悪童丸   白蛇抄第2話

政勝が城の門を潜ると、白河澄明(とうみょう)が居た。

政勝に気が付くと、澄明はずううっと側に寄って来た。

「妖かしの者なぞに情をかけて…。

かのと様と百日は交わりをなさらぬように」

と、声を潜めた。

政勝は内心澄明を疎んじている。

陰陽師である事も一つであったが、

かのととの婚礼の席で見せた澄明の目付き。

かのとに寄せる想いが尋常のもので無い事が手に取る様に伝わってきた。

故に、更に気に入らないのである。

澄明に答えようとせず、政勝は引き結んだ口を

更に、堅く閉めると澄明の横を黙って通り過ぎようとした。

「なにとぞ、お忘れなき様に……心に御念じ下さいませ」

政勝はそっぽ向くと、足を早めて通り過ぎた。

『忌ま忌ましい。陰陽師風情とこんな所で顔を合わせるとは』

出達の命が下り出向いた先で、あろうことか、政勝は蟷螂の化身に誑かされた。

それを、澄明が読み見透かしているのは間違いない事だった。

が、政勝は采女と一夜を交わした事をかのとへの裏切りとは考えていなかった。

むしろ「据え膳食わぬは男の恥じ」ではないか?

どこかで、采女が妖かしの者ではあっても、女から男として渇望された事に

おおいなる自慢が湧いて来るのも事実であった。

が、澄明はそうとは考えていないようである。

己がかのとを妻に迎えられなかった事で、政勝に対してやっかむのであろう。

自分なら、かのとを裏切りはしない。が、政勝はその非を悔いる事もなく、

当然の権利の様に、妖かしの身の者を抱いたその身体で同等にかのとを抱く。

澄明はそれを赦せないが為、とうとう口火を切ったのであろう。

『女々しい。小賢しい物言いなぞせず、はっきり言えば良いものを』

男として澄明を量ってみた時、凡そ、澄明は男としての魅力に欠けている。

かのとへの燻った恋慕に加え、かのとを奪い尽くす政勝に男としても勝てないとなると、

余計に女々しいやっかみを燻らせているに違いなかった。

祝言の席で、澄明は食い入るような目でかのとを見ていた。

あまつさえ、その瞳の端に潤んだ物が在った。

横恋慕の末の言葉かと思うとふっと、かのとの顔が浮かんだ。

昨夜は帰宅すると、泥のように眠りこけて言葉ひとつまともに懸けていなかった。

人の勧めで承諾した婚儀だったが、やってきた花嫁に政勝の目も心も奪われた。

夜も初々しい。

恥じる様に、慄くように小さな声を漏らすと、かのとは、政勝のものになった。

それから、三月。まだまだ、政勝のかのとに対する執着は深まって行く一方だった。

そんな、矢先の旅先での出来事だった。

男の本能でしかない、政勝はすんなり割り切っている。

―――が、それより、今宵こそかのとを…。

この三月の間に、かのとは少しずつ女を開花させている。乳を吸うとかのとが、

小さな声をあげて喜ぶ。そして、まさぐるように…

『いやいや』

政勝は自分の中の思いを慌ててかき消すと城の中に入った。


主膳の沙汰を待って、報告をせねばならない。

『しかし、何故、澄明が城へ?』

訝気な陰陽師の存在などを、朝から見掛けるのも妙な事だった。

詰め所に入り、どかりと座ると、櫻井が妙な顔つきで政勝を見ている。

「如何した?浮かぬ顔だの?」

「政勝殿……」

「いかがいたした?」

「それが……」

言い渋るが、櫻井の顔付きは、とても己が胸に留め置けそうもないと白状している。

「話してしまえ。言わざるは、腹ふくるる業なり。古から伝わるとおり、櫻井。顔色が悪いわ」

「実は、」

宥めすかすように、櫻井の口を割らせてみると、

――勢姫の寝所に夜な夜な男が忍んで来るのだという――

「なんと?」

幼い頃から、美貌を謳われた姫である。

婚儀の話しもいくつか舞い込んで来ていたが、父親である主膳が如何しても、

云、と言わないので、今以ってまだ嫁ぐ事無く齢を重ねている。

その勢姫が、…である。

何処の誰と、どうやって馴れ初めたのか、そして、どうやって男は忍び入ったものか、

不思議な気がするより先に勢姫が年端を迎えて、

女として身体の中に抑えきれない欲情に絡め取られている事に驚いたのである。

「勢姫といえど、人の子であらせられたか」

微かな苦笑が政勝の顔に浮かぶ。

「それが……不届きな狼藉者の正体が定かでないのです」

「な?」


異変に気がついた御付の海老名老が姫の懸想の相手を一目見て、

御相手を確かめた末、場合によっては、御二人の恋の成就に奔走するつもりで

後朝の別れを惜しむ殿御の姿がふすまを開けて現われるのをじっと廊下で待っていたのだという。

「で?」

「それが、いつまでたっても……部屋から出て来ない」

「人が引ける刻限を見計らって、ゆっくりと退散しようと言うわけか?

なかなか肝の座った御仁のようだの」

「確かに。そこで海老名殿は半刻も廊下に座ったまま

朝日が差し込むまでじっと待った上、そっと姫の御部屋に入って行った」

「ふむ」


ほんの小半刻前まで、姫の歓喜を迎える嗚咽と、男の荒ぶった息使いが聞えていたのである。

この襖一枚向こうにどういう秘め事があるのか老長けた海老名でなくとも判る事である。

海老名は明るい日差しが差し込むように繰り戸を開け放った。

「ご存知のとおり、あの戸の下は……」

「うむ。あそこから落ちたらひとたまりもない」

「ですから姫の寝所から、もう、海老名の待つ次の間に男が出て来るしかない」

ところが、姫が海老名に気がついて襖越しから

「海老名か?朝早うから何をしやる?」

と、尋ねあそばす。海老名が腹を括って

「海老名、決して悪しき事にならぬように姫様の御力添え致します故に、どうぞ…」

海老名の言葉が続くのに姫が襖を開け放った。

「居ない」

居るはずの男の姿は何処にもなかった。

狐に摘ままれた様な気がしつつも、海老名は引き下がるしかなかった。

訝しげな事と思いつつも歳を拾ったせいだ。あらぬことよと言い聞かせ、

その日を過ぐると、やはり晩に勢姫の在らぬ声に目が覚めた。

意を決して姫の部屋に忍び入るとそっと襖を少し開けて中を覗いて見た。

蝋燭の灯りに照らされて男がやはり、居た。

眉目秀麗な若い男が一糸纏わぬ姫の身体に馬乗りになっている。

やはり房事の最中であった。

海老名もいかんせん、おのこの顔だけ拝するつもりだった。

が、海老名の目に飛び込んできた物に度肝を貫かれた。

勢姫のほとに差し込まれた男の物が抜き上げられる度に姫が狂ったように身悶えするのである。

いたたまれぬ思いより先にその一物に海老名は腰を抜かしそうであった。

ほとに隠れてはいるがどう見ても尺物である。

その太さも直茎は一寸五分もあろうか。並みの男の持ち物ではない。

「おぉう… ぉう、ぉう」

姫が一物をぐりぐりと捻じ込まれるとその大きさ故か、苦痛を耐え忍ぶような声を上げるのである。

が、決って嫌がっているのではない。その証拠に男の抜き身がずるりと濡れそぼっている。

「嗚呼 もっと……もっと、深こう:入れや…早う」

姫の身体をうつ伏せにする為に引き抜いた物をはっきりと海老名は見た。

凡そ、自分の腕ほども在る一物。その先はまるで握り拳一つもあろう。

姫の背後に廻ると男は更に姫の中に突き入れ動かし始めた。

「嗚呼…嗚呼……悪童丸…ほう…ほう…ほ……」

その名を聞くと…慌てて海老名は自室に戻った。


「海老名から聞いた話は、ここまでで御座います。あとは……」

「あとは?」

「後は、海老名殿が腹を括って、殿に言上仕る他、し方在るまいとそれだけ口添えはしましたが」

「ふうううううむ」

「悪童丸という名に聞き覚えが御座いますか?」

「いや、無い」

「海老名殿の心中を御察しすると、気の毒でいたたまれませぬ。なによりも勢姫さまを手中の玉のように可愛がっておられた殿の事を慮ると………なおの事、どのように海老名老が殿に言上仕る事ができるのかと」

「辛い、役目だの…で?やはり、その男の正体は掴めぬのか」

「私が直居をしておりました故、海老名殿が呼びに参りました。が、声が聞えるのですが、流石に分け入る事も相成りませぬ故廊下で片時も目を離さず見張っておりましたが」

櫻井は首を振った。

「すると、姫の居室のあの小窓から抜け出たということか?」

「そうとしか…」

「……」

「どう思われます?」

「やはり、人ではあらぬな」

「私もそう思うが故に、此度の事、殿に内密で事を収めることはできないと、判断しました。」

「そうか……そうなると嫌でも海老名は殿に言上するしかない…か」

「さようで、海老名殿とも話し合ったのですが姫の醜態となる事故、私は何も知らぬ存ぜぬを通す事にしましたので…その後、どうなったかは…判らず仕舞なのです…」

「そうか、それで、白河澄明なのだな」

政勝の中でやっと合点がゆく。

朝から陰陽師などが登城して来るには、それなりの理由があったと言う事だった。

「澄明様が?」

櫻井の顔に微かな安堵が浮かんだ。

澄明が動いたとなるなら間違いなく海老名は事の大事を殿に告げている。

解決への糸口が開かれた事に櫻井はほっと胸を撫で下ろす様であった。

「うむ、先程すれ違った。しかし、男のくせに妙になよけた感じがしてどうも、いけ好かない」

「見た目はともかく陰陽の術では古の安部清明の右に出るかという程らしいです」

「某は好かん。法術、加持、祈祷の類はあくまでも自力ではない。剣あってこそ加護がある。何らかの神に縋ってそれを己の力と過信して居るような輩は好かぬ」

櫻井には澄明の法力が神の類に縋った物かどうかも判らない。仮に己の力による法力だとしても、そんな仮初の推量で政勝と論議するのもつまらぬ事だった。

「とにかくはそれで姫の件が落着するならば、それはそれで良いではありませぬか」

たしかに櫻井の言う通りだった。

「しかし、人では無いものと交わるなど、信じられない」

櫻井の言葉に政勝は黙るしかない。

「どう、思われます?どうしても私はこの世に妖かしの者が本当にいるのだという事が 今、以て府に落ちないのです。」

「妖かしの者か?」

すこしばかり応えるのに戸惑いを見せた政勝だが、現実、采女を切り裂いた政勝は蟷螂の化身であったと この目に見据えさせられている。

「居るだろうの」

政勝の出来事を知る由もない櫻井に事実を告げる気もないが、確かに妖しの者は存在する。

「居るのですよね?居るから。こうなっておるのですから、やはり居るのですよね」

「何ぞ、思いがあるのだろう」

政勝はすってのところで己の命を危機に晒された事を思い出している。

いくら、誠の思いであろうと、采女は結局蟷螂の本能に逆らえきれなかった。

政勝にとっても采女にとっても悲しい事実は、政勝に生をもたらし采女に死をもたらせた。

「色香に狂っての狼藉だけではないと?」

「判らぬことだが…」

政勝は口を結んだ。

子を孕みたいと言う采女をこの腕に抱いた。

交接の後、采女は雄を喰らう蟷螂の本能そのまま、白く光る鎌を振り上げ挑んできた。さんばらと切り上げた跡には腹を切り裂かれた蟷螂の死骸がひとつあるばかりで屋敷はかき消え竹の笹ずれだけが響く一面の竹林の真中に政勝が立っていた。

妖かしの者かもしれない悪童丸もこちらには解らぬ己の思いに突き動かされての狼藉かもしれない。人に手をかけて、無事に生き長らえられる訳がない。

その危険を顧みずに只、欲情だけで夜毎に忍び込むほどの阿呆にあの勢姫がほとを開くだろうか?

