗土竜の手を取ると
その指を一本立てさせて暗土竜を指差せると
「わ、た、く、し」
と、教えた。
アンドリューは、それで判ったらしい。
ふんふんと頷いて見せたが
「おお、うえる」
と、言う。
「ひもじいですか?」
食べる物をさほどに持って来る事が出来ない。
哀しい顔でいるかなえを覗き込むと暗土竜は、
「くぁなぁえ」
かなえの指をひいてかなえの鼻に当てると
「わたくし」
と、いう。
「あ、はい」
そうして自分の指を自分にむけると
「あんどりゅう。わたくし」
と、言う。判っているのである。
「あ、はい。そう、そうです」
「うえる」
どうやらそれが承知したという意味なのだと判ると
かなえはほっとした。
「また、明日。明日はもっと、食べる物を持って来ます」
そういうと、かなえはこの流れついた紅毛人を隠し住まわせた洞の祠を後にした。
森が騒がしい。鬱っとおしい者がおるなと思う光来童子、鏑木丸の大人名である。
その光来童子がふと、歩みを停めた。
途端、その森の茂みの中から飛び出してきた男の子を避ける事も出来ず鉢合わせをするかのように行きあたってしまった。
が、よく見れば女子である。
男のようにたっつけ袴姿に髪を一括りに結い上げている。
逃げると思うた向こうから、ぐいと近寄ってくると
「ああ。暗土竜」
目の前に飛び出してきた女子は光来童子をそう呼ぶ。
「どうしておったのです?居なくなって心配したのですよ」
と、言出す。
怪訝な顔で光来童子は女子を見た。
まず、第一人も恐れて近寄らぬ鬼の目の前に飛出して来ただけでも、おかしな事なのに、
恐れも見せない上にそれが女子なのである。
おまけに親しげに言葉を懸けてくる。
懸けて来た言葉も実際誰かと光来童子を間違えている。
鬼に知り合いが居る事も妙な事である。
鬼を知らぬ?
鬼に良く似た男がおる?
それとも可愛そうに気がふれておるのか?
「おい、わしは鬼なのだぞ。怖うないのか?」
「え?」
「誰と間違えておるのか知らぬが、御前の目の前におるは、鬼だぞ」
すらすらと喋る言葉とその声でかなえもそれが暗土竜でないと判った。
が、この男が自分は鬼だと言うのが可笑しかった。
「鬼などであるものですか。何処の世にこのように美しい鬼がおるものですか?貴方は暗土竜とは何の縁もないのですか?暗土竜を知ってはおりませぬか」
「あんどりゅう?」
知らない様子にかなえは肩を落とした。
「知らないの・・です・・・ね?」
「そ奴はわしに似ておるのか?」
「ええ、とても」
「御前の想い人であるのか?」
「え?」
そういう気持ちがあるのかどうかも考えた事が無かった。
流れついた紅毛人の命をなんとか助けてやりたかっただけである。
人に見つかれば紅毛人と恐れられ石を投げ付けられ逃げ回るしかない。
アンドリューの体が回復してくると、この国で無事生きてゆく手立ては無いものかと、考えを巡らしていたかなえである。
そのかなえの前からアンドリューは姿を消した。
外っ国の仲間が彼を連れ戻しに来たのかもしれない。
それならば良いのである。
何度か戻っておるかも知れぬと洞の社に足を運んだ。
洞の社には人は近づかない。
戻ってきておれば人の入った痕跡が残る。
それに・・・
「居なくなったのか?」
「あ」
じっと、考え込んでいたかなえがやっと光来童子を見た。
「外っ国より流れ来た者です。酷く弱り果てているのをかなえが洞の社に御連れして食べ物を運んで、ようよう体が癒えて来たと想うたら、おらぬようになってしまいました」
「ふううん」
鬼が怖うないぐらいだ。
外っ国の者なぞ怖くもないのであろう。
が、光来童子の母は外っ国の女子である。
見た事もない母と同じ外っ国の者と聞くともそっとその男の話しが聞きたくなった。
「かなえという名か?」
「あ、はい。どうして?」
「自分で言うておった」
「はい。か、な、え。平仮名でそのまま、かなえとかきます」
「わしが怖うないのなら、その外っ国の男の話しを聞かせてくれぬか?」
「はい」
これが、かなえと光来童子の出逢いであった。
かなえの中の幼い憧憬と光来童子の見ぬ母への追慕の情が重なると二人の話しは面白いほどに続いた。
外っ国の紅毛人の事を話せる相手が御互いにしかおらぬ事がさらに二人に又会う約束をさせる事になってゆくのである。
「そうか。うえると言うのは餓える事でのうて、判ったという事であるのか」
「はい。肌は白うて髪はくるりと巻いております。貴方はそうまでも巻いておりませぬが、湯浴みも出来ず日の照る外を歩き回ってそうなったのかと見間違えました」
ぼうぼうとあれた髪が軽く総毛立つように上を向いている。
それを無造作に引っ括った髪が乾いてざわざわとした感じに見える。
「髪の色もこのような色か?」
「もう、少し。薄い木肌色をしております。が、よう似ております」
「紅毛人というて、赤い髪でないのか?」
「はい」
「目の色はどうじゃ?」
よくよく覗きこむと鳶色がかった目の色の中は薄く空の色を混ぜた色をしている。
「あ、はい。もう少し青みが深うて下地の色が鳶というより灰色に近うて・・・ああ、でも、よう似ている」
光来童子の瞳を覗き込むかなえが存外女子らしく可愛げな顔付きをしているのを光来童子はまじまじと見た。
「御前。わしが鬼じゃというに、ほんに怖うないのか?」
「本当の鬼なら、かなえはとうに食われておりますに」
「戯けた事を。何処のどいつが鬼が人を喰らうなぞと」
「・・・・・・?」
「どうした?」
「本当なの・・です・・か?」
「食いはせぬ」
「いえ、そうでなく・・・鬼」
「怖うなってきたか?」
「いえ。食われぬならよう御座います」
「信じておらぬな」
「はい」
くったくのない笑顔である。
「まあ、よいわ」
人を呼ばわる声が聞こえ始めると、それが、かなえ様、かなえ様と繰り返されている。
「探しに来おるぞ。帰れ」
そう、言ったが
「のう。明日もここで待ちおるから紅毛人の話しを聞かせてくれぬか?そ奴ばかりでのうて、他から聞いた話しも知っておれば、わしに聞かせてくれ」
言うと、どっと地面を蹴った姿が空高く舞いあがると男が消えた。
「あっ。・・・ほんに?ほんに、鬼・・・」
が、優しく美しい鬼である。
光来童子の消えた辺りをじっと見ていたかなえの後ろから、憐れなほどの息遣いが聞こえてきた。
「は・・ひい・・・かあ・・かなえ様・・・ふうう」
後ろから現れた海老名はぜいぜいと息をしながら
「言う事を聞かずに・・・探しましたに・・・ほんに三つ子より悪い。聞いてもらわねば」
思うまま心の内を口にだすものだから、何をいっているのかさっぱり要領を得ない。
「海老名。父上の矢はあそこにありますに」
開けた森の向こうにまで飛び越した矢は雉鳩を射ち損ねていた。それを拾い上げると
「ああ。こんな所まで殿の弓は・・・豪腕のもの。よう、ここまで」
「ええ」
「が、勝手に森に入るのならばもう弓の御伴はなりませぬ」
「良いわ」
かなえは城を抜け出る法を知っている。
それを知らぬは父であり海老名である。
「よく隠れおりますに、何処に隠れおるのやら、それも心配でなりませぬのに人が用をしておると、ふいと現れて小言も言えぬに。
今日はよう聞いてもらわねばなりませぬ」
日頃のかなえの行動への鬱積が海老名のとさかにまで上がってきてしまったようである。
かなえはぺろりと舌を出すと
「海老名。余り怒るとそもじも美都也の如きに倒るるぞや」
「か、かなえ様!」
その手を掴むと海老名は元来た方にかなえをぐいぐいと引っ張っていった。
「海老名。痛い。離しやれ」
「いいえ。殿の御ん前に御連れして海老名の話しをよううに聞いて貰うまでは離しませぬ」
「判った。が、ほんに痛い」
「左様で御座いますか?」
又、逃げられてはいけないと思うのだろう。
その手を緩め様としないので、かなえも手首の痛みを辛抱して海老名に引かれながら是紀の元に戻ってきた。
海老名が掴んでいるのが、空矢であるのは判っている。
が、
「おおう。海老名。大きな獲物じゃの」
「はい。繋いでおくに縄がいるような、目を離すとすぐに居なくなりますに」
「おっ?おおう。かなえ。かなえ」
どうも、機嫌の悪い海老名の相手は是紀も苦手なのである。
仕方なくかなえを近くに呼ぶ。
「はい」
近寄ってきたかなえが是紀の前に立つと、是紀は小さな声で
「海老名がひどく御冠じゃな。何を言うた」
「あまり怒ると美都也のように倒るると」
「あ、それは、まずい・・」
美都也は、簡単に言えば、婆である。
是紀の妻である豊が、自ら奥付の女中から海老名をかなえの御付きの者として、養育係りとして抜擢してくれと是紀に頼んできたのであるが、それがいけなかったのか、使命感に燃立ったのか、
かなえがこの年になっても嫁に行かぬまま仕えているのである。
だから、歳もくうておる。
歳の事を言われるのが一番癪に触るらしく、是紀も迂闊に投げかけた言葉でおうおうと泣かれた事があった。
その海老名に一番歳である美都也と並べて言うのは、「まずい」事なのである。
「別に歳の事を言うたでないに」
「しっ」
何や聞こえたのか海老名は是紀の側に歩み寄ってきた。
「殿。殿がかなえ様を甘やかす故に」
どうやら、お小言の矛先が是紀の方に向けられるようである。
「良いではないか。闊達な女子じゃ。
嫁がば、もう好き勝手も出来ぬ。好きにさせてやればよい」
「殿が、そのようなお考えですから、女子だてらに馬まで乗りて・・。殿が教えるに・・」
「はははは・・・よう、乗りこなす」
是紀はそう言う間に矢を抜き出すと弓に番えきりりと引く。
「が、この弓は引けぬ」
うーーーんとかぶら矢が唸りを上げて飛んで行くと、
兎を射抜くのが見えた。
「生き物を絶つような事なぞ教えて下さいますな」
「はははは。この弓を引くような程の腕があらば教えてやってもよいがの」
「御冗談を、その弓が引けるような力持ちの女子になぞなってもらっては困ります」
「引けぬわ」
「わかっております」
「どうも女子しか生まれぬ。やっとうまれた男子は体が弱うて、才があるは女子のするような事ばかりじゃ。
などか、わしのような男に力のある男子が授からん?」
「人それぞれ才分が、ありますに・・・」
「ふん。この弓を引くような男がかなえの良人になれば良いがの」
「その弓を引く者なぞ殿の他におりますまいに」
獲物を獲りにいった男衆が是紀の前にその兎を持って来た。
「うむ。狙うた通りじゃ」
胴を射ぬくより首辺りをいつも狙うのである。
それを見る間に次の獲物を見定めていたのであろう。
是紀は新たな矢を番える。
「おらぬじゃろうのう::」
引く手が長く延びると、じいと獲物を見定める。
その間でさえしなりを緩ませないでいる。
その腕も堅く引き絞る様に筋がたっている。
並の力で引けるものではない。
「おったら、かなえを娶らしてやるに・・・」
引きながら是紀は喋っているが、其れとて容易な事でない。
「殿、その様な軽口は慎みなされ」
「戯言じゃに。いちいち煩い・・・」
「あ、は、はい」
さすがに連れてくるでなかったと思うた是紀である
かなえを連れ来るに海老名も参ります。という、、断るのも五月蝿くてつい連れてきたのであるが、どのみち五月蝿かったのである。
が、叱られればさすがにしゅんとするのである。
是紀は海老名が泣いた時のことを思い出していた。
「嫁に行かぬか?」
後添えではある。が、悪い話しではない。
子は一人。姑、姑女はいない。
が、云と言わない。あまりの強情につい
「未通女のままか?男も知らぬような女なぞ女ではないわ」
と、言った。言ってから、しもうた、と思った。
「ならば、海老名はなんですか?」
ただの乳母桜だとは言えない。
「未通女ではいけませぬか」
「役に立たぬわ。女子は男あってこそ女子じゃ。
子を産んでこそ女子じゃ」
「べつに、殿の役に立たぬで、よう御座います」
かなえ。かなえ。なのである。
それが是紀にも引け目なのである。
かなえの養育係にしたばかりに女子の仕合せを奪ってしまった様に思えるのである。
かなえの役に立てればそれで良いと言う心は是紀も頭が下がるのであるが、主を省みない口の聞きようが腹に据えかねた。
「殿の役?おまえがなんの役にたつ?おまえなぞに伽も出来ぬわ。だいいち口煩い。それこそ、あれこれこちらの遣り口にまで口出ししてきそうじゃわ」
「それは殿が御下手じゃから・・・」
未通女の言う事である。
何も判ってないのであるが、その口の立てようが
だんだん、腹に納まらなくなって来た。
「阿呆。御前の様に口煩そうて、艶も色気もないのを貰うてくれて。だけならまだしも、子を成せることもせず人の親にさせてもらえるなぞ、有難い話じゃろうに」
「いいえ」
「おまえのような、年寄りをもらおうと言う方が間違っておるというか!?よう自分を弁えろ」
途端に海老名が泣き伏したのである。
廊下まで通る声でおんおん泣き果てるとさすがに豊も聞き付けてやってくる。
「殿御に受けられぬは、よう御座います。
艶もないも色気が無いもよう御座います。
口煩いも、殿が為かなえ様が為、海老名も筋がありますに良いです。
が、歳を食うたは、歳を食うたは、海老名も好きで食うて居る訳で御座いません。
向こうから勝手に食わせる物を・・・」
向こうが何処の事であるか定かでないが
「殿も言いすぎましたに」
そう豊が慰めると是紀に向うに行けと目で合図をする。
「もう、良い。好きにしろ」
そして、結局かなえの側にいるのである。
これが海老名の仕合せなのかも知れぬと思うと
是紀はもう婚儀の話を海老名に勧める事は止めた。
歳の話もである。
その様子を森の木陰から見ていた者があった。光来童子である。
「はあ。お大尽の娘御か」
女子だてらに、男物の着物を羽織っていたのも馬に乗って来たせいであると、判ると鬼も知らぬも恐れぬのも判る気がした。
育ちが育ちである。
上に、豪奢な父の手元で闊達を延びるままに延ばされているのである。
乳母殿も苦労な事であるな。
光来童子はくすりと笑うと森の奥に入って行った。
かなえの父がその海老名に諌められた言葉が
すでに大きな理になり、この先の因を結ぶ事になるとは、
光来童子も夢にも思っていないのである。
「よう笑う女子じゃ」
奥に進んでゆく光来童子の耳に微かに聞こえて来るのは、
鮮やかな青い果実が撓むようなかなえの笑い声ばかりである。
是紀のかなえを可愛がるのが判るような気がする。
鬼をも魅了するくったくの無さに、
かてて、どう育て上げたらあの様に邪気無く己の心の信ずるままに相手を受け入れられるのだろうか?
この鬼にさえ心安く胸襟を開くのである。
「不思議な娘よのう・・・」
冬が過ぎた。
光来童子に逢える事を出来なくさせた雪もようよう消え果てた。
春になると、小川がせせらぎ出す。
雪解けの水が冷たかろうに、
蕗のとうが芽を出すのはいつも、決って
その小川の端が壱等早いのがかなえには不思議だった。
冬になると火の見櫓まで、雪の上に足跡がついてしまう。
それに冬になると雪で扉がすぐ開かない事がある。
その為、冬には櫓の上まで梯子を外からかけてあるのである。
櫓の上の台座の扉も固く閉められている。
かなえの秘密の抜け道は火の見櫓の扉の中の階の下にあった。
大人であれば階をどけなければ入れぬ狭い隙間に潜り込むと、かなえはいつも、そこから外に飛出して行くのである。
冬の間に逢えなかった光来童子に逢えるかもしれない。
期待に胸が高鳴るのを、そのままに森に入り込んだ。
「光来童子:・・・童子」
そうううと、呼ぶ声を聞きつけたのか、
かなえが来ると思っていたのか、
森を抜けた件の場所に、光来童子は立ち尽くしていた。
「ああ」
「おお!元気そうじゃの」
かなえは今までに何度か城を抜けでて光来童子に逢うと
外っ国の事々を知り得る限り、話し尽した。
いつもにこにこしながら、かなえの話を聞いていた光来童子が
今日はやっと、自分のことを喋りだした。
「わしの母親と言うのがの、外っ国の女子だったそうじゃに」
「ああ、それで、こんなにうつく・・・」
かなえの言葉が止まると
「母上様を知らぬのかや?」
「おお、物心がついた頃にはおらなんだ」
「ああ、悪い事を聞いたに」
「気にせんでもよい。見ぬ母故にの、かなえの話しが嬉しゅうてな」
「・・・・」
「何、生きておれば喧嘩ばかりしておったやもしれぬ」
「まさか」
「そうか?そう思うか」
「え、ええ」
「女親と言うのはそういうものなのか?」
「はい。かなえの母もかなえをよう庇うてくれます。
童子は父上様と、喧嘩ばかりするに?」
「いや、そういうわけでない。
鬼はの、十二になったらもう一人で生きて行かねばならぬに、
いつまでも父の元におるは女鬼ぐらいじゃ。
わしも喧嘩のできるほど父の元におらなんだ」
「ああ。哀しゅう御座いましたな・・・」
「ふふふ・・・かなえは父が好きじゃな」
「何故に判ります?」
「今の答えじゃ」
父を疎んじておれば、
光来童子に返してくる言葉は違っているだろう。
それはせいせいしましたなとでも言うだろう。
「父上様には逢わぬですか?