采女とて己の本能のあさましさも酷さも熟知していたに違いない。

愛しゅう御座いますと流した涙は政勝の為だったか?己の運命を呪っての事だったか?定かな事は一切判らぬが、采女が確かに政勝に対して胤を貰い受けるだけの男に寄せるだけでない、より以上の想いをもったのは真だったと何故か素直に信じられるのである。悪童丸と勢姫にも何らかの情愛が生じているのは間違いない。

が、何故に、悪童丸が勢姫を選んだか?

その奥底の想いの中に何があるのか?

采女が政勝を選んだ訳、子を孕みたい、その思いに突き動かされたのが一義だろうが::。

「?!」

政勝はふと考えた自分の思いに慌てた。

子を孕ませたい::采女の逆の思いを端に当て嵌めただけに過ぎなかったが、ぞっとする思いが湧いたのである。

妖かしの者の子を孕まされた勢姫が妖かしの子を生む?

恐ろしい想像に政勝はかむりを振った。

「しかし、こんな時に困った事になりました。」

「うむ」

「明後日の夜には月見の宴を張るという事で、あちこちの要人をご招待しております。そんな時に何かあったら」

「御家大事か、姫が大事か…」

「ああ…」

櫻井は哀しげな声で答えた。櫻井の心中を察するのに余りある。

「今頃 澄明も殿から聞き及んでいる事であろうの」

「澄明様は悪童丸の正体を読み透かせるので御座いましょうか?」

「もう、法術とやらで、片を付けておるかもしれぬぞ」

「はあ…」

櫻井の呆けた返事が返ってきた時に近習の中江房之介が政勝を呼びにきた。

主膳に御目見えする様に言い伝えると政勝の来るのを待ち受けるようにして前を歩き出した。


政勝が主膳の前に額ずくと

「政勝、苦労であった。先ほど早馬がきて委任状の一件、万事承知仕りましたの花印だった。大儀であったの」

労をねぎらう言葉を掛けた主膳の声が、止まると静かな調子で

「ところで、政勝。先ほど、白河澄明との話の中でな…うむ…」

主膳は、そこまで言うとまたも押し黙った。やがて、意を決すると

「実はの、勢姫の元に夜な夜な物の怪があらわれておる。それで澄明を呼んで見透かさせたのだが…。その物の怪の正体は鬼であるというのだ」

「えっ。はっ、鬼?と」

櫻井から既に聞き及んでいた事であったが、その正体が鬼といわれると政勝も聞き直した。

「衣意山に巣食っておる悪童丸とだけは、判ったのだが人に化身した姿を誰に映しているのか判らぬ。海老名に問い正しても恐ろしくて、顔を見ておらぬと言い張って何も言おうとせぬ。政勝。ここまで明かす以上はわしの言いたい事は判るな?」

「はっっ」

「澄明もお前の剣の腕なら、魔を切る事も叶うと言う。澄明と力を合わせれば、仮の姿の探り当てて切り捨てる事もできよう。どうにか、勢姫を救ってくれぬか?憐れな親の頼みだ。どうにか、政勝。この通りだ」

主膳が頭を深々と下げるのを見ると政勝は、慌てて言葉を継いだ。

「殿、御顔をお上げ下さりませ。政勝この命にかえても姫を誑かす鬼めを退治して必ずや、そっ首持ち帰りましょう。何卒、御顔をお上げ下さりませ」

主膳にそう確約すると政勝は部屋を辞した。


廊下を歩く政勝を呼び止める声に振り向くと澄明が西の間から顔を出して手招きをしていた。

政勝はむっとした面持ちで澄明を見据える。

用事があるのなら自分から来れば良いものをと思うと、政勝はその場に立ち止まった。政勝の心根を察したのか、動きそうもないのが判ったのか、澄明が近寄って来た。

「今日は、帰宅なさるがよい」

「現われぬと言うのか?」

「ええ、忌み日ですから。それに先ほど式神を飛ばしましたが、帰って来ませぬ。逆に、あっさりとくじり殺されたようです。かなり、法術に長けた鬼ゆえ、慌ててこちらが動くのは得策ではありませぬ」

「忌み日?」

「はい。今日はかなえ様の…」

主膳の妻。勢姫の母であるかなえの月命日であった。

さすがに命日に勢姫も、鬼めに身を慎めさせるという事であろう。

「それに、今日は、私も貴方の所へ参りましょう。先ほどの件もございますし」

それを聞くと政勝の声がひどく荒々しくなった。

「な、なに!なにを、戯けた事を?」

采女との事をかのとに話さなければならないというのか?政勝は澄明を睨み据えた。

「ご心配なく蟷螂にあやぶられたなど貴方様が口が裂けても言えない事をこの澄明がかのと様に申上げる事はありませぬ」

「…」

むっとした顔で政勝は澄明を睨み据えるが澄明は一考に気に掛からない様子で

「とにかく参りましょう。かのと様にお願いをせねばならぬ事が御座います」

「…」

嫌だと言う事が返事になぞ成る訳がない。

それにこの度の鬼の件を判っているのは澄明のほうである。

主膳の顔を思い浮かべる政勝もこの件が片付くまでは澄明に逆らわぬようにするしかなさそうであった。


二人並びて家に戻るとかのとがいつものように玄関先まで政勝を出迎えに出てきていた。

そのかのとを澄明がちらりと盗み見るようであった。

「だんな様。御膳を用意してあります。些少ながらささもあります」

まるで、澄明が来るのを予期していたようなかのとである。

「かのと様。御元気であらせられる」

「ええ。お陰様で」

かのとの幸せげに満ち足りた様子を見る澄明の目が愛しいものを見るように細く潤んだ。

『こやつ…』

政勝の胸中は面白くない。

澄明も澄明だが、かのとも満更でなさそうにどこか浮き立った顔色をしている。

膳の席に座ると政勝は澄明に酒を勧めた。

始めから気に入らない相手だが、こうもあからさまなかのとへの心情を見せられるとますます気に入らない。

が、衣居山の鬼と正体を暴いた澄明と組まねばこの鬼退治が出来そうもない。

主膳の深々と下げられた頭とその下にぽたりと落ちた涙を政勝は見ている。

私心に拘っている場合ではなかった。

「……飛ばしました故」

澄明の言葉をぼんやりときいていた政勝だった。

「なんと?すまぬ。聞いておらぬかった」

かのとが澄明が来るのを、予期していたかのように膳を用意していた。

どこかで澄明と示し合わせて逢っていたのか?

嫌な嫉妬が政勝にろくでもない想像を生じさせる。

「式神を飛ばしました。式神が耳元で何度か伝えますと聞かされたほうは自分でも、言われた事が自分の気持ちになるのでしょう。かのと様も同じなのです。」

「それで。この膳か?」

「申し訳ございません。式神の念が強すぎたようです」

強いのは澄明、お前のかのとへの念ではないのか?そう言いたくなるのを政勝は堪えた。

「そんなことはよいわ。それよりも、衣居の鬼の事だ。どういう手筈で?」

「明後日の夜。宴の席に多分、姿を借りた男が現われるでしょう。姫の様子でそれが誰か判る事でしょう。まず::」

「それが鬼だというのか?間違いないのか?」

「いえ、判りませぬ。それがここで判るくらいなら澄明一人の手でとっくに片付いております」

「其れでは、そ奴と分っても仮の姿なのか当の本人なのか判らないという事なのか?」

「見てみない事には…」

「なんとも、やっかいな」

「で、なければ澄明もかのと様の伴侶を危険な目に合わせる事もなかったのですが::」

そういって、澄明は台所の方に居るかのとをちらりと見やる。

「……」

こうも、かくも隠し立てもせず、かのとへの恋慕をあからさまにされると政勝も怒る気が失せた。

『何ゆえ?』

そこまでかのとが気になるなら何故かのとを貰い受けなかったのか?不思議な気がしたのである。政勝の心をよみ透かしたのであろう。澄明は

「かのと様を政勝殿にお薦めしたのは澄明でございます」

と、言う。

「な?なに?」

かのとへの恋慕がありながら当の澄明がかのとに自分を薦めたと言うのか?

政勝は告ぐ言葉を失った。

「澄明は理由あって妻帯出来ませぬ。乳飲み子の時に同じ乳母から乳を貰い受けたかのと様は澄明の妹のようなもの。俗世の幸いをかのと様に重ねてみた時に、私の脳裏に貴方様の名前が浮びました」

妹!?本当にそれだけなのだろうか?