父上様にじかに、母上様の事を聞いておらぬのでしょう?」
「あ奴は喋らんわ」
語気鋭く、荒荒しい返事にかなえも返す言葉を無くした。
「あ・・の」
「あ、すまん」
「いえ・・」
「かなえを怒ったでないに」
「判っております。童子は本当は淋しゅうないですか?」
「あ、」
「淋しゅうないのなら良いのですが」
「かなえには、嘘はつけぬの。わしは・・・淋しいのだろうの」
「は・・い」
薄い空の色に似ている瞳が哀しそうに見える。
「かなえは良いの。父と仲が良い」
「光来童子はいくつになります?」
「二十二になる。それがどうした」
「十年も父上の元を離れ一人で暮しおるのですか?」
「そうじゃ。わしはもう、大人じゃに。
淋しいなぞ、言うては可笑しいの。
かなえはいくつになる?」
御互いの歳の話しなぞするのがこれが初めてなのである。
今までそれを知らずにおったのが可笑しくて、
かなえがふと笑いながら
「じき十六になりますに」
と、答えた。
「十六?本当か?」
「本当です?」
「に、しては子供じゃ。紅もつけず。
男の様に野を駆け回っておるのを見ると・・・。
そうじゃな十二というぐらいかの」
「光来童子は・・・紅を挿した女子の方が好き・・なのですか?」
じいいとを見上げるかなえの目の中にある光に
光来童子は気がついた。
その光はかなえを見る光来童子の瞳の中にもあるものだった。
「あ、いや、そういうわけでない・・」
かなえの手を掴むと、光来童子はかなえを引寄せた。
その胸の中に飛び込む様に入ってくるかなえを
しっかり擁くと、その頬に己の頬を摺り寄せた。
「かなえが、紅をさしたら・・もっと綺麗だろう」
影が重なる様に二人の唇が重なると、
かなえが帰る刻限までの長い間を
二人は、ずうっと擁きあっていた。
やがて夕闇が迫りくる頃を告げる、
巣に帰るからすの鳴き声にかなえを促がすと
かなえが森を抜けるまで童子はその姿を見送った。
かなえの姿が小さくなって見えなくなってしまうと
童子はどっと地面を蹴った。
大台ケ原の居室まで一飛びで帰りくると、
もう夕焼けに空が赤くなってしまっていた。
「明日も晴れる」
が、童子の心の内は晴れる事は無い。
微かな後悔を押し退けて果てない喜びが
胸の高鳴りを一層高くしているのにである。
御互いの気持ちが繋がると
二人の間の垣根を取り払いたくなる。
光来童子の中に芽吹いたものを
欲望と呼ぶにはあまりに切ないものがある。
「いかぬ。かなえは人間じゃに。これ以上は決して、ならぬ」
そう呟く。
その後ろから
「鏑木丸・・・」
光来童子を幼名で呼ぶ者が居る。
「あっ」
振り向くとそこに伽羅が居た。
「久し振りな」
最後の伽羅を憐れに思いて擁いてやってから
もう逢う事は無かった。
伽羅も約束を守って現れなかったのである。
あれからもう五、六年の月日が経っている。
「伽羅か・・・」
二、 二度身体を合わせた事のある女鬼を懐かしいと思うより
厭な者を見る目で見ている自分に光来童子は気がついている。
それもかなえと恋に落ちたせいである。
清冽なかなえを思うと伽羅との事が
ひどく薄汚い事に思われてくるのである。
「もう二度と逢う気でおらなんだ。そういう約束じゃ」
「判っておるわ。誰がそのような用事できたりするものか。
馬鹿にしやれ!!」
「なんの用事だ?」
「人間の女子にほたえをあげておろう?」
「・・・・」
「半妖の身なれば、邪鬼のように
色香に狂うての事でないのは判っておる。
己の血が人を求むるは、よう判る。
が、人間なぞに情を移してはならん」
「邪鬼のようになるかとや?」
「御前の死ぬるまで見とうない・・・」
「邪鬼のような事はせぬ」
「本当にか?」
「ああ。あれの生き様を変えとうない・・・」
「・・・・」
「なぁ。伽羅。わしの母親は
如月童子にわしを生ませしめられても、
なお、如月童子を思うておったのかの?」
「どういえば良い。幸せじゃったと言うたら、
御前はあの女子を求むるのか?
不幸だったといえば御前は
己の生を受けたのが哀しかろう?」
「答えとうないか?」
「御前のてて親は本意で想うておった」
「・・・・そうか・・・」
「鏑木。想いは自由じゃ。
心の内でどんなに想おうが、どんなに愛そうが構わない。
じゃが、其れしか許してはならぬ。
想いて想いて想うだけにしや。
決して肌を合わせてはならぬ。
想いが押さえきかぬようになる。
もう、触れおるな。なっ、なっ」
「邪鬼にそう言うてやりたかったの」
伽羅の号泣が祠の中に響き渡った。
「心配すな。わしも・・・わしが鬼じゃという事はよう、判っておる」
「頼む。血を沸かさば思いが湧く。
思いは・・鏑木の想いは人恋しゅうなる。
の、思いを沸かすは己のほたえに負ける故・・・の、の、の」
ぐうと近寄る伽羅を童子は押しやる。
伽羅はそのほたえを自分にぶつけろと言うのである。
「伽羅。御前の気持ちはよう判った」
「判っておらぬ。その、ほたえを無くさねば
必ずや命を失う事になるに」
「伽羅。それでも、わしは御前を抱く気になれぬ」
「人間の女子が良いか!?
もう、心奪われほたえをあぐるはその女子ゆえか?」
「伽羅。わしは邪鬼ではない。
人間の女子に心奪われた、恨み言をいうても詮無い。
それに、わしはかなえを抱いたりせぬ」
「本当だな!?本当だな?
邪鬼のように討たれとうなかれば必ずや、その言葉仇にすなよ」
「判った」
「帰るわ。気を悪うしてくれるな」
「気にすな。伽羅の気持ちは、よう判る。
わしはかなえが大事じゃ。
あれはいずれ・・人のもの。
わしの知らぬ所に嫁に行って子を成してゆくに、
それを汚す事はできん」
その日を境に光来童子はかなえを待つのを止めた。
一方かなえの方はと言うと。
これも同じ様な事態になってしまっていた。
城にぬける狭い横穴を屈み込みながら
やっと火の見櫓の階の裏に出て来ると膝を折り曲げ、
頭を低くして階の下を潜り抜けた。
「あっ、あっ」
そこに仁王立と言うが、まさにそんな風にして
顔まで仁王の顔で海老名が待っていた。
「そういう事で御座いましたか」
よもや、こんな抜け道があるとは思っていなかった海老名である。
忍ぶように火の見櫓に歩んで行くかなえの姿を見かけたのが
一刻以上前であった。
それから一刻以上。
海老名はここでずうとかなえを待っていたのである。
かなえの姿が火の見櫓の中に入るのを見かけた海老名は
直に火の見櫓に駆け込んだ。
が、居ない。
「どこに隠るる場所があるのやら・・・」
単純にそう思っただけであった。
呼んでも出てこぬ。
又、海老名を困らせてやろうという魂胆であるなと思うと
海老名は敷き込んである
むしろの上をなぞる様に見詰めて見た。
軽く踏まれた痕が階の下に続いている様に見えた。
薄暗いその下に隠れおるなと辺りをつけてひょいと覗き込んで
「かなえさま?」
いない。
階の下の石組みがぼんやり見えるだけである。
よくよく目を凝らして見ておるとその奥がもう少し窪んでいる。
ははあ。その後ろに隠れおるな。
「なんで、私がここに入らねばなりませぬ。
素直に出ていらさりませ」
ぶつぶつ、文句を言いながら、
往生際の悪い姫を引っ張り出して
ぎゃふんと言わせねば気がすまないのである。
「そこに隠れおるのは判って下りますに出ていらさりませ」
返事一つなく静まり返っている。
見間違った訳はない。
海老名が駆け付けるまえに火の見櫓を出たか?
いいや、有り得ない。
すると、このまま尻尾を捕まえねばかなえの思う壺という事になる。
「ええい。判りました」
まるで童のする隠れ鬼である。
海老名は狭い中に身を抉る様に入って
ずいと、窪みを覗き込んだ。
だが、居ない。
窪んだ隙間には
ここを建て上げた大工の頭領の祭った祠があるだけであった。
良くある事である。
築城の加護を祈りつつも、
地神の出入り口を塞いではならぬのである。
建物の使わぬ場所を選んで小さな祠を作り置くのである。
同じように天守閣の梁の上にも
同じ神の名前の書かれた札と枯れ果てた榊が置かれていた。
よく目を凝らして見るとその祠が台座より軽く斜めにふれている。
「?」
その後ろがひどくほの暗い。
「えっ?」
抜け道があるのである。人一人通るが精一杯であろう。
落城の憂き目を考えて抜け道が
穀物倉に一つ作られているのは知っていた。
「これは・・・」
それと、同じもの。
が、これはそれとは別の所に抜ける様である。
だが、どうしてそれを誰にも知られずにいたのか?
どうしてかなえがそれに気がついたのか?
海老名はいずれにせよ、かなえを待つ事にした。
やがて、ごとりと音がするとかなえが姿を現した。
そして、仁王に踏みつけられる小鬼のように、
海老名に捕まってしまったのである。
くどいほどの小言と責め言は何でもない事であったが、
それを是紀に言われたのにはさすがにかなえも応えた。
「城を抜けだしておったと?」
是紀も呆れ果てると、階の下を塞がせてしまったのである。
その日からかなえは願をかける事になる。
愛染明王に縋る事以外、
光来童子に逢う事は叶わないのである。
春になるのを待って主膳は是紀のところへ出かけて行く。
やれ茶の湯の道具立てじゃ、観梅じゃ、茶会じゃと、
是紀もあれこれ用事を作っては、主膳を呼ぶ。
主膳も、何やかと自分からよく出かけてくる。
馬で飛ばしても近江からここまで半日はかかる。
朝暗い内から馬を引き出し駆け通しにやってくる。
「かなえ。茶の用意をしておけ」
是紀の後ろから、
かなえに軽く会釈する主膳を振り返りながら、
是紀はかなえに茶の湯の仕度をしておく事を伝えると
「狩りにゆく」
と、言う。
「はい」
返事をしたかなえが向こうに行くのを主膳がじいと見ている。
『やはり・・・かの?』
その主膳を是紀がまた、見詰ている。
かなえの姿が向こうの方まで行ってしまうまで
主膳はかなえを見ていたがはっと気がついたように
「ああ、参りましょう」
弓の伴に参ずるのである。
是紀にも目論見がある。
昨年の観月の宴の席の時も
やはり主膳はかなえを食い入る様に見詰めていた。
その時に是紀はひょっとすると
この男かなえの事を?そう、思った。
同時にはたと膝を打った。
かなえもそろそろ嫁に出す頃になっている事に
気が付いたのである。
いつまでも是紀の手元に於いておく訳にはいかぬ。
そう言う時期がとうとう来たのである。
が、まだ十五。
早くは無いが惜しくはある。
主膳の気持ちも人物も量りかねる。
それを確かめる様に主膳を呼べば一つ返事でやってくると
「遊びに参りました」
と、言う。
遊びに参りましたという距離ではないのににこやかである。
弓を引き絞る二の腕がこんもりともりあがると
弧を描いた弦がじっとしている。
やがて刺すような目が小さな獲物を捕らえると
その弓を番えていた指が離され
一直線に唸りを上げて矢が飛んで行く。
三人がかりでしなりをいれて作った弓を
軽々と引き絞る男は是紀の他にいるはずが無かった。
「主膳殿は弓の名手と聞いておるが、この弓はいかがかな?」
つと、渡されたその弓を軽く引いてみて主膳は唸った。
主膳がたじたじとしておるところに青波が近寄って来た。
最近、雇い入れた男であるが馬の扱いが良い。
軽く馴らして走らせるのに苦も無く着いて来る。
いつぞやも
「殿、栗毛のひずめを切り揃えるのに
小砥ぎの刃物が欲しゅう御座います」
と、言った。
「今の物ではいかぬのか?」
「微妙に」
言うだけの事はあって小砥ぎを誂えてやった途端に
栗毛の足並みがひどく軽くなったのである。
その青波が弓を取ると
「主膳様。この弓は引こうという気で引かねば引けませぬ。
心に迷いがあるとそれに負けてしまいます。
引けます。そう信じて一気に引いたら容易う御座います」
その言葉に少なからずむっとしながらも
是気は黙って二人を見ていた。
主膳は青波にいわれると弓を捉え直し一気に弓を絞り始めた。
が、引き切れずに終わると
それを中途で止めている事さえも辛そうであった。
「青波。偉そうに言うたのである。引いてみせや」
「あっ。でしゃばった口をきいてしまいました」
「構わぬ。見た目よりは簡単で無い。
主膳殿もようそこまで引きやった」
「は・・・い」
主膳が弓を渡そうとするのであるが、
青波は動こうともせずに立ち尽くしている。
「どうした?」
「いえ。私が引いてしもうたら・・・」
青波が引けるつもりの言い様に腹が立つより
是紀は可笑しくなっている。
「ははは。主膳殿の立つ瀬が無いと?
そんな器量の狭い男ではないわ」
かなえを嫁取らそうと暗に決めた男である。
その武道の腕よりも人物の方が気になるのが、親心である。
そのめがねに叶ったのが主膳である。
「それでは・・・」
主膳が差し出した弓を受取ると青波は大きく息を付いた。
そして右手に矢をもつと弦に番え左手で弧をぐううと引いて行く。
「おっ」
是気が声を上げる間もなく弓なりとはよう、言うたものである。
それが丸く膨らんでくるとぴたりと止まった。
「あの木を・・・」
そう言うと矢を放った。
かつという音がして目指す木に矢が刺さり立った。
「あ、お、おおう。見事じゃ」
「あ、誠に」
主膳も驚嘆の声を上げる。
が、一番驚いているのは是紀なのである。
「・・・・」
二人の男の驚きが静まるのを待つように
青波は黙したままでいる。
「ふううむ。引くことにも驚いたが腕も確かな様じゃな。
どこで覚えた?」
「いえ。始めてでございます」
「ほ、ほおうう。天性のものか。どうじゃ?その弓は」
「引き手の心をよう知っております」
「うむ。じゃろうの。
弓師に摩利支天の真言を唱えさせながら
それを作らす間はわしも禊を行うた」
「なるほど・・・神具ですか。奉納なさる気で作らせたのでは?」
「そうだったのだが。余りに良い出来映えでな。
使える弓を作らせたのに欲がでた。
仕方ないので男十人でも引けぬような大弓を
作り直させてそちらを奉納した」
その弓を青波が引き絞った。
「そうなると、わしは戯言で
この弓を引いた者にかなえをやるというてしもうたが、
うぬにやらねばならぬか?」
是紀は笑って言った。
「めっそうも・・・」
青波は青くなった。
是紀はますます、大きな声で笑う。
それを黙って聞いていた主膳がいきなり青波から
もう一度弓を取ると
それを一気に引き上げ矢を唸らせた。
「おお!!見事」
誉めそやす是紀の手に弓を反しながら主膳はいいそえた。
「この、弓を引いた者にかなえ様をやるというたのが、
戯言で無ければ良かったので御座いますが」
主膳の気持ちを計りかねていた是紀は、
その言葉を聞くとあっさりと
「戯言で無かった事にするか」
と、笑ってみせた。
「真で御座いますか?」
「お、おおう」
思いの他、主膳の方が乗り気でいるのである。
青波は黙って二人の遣り取りを聞いていた。
『やはり、この男、本意にかなえを好いておる』
青波はそう、思う。
弓を引く主膳の胸の内はどうであったろうか。
この機を逃さず己の思いを是紀に伝うには
是が非でも弓を引かねばならない。
先に引いたときには、引き切れなかった弓である。
心願、思いを込め弓を引き絞る心こそ、真であらば
弓も言う事をきくのである。
「これは、目出度きこと」
そう言うと、青波は射抜いた獲物を取りに走った。
主膳の思いが判ると是紀も機嫌が良い。
そうそうに狩りを引き上げた。
茶の湯の仕度も整った所であろう。
主膳にゆっくりかなえに引き合わせてやろうという気になっている是紀である。
帰りくれば庭の一隅に作らせた茶室の中に
主膳と是紀は入って行く。
その姿を見送りながら馬を引いて行く青波は
「これで良い・・・一番良い」
と、呟くのであった。
身体を屈め低い潜戸を抜けて茶室に入るとかなえが座って待っている。
「早う御座いましたな」
「おお?おおう」
狩りの獲物が良くなかったのかと思ったが
是紀の顔突きの機嫌が良いのを見て取ると、
かなえは主膳に向かって笑いかける。
「父の御守も、大変で御座いましょう?」
何があったか判らないが是紀の機嫌の良い顔は、
我が親ながら可愛い子供の様なのである。
そのように是紀に笑顔を作らせた主膳は何をしたのであろうか?