「ささを、お持ち致しました」

かのとが現れると澄明に酒を注いだ。

「かのと様。まだ、ややを作ってはなりませぬぞ。政勝殿はここしばらく韻を結ぶ事に相成ります故にどうか、夜の秘め事はご辛抱なされまし」

澄明にそういわれるとかのとは憐れなほどうろたえた。

その様子を見ると澄明はほっとした顔を見せた。

かのとがいたたまれずその場を去ると

「政勝殿。澄明はかのと様との御仲がよろしくいってないのかと懸念をしておりました。かのと様のあの様子で安心いたしました」

かのとが憐れなほど赤くなりうろたえた事が政勝の腕の中でかのとがどう身悶えるのか、それを如実に語っていた。

その、かのとを政勝が否や愛でてないとは言わせはしない。

「…余計な事を」

政勝のその言葉を聞くと、澄明はふうううと溜息を付いた。

「無駄な進言と言う事ですか。ならば、私の方もこれで、おいとまいたしましょう」

澄明は少し、沈んだ顔になった。

そのまま、何かを考えていた様ではあったが、くっと口を結ぶと立ち上がった。


澄明が帰るのを見送るとかのとは膳を下げ、かた付けを始めだした。

軽い酔いに政勝はごろりとその辺りに寝転がりながらかのとを見ていた。

かぞえの十八。政勝と七つ、歳が離れている、気端がよく効いて、手先も器用だが、なによりも性がいい。

明るい日溜りに居るように温かく和やかな女で、芯に強いものが見え隠れするのだが硬い感じを与えず、

おとなしく政勝を慕ってくる。

「かのと。澄明とは乳のと兄弟だったのか?」

「あ、はい」

膳をふき上げる手を休めずかのとは答えた。

「そんな話は…」

「だんな様にいつか澄明様の事を話しかけた時、陰陽師風情の話はするな。と、あの…」

「私がかのとを叱った、と、いうわけか」

「あ。はい」

政勝は、そんな事などすっかり忘れている。今、考えても定かな記憶がない。だが、有り得る話しであった。

「すまなかった」

「あ、いえ」

心根の優しい男である。いくつも下のかのとに対してさえも自分の落ち度は落ち度として素直に謝る。陰陽師風情と拘りを見せる政勝と同じ政勝とは思えなかった。

「だんな様。御風呂が沸いております」

珍しく居風呂のある屋敷が気に入ってここを選んだのである。

父も母も政勝が嫡男でありながら居を別に構える事にむしろ賛同した。

まだ年端のいかない妹も居る。嫁いだ姉が産褥で帰ってきていたりもした。

主膳もあっさりと認めをだすと夫婦水入らずもよかろうと笑ってみせた。

「かのと。はよう片付けて、そなたも湯浴みをすればよい」

かのとが政勝の着替えを携えて湯殿にはいってゆくとまだ真新しい竹籠に政勝の着替えを置いた。

政勝が打湯を使って居ると外で薪をくべる音がしてぱちぱちと木のはぜる音と、生木の煙る香がしてきた。

「だんな様.お湯加減は?」

「うん」

いつのまにか、外に廻ったかのとが火吹き竹で火をいこらしているのだろう、小さなふうふうという息の音が聞こえてくる。

政勝は湯船の中にゆっくり沈み込むとかのとに答えた。

「丁度よい」

「はい」

政勝のたゆとうように寛いだ返事を聞くと、かのとはそれだけで嬉しくて仕方ないのだろう。心持、声が弾んでいる。

政勝がそんな返事が返って来たかと思っているとたたっと走り去る気配がした。

「かのと、かのと?」

小さく呼んだが返事が無い。

床の間の膳を片付けて寝間の用意をするのだろう。

いずれにせよ政勝の為にあれやこれやと支度を整えてにいる違いなかった。

かのとにこれではわしの手には小さいと笑った糠袋がすでに新しく作り替えられてあるのを手に取ると政勝は、体の隅々まで擦り上げて行くのであった。


夜も更けようというのにかのとは針箱を前に何か縫っていた。

聞けば政勝の為の二重の着物を縫っていると答えたのだがそれを畳み込んで終わりにするのかと思ったら先ほど政勝の着ていた着物を広げ出す。

手燭の灯りに縫い物をするかのとにとうとう政勝は痺れを切らした。

「何を縫うのだ?急ぐ物なのか?」

「いえ、もう終ります。だんな様の半襟の糸が綻んでおりましたのを…」

「そうか。かのと。わしももう綻びそうじゃ」

じゃれた言葉を投げ掛けながら、ついっと手を延ばすとかのとを引寄せた。

洗い上げた髪に鬢付け油の椿の香りがする。髪を梳き上げると器用な女だった。

瞬く間に髪を結い直してしまった。

女の髪を梳く所など久方ぶりに見た。じっと見ている政勝にかのとが

「いやです」

そう一言いうと縫い物を始めたのである。

それから、半刻近く、かのとの側で政勝はごろりと横になるとかのとの顔を眺めながら時折、言葉を交わした。

細い指が政勝の半襟を直していた。

政勝に引寄せられたかのとは少し躊躇った。

政勝の手の中にすんなりと入ってこないかのとを政勝は見詰めた。

「あっ、あの.澄明様が韻を結ぶと…」

かのとの躊躇いがそこにあったのが判ると、政勝は

「かまわぬ」

さらにかのとを引寄せた手に力を込めた。

「あ、でも」

「夫より澄明がいう事が大事か」

「いえ」

かのとは目を伏せた。政勝も己の嫉妬に欲情がいっそう煽られている。

何よりも澄明のあの目付きが気に入らない。

政勝の物である筈のかのとを一瞬の内にねめつけ回された気がしてその澄明の目からかのとを払拭する為にも、間違いなくかのとを我が物と確かめる為にも政勝はかのとが無性に欲しかった。

が、かのとの口から澄明の言葉を盾に睦事を拒まれた気がすると尚更、いかにしてでも政勝のかのとである事を確かめずにはいられなかった。

「嫌か?」

「いえ。あの」

拒む気はない。むしろ望んでいる。自分で出した、たった一言にかのとはうろたえた。

そんなかのとに体を寄せつけ口を啜ると、かのとはそのまま政勝にしな垂れかかって来た。

『うい…』

政勝は襟の隙間を開くようにしてかのとの胸に手を差し延べた。

政勝が探り当てた小さな胸の先に与えた感触にかのとの声が切なげに漏れ出すと政勝はもう一方の手で着物の裾を割った。

「はっ」とも「ふっ」ともつかないため息がかのとの口から漏れ出す頃には政勝の手はかのとの腿を這い、かのとの芯に触れていた。

「なり…ま、せぬ」

そう抗う声が小さく、力なくか細ると政勝はかのとの裾を捲り上げた。

かのとの局所に顔を寄せると政勝の舌がかのとの秘部を割り込み小さな突起を舐め上げ更にそれを強く吸った。

荒ぶる息をそのままかのとにぶつけて行くと、かのとが小さく歓喜の声を上げた。

「だんな様。今は…」

かのとの手が政勝の顔を引き離すように引くので、政勝はその手を抑え付けるとかのとの突起をさらにきつく啜り上げ、舌で押え込む様にして転がした。

「嗚呼…」

かのとの声はもう、抗う事を忘れている。かのとの秘部が濡れそぼってゆくのを促がすように確かめる様に政勝は指を滑り込ませた。

「嗚呼…あ、」

かのとの物が政勝を迎え入れる為の滴りが政勝の指をしとど濡らしてゆくのが判ると政勝はかのとを抱き上げて寝間に運んだ。帯を解くと、かのとの白い肌が露になる。政勝が寝着を脱ぎ捨てると引き締まった裸身になると、褌の中でそそり立つ物を外の空気に晒し、かのとの中をめがけていった。

「あ、ああ…」

かのとの声が政勝の侵入を待ち受けていたかのように喘ぐ声に変り始めると政勝は更にかのとの胸に手を延ばした。

かのとの胸の先を摘み上げると秘部へ呼応してかのとの中がきゅうと締まって来る。

「ああ…んん」

快い刺激に反応してかのとが切なげな声をあげる。

「かのと、かのと、よいか?」

「嗚呼…政勝様。かのとは…ようございます」

しとど、濡れそぼった中に政勝の執拗な反復が繰り返される。

かのとの声が間断なく上がってくる中政勝の頭の中はこの刻限をどれだけ長く延ばしかのとをどこまで長く、喘がせられるかその事ばかりを考えている。

「かのと、かのと」

政勝の呼ぶ声にかのとが息も突けないほど喘いでいる。政勝の動きひとつでかのとの中にめくるめく快感が湧いてきているのは間違いなかった。

『もう間違いなく、俺の女だ』

誇らしげな支配感と政勝のものに喘ぐかのとへの愛おしさが重なると政勝のものがどよめきを起こし始めていた。

「かのと。はなつぞ」

政勝の物がかのとの中で最後を迎えると、その小さな波立ちにすら、かのとは反応して行く。政勝の物が放出された跡もかのとの体が小さな喘ぎに震えていた。

『采女などと、比べ物にならない…』

政勝はまだなお歓喜に喘ぐかのとの体を抱き締めた。

「…」

かのとが己の乱れに恥じらいながら政勝の胸の中に顔を埋めると小さな声で

「うれしい…」

と、呟いた。かのとは政勝の物が自分の中に放出された事を、この上ない喜びとして受けとめていた。抗う事の出来ない政勝の兆着に服従するかのようにかのとは告げた。

「かのとは、政勝さまの物…」

そこまで言うのが精一杯だったのだろう恥じらいと甘い余韻に浸りこみながらかのとは政勝の胸に縋り付いてきた。政勝はかのとをひしと抱き締めると

「かのと、明日の夜も次の夜もかのとを責めてやる」

政勝らしくもない隠避な言葉をかのとの耳元に囁くと名残惜しげにかのとの中から己のなえたものを抜き出してゆく。

が、その微かな動きにさえかのとは小さく声をあげた。

「かのと」

恐ろしく感の良い女であった。政勝は思わずかのとの乳に歯を当てるときつく噛んだ。

「あああ…」

鋭く叫んだ声の語尾がもう、新しい感覚に酔わされているのを政勝に教えた。


朝、起きるとかのとはもう、朝げの支度に向っていた。

「今宵は晩秋の名月を愛でて詠を読むという趣向らしい」

遅くなると言わずともかのとは察していた。出かける前に政勝はかのと寄せつけるとその胸を開いた。

無残に赤く残った歯の跡を見た。

「痛いか?」

かのともさすがに恥じらんだ。胸元をかき寄せようとするのを

「よい」

かのとの手を押し止めると形の良い乳房を持ち上げるように掴むとぐうとせり出したその先に舌を這わせた。わずかの恥行に早くもかのとは声を殺し嗚咽を堪えている。

「政、勝…様」

政勝がかのとの乳の先をぐううと噛みあげると

「ひっ…」

と、いう声と共にかのとがしゃがみ込んだ。政勝の与えた疼痛がかのとの体の中を走りかのとの秘部に切ないうづきを起こさせていた。

「かのと、行って来る」

一日中かのとに胸の痛みがこの朝の政勝の愛撫を思い起こさせる事は言うまでもない。

「あ、はい」

胸を合わせながら慌てて立ち上がるかのとを見やりながら政勝は

「かのと」

そう、呼んだ。

「はい」

政勝の言葉を精一杯、許就しながらかのとは一歩前に進み出た。

「政勝様」

「うむ」

かのとが政勝を政勝様と呼ぶのは秘め事の時だけであった。

言葉による性根のやり取りをかのとは理解している。かのとと呼ぶだけでかのとは思わず政勝様と返してきた。

其れだけで政勝の中は十分満ち足りた。

間違いなく、更に自分の物に深めたかのとへの欲情を隠すように政勝は外へ歩み出した。


城へ入ると本丸の前の広い庭に緋毛氈が敷き詰められ男衆は、かがり火を焚く為の薪を運び、要所要所に要具を立てこんでいた。女たちは蔵から取り出した膳を柔らかな布で拭き込んでは台所に運び込んでいる。器も加賀の金箔をあしらった漆黒の上等な品である。それを、横目で眺めながら政勝は庭を突っ切ると海老名と何か話しこんでいる澄明の元に向かった。政勝に気がつくと澄明の方も歩み寄ってきた。