「この父をどうやって御機嫌にさせました?」
「え、ああ」
主膳も自分の申し入れを
是紀が事のほか喜んでくれているのが
是紀に負けず劣らず嬉しい事なのである。
二人の男の機嫌の良い顔を見ながらかなえは茶を立て始めた。
主膳は背筋を伸ばしかなえの茶を立てる手元を見ている。
茶筅に絡む様に濃い緑の飛沫が解れて行くと
湯を差し込んで行く。
「良い物がありますに」
小さな押し菓子を器に載せて、点てた茶を勧めた。
「かなえさまは・・・いつから」
主膳が茶の湯の習いを聞くと
「七つでありましたかな?」
と、是紀に聞き及ぶ。
「そうじゃったかの?」
是紀もはっきりとは覚えてはいない。
が、小さな手で茶筅を握った娘が、じきに嫁に行く事になる。
今度は、この主膳の元でかなえが
茶を立て是紀が茶の客になるのである。
これが、主膳を客として迎え、
かなえを娘として接待させる
最後の茶の湯に相成るのかもしれぬ。
是紀はかなえの点てた茶をゆっくりと手にもつと、
その道具を見詰た。
「主膳殿。
これはように大事に扱うてくれぬと返してくれと言いますぞ。
それを持たせた者を主膳殿の所に留め置かせるに
この器を返す事があってもそちらを返す事の無きように。
後日、日を決め贈らせよう」
「あ、ああ・・・はい」
かなえにその器をもたせてと嫁がせるという臍を伝えられると、
主膳は深々と頭を下げた。
「有難きこと」
器の一つに端女を着けて渡すとは
大層な事であると思いながらもかなえは、じっと座っている。
その端女が、自分の事であるとは思ってもいないのである。
「やれ、わしは黒を見てくる。すまぬが主膳殿。
かなえを話し相手にでも、しばし待たれてくるるかの?」
気を聞かせた是紀である。
是紀が外に出てしまうと、主膳がかなえに尋ねる。
「黒とは?」
と、
「ぁ、はい。馬で御座います。
もう直に子が生まれますに、気になって仕方が無いのです。
御客様ほったらかしにして、あの様に勝手な父を
主膳様もよう短気をおこさず」
「ふ、かなえ様はそう言うほどに
父君に腹を立ててばかりおるのですか?」
「あ、いいえ。そのようなわけでは・・・」
「私も同じです」
「では、存外子供の様に無邪気で可愛い?」
「そう・・ですが。是紀殿に言うてはいけませんよ」
「わかっております。剥れますに」
「ええ」
笑い声が重なるのが微かに聞こえると是紀は黒の元に行った。
是紀が馬屋を覗いて見れば、
青波も馬具の手入れに怠りが無い。
青波は引き入れた三頭に飼葉を与え
晒し布でその身体を拭き上げ終わると、
どかりと腰を下ろしその膝の中に鞍を置き
紗沙の布で拭き上げ艶をだしている。
「よう、磨きおるの」
「あ、はい」
是紀が声をかけると青波は立ち上がって
「黒毛の事ですか?」
と、察しが良い。
「おおう。どうじゃな」
「まだ。十日ばかり掛りましょう」
「そうなのか?」
気に入りの葦毛の子を孕んだ黒毛も
葦毛に劣らず足の良い馬である。
そうなると俄然、その子馬が気になって仕方ないのである。
「やはり。黒で産まれるかの」
「殿は、黒が良う御座いますか?」
「それはそうだろう」
黒は珍しいのである。
見た目もきりりと引き締まった感じがしていかにも颯爽としている。
かてて、足も良い。
黒は気性が幾ばくか荒いが一端服従すると、よく聞き分けた。
頭も良いのである。
馬の方も是紀の気性を好くのであろう。
剛が剛を乗りこなすと、まるで一身の手綱捌きであった。
黒を分けてある奥に入いると、
是紀に気が付いて黒が首を大きく振る。
「よい。良い。どうじゃ。辛うないか?」
黒の大きな瞳が見開かれたまま是紀を見ているに、
是紀は丸で我が奥にでも声をかける様に言うのである。
そうしている内に黒の腹が大きく波打ち、ぐなりと動いた。
腹の子が動いただけであるが
「おお、おお、青波。雄んじゃの?雄んじゃと思わぬか?」
「よう動きます。元気な子で御座いますに」
「うううん。楽しみじゃの」
「はい」
そこに軽い笑い声を立てながら主膳とかなえがやって来た。
「父上。如何です」
かなえも黒の事が気になるのである。
階の一件以来女子らしくせい。と、
一括され黒の所にも着難くなっていたのを
主膳をだしにして見に来る事が出来たとなると、
一層気が浮立つのである。
「黒。久し振りじゃに・・・辛うないか」
親子である。
同じ言葉を黒に投げかけるのを聞くと青波がくすりと笑った。
「そこの者は・・・?」
青波に気がついたかなえが青波を見ながら尋ねる。
見た事のない徒士の者が居る。
尋ねながらかなえは、あっと声を上げそうになるのを堪えた。
上手く隠しおおしたつもりの、
知らぬ風貌の中の眼の色が僅かばかりに青みを残している。
それが光来童子の物だと判ると胸が高鳴るのである。
何気なさそうな振りをしているが、
かなえの心の中では、ただ、一心に礼をいっていた。
『よくぞ、聞届けて下さいましたに・・・・。
愛染明王。この恩かなえは忘れませぬ』
かなえに気がつかれているとも知らず
「青波ともうします。
馬の事ならば、どんな事でも私にお任せ下さい」
青波こと光来童子は頭を下げた。
その夜遅くかなえは馬屋に足を運んだ。
思った通り黒影の番の為に青波は馬屋に泊まり込んでいた。
人の入ってくる気配に馬達が脅えた様であったが
その主が誰か判ると馬も静まり返ってしまう。
「遅うに・・・誰であろう」
歩んでくるものの静かで、身体の軽い足音が
かなえでは無かろうかと思うと青波の胸が高鳴るのである。
「青波」
「あ」
想う人である。
青波は居住まいを正しながら
「どうなさいました?黒は、大丈夫で御座いますに。
こんなに遅うに御外へ脱け出すと乳母やが心配なさいましょう?」
「はい。それでも、かなえも城の外に抜けられぬ様になって、逢う事も叶わぬ人が、おると判れば・・・」
「え」
「童子」
「は、はい?」
「お会いしとう御座いました」
「な、何の事やら」
「おとぼけなさりますな。先ほど、影が映りましたに。
鬼の影でしたに」
「し、しもうた」
かなえは狼狽する光来童子をくすくすと笑いながら
「嘘で御座います」
「え、あ、ああ、しもうた」
簡単な策略に引っかかり己から
光来童子である事を露呈してしまったのである。
童子は頭を掻きながら
「かなえには・・適わぬ」
「かなえが願を懸けましたに」
「願?」
「愛染明王に・・逢わしてくれ・・・と」
愛欲の神である。
その、明王に願を懸けるという事は取りも直さずかなえの心が、
女が男に寄せる特別な思いであると言いたいのである。
「かなえ、気になっての。主膳殿は良い男じゃ。
心優しい方じゃ。それが判ればわしも気が済んだ。
かなえにも・・・逢えたし・・」
「童子」
「や!」
その童子の胸にかなえが飛び込んで来る。
「かなえは主膳の所になぞ行きませぬ」
主膳の帰った後にかなえは、
是紀から主膳の申込みを受けた事を告げられた。
端女を着けて出す茶道具の話がそうであったのかと判ると
かなえは黙った。
父に逆らえる訳が無い。
そうなると、尚更、童子が恋しい。逢わずにおけない。
逸る心を抑えながら皆の寝静まるのを待って
脱け出て来たのである。
なのに、その童子の口からあっさりと
主膳の所へ行く事を勧められると、
かなえの口からは思わずそんな言葉が飛出していたのである。
行かせとうない。
そういわれれば、
もしかしたら何処かで諦めが付いたかもしれない。
行けと言われればかなえは己の心と
厭が応でも向き合ってしまった。
「行きとうない」
「な、成らぬに」
親の決めた事である。
覆せるわけはない。
「童子はほんにかなえを行かせとう御座いますか?」
「主膳殿はかなえ欲しさにあの弓を引いたのじゃ。
本意に想うておられる」
「誰が、誰が、主膳殿の心を聞いております」
「う、わしは・・・」
「かなえの心を知っておって、ほんに行けといいますか?」
「わしは、鬼じゃ。成らぬ事だ」
「かなえが事、本意ではありませなんだか?」
童子の目が大きく見開かれた。
かなえが言うのは最後に逢うた日の事である。
童子はその日かなえを長い間抱き締めその口を啜った。
自分の胸の中に灯った物が何であるかを
はっきりと知った童子であった。
其れ故に光来童子はその日を最後にしたのである。
「言うてくれるな。わしの心はかなえにしかない。
が、の、わしは鬼じゃ」
「かなえは構いませぬ」
「そう言うてくれるのは判っておった。
が、の、何処の親が鬼に娘をくれてやろうに
かなえも鬼の子産みたいか?」
「はい」
男と女の睦事も無いのにかなえの臍は固まっている。
あっさりと返事が返って来る。
「光来童子の子なら欲しゅう御座います」
「な、成らぬに」
「かなえは諦めませぬ。主膳の所に行くぐらいなら・・・」
厩のひさしの隙間からかなえは天守閣を見上げた。
『あそこより落ちて命絶ちます』
是紀が許せば、童子の言葉も変るかもしれない。
万が一つにも有り得ぬ事ではある。
が、落ちてしまうのはそれも一つとてないと判ってからで良い。
父の許しが無ければ厭が応でも、主膳の所に行かねばならない。
かなえは在る筈もない活路を切り開く決意を
心の底に忍ばせるのである。
「かなえ・・・」
女を知っている童子にとっては口吻なぞ、
ほんの初手の事に過ぎない事であり、
いつでも引き返せる入り口に
少し入り込んだぐらいのつもりであった。
が、かなえにとっては、そうではない。
それが約束であり真の証なのである。
それを受け留めたかなえの心の深さを知れば知るほどに
童子も今更ながら引き返せない己の心のあり様を、
隠せる筈もない。
ひしと胸に縋ってくるかなえへの愛しさと
そして、かなえの童子への清冽な思いを
そのままに受け留めてしまいたいか、
どんなにかなえを抱いてしまいたいか
「かなえ・・・わしも辛い」
「ここに、ここに、居って下さいませな」
主膳の所に行くぐらいならとかなえが何を言おうとしたのであろう。
この思いのままにかなえを抱けばかなえも諦めが付くのだろうか?
わしも諦めが付くのであろうか?
こんな事ならば来るでなかった。
只、かなえの幸せを見届けるつもりだったのに。
わしがかなえを追い詰めおる。
童子はそのまま姿を暗まそうかと考えていた。
が、青波との別離を察したのか、
突然黒影が、ぶはほと唸るような声をあげた。
辛うないかとかなえが声をかけた黒影の産は近い。
無事産ませしめたら、その時こそ、別れにせねばならない。
そう考え直すと童子はかなえを押しやった。
「かなえ。ここに居る。の。だから、それ以上は望みやるな」
「はい」
「もう。帰りおれ。
乳母やに気ずかれたら、わしもおれぬようになるに」
帰る様にとかなえを押しながら
童子の手がかなえを抱き寄せてゆく。
『かなえ。かなえ。こんなに愛しいに。
わしが鬼でなければ、どうしてでも連れ去ろうてでも・・・』
それでも、叶うわけの無い恋である。
きつく抱いていた腕をやっと離すと
「早う、帰れ」
「はい」
童子の本意が判ればかなえも素直に従うだけである。
「明日また、来ます」
そう、言いおくとかなえは部屋に戻っていった。
怒声が劈くかのようである。
「せ・・せ、青波が良い?もう一度言うてみろ」
その怒声に恐れる事もなくかなえは繰返した。
「青波が所で無ければ嫁に行きませぬ。
主膳の所に行くなら、死にます!」
言い放つかなえの眼の色を覗き込んでいた是紀であったが
正気で言っておると判ると
「おのれ」
刀を掴むと馬屋に向かった。
「青波を討つはお止め下さい。
父上の御許しなからば、かなえは死にます」
後ろから走りくるかなえがそう、叫ぶ。
「お、お、親を脅しにかける気か?」
「脅しでは御座いません。あそこより落ちます」
是紀の閃く刀をひらり、ひらりとよけていた童子であった。
が、かなえの言葉を聞くと思いきり跳び退った。
「かなえ。成らぬと言うたに・・・・」
その身のこなしに驚いたのは是紀の方である。
「己、人ではあらぬな。正体現わせ!」
「まこと、邪恋の果て。未練でありました」
そう言う青波は童子の姿になると馬屋を飛び出し
外に転げ出て行くと、どうっと地面を蹴った。
「あ」
追いかけた是紀が見たものは
中空高く舞いあがった鬼の姿であった。
「かなえ。鬼に誑かされておったのに・・・あ・・・」
かなえの姿が無いのである。
「うおおおお」
真っ青になって是紀はかなえの後を追った。
「かなえ。かなえ」
急な階を上がり行くとかなえの打掛が脱捨てられている。
階に引掛るのをじゃまにして脱捨てられたのである。
「やはり・・・かなえ。はやりおるな」
大声で叫ぶとかなえの声が聞こえてきた。
が、何を言っているかは判らない。
だいぶ追いついているのであろうが、
かなえには頂上は直そこである。
「かなえ」
最上階まで上り詰めるとかなえはじっと立ち尽くしていた。
「父上。なる事ではありませぬ。かなえもよう判っております。
かなえの思いの成就はこれでしかできませぬ」
「ま、まて・・」
「童子も己が鬼で在る事を、恥じてかなえを諦めております。
それでも、鬼でも許すという御言葉ききたかったに」
かなえは鬼と知っているのである。
「ゆ・・・許す」
「主膳殿の事は?」
「む・・・」
「どうにもなりますまい?」
「父上を窮地に追いやって、
かといって、かなえは心を偽って生きていとうない。
かなえがしんだとならば、父上も言い訳が立ちましょう?
かなえも心のままに・・・・」
「な、なんとかする。主膳が事、なんとかするに・・・」
「ほんに?」
どうやら、是紀はかなえの計に懸けられた様である。
が、是紀も考えがある。
取敢えずはこの場を納めると陰陽師である稲村白夜を呼んだ。
「是紀殿」
白夜(はくや)は、首を振った。
是紀に呼ばれて来て見ると、
是紀は愛娘かなえが鬼に惑わされておるのを
如何にかできぬかと言う。
鬼に懸けられた妖術を解くのは、流石に、白夜しかおらぬという。
「残念ながら。かなえさまは術に懸けられておるのではありませぬ」
「な・・・」
「本意で御座います」
やはり、あの眼は正気であった。
「ならば、諦めさせられぬか?」
「それよりも、大きな理が動いております」
「こ・・と・・わり?」
「神王に奉納するつもりの弓を量りに懸けませなんだか?」
「あっ」
「その折に、二人の男が弓を引いておりますな?」
「あ、ああ。確かにやるというた。
弓を引く者があらばかなえをやると」
「残念ながら、その言葉、もはや取消せませぬ」
「あ・・あ、あ」
「後に引いたは?」
「主膳・・・だ」
「後に夫君になられるでしょう」
「・・・・・」
もっけの幸いと言う言葉があるだろうか?
が、後に弓を引いたのが光来童子でなかった事だけを
この場合幸いというしかないだろう。
「どうにもならぬのか?」
「七日七夜。
人の身でない者が情交を許されるはそれが限度とききます。
が、かなえ様が望めば、それも延びるかもしれませぬ」
「・・・・・」
「かなえ様の本意は光来童子とでております。
光来童子を呼んだは、かなえ様」
愛染明王の名が判じられたのである。
嫁ぐ相手を呼び寄せる事はない。
呼べぬ相手を呼ぶ為の愛染明王への祈願である。
と、なると、かなえの本意は童子に注がれている事になる。
「お聞き苦しゅう御座いましょうが、
鬼・・・光来童子を諦めねばならぬ定めを与えた事も
想うてやって下さいませ」
「・・・・」
「憎き相手であろうがかなえ様には本意。
それを結ぶ因を与えたのも、是紀殿であらば、
それを引き裂く因を与えたのも是紀殿」
「わ、わしのせいなのか?
わしの軽口が・・・戯言だと言うたのに」
「・・・・・」
「ああ、あああ、わしは海老名になんと言えば良い。」
軽口なさいますなと窘められた時にそうと気がついて、
基をかければ良かったのである。
その後。是紀はかなえを呼んだ。
「かなえ。主膳の事だがの・・・」
「父上あの、御言葉お忘れでは御座いませぬな」
「どうにも・・・・成らぬ」
「それでは、御約束が違います」
「かなえ。
主膳の元に行かねば、光来童子とも馴初める事は出来ぬ」
「な、それが替わりですか?
鬼が所へも行くが代わりに主膳の所へも行け?」
「・・・・・」
「父上。恥ずかしゅう御座いませぬか?
鬼にくれた者を口を脱ぐうて主膳の所に渡せば
それで父上が安泰?かなえは・・・・」
「ち、違うのじゃ。わしが理を作ってしまったのじゃ」
「ことわり?」
「あの弓を引く者、かなえをやると言うたのを神王が聞届けた。
その弓を引いたのが先に青波。あとに主膳。
お前の定めもそうなる」
「え・・・」
「それが無かったら、かなえ。
わしは、どうやってでも、鬼の命取りても
御前を諦めさすつもりじゃった。
そうならば、始めから叶わぬものを
七日だけでも叶えられるを良しとして諦めてくれるしかない」
「七日・・・・?」
「わしが許してやれるのもそれが精一杯じゃ。
のう。親の気持ちも汲んでくれ。
鬼の所になぞにくれてやりとうない。
が、それを諦めるに・・・お前も、主膳の所に行ってくれ。
いや・・・わしが頼まんでも、否が応でも、そういう定めが動く。
どうにもならぬものなら、お前が自ら進んでそうしてくれぬか」
「・・・・」
かなえはそのあとに本当に天守閣より飛び降りた。
父の耳にもどうっと音がするのが聞こえる事だろう。
天守閣より身を乗り出してそのまま落ち行くかなえを掴んだのが光来童子である。
妙な胸騒ぎを覚え是紀はかなえの居室を覗きにきたのであるが、居ない。
よもやと思うて本丸目掛けて駆け行きつつ、空を仰いだ。
その空にかなえが舞うのが見えた。
「命をかけて・・・・鬼が良いか・・・・・」
主膳の元に行かねばならぬなら、
童子と生きて行けぬなら死にます。
その思い成就さすのはこれしかない。
ただ一つの証の為にかなえは飛んだ。
へたりと座りこむ是紀が見たものは
かなえを受けとめる童子の姿だった。
神王の定めがある故、かなえは死ぬ事もままならぬ。
否が応でも、その定めの流れに引き戻す者が
他ならぬ童子であるという
この皮肉な巡り合わせに是紀は手を合せた。
「許しおれ」
屋根を蹴た繰り童子は是紀の元に降りて来ると、
かなえを静かに立たせた。
「死んではならぬ。
お前が死んだら、わしは何をめどうにして生きるに。
例え逢う事が叶わぬでも・・・おまえが幸せなら、
わしも生きて行けるに・・・・。死んではならぬ」
かなえに言うと、そのまま飛び退ろうとする光来童子に是紀が
「連れて行くが良い。但し・・・七日じゃ」
そう言うが
「いや・・・わしは、鬼じゃに」
言うと、童子は飛び退った。
が、この優しい鬼の思いも定めに呑まれるしかないのである。
光来童子を諦め切れぬまま日が過ぎて行く。
再び、かなえは天守閣から落ちた。
やはり、光来童子が現れると宙に舞ったかなえを抱き止めた。
「かなえ、父の思い、憐れと思わぬか?」
「かなえを童子の物にしてくださりませ」
「馬鹿な」
「十日後に・・・童子の言う通り主膳の元に参ります。
童子の望む様にします。
なれど、かなえに、どうぞ、かなえに七日七夜。
夢を見させて下さい。
夫婦の様に寄り添うていきられぬのなら
七日を一世と思うて、後の世を主膳の元で生きますに。
今生の別れと思うて・・・・どうぞ」
「・・・・」
「で、なければ今度は首を切りて死にます」
童子の胸の中に泡立つ物がある。
今生の別れ。
もう、二度と逢ってはならない。
かなえは主膳の物になる。
童子の胸を引き絞るような苦しさも、かなえ故である。
そのかなえの命をかけた願いをどんなにか童子も欲しいのである。受け止めたいのである。
「それほど・・・わしを・・・」
胸の中で小さく頷くかなえは今、確かに童子だけの物である。
「判った」
もう、光来童子を止めるものは無かった。
七日を一世と思いて、かなえと同じ時を過ごそう。
そう、決めると童子は大台ケ原に飛んだ。
かなえが光来童子の元に行ったのを知らぬ海老名が
朝になると血相を変えて是紀の所へやってきた。
「た、た、た、たい、大変で御座います」
こうなる事の予測は付いている是紀である。
「ああ、何を落ちつき祓うて、大変な事で御座いますに・・・」
「かなえが居らぬのじゃろう?」
「はい。へっ?」
間の抜けた返事が返すと海老名がまじまじと是紀を覗き込む。
「どこに行きやったか・・知って・・おらるる・・のですか?」
「・・・・」
「又、抜け道をあけてやったのでは・・・御座いませぬわな?」
是紀の顔がそうでない事を語っている。
「主膳様に嫁ぐ身に・・怪我でも・・・」
「・・・・」
「殿?」
じっと黙っている是紀の顔がひどく暗い。
「なにぞ?あったのですか?」
「いや。かなえは元気でおる」
「元気で?何所におらせられますに。
寝床も上げてあるに、床は冷とうて、いつ出たものやら」
「七日ほど・・留守をする・・・だけじゃ」
「七日。七日?七日!?