「思ったとおりです」

澄明はくぐもった顔で政勝に

「無駄かもしれませぬ。いえ、無駄でしょう」

と、言う。政勝にはさっぱり道理が得ない。

「とにかくは映し身が誰であるか判らぬと、鬼がきたのも知らぬ存ぜぬでは相すむまい」

「そうですね」

澄明は深い溜息を付く。

「いったい、何だ?」

だが、澄明は尋ねられたため息のわけをすぐには語ろうとはしなかった。

「いずれ」

澄明が小さく答えるのを聞くと政勝も黙った。

昼を過ぎる頃から各所より、要人が参内し始めた。

刻限まで寛いでもらう為に部屋に通すと近習の者が引き下がり、慌ただしく御茶にお菓子と運び込む女中が廊下を行き交う。

「今宵は現れるのか?」

鬼がである。政勝の問いに澄明は押し黙った。

「それが判らぬのか?」

「いえ」

「ならば何故?何故?結界を張らぬ?」

「すでに鬼の在る所に無意味です」

「どこに?」

はやくも、鬼が現われていると言う。

しかし、政勝にはその気配さえ感じ取れなかった。

「お気付きでない。無理もない」

訝しげに澄明を見る政勝の袖を澄明は引張った。

宴が開かれる中庭に直垂が貼られいよいよ、かがり火に火が入り始める宵闇の中で澄明がやっと一言、政勝に漏らした言葉を聞くと政勝はもう一度尋ね返した。

「姫が、鬼であると?」

「はい」

「なにを、寝ぼけた事を。空言も体外に…」

澄明の顔がぐうと空の一角を見据えるとそのまま動かなかった。

その、澄明の哀しげな顔を見ると政勝は二の句を継げなかった。

澄明の顔を惟、じっと見ている政勝であった。

『姫が、鬼である?』           


緋毛氈をそそと踏みしめて勢姫があらわれた。

膳を運ぶ女中たちがすっと引下がって勢姫を通すと姫の艶やかさに女達がほうううと溜息を付く。

御付きの者が南の座に抱えた琴を据えると姫は金糸銀糸に彩どられた琴の袋を解いた。琴は備後の鞆で誂えた逸品である。

螺鈿を施され漆黒の上塗りが鮮やかな光沢を放っている。

上等な品であるのは、元よりだが、その品を勢姫にあつらえた主膳の姫への愛着ぶりが伝わってくるようでもあった。

勢姫は琴柱をたてると調子を調えるのであろう。琴爪を嵌めると軽く琴をかき鳴らした。琴に、慣れるほど琴の腕は上達している。

何度も調律せぬうちに支度が整ったようであった。

要人たちに先じて主膳が現れるとすっかり、用意の整った膳を眺め、満足そうに頷くと

「あないせよ」

と、告げた。

要人たちを迎える為に近習の者達が散ばると主膳は勢姫を見た。

姫は爪をつけると琴を試すかのように奏で始めた。

主膳は事の他、勢姫を溺愛している。その姫が手ずから琴を奏でようというのである。ぽんぽんと手を叩き悦にいっている。

海老名が勢姫の為に御神酒を運んだ。勢姫は小さな杯を取り上げると左手に持ち換え月に捧げるように仰ぐとくっと一息で飲み干した。

「月に愛でられて螺鈿もいっそう光り輝いております」

海老名は勢姫から杯を受取ると琴を眺めた。

幼き頃よりの手習いの琴の腕は、それを教えた海老名を当の昔に凌いでいた。

かがり火が燃え立ち、辺りが物憂く暗闇に沈んで行く中、琴の調べが響いて行く。

各所の要人が座に座る頃にはかがり火は良き火となり、月は天空高く冴え渡り始めていた。

「あな、美つくしや」

月を称えるとも勢姫を称えるともつかないため息があちこちから聞こえる頃、京の三条時守重富が主膳の前に額ずいた。

父の三条平守重喜に代わっての参内であった。

「おおっ」

主膳の声が大きく響く。

「父君はいかがかな?」

「申し訳御座いませぬ。よる年波に勝てぬ気性の弱さ。京より参ずる事も叶わず私が代理として参内して、お詫びのほど申上げるようにと父からもくれぐれとくどいほど念をおされて参りました」

「ほほう。重喜殿がのぉ。なんとも残念ではあるが、なに、ご子息の?」

「時守、重富でございます」

「重富殿か。確か、重喜殿の最後の…」

「はい。齢五十を過ぎての子ゆえ、兄上からも孫のようだと笑われております」

「なるほど」

近因の者を囲っての愛着振りとの評判が高かったがこの若者の顔を見ていると側女であった、いこいとやらいかに美貌であるかが思いはかれんばかりだった。

「年はいくつにあいなりてや?」

「かぞえで、二十になります」

勢姫がかぞえの十九。若き公家が勢姫に並ぶとも劣らぬ美しい姿態であったのも気に入ったが、歳格好も勢姫に良く似合っているように思えた。

主膳がふと勢姫を見ると、姫は琴の手を休めて重富を食い入るように見ている。

事の他、勢姫の方がこの美貌の若き公家に興をそそられているようであった。

が、主膳の胸に刺すような痛みがあった。

『男を知った女のあさましさ故、かように、食い入るように見やるのであろうか?』

そんな哀しい痛みであった。

当の重富も琴の音が途切れたのがふっと気になったのであろう。

主膳の眼の先を追うようにして勢姫を見つけるとその眼がもう、動こうとしなかった。


「あれか?」

そのようすをじっと見ていた政勝が澄明に声をかけた。

「いえ、そうでは御座りませぬ。重富様は間違いなく、人の身。移し身ではありませぬ。が・・・」

勢姫の食い入るような目が余りにも妖しい光を帯びている。

「鬼めは、三条殿の姿を借り受けておりますな」

澄明は政勝に告げると胸の内でなにか唱えているようであった。

しばらくすると、顔を上げた澄明がおもむろに喋り出した。

「私の読みには、いずれ三条殿と勢姫の婚儀が整うと出ております。鬼めは、これを先に読んで三条殿の御姿で現れていたに相違ないと」

「すると、姫は?」

「いえ、多分。鬼と判っておられての上の御執着でございます」

「鬼が姫を謀っている訳ではないと言うのか?」

「鬼…」

澄明が手を握り締めると九字を切った。

「勢姫様と同じかぞえの十九。悪童丸の名は衣居の山に捨つられた時に産着に『この子、悪童なりて捨つるを已む無き』と始まる手紙が馳せられているのから取られた名前」

「鬼が鬼を捨つるか。酷い事を。故に鬼なのかもしれぬか…」

「…」

「姫がそれを知って憐れと思うて情けをかけたのが却って仇になったのであろう?」

「政勝様。そう御思いになるのなら決して要らぬ情けをかけてはなりませぬ」

途端に、澄明の言わんとすることを察した政勝の顔がむっとした顔になる。

ねちねちと采女との事を皮肉る為に鬼の事を引き合いに出してまで言わねばならぬ程かのとへの恋情が醒め切らぬのかと思うと、何処かでぞっとする思いを抱いた政勝でもあった。

「ふん。鬼の片恋を庇う気持ちも判らぬではないがの」

「何を言われる?」

「いや、同病相憐れむも、いい加減にせねばの」

澄明の頬が薄く染まりその、瞳が悲しげな色に変るとそれを隠すように俯いた。

「なれど、叶わぬものを」

抑えきれない心の内を曝け出しかけた澄明だったがはっと我に返った。

「すみませぬ。澄明は、己を制するにまだ足りておりませなんだ」


宴の席からそっと抜け出て自室に戻り臥せりこむ海老名の元に勢姫がやってきた。

「気分がすぐれませぬので」

そう、言い分けをしながら海老名が起き上がると勢姫が詰め寄った。

「何ゆえ、父上に話しやった。父上が勢を見る目が違いおる。おまけに澄明までよんで」

「姫様。なにとぞ、御許しを。海老名も姫様の身を案ずるが故。悪童丸様の事はなにも話しておりませぬ。されど、姫」

「言わぬでよい」

「姫。なりませぬ。成ってはならないのです」

「悪童丸が鬼故か?」

そうである。が、それだけではない。

「…」

いえぬ言葉を出せるわけも無く海老名が黙る。

「海老名。勢ははじめ鬼を恋しと思うは母の鬼恋の情念が勢につがれたものじゃとおもうておった」

勢は主膳に嫁ぐ前のかなえの恋を知っていた。

「あ」

「だから、姫も鬼である」

だから、という言葉の意味合いの深さは海老名の閉ざす真実につうじることなのであろうか?

「知っておった。勢の体がそうと教えてくれてな。障子に映った勢の影が鬼じゃった。それで、何もかもわかった」

勢姫はまさしく海老名が口に出そうとしない事実を鵜呑みにしたまま己が鬼である事を認めていた。

「姫。なれど…ならばこそ人として生きて」

勢が鬼であるという事は、すなわち、勢のてて親が鬼であるという事である。

かなえと鬼の間に生まれた子であれば、鬼でもあるが、人でもある。

これをしっているのであらば、鬼としていきぬとも、人としての生き様を選ぶ事が出来る。

だが、人であったかなえとて、鬼を恋うた。

母の鬼恋故に生ませしめられた命であらば、勢が鬼を恋うのも道理の筈である。

この事への、唯一の理解者であるはずの海老名がせめても勢の想いだけにでも首を縦に振らぬにはわけがある。

「海老名。隠さぬとも良い。そなたが反対するもう一つの理由を勢は知っておる」

「…まさか」

「じゃから、勢も悪童丸と同じ半妖なのであろう?あいのこであろう?」

ただ、一言で同じあいの子というがそれは、紛れも無く勢と悪童丸は同じ母、同じ父からうまれいでしものであるといいはなっているにほかならない。

悪童丸が勢の双生の片割れである事を勢は十分に承知の上であるという。

「ひ、姫様」

「悪童丸は」

「なりませぬ。その御言葉をゆうてはなりませぬ」

実の弟とのまぐわいを知らずの事と言うならまだしも、知っての上という。

人の道をおつるは鬼になったゆえか?

そうとでも考えねば海老名が享受するにしかねない事実が勢の口をつく。

「海老名。勢は初潮を迎えてから半年も過ぎた頃からこの身が人の物でない気がしてたまらなんだ。ある夜、障子に映った鬼の影を見た。その時に勢はひとつも恐ろしゅうなかったのじゃ」

「姫様…」

「恐ろしやと思うより先に勢はその影に擁かれたいと思うておった。そう思うと勢のほとが熱く潤んできて、物狂おしくてならなかったのじゃ」

「姫、さ、ま」

「勢は、悪童丸の事も、勢が鬼の子であることも判っておる。なれど、そなたの言うように人として生き様と思えば思うほど、どうしょうもなく鬼の血が騒ぎ、尚更に悪童丸が恋しい…。悪童丸の男根が勢のほとに通じると勢が鬼であることを嫌が応でも知らされて、勢は嬉しく思えて堪らなかったのじゃ。いずれは、何処に嫁ついで行くこの身、人として生きねばならぬ身だが、どうしても、その前に鬼として鬼の女として己を見定めたい。母の思いを知り得た気もするのじゃ」

「なりませぬ、鬼になどなってはなりませぬ。姫様どうぞこの身を静めて」

「判っておる。それゆえに悪童丸も三条殿の御姿を借りて」

「おおおおおお…」

海老名の泣き伏すその背に勢姫の手が置かれると

「のう、海老名。勢は春の茶会に出て、三条殿の姿を垣間見た時にこの方が勢の夫君であらばと思うたのは嘘ではない。ただ、勢に流るる血が勢の思いを超えて悪童丸を呼んでしもうた。悪童丸も人の血が恋しい。苦しんでおるのは悪童丸も同じなのじゃ」

勢姫の言葉をじいいと聞き入っていた海老名であった。

「悪童丸様も…」

一言、呟くと己の頭を抱え込むとその声が号泣に変った。


「かなえ様、かなえ様。私は貴方様をお守りできず、そして、又、罪深い業を姫に負わせて、あの時私もいっそ、御側に参れば良かった。私が、貴方様を、姫を、悪童丸様を…」

「海老名。勢は悪童丸との事はまことと思うておる。故に頼むから、母の事をゆうてくれるな」

「ひいいい…」

海老名は押し殺す事もなく声を上げて泣崩れた。

勢姫の母であるかなえは勢が九つの歳に楼上より身を投げた。

それが事故だったのか、本当に身を投げたのか、取り沙汰にされる事はなかった。

余りに深い主膳の悲しみを思い誰もが暗黙の内に口を閉ざした。主膳の寵愛を一身に受けたかなえが自から身を投げる訳など無かったが、余りにも不自然な場所からの転落であった。わざと落ちねば落ち得ぬ場所であった。

かなえが地べたに叩き付けられた事も知らず探し回った者達が楼上の梁に曳き切れた着物の端を見つけて地面に降り立った時には山童に無残に食い荒らされた体の一部しか見当たらなかった。血を帯び引き千切られた着物だけがそれがかなえであることを語っていた。余りに無残な死に様であった。

海老名の言うあの時というのはそのことであった。


十日を過ぐる頃。使者が来た。

思った通り三条からの勢姫との婚儀の申込みであった。

主膳の腹は当に定まっていた。このまま勢姫を鬼の陵辱に晒しておくぐらいなら、三条の元に嫁がせた方が良いに決っている。

婚姻の因を結べば悪童丸ももう、勢姫の元に現れる事は叶わなくなる。

揺るがせない産土神の神前での契りを立てれば守護を得られる。

主膳は惟、一つの気懸りを振り払うと墨書をしたため始めた。

若し、勢姫が悪童丸の子を孕んでいたら産土の神は子の護り神でもある。悪童丸の因を封じ込める事は、おろか、父親か夫君かどちらに守護を与えることになるかさえ判らない。つまり、子を孕んでいれば契りは無かったに等しい事になる。

が、哀れな親は一縷の望みに掛けて見るしかない。

婚姻の儀を承知する由を書くと一刻も早く勢姫を娶る様に書こうにもその由縁をどうするか、主膳は考えあぐねて、筆を置いた。

澄明が渋い顔で告げて来た言葉を主膳はもう一度考えていた。

「此度の事、私の法力でも叶わぬやもしれませぬ」

苦しげな顔でそういう澄明に主膳はかける言葉が無かった。

海老名から聞き及んで夜の帳が落ちるのを待って主膳自から、勢姫の部屋に入り鬼を成敗してやろうとした。

睦言を交わす密やかな声に耳を塞ぎたくなるのを堪えながら機会を見計らった。

刀のこいくちを切り八幡大菩薩に守護を祈った。

が、「やっ」と切り込もうとした筈の主膳の体が金縛りにあったように身じろぎ一つも出来なかった。あまつさえ、身震いが起きるとぞおおおおとする寒気に襲われこめかみから頬が引き攣る様であった。

その後どうなったのか主膳にも判らない。

気がつくと布団に寝ていた。ひどい、おこりを起こして廊下で気を失っていた主膳を見つけた海老名が主膳を起こすとその身体を支えながら部屋に連れ戻ったのだと言うのだが自分の足で歩いた記憶さえ主膳には無かった。

そんな、ていたらくであったから、鬼の妖気の凄まじさを主膳自から感じ取っていた。

己の手におえる物でないと判る故に主膳も澄明を呼んだのである。

が、その澄明にも成す術が無いようであった。

そうなるとますます、三条の婚儀の申込みだけが頼みの綱であった。


かなえの非業の死を悲しむ余り、かなえに生き写しの勢姫を手放しかねていた親の愚かさを詫びると供に、今更ながら、己の歳を食んだのに気が付くと同胞がすでに孫を抱いているのがひどく、羨ましくなった。

親の我が侭で勢を留め置いておきながら今度はじじいの我が侭を言いたくなった。と、面白おかしく書きしたためると、ゆえに、婚儀も急がれよと付け足した。

この書がとどくと、

「弥生の雛の飾りに一人座りたる雄雛の横が淋しくなるのでそちらの勢姫を飾りたく候。雄雛こと時守重富」と、洒落た返答が届けられた。

「弥生か」

主膳はもう一度、澄明を呼び寄せた。

「退治せよとは言わぬ。わしも、無理やも知れぬことは、うすうす承知しておった。澄明、勢の婚儀が相整う弥生雛の日までなんとか、悪童丸を、近づけぬように::それが、無理ならば、勢が悪童丸の胤を宿さぬようにできぬか?それならば、できよう?」

「…」

主膳殿、この因縁は、余りに深すぎる。子を成さねば、それで切れる因縁ではありませぬ。そう言いたい言葉を澄明は飲み込んだ。

どう言う因縁なのだと聞かれた時、それに澄明は答える事が出来ない。

「判りました。が、、悪童丸の妖力が並の物でないことだけは」

「判っておる。ここ五か月。それを乗り切れば…」

「判っております。産土様の差配でございましょう?」

「うむ、澄明。わしをひどい男だと思うか?」

「はい。なれど、親なれば、私もそうしましょう」


主膳の元を下がると、澄明はじっと考え込んだ。

『成す術がない』

何度、考えても澄明の頭の中には同じ答えが返ってくる。

政勝にも、主膳にも言えぬ理を澄明一人がだかえこんでいる。

いや、判っているのは海老名も勢姫も同じであるのだが一方は子を孕ませぬようにせねばならず、おそらく、勢姫は今生の別れを思うてむしろ子を孕みたいと思っている事であろう。

海老名が物の道理は判っていても、勢姫の心根にほだされるのは、自明のことである。

印を張れば、間違いなく、悪童丸が姫を攫って衣居の山に連れ去るのは目に見えている。

政勝に告げたように姫が鬼であるのなら、結界を張った所で洞門に鬼の入る隙間が出来ている。

その上何処で習い覚えたのか、悪童丸の術の腕は澄明を勝るとも劣らぬ物である。

解呪の法に長けているのも間違いはない。

嫌な予感がして送り込んだ式神さえも、逃げる隙を与えずくじり殺している。

『成る様に成るしかない』

そう、思うのだが、余りにも主膳が憐れである。

元を正せば、悪童丸の父の光来童子に端を発している。

親子で同じ因縁を繰り返し、主膳を苦しめ、そして、知らずの内に主膳もかなえの父と同じ過ちを侵そうとしている。

『絶ち切らねばならぬ』

それならば出来る事である。

因縁を通り、それを通り越す。その変転の方が容易くもあり、勢姫にとっても一番の解決になる。勢姫が人であらば、鬼を討つのも容易い。

が、姫が、鬼であるなら、鬼として生きるも人として生きるもどちらを選んでも条理である。条理であるならば、鬼を討つ理が成り立たなくなる。

が、それを主膳に明かす事などできよう筈が無かった。

「何を考えおる」

「政勝殿…」

「厭な相手におうたような顔をするな」

「あ、いえ」

政勝の問題もある。

主膳の為にも、なんとしても鬼を討ちたいのが、この政勝である。

が、この半月、手のうちようがなくてこれといった事一つも出来ずにいるのに痺れを切らし、「叩ききる」凄まじい形相でいうのを説き伏せた。

叩ききるのも容易な事ではないが、政勝の腕なら澄明が先んじて縁者の印を唱えればその首を刎ねられる。

その後は、胴と繋がる事はない。血の一滴残らず出しつくすを待って神酒をしませた塩にその首を付け込めば三十日は生き長らえるだろうが、それで悪童丸の命は果てる。

が、勢姫の本意も、勢姫が鬼であることも判っている澄明である。

勢姫が悪童丸を己の為に討たれて今更に、三条の所へ行く訳がない。

かなえのように、その身を儚んで命を絶つやもしれぬし、何よりも、恐ろしいのは、勢姫自身が我を失い鬼女に成変わるかもしれない。

其れでは、何の為に主膳に姫が鬼である事を黙り通してきたのか。

姫が鬼である事を晒さない為にも、悪童丸を討たせる訳にはいかなかった。

思わず政勝に漏らした事実を政勝は信じていなかったのであるが、かえって、今はそのほうが良かった。

「悪童丸を討てば、姫の御気が触れます」

「な、なんと?」

「姫の悪童丸に寄せる御心は真で御座います。故に、」

「謀れているのではないと、言うのか?」

「はい」

その深いわけこそ、話してはならないのである。

「いずれ、その訳を明かす時がございます。今は、澄明の読みを真と思うて考え下され」

勢姫を狂わせてまで討つ事も叶わぬとその時は政勝も諦めたのである。

が、政勝もやはり、主膳に呼ばれている。

主膳思いの政勝であるから討てぬ訳を「姫が本意で馴れておる」なぞと主膳にいう訳もない。

むろんの事、主膳もあられもない睦言を聞いているのであるから、うすうす勢姫の本意は感じ取ってはいる。

が、手中の玉を鬼めにくれてやる親がいるわけなぞない。

「手立てはあるのか?」

「…」

「狂わぬやもしれぬではないか?」

「……」

「姫が狂わねばこのままでは、殿が狂うてしまうわ」

「政勝様?」

「子は姫だけではないわ」

はき捨てるようにいう、政勝であった。

主膳はかなえの後添いに置いた妻がいる。かなえを今以て忘れ得ない主膳は申し訳のようにその、後添いとの間にたった一人おのこをなしている。嫡男を得た為でもあろう。以後は寄り付きもしないのか、後添いの妻が孕む事もなくおのこも齢を十と数えている。側女も持たずにいるのが正室の八重の方には、救いであったのであろう。