主膳様の元に嫁ぐ身の者が七日も留守にする!?
何故に!?何所に行かされたに・・・」
「聞いてくれるな」
「な、理由が判りませぬ。
海老名の知らぬ内に、海老名に何も言わずに」
「・・・・」
「殿!」
「お前はかなえの事となると引かぬの」
「殿。何か不都合な事が御座いましたか?
あっ。まさか、主膳様との縁組が白紙に?」
「いや。それは無い。
むしろ出来る事なら白紙に戻してしまいたい」
「えっ」
言わざるを得ないのである。
知るも憐れであるが知らぬも憐れなのである。
「かなえは、大台ケ原の光来童子の元におる」
「えっ」
耳を疑る海老名である。
「七日七夜・・・・童子の嫁になる」
「え、え、」
「すまぬ。わしのせいじゃ。」
「ぁ、何を言われておるのやら、海老名には判りませぬ。
光来童子というは、よもや、鬼の名では御座いませぬな?」
かぶりを振る是紀を海老名は夢かと思うて見ている。
が、現である。
「嘘で御座いましょう?」
なおも信じられないのである。信じたくないのである。
受け止められない、受け止めたくないのである。
海老名が尋ねた事に是紀は黙っている。
黙っている事が肯定である事もある。
「何故に、何故に何故に鬼の元なぞに」
「お前に窘められた軽口がいかなんだ」
「かる・・くち?」
「弓を引いてしもうた男がおってな」
言われれば海老名も聡い。
殿の軽口が理になってしまったのであるとさっするが、
「あ、え、さすれば、主膳様は、鬼であったかや?」
「いや。主膳でない。もう一人、弓を引いた者がおってな」
「え」
「徒士に身を隠しておった。身分も違う。
わしも気に留めておらなんだ」
「何故、何故、それだけの事で・・・」
「あれは神王への神具であった。
それを量りにしたものだから・・・神王が聞届けてしもうた」
「いったい、誰?
鬼と判らなかったのですか?
何故気がつかなんだのです?」
「青波じゃ。青波が光来童子じゃった」
「あ、えっ」
「かなえにとって主膳との事を来世の事と諦念した上の事じゃ。かなえは光来童子との今生を七日で果そうとしておる。
帰ってきおったら来世のかなえの事も頼めるの?」
是紀の言いようはかなえが
主繕よりむしろ光来童子を望んでいるように聞こえた。
「ほ、本意で?かなえ様が自ら望まれて?」
だが、成ってしまったことを詮議しても仕方が無い。
そのことよりも、目の前の是紀の言うことを
果たすしか無い海老名である。
「ああ、元より、海老名死ぬまで付いて参ります」
「う・・む」
「今、今。かなえ様は幸せであらせられるのですな?
殿?・・殿?そうでありますな?」
海老名の、何よりもかなえがさいわいであることを
さきばかる思いに、是紀はこうべをたれていた。
「ああ、そうじゃ。光来の腕の中で、夢を見ているじゃろう」
「判りました。後の事は・・来世のかなえ様の幸せは
海老名が必ずや見届けますに。
かならずや・・・御力添えを致します」
今となっては、海老名のかなえを思う気持ちに
頼るしかない是紀であった。
大台ケ原の童子の居室である。
擁き逢う二人が成す事はもう決っている。
かなえの物をまさぐると童子も高揚した物を
我が手でむずと掴んだ。
だが・・・
「どうなさいましたに」
「わしの物は馬ほどの物であるに・・・」
「構いませぬ」
「かなえ」
「女子の物はややを産みまするにそのぐらいのもの・・・」
言うもののかなえも恐ろしいのである。
「かなえ。やはり、成らぬ事じゃに、成らぬ事ゆえ・・・」
童子の側でかなえは乱れた着物を脱ぎ捨て
一糸纏わぬ裸身になると
そのまま童子の胸に崩れるように縋って行った。
「鬼の物、人の物というて、どうあろうに。
成す事は同じであろうに」
「かなえ」
「契りが欲しいだけであるに。
かなえを童子の物であると知らされたいに」
「かなえ」
愛しいのである。どうしようもないほど愛しいのである。
「つらいぞ」
「どうぞ、我物に」
されよ。と、いいたかったのか、
なられよ。と、いいたかったのか。
先程の淫行で軽く滑った物に童子の物が宛がわれると、
それがぐうと突かれて行く。
引き裂かれるような痛みを堪えながらかなえは
「童子・・・光来・・・私の・・・光来」
そう、童子を呼ぶ。
「かなえ・・・辛かろう」
童子が快いのに比べ、
かなえは気を失いそうな痛みに耐えているのである。
「はい。なれど、これで童子は・・良う御座いますか?」
「あ、ああ・・かなえ」
哀しい男の性である。
痛みを与えても、それでも、我物にしようと決めると、
光来の動きが止まる事は無かった。
もっと言えば、この破瓜の痛みを与える事こそが、
かなえに忘れ得ぬ喪失を与える事こそが
他の誰にも譲りたくない、
たった一度たった一人の男にしか許されない儀式なのである。
「あ、ああ、かなえ、かなえ」
上がって来る快楽の頂点を、
それを与えてくれるかなえに分け返すかのように、
その名を呼ぶと童子はかなえの中から己の物を引き抜いた。
どくどくと波打つ物がかなえの腹の上で
白く粘った物をゆっくりと吐出した。
腹の上に吐き出されたものをかなえは手で包み込むよう
拭い去ると手に受けた物を大事そうにそううと包んだまま
「何故、これを中で出しませぬ」
「え?」
「厭です。」
「いや、そうすると・・・」
子を孕んでしまうという言葉を呑み込んだ。
わざわざ要らぬ事を言わなくても良いのである。
「それより何故そんな事を知って居る?」
「海老名です」
嫁ぐ前の、今でいう性教育であろう。
夜遅うに海老名がやってきて、
黙って春画を広げげるとかなえの前に押し遣った。
何気なく見ていたかなえが尋ねた。
「これは、何ですか?」
海老名の意図もその絵の意味もよく判らないのである。
「つまり、その、殿御には、女と違った物が御座いましてな」
しどろもどろになりながら、
海老名がやっと口に出した言葉である。
「黙ってお聞き下され」
何おか、言われたら海老名も頓挫したいほど
恥ずかしいのである。
「その・・・、殿御には女に無い出張った物が御座いましてな。
その出張った物をその・・あの・・・。
かなえさまのおそその中に入れるので御座います」
「え?」
「ううん」
軽う咳払いをすると
「初めは痛うございます。
あの・・・血もでますに、驚かれぬ様に。そうしてがこそ契りです」
「血印のような事ですか?」
血の証文の事である。
小指の腹を切って命に代えて誓いの印に
証文に血印を押す事があるのをかなえは聞いた事がある。
「ぁ、その様な事です。
が、それはそれ一度きりで御座いませぬ。
夫婦である限り死ぬるまで繰返す事です」
「ええ!」
恐れが来るのをかなえは禁じえない。
「ああ。でも血がおつるのはその時きりで
後は、その・・・だんだん良うなってきまするに、
それまでのご辛抱です」
「ようなる?」
「あ、はい。主膳様の物が・・・その」
海老名もひいいいといってその場を立ち去りたいのである。
が、そうもいかない。
必死で恥ずかしいのを耐えながら話しているに
何も知らぬ者の強みである。
平気でかなえは聞き返してくる。
それにきちんと応えねば今宵の海老名の勤めが終らぬのである。
不安を待たせてもいけない。
かといって、多少の覚悟をしてもらわぬと
その場であたふたと取り乱してはそれは、かなえの恥になる。
己の恥ずかしいのなぞ知れたことであると
腹を括ったつもりであるが
いかんせん海老名にも御し難い物事であった。
「あの、天にも上った程に
気、気、気持ち良うなるので御座います」
「血が落ちるほど痛いのにか?」
「あ、はい。それは初めだけで御座いますに」
「ふううん・・・どうしても、それをせねばならぬのか?」
「はい。殿御はそれで女子を我物にするのです。
ですから、ややができるのです。
殿御の出張った所から白い粘ったお汁が出ますに
それを、その・・・かなえ様のへこんだ所で頂戴するのです」
「・・・・」
「その瞬間が殿御には極楽なので御座います。
どうぞ、主膳様に極楽な想いを渡すが妻の勤めて思うて・・・」
「殿御には・・・・その事が?」
「はい。殿御にその様な極楽を見せるが妻にすれば
殿御を我物にしたことであると御考え下されば」
「ふううん。海老名はどうじゃな?