心、乱される事なく諦念すると嫡男である一穂の成長だけを支えにしていた。

「ましてや、女子は、いずれは、夫の物。いつまでも、親の物でないのが条理」

「…」

「御家に大事は、一穂様であらせられよう?」

どうせ、余所の者となる姫であるなら、親の気の済むように鬼を討ち果たして、狂わば狂えばよい。余所の物になって諦めるか、己の娘として狂わせておくか、どうせ、女子は親のものでないのだという。

「政勝さま!?かのと様に宿る子が女子だというても、そういいますか?」

「な?」

「我が子が、始めから気が触れて産まれ、かのとのように夫に尽くす幸せに生きなくてよい。と、いわんや、かのとを嫁とって政勝殿があれほどにご執心なさる幸いは嘘であると、女子になにも与えられる事がないとは、政勝殿の本意ですか?かのとが足りませなんだか?かのとなら、政勝殿を満たす女子だと思うて、かのとを、かのとを。嫁に行くのを勧めました」

話しがあらぬ方に走って行くとひどく興奮している澄明に驚きながら政勝は思いを正した。

「すまぬ。そういうつもりで言ったのではない。ただ、」

言い訳するを男らしからぬと思うと正克の言葉が止まった。

政勝はどうにか主膳の苦しみを取り去りたい一念であったが、先のいいようは主膳という親の思いを踏まえているわけでない。かなえさまを今もって思う主膳の心根にもほどとおかろう。澄明に叩き込まれ叱られるのも当り前の事であったかもしれない。

政勝への諭し方の気まずさに澄明のほうが先に頭を垂れた。

「すみませぬ。政勝殿の御気持ち十分に察しているつもりでおります。などか、鬼を討つのは、容易い事のように見えてそうはいかぬのです」

澄明が頭を下げると、その瞳からぽたりぽたりと落ちる物があった。

「姫が、鬼であらねば…」

そう密かに呟くと澄明はぐいと涙を拭った。

「とにかくは主膳殿の気の済むように致しましょう」

「…」

姫が鬼であるという不思議な言葉と、澄明の涙が、なぜ主膳の気の済むようにという言葉にむすびつくのか?

真意を明かそうとしないまま澄明の決心は固まりつつあった。

「それだけです」

そして二人は姫の部屋の前に仰々しく座りこんだ。

さすがに鬼もその日は現れなかった。八日を過ぎた。

「いつまで、こうしている?」

「弥生ひいなの祭りまで。が、このまま、悪童丸が現れないわけがありませぬ」

「元より、承知の上じゃ」

「討っては成りませぬぞ、追い払うだけ、心に念じ下さりませ」

「う、」

「ご返事を?」

「あい判った」


三条の姿と見破られておれば昼最中には、現れぬという澄明の読みを信じて、昼になると、うつらうつらと眠り、この八日の間、昼と夜が逆転しているが、寝ずの番にさすがに二人が、うとうとと眠り込んだ。

はっとして目を覚ましたのは、姫のやんごとなき声が漏れているのを、夢、現で聞いたからである。

澄明を揺り起こして見れば政勝の気配ですぐに感じ取ったのであろう。

「現れましたか」

と、呟いた。

が、澄明もやはり、姫の声に気が付くと政勝の顔を窺った。

房事の最中である。そうなると、鬼の事は構わぬが、勢姫のあられもない姿の元へ踏み入るわけにもいかない。

「どうなされる?」

間の抜けた話しである。追い払う所か、こちらが中に踏みこむ事に躊躇せねばならぬところまで二人で八日もかけただけである。

「姫」

やっとの思いで政勝は声を出した。

途端にしんと静まると、なんの音一つもしない。

さすがに主膳のように簡単に悪童丸の妖術にはかからないと判ると、二人が眠りこけたのを見計らって現れた鬼である。

結界を張れないと判ると澄明が四方神を身体に書き記した。

青龍。朱雀。白虎。玄武の文字を書き入れるとこれだけで良いのかと政勝が笑ったのであるが、墨を溶くのにも四方の神のまん中に祭壇を据え祈りを捧げながら御神酒で膠を伸ばしながら刷り上げた。

その墨を使ったのである。鬼の妖術から身を護られてはいる。

「姫。入りますぞ」

もう一度政勝が声をかけるとやっと、姫の返事があった。

「ならぬ」

そう返事が返って来たときには政勝が姫の部屋に踊りこんでいた。

姫の半裸身が夜具の中にすっぽり包まれるのをちらりと眼の端に止めると政勝は一瞬の内に辺りを見廻した。

確かに姫の側を離れる鬼を見た気がしたのである。

「おらぬ」

「政勝殿」

澄明が姫の打掛が掛けられた鴨居のほうを見上げると天上に張りつくようにして悪童丸の姿があった。

その澄明の目線を追って、政勝が刀の柄に手をかけこいくちを切り掛けるのをみると、さすがの澄明も政勝を引き止める事も叶わぬと察して九字を唱え始めた。

澄明にとっては政勝の命の方が大事である。

唱えたくない縁者の因を悪童丸に与えねば致し方なかった。

「怨  婆沙羅」

が、澄明は九字を唱え終わると

「悪童丸。逃げやれ。そして、もう、現れるでない」

澄明の必死の叫びが悪童丸に届いたのか政勝の刃をすいっと避けた悪童丸の姿が掻き消えた。

「いでよ」

政勝の怒涛のような声が響き渡る。

その政勝の後ろに又も、悪童丸の姿が現れた。

殺気をけどってたちどころに政勝が振向くと狭い居室の中である。

青眼の構えが不利とわかると政勝はこてを返して地擦り八双の構えに変えた。

下から思いきり切り上げようというのであろう。

が、切下げる力と切り上げる力では下げる力の方ならまだしも切り上げる力で鬼の力に適う筈がない。

それでも、政勝は矢継ぎ早に突きを入れるように刀を閃かせた。

繰り返される刃の閃きを悪童丸が皮一枚で見事に交わしながらもじりじりと部屋の隅に追い詰められていった。

隅まで追い詰めると政勝は再び上段に構え、やああと気合もろとも刀を振り下ろした。

懺と刀が食い込む筈の先の悪童丸の姿が刃の落ちるより先にふと消えた。

「卑怯だぞ」

政勝が叫ぶ声が大きく響き渡ると、悪童丸の姿が再び闇の中から現れ勢姫を横抱きにだかえると勢姫も悪童丸の首をがっしりと掴んだ。

途端、打掛に手を延ばす様によこっとびにはねあがると打掛を引っ掴み

「はあっ」

と、いう声もろとも悪童丸が窓をけたぐると二人の姿が宙に舞った。

「南無参」

慌てて政勝が駈け寄って窓の下を見たが確かにこの窓より踊り出た二人の姿は地べたに叩き付けられる事もなく、何処かに掻き消えていた。

「衣居山でしょう」

「ゆくか」

月明かりが恐ろしく冴え渡っている。

外にでると二人は馬小屋に向かった。

衣居の麓までは馬で駆けて行こうというのである。

駿馬である先矛と葦毛の荒浪を引き出すと夜であるにもかかわらず事の大事を察するのか進んで二頭も馬小屋から出て来た。

「乗れるか?」

裸馬にである。轡だけは、はませたが鞍や鐙を付けている時間が惜しい。

「はい」

何処で、覚えたのか、かなり扱いなれた様子で澄明も轡をはませ手綱を握っていた。

その様子をみると政勝は先に走り出た。

門を開けねばならない。幸いな事に月明かりでそこらいったい明るい。

数えてみればあの観月の日より一月近くたっている。宙空輝く月もほとんど方円を描いていた。少し遅れて駆けつけた澄明の息が白くみえる。冷え込んできている。

「ゆくぞ」

開け放たれた門の側に門番である稲造がぼんやりと突っ立って二人の行方を見続けていた。

衣居の麓から馬で上がれる所まで上がると二人は馬を降りた。

帰りは姫を連れ返る手筈でいる。

政勝は頭陀袋に鞍や鐙をひと揃え押しこんで来ている。

それを木に括り付けると馬も繋いだ。

「判るか?」

政勝が悪童丸の棲家を尋ねると澄明が先に立って歩き出した。

「しかし、機敏な奴だ」

澄明は黙って聞いている。

「しかし、思うたほど、背いは高くなかったの。身体も小振りに思える」

「悪童丸の父の光来童子もそう、大きくない鬼ときいております」

「光来童子?あの、大台ケ原の光来童子?それがてて親か?」

「はい」

「ふううむ。しかし、あの姿が本物か?三条殿の姿ではなかったのは、判ったが、ひどく美しゅう見えたが?」

「はい。光来童子もかなり美しいときいております。(その上に加えてかなえの美貌である)無理なかりましょう。一説に光来童子は外つ国の女御との間に産まれたとも聞いております」

「なるほど、その血を引いたか。切り及んだ時、あやつの目の色がちと違うときがついておった。鼠色の中に薄い萌黄色が混ざりこんだような不思議な色をしていた。するとあの髪の色もそうなのだな?」

茶けた髪が山野ぐらしのせいなのであろうと思っていた。

にしては、日に焼けたより髪が荒れ果ててはいなかった。

「なるほどの。が、しかし、あの、姿であらば、むしろ、三条殿より美しいかもしれぬ。何故三条の姿を借り受けたのか?」

「悪童丸も三条殿の所に嫁ぐ事を望んでおるのです。その前に、存念を晴らしたかっただけです」

「まさか????」

「いえ。本意です。だからこそ、討っては成りませぬ」

「どうすれと…」

「姫を取り返せば、後は、私が因果を含めて」

「話し合うと?甘いわ!!」

「何卒、短気は」

「…」

澄明の足がとまった。

滝を背に小さな社がある。

その後ろの崖をぐるりと廻ると眼下深く切り立つ谷がある。

その下をさらに覗くとがけの途中に洞穴があるのだろう。

僅かな火がもれてぼんやり、入り口が明るく見える。

「あれか?」

「はい」

降り立つ事ができぬわけではない。が、一歩足を踏み外せば、谷底に落ちるだろう。

言わんや、そうなれば、命はない。

「ままよ。のう、このまま、姫を連れ帰れねば、どの道、死んでお詫びするしかない」

「我らはかまいませぬ。されど、姫を上げる手だてを、考えておかねば」

馬の要具を揃えて姫を連れ返る手筈を整えていた政勝の周到振りを思うと、更に、先を考えさせられる澄明であった。

政勝が降りる道筋を探すように屈み込んで岩肌の強さを確かめている。

澄明は巻き込んだ晒しを素早く解くと側の榛の木に括り付けた。

『榛の木。この木に助くられるか』

榛の木は雌雄同体である。

勢姫と悪童丸の血の因縁を顕すような木がそこに誂えたようににはえているのを、澄明は不思議な面持ちで見詰めていた。

澄明が晒しの端を榛の木にくくりつけ、谷に投げ落とすと同時に

「ここから降りる。行くぞ」

政勝は言うより早く、一足を踏みしめていた。

せり出した洞窟の入り口の岩に降り立つと二人は中に忍んで行った。

かがり火が焚かれ、中は明るく、火の勢いでかなり温かかった。

更に深く進むと、その光が勢姫と悪童丸の影を洞窟の壁に映し出すのが見えた。

影を作る火の元をゆっくり追い求めて行くとかがり火の向こう側に勢姫と悪童丸の姿があった。

見れば鬼は先ほどの姿のまま姫の裸身をかき擁いていた。

政勝もこうなれば覚悟がついている。

ぐうと近寄って行くが、快い逢瀬に身も心も浸りこんでいる悪童丸も、眼を閉じて切なげな声を上げている勢姫も政勝に気がつく様子ではなかった。

やにわに政勝の忍び寄る足が早まった。

見れば、悪童丸の陰茎がこんもりと盛り上がるとぐうと大きなこぶのような物が現われうねり始めている。

「いかん!」

悪童丸の物がまさに勢姫のほとの中に精を吐き出そうとしている。

政勝はいきなり走り寄ると、てすさびの荒神丸で悪童丸の男根めがけて切りつけた。

「ぐわああ…ああ…あ」

悪童丸の胴が自身の男根と離れてゆく。

「覇沙羅、怨退、覇侘裏、鴛我」

聞いた事もない九字を唱えながら、澄明が悪童丸の元に走りこみ暴れ狂う悪童丸の顔を抑える。

持っていた小束を悪童丸の口に入れ込むと斜に引き裂いた。

「あうあうあうあう」

澄明が悪童丸に印を唱えさせぬ為に舌を切裂いたのだと判った。

「政勝殿、手印を切ります。早く」

見れば、悪童丸が手を翳し今にも印を切ろうとしている。

政勝は荒神丸で悪童丸の指を払った。

ばさばさと血がしたたり落ちるより先に何本か悪童丸のそがれた指が落ちると地面で蠢めいた。

「悪鬼退散 今霊沙、沙破菩提、諮.因.捧、解、樺、沙、断」

「おやめなさい」

因を唱える澄明のそばに勢姫の声が近く聞こえたかと思うと

「悪童丸。お逃げ」

いつの間にか忍び寄った裸身の勢姫が政勝の前に立ちはだかった。

血に塗れた悪童丸の男根を手に持っていた。

が、それを政勝の目の前にぐいと押し出すと叫んだ。

「政勝、気がすんだであろう。悪童丸の命までとりては…。勢は鬼と化すより他。澄明。お止めなさい。縁者の封印を解きなさい」

頭の奥を除きこむような目付きで何か考えていた澄明だったが、黙って印を解いた。

印を解くと澄明は勢姫のうち捨てられた着物を拾い上げると姫に打ちかけた。

袖を通しながら、勢姫は切り落とされた指を拾い上げると、悪童丸に陽根もろとも差出そうとした。

「姫、それは成りませぬ」

「赦してたもれ」

「なりませぬ。そを渡せば、また肉内にくつけおきましょう」

蘇生するのは判っている。蘇生が叶わぬように縁者に封印を唱えた澄明である。

が、今は勢姫の言うとおりに印を解いている。

澄明はもう一度、九字を切る手刀を見せた。

そを渡せば、たちまちの内に澄明が、縁者の印を唱えるのが判ると勢姫は頷いた。

「それでは、指だけでも渡してこの場を立ち去らせます。もう二度とそが無ければ悪童丸も勢との契りはありえませぬ。さあ、お行き」

言うよりも早く悪童丸が勢姫から指を受取ると姿をくらました。

姫はものうく政勝を見ると向こうの物陰に隠れて着物を直しだした。

澄明の所作を逐一見ていた政勝が怒鳴りあげた。

「どういうことだ!」

「かくなる上は、隠し立ても相成りませぬな。御亡くなりになられた勢姫の母君をご存知ですね?」

「うむ 無残な死に様 よう覚えておる」

「かなえ様は、主膳殿の元に嫁し越す前より先にご懐妊あそばしておりました」

「馬鹿な!めったな事を申すでないぞ」

「ならば、もう、それ以上のことを御ききなさいますな」

「…」

「どう、なされます?」

「聞こう」

「海老名は、かなえ様ご幼少の砌からお側に仕え、嫁し越す時も自ずから願いでて、そのままついてきやったものです。その、海老名を詠み透かしたものですから、間違いは御座いません。かなえ様は、大台ケ原の鬼に魅入られておったのです。嫁ぐ前の七夜、光来童子に大台ケ原に攫われて…」

「勢姫と同じではないか」

「ええ。そして、鬼の子を孕んでいるやも知れぬかなえ様を一番案じた故に海老名がついてまいったのです」

「其れだけで、勢姫が殿の子でないなどと、戯けた事を、証だてるものなどありもしないではないか」

「産女の役をかったのも海老名です。勢姫が生れ落ち半刻後に悪童丸を産み落としているのです」

「まことか?真の話しなのか?」

「海老名が人の容である勢姫にほっと、安堵したのも束の間、続いて生れ落ちた男子には、頭に小さな瘤のような角が生えており、すでに、歯も生えておった。光来童子そのままの顔立ちに海老名は胸中、算を巡らし、考えた事は衣居山に悪童丸を捨つる事だったのです」

「だが、だが、その話しが真なら、姫と悪童丸は実の姉弟。姉弟でまぐわったということになろう」

「そのとおりです」

「それを、勢姫は知っておいでだったのか?」

「ご存知でした」

「ならば 何故」

「悪童丸とまぐわったか?と」

「おお」

「姫の容姿こそ人の物ですが、身体の中、その血には鬼の血が流れておるのです。半妖と申上げればよろしいですかな。年端を迎えて、鬼の血が身体の中で騒ぎ出したのでしょう。鬼の血が鬼を求めほたえ狂うようになった」

「信じられぬ」

「が、政勝殿も確かに見やった。あの、悪童丸の巨根を姫のほとが鵜呑みにして行くさまを::あれほどのものを渇望し受け入れてしまうのも、これもまさに姫が鬼女ゆえ::」

「なんと、業の深い::」

「一方で、容は鬼でありながら、人の血を継いでいる悪童丸も人の血が恋しい。勢姫の血の騒ぎを見かねたのでありましょうな。そして、鬼でもない、人でもない。同じ半妖の己の血を委ねる相手も御互いしかありえなかった。同じ苦しみ、同じほたえに身を任せるしかなかった」

「生きた証が姫と自分しかいないということか?」

「故に悪童丸は命を懸けて、胤を降ろそうとしていたのでしょう」

「憐れな」

呟いた政勝は、自分に向けられた澄明の微かな憐憫の色には、気が付いていなかった。

二人は勢姫を連れ戻ると、主膳の前に歩み寄った。

澄明は褒賞紙を開いて悪童丸の男根を主膳にみせた。

憎き鬼の物を見せられると主膳は刀の柄に手をかけた。

「なりませぬ。精が飛び散ってしまいます」

「それが、どうじゃという。かまわぬ」

「いえ。飛び散れば、その精の行きつく先は…。切り落としてもなお、情念で動きおります。間違いなく封じ込めた物が姫の中に入り組んで子を…」

澄明の言葉に主繕は、唸ると

「あいわかった」

と、恐ろしげな一物から目をそらした。

「この中に勢姫を己が物にしたいという思いも、子を孕ませたいという思いも何もかも封じ込められております。切り落としても、なお悪童丸の精は百日の間、その中で息づいております。このまま、この根をとり返せば悪童丸の思いが起ち返ってしまいます。なにとぞ男美奈神社の建立を願い奉ります」

「しかし、それまではどうするのだ」

「ひもろぎを張ります。簡単な、茅を吹くだけの祭壇でよろしいのです。百日を過ぎたれば、久世観音を柱にした社に治め置けば、悪童丸も手を出せませぬ」

「百日で社をし上げろというか?」

「とりあえずの治め所です。社殿を改めるのは後ほどでもできます」

「あいわかった」

頷いた主膳は間近に迫った勢姫の婚礼の支度を考えているに相違なかった。


百日の間、澄明は明け六つ、暮れ六つの二度、祭壇のまえに現われて

縁者の印を結ぶと護摩を炊いた。

榊を四方に飾ると、榊を御神酒に浸し込め、悪童丸の陽根に直垂さすと、口の中で何か唱え出していた。九十九日は何事もおこらなかった。

百日めの夜。

政勝はかのとを相手に酒を飲んでいた。

かのとはむろん酒は飲まない。飲める口でもなかったが仮に飲めたとしても腹の子を慮って口をつけることはないのである。

月の物が途絶えると政勝の方が先に気がついた。

三日もあけず、情を交わしておればいかに疎い男でも障りが来ないのに気が付かぬわけもない。遅れているのかも知れぬと思うと政勝は黙っていたが、どうやらそうであるらしいと判ると

「かのと。留まったの」

と、呟いた。むろん政勝の胤が留まった事を言うのである。

悪阻が来ぬ性なのか、政勝の血がかのとに馴染むのか、かのとは気分を悪くする事もなかった。軽く乳が、張ってきたように感じるのは、そう思うせいなのか、かのとの顔色も母性を帯びて来たのか、妙に穏やかにも感じる。

「はい。長月の頃には」

身二つになるという。

「おのこを産めよ」

と、いうと素直にはいと答えた。その時だった。

「政勝殿。政勝殿」

庭先より呼ぶ声を月明かりに外を見やる政勝を呼ぶ澄明の姿があった。

「政勝殿、男美奈の祭壇に参りましょう」

「そうか、百日たつのか?」

「人の力をもってしても、神の加護をもってしてもどうにもならぬ情念の凄まじさをとくと御覧あそばすがよい」

「なに?どういう事だ」

「とにかく。社に向かいましょう」

政勝は素足のまま足駄をはむと、澄明の側に駆け寄った。

                       


海老名は祭壇の前までくると、やはり、戸惑いをあらわにする。

姫の懇願に負けてここまで来たのは来たのである。

が、

「姫様」

躊躇うような海老名の声が夜のしじまに響く。

「早う、悪童丸の陽根を、わらわの手に」

「なれど…」

「海老名、今宵を逃したら…。そもじも、あの折に言うたではないか、悪しきにはせぬと、なによりも、悪童丸はわらわの弟、かなえのただ、一人のおのこ。母の存念思いおこせば、せめても五体に戻してやらねばなるまいに」