それであるに何故嫁がぬ?
嫁がぬに何故によう知っておる?」
「ぁ、え、い。その様なものであるというのは聞かされておって。
だから・・・・その」
という件があったのである。
是紀は安藤白夜を呼び付けていた。
「帰してくれるであろうか?」
理が働くと言うもののかなえが約束を守るのであろうか?
「光来童子は、判っております」
「だろうか?」
「で、無ければかなえ様が先に飛び降りいた時に
もう、連れて行っておりましょうに」
「・・・・」
「かなえさまが命をおかけになったのでしょう。
で、なければ、光来も諦めて居った筈です」
「そう・・・なのか?」
「殿がかなえをやらねばならぬかというた時に、
青ざめたおったのではないですか。
己が鬼である事をように弁えております。
血のなせる業でしょうな」
「血?」
「人の子でもありますに」
「半妖の身か・・・」
「人の幸せを求む気持ちが御座いますに。
その気持ちはまた、かなえ様を
人として生かさせたいと、思わせるのです」
「・・・・・」
「主膳様が引けるわけの無い弓を引くのを見ておるのでしょう?」
「ああ」
「ならば、己がかなえ様を本意に思わば思うほど
主膳様の御気持ちの深さが、判っておる筈です。
かなえ様を託すに足るるとお思いになった
是紀殿の御気持ちも判っております」
「が、」
「どうなさいました?」
是紀は口に出したくない不安を抱えている。
口に出せば事がなってきそうであり、
縁起でも無い事を口に出す事が憚れるのである。
「あ、いや」
白夜はそうと察したのか是気の心を読み透かした。
「是紀殿。それは無いでしょう」
「?」
「今、御思いになっておられた不安は、無い、と、おもいます」
是紀の不安は、
帰って着たかなえが光来の子を宿しておらぬかという事であった。
「だろうか?」
「光来も男。かなえ様を主膳の元に渡さねばならない事が
判っておって、それは無い事でしょう」
「そうだの」
だが、その目算に大きな違いがあった事に
白夜は気が付いていなかった。
かなえが光来の元に行ってしまった、
たった、その一日前に海老名が初夜の事を、
睦み事の心構えや何やかやをかなえに話しているのである。
海老名はかなえが光来童子とまさかそうなるとは思っていない。
養育係として当然の勤めを果したのである。
女子が嫁ぐ前にそうやって教育を受ける事なぞ、
是紀も白夜も知る由がない。
海老名の教えた時期が早すぎたのか、
それでかなえの心が
尚、童子を求むる事になってしまったのか、定かでない事である。
かなえは小さな小研ぎの刃物を懐に収め主膳の元に嫁いだ。
青波・・・光来童子が使って居た小研ぎである。
たった一つしかない童子の肌身に触れた物を手放す事は出来なかったのである。
嫁いで三月、懐妊の兆候に気がついたのは海老名である。
「と・・・まりましたかや?」
「はい」
嫁いでからあの闊達で海老名を困らせ果てたかなえが
嘘の様に変った。
あの日・・・・。
光来童子に押しやられるときりりとした顔でかなえは歩んで来た。
泣くかと思ったかなえが取り乱しもせず
光来童子を振り向きもしなかった。
「帰りました」
一言海老名を見やると、そう、声をかけた。
そのかなえの通り過ぎて行く横顔を見た海老名は、
はっと息を呑んだ。
かなえの中に峻厳とした女を見て取ったのである。
七日を一世と思う。
そう言ったかなえが生きた一世が
かなえの中に清清と女を極めさせている。
光来童子を愛した事を、
光来童子に愛された事を誇りとする女が
静かに息を潜めながら
それでいて凛として咲いているのである。
『女になられた』
かなえのそのまま言い表すとすれば
海老名の思った事の通りである。
その、かなえが主繕の元に嫁いでも、
やはり、かなえは静かだった。
「かなえ様・・」
かなえは海老名の言葉に返事はするが、
取り立てて自分から喋る事はない。
「か、かなえ様・・」
昔のかなえなら二度も呼べば
「言いたい事は早う、言いやれ」
と、海老名を叱りつけた事であろう。
「はい。何か?」
沈黙が続くが訝りもせず
海老名が何を言おうとするのかも気にならない様子であった。
「ぁ・・主膳様と・・その・・」
睦事があるのかどうか。
破瓜の印も海老名が知恵を授けた。
方法を話し聞かすと
「判りました」
と、だけ応えた。
それがうまく行ったかどうかも気になる事であるが
聞くに憚られ海老名は黙っていた。
主膳が渡ってくるのは、海老名も知っている。
が、あの日から人の変った様なかなえを見ていると
成させぬのかもしれないと不安になってくる。
その、かなえが堪え切れぬ様に庭に降り立つと
げっと吐き上げたのである。
「お目出度き事・・・」
「どちらの子やら判りませぬ」
海老名の不安が拭い去られる答えは哀しい答えであった。
どちらの子か判らぬ。
それは、主膳との睦事はあるという事である。
が、そう、告げられた言葉こそは海老名が
かなえに着いて来る決心をさせた
一番大きな不安であったのである。
「・・・・」
「光来の子なら・・・・」
「子なら?」
「いえ」
ぞっとする思いを海老名は呑み込んだ。
殺してくれと言おうとしたのではないか!?
そしてかなえもその子の後を追う気でいると、
言おうとしたのではないか!?
それがかなえに許された只一つの恋の成就なのか?
来世の生として、今を生きているかなえにとって、
前世の恋を成就するには
死しかないと考えているのではないか!?
神王の理が結実している以上、
かなえもその生死を自分の手で操る事ができる。
海老名は口に出せない、
口に出してはならない不安な考えを振り払うと
「主膳様のお胤です」
と、だけ応えた。
かなえは黙っている。
かなえ自身は光来の子である事を願っているのに違いない。
光来への恋を諦めた辛さに生きるより
よほど死んで光来への恋を成遂げたいのである。
今更ながら命をかけおるといった是紀のいう言葉が
海老名の胸によぎった。
「かなえさま。生きて、生きて生きおおさねばなりますまいに」
「童子・・・?」
かなえはいつか同じ事を童子の口から言われた事がある。
「は?どう・・?」
童子、そう聞こえた言葉を海老名は口にするのを止めた。
「かなえ様はまるで人が代わられてしもうて、
つい海老名が要らぬ事を考えてしまいましたに・・」
「いえ」
「かなえ様、昔のように海老名を御叱り下さいませ。
言う事を聞かず困らすほどに
ご自分の思いをあれほどに、はっきり言わされたのに・・・
かなえ様・・・」
「海老名には苦労ばかりかけてしまいます。許しおれ」
「は・・はい」
海老名は黙って自室に下がるしかなかった。
それから、十年の年月が流れた。
かなえの孕んだ双生の子の内、
一人が死産であったとかなえは聞かされた。
「畜生腹といわれますに・・御内密に」
付け加えていう海老名の言葉をぼんやりと聞いていた。
産声を聞いた気がしていたが違ったのかと、かなえは涙を拭った。
それがつい昨日の事の様である。
かなえは窓の外をじっと見た。
屋根の上を飛び歩く童の姿を見た気がしたからである。
『小鬼?』
窓より顔をだして屋根を見やると
その屋根の端に座ってこちらを見ている小鬼の顔を見て
かなえはあっと息を呑んだ。
光来童子そのままの顔立ちである。
年の頃も娘の勢と同じぐらい
「生きて、生きて、おったのですね?」
思わずそう、呼びかけると、
子鬼の方からかなえの側に寄って来た。
薄い萌黄色をした瞳がくるくるとよく動く。
「お前が・・・かなえという女子か?」
「ええ」
「わしが母親じゃと伽羅がいうておったげに、本当か?」
「ええ、ええ、かなえが・・・。
このかなえが母です。
坊は何という名をつけて貰いましたに?
伽羅というはお前を育ておってくれた人かや?
光来の妻かや?
優しい人かや?
仲ようしておるのですな?」
「い・・いんや。わしは父様とはおらん。
伽羅がわしを拾うてくれて、伽羅と一緒におるに・・」
「などか?」
「父さまは主膳にすまぬというて、わしとはおらぬ。
姉様の事とて済まぬのにわしと暮らすはならぬというて」
「ああ・・・知っておいでだったのですね」
「わしは、母様と姉様に逢うてみたいと思うて来たに
わしが来たのは内緒だぞ。父様に叱られるに・・・」
「坊・・なんという名であるな?」
「ぁ、悪童丸じゃ」
「そうかえ。よう、母を恨まずに・・・」
「泣くな。わしは伽羅から色々聞いておるに。
母様が可哀相でならなんだに・・・・」
そこまで言うと、
かなえの何か喋りおるのを聞きつけ、
海老名がやってくる気配を察して
悪童丸は身をおこすと屋根瓦を蹴り上げて
何処かに跳び退った。
かなえは、この時初めて
勢もまた間違いなく童子の子である事を知ったのである。
この後、かなえは小砥ぎの刃物を悪童丸に渡してくれと
勢姫に言い残すと天守閣から身を落とすのである。
童子と生きられぬなら死にます
そう、固く決めた死への旅立ちははかなえにとっての成就である。
その初めの心に、初めのかなえに立ち戻る為に、
―童子と生きられないなら・・・死にますー
その思い一心、その中に立ち帰ると、
かなえは晴れ晴れとした顔で空を仰ぐと
愛しい童子の名を呼んで空へ躍り込んで行った。
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