「されど…」

「えええい。早う、せや。わらわはこのひもろぎの中に入られぬのじゃ」

「悪童丸様にあれをお返しするだけで御座いますな?誓って、前のように悪童丸様と馴れあそばしたり…」

「判っておるではないか?わらわは三条時守の所に一月後には、嫁ぐ。この身にまさかのことはない。わらわも時守様の子を孕んで生きる。悪童丸もいずれ後、女鬼を娶りましょうに、わらわ、一人子を得る幸いをえたくはない。悪童丸の陽根をちぎりてわらわ、ひとり、子は孕めぬ」

「判りました」

海老名は謀れるとはつゆ思わずひもろぎの中に入りこむと悪童丸の陽根に手をのばすと褒賞紙ごと掴み取り勢姫のもとに運んだ。

「嗚呼…」

勢姫は、渡された悪童丸の陽根を胸にかき抱くと空に向かって叫んだ。

「悪童丸、いでや」

勢姫の声が、夜空に響くと、不穏な気配がたちこめた。

「やっ」

どうま声がすると、悪童丸の姿が勢姫の前に現われた。

「おう」

嬉しげな姫の嬌声が上がると、海老名はうろたえた。

「姫?姫?」

うろたえる海老名にちかづき、その胸に悪童丸が軽く拳を打つと海老名はそのまま地面に崩れ落ちた。


それを見る政勝の体が正木の間から今にも、飛び出そうとするのを澄明がおさえた。

「なんと」

「静かになさいませ」

「どうするのだ?あのまま、本当に姫の言う通り、あれを返すだけか?」

不安をぼそぼそと口に出した政勝も、その通りですとでも言ってもらわねばこの先をみてはいられない。

「いいえ」

あっさり、違う返事が返って来るとは、政勝は思ってもいない。

「なに?ならば、何故、止めぬ?」

「初めから、無駄事で御座います」

妙に凛とした声である。

「どういうことだ? どういう意味だ?」

「主膳様があまりに勢姫を留め置きすぎたのです。もっと、早いうちに人の精を受けていれば」

「こうはならなかったというのか?」

「左様です。精の力は恐ろしいもので御座います。人の精を受ければ人に、鬼の精をうければ、鬼に。血も思いも精が差配する時が御座います」

「ならば?」

「破瓜の傷跡からも、精が入り込みます。最初の殿御の精が悪童丸のものであったればこそ、あのような陽根を鵜呑みにする鬼女のほとにになりかわってしまったのです。つまりは、姫が思いは悪童丸を望み、己の血を鬼のものにすでにかえてしまっているのです」

「それ?」

「人の血と、鬼の血とその、狭間でゆれていた姫に、いち早く悪童丸が破瓜の時を与えてしまったのです。

今更、どんな、手を尽くそうとも、元々に鬼の血を受けて生まれた者、どちらを選び取って生き抜くのも運命次第。

が、同じ業を繰り返してはならないのです。

鬼の子を孕んだ妻を娶る業を三条殿におわせそして又その三条殿が鬼の子をどこかの殿御に妻として与える?

未来永劫それを繰り返してはならないのです。姫にどうぞ、主繕の因縁をたち切らさせよ」

「人に、人に返せぬというのか?」

「時。すでに遅かったのです」

政勝は葉蔀の間から姫を見つめた。悪童丸は二人の微かな息使いにじっと、こちらをみた。

途端に政勝の身体が痺れた様に動かなくなった。

「かけおりましたな。後で解いてしんぜましょう。お口は利けますな?」

「澄明。貴様、は、何故かからぬ?」

「さあ?」

空とぼけた顔をして答えて見せるが悪童丸が澄明には妖術をかけなかったのは、澄明には判っている。


「嗚呼…悪童丸…今そなたにこれを返して進ぜ様」

胸にかき抱いていた陽根を手にもつと、自ずから着物の裾を割り、岩を背に座り込むと岩にもたれかかった。

姫は両の足を左右に開くとかさかさに乾ききった陽根を己の濡れそぼった秘所に押し当てるとぐいぐいとねじ込み始めた。

「おおおう…」

姫のほとに潜り込む頃には、陽根は姫の精汁を吸い込んでもとの生身のものに変っていた。

「悪童丸。手をそえや」

姫のほとからはみ出した陽根を悪童丸がむずと掴むと姫のほとの中で蠢めかし始めた。

「嗚呼、よい…嗚呼、嗚呼」

陽根がいつかの時のように盛り上がると、こぶのようなものが膨れ上がりそれがほとの中に何度か波打つように突き動かされて行くと、やがてほとの中から白く滑った物が溢れ出した。と、陽根が萎み始めた。

それを見定めると、悪童丸は姫のほとから己の萎えた物を引き抜くと、己の体の先を無くした所へ宛がった。

すると、見る見るうちに肉が寄せ集められ、くるむ様に肉茎を包み込んだ。

「はああ!」

見事に悪童丸の物が己の一物と成変わると姫は立ち上がった。

悪童丸はにこりと笑うと闇の中に跳び退った。

悪童丸が飛び退るのを見送ると勢姫は

「すまぬかった」

倒れ付したままの海老名に声をかけると、老女の体を背負った。


去って行く、勢姫の姿を目で追いきると

政勝は無念の声を上げ始めた。

「おぬし、こうなる事が判っておった筈だ。なのに、何ゆえに」

蘇生された様を政勝に見届けさせると、

澄明は政勝にかけられた因を解いた。

とたん、政勝が澄明にせめ寄った。

あの有様からも澄明がこの日、縁者の印を切らなかったのが政勝にも判った。

「あれでは、貴様が先ほど申していた。主膳殿の因縁、繰返すだけではないか」

「因縁は避けられませぬ。因縁からの解方はそれを通り、通り越すより他ありませぬ」

「通り越すとな?」

「そうです」

「因縁を避けれぬというのか、通らねば成らぬというのか?ならば、ならば、初めから、無駄事だったではないか」

「さようです。此度に事は只、只主膳殿の気を晴らすが為。そして貴方様に、みていてだく為。

それと、因縁は陰陽の術を持ってしても換えれない事の方が多いのです。

森羅万障悉く、目に映る総ての事はすべからく、自然にもとずいて動いております。

私利、私欲、己の勝手には、万物は動きません。故に因縁もまた同じ」

「相手は、鬼。それのどこが自然だという?」

「政勝様、鬼を生み出した、そも、大元が自然であるという事を認識なさいませ。その存在を悪しとする所がすでに、人間の身勝手なので御座います。」

「んむうう…」

「姉弟のまぐわいを外道と赦さず、実の姉の目の前で弟を殺す?これが自然ですか?人の驕りだとは思いませぬか?鬼であることゆえ悪童丸を殺すなら、同じように勢姫も我らが手にかけなければなりませぬ。陰陽の文様をご存知ですね?」

「うむ」

「あれは、己の魂の裏表を表しております。白があれば何処かに同じ分だけ黒が御座います。仮に、悪童丸を屍に変えるを正となすなら、さなれば、勢姫の中に邪が同じだけ生じます。姫自ずから言った通り姫の心を鬼になり変えてしまいます。それが自然ですか?」

「……」

「そして、仇を打つ為に、姫が我らをつけねらいましょう。姫を鬼に変えて、また、姫を討つのですか?

それも、よろしいかもしれませぬ。が、そうなった時、主膳殿の御心はいかなります?

勢姫を殿のお胤でないと、申し開くのですか?かなえ様を今以て愛するが故、かなえ様に生き写しの勢姫を手放しかねていた主膳様に、かなえ様の事を暴くのですか?かなえ様を愛するが故にいつまでも、姫を手元に留め置かれしことが姫を鬼に変えたというてやれば、よいのですか?」

「……」

「それよりも、政勝殿。貴方ご自身がなさったことを御考えください。

なんの為に、私がここに貴方を呼び、あの陽根が百日の間、精を留め置いた様をお見せしたか。

精は情念で、生き長らえも、蘇えりもします。あのかさかさに乾いた物がわずかの精汁で元にもどったのも姫の情念ゆえ、そしてあの中で悪童丸の精が生き長らえたのも、悪童丸の情念ゆえ。

政勝殿、貴方の優しさゆえに私はかのとに貴方を勧めました。が、その心根の優しさが仇になることが御座います。心を揺るがされない厳しさを御もちにならないと」

「?何を言っておるのだ?遠回しに物を言わずともはっきりいえばよい」

ここにいたっても、どうやら澄明と徒党を組むことになった最初の日に言われた采女の事を穿り出されているのだと判ると、澄明の真意が単なる嫉妬とやっかみだけでないように思える。

「もう、二、三日すれば私が言った事が判るでしょう。その時は、私には伝わってくる事で御座いますゆえ、出向いてゆきます」

政勝にすれば澄明一人が得心しているのである。

「判らぬ奴だ」

まあよいわ、どうせ、陰陽師、勝手に人の心を読み下して、悦に行っておるのだ。きいてみたとて、お判りならないのでしょうねえと、見下して、事実を言おうとしないにきまっている。

と、澄明がその政勝の心さえ見透かしてみせたのか、

「政勝殿は、やはり、まだ、陰陽師風情は御嫌いですか?」

と、尋ねる。

「ふん。そうやって人の心を読む所なぞ、とくにな」

思い切り皮肉を籠めて政勝はいいかえしてみせた。

「あははははは」

途端にむきになった政勝を哂い返すかのようである。

「笑っておれ」

「ああ。いえ、私は心に強く念じませぬと読みはできませぬ。

それにそんな些細な心や、私事なぞをよんでは、こちらが陰陽道の条理にやられてしまいます。

私とて命は惜しゅう御座います。この前は妖かしの気配に、つい…。

よろしゅう御座います。実の所を御話ししましょう。あの折は、心内で加護を求める貴方が声が聞えましたので、お咽喉をお借りしました」

蟷螂にあやぶられ政勝が手も足もでなくなったときのことをいうのである。

喉から知らぬ声で知らぬ印綬が湧き上がりそのおかげで蟷螂の呪縛が切れ、政勝が命拾いをしたのである。

「なるほど、それで、知りもしない印を唱えたわけか。

が、何故、声が聞えたりする?読んでいたのか?

妖かしの者に逢う事をすでに読んで某の心を手繰って見ていたのか?」

「いいえ。それは、またいずれ。さあ、帰りましょう。かのと様が痺れを切らして待っておいでです」

「それも読みか?」

「あはははは。政勝様は女心に疎過ぎます。まあ、そこが、また良いのでしょうな」

くくっと笑いを堪えた澄明の口元が微かに寂しげである事なぞ政勝はきずきもしないのである。


ただでさえ冬の凍て付くような寒さが肌を刺す様に感じる。

この卯月を過ぎれば勢姫も三条の妻である。

軽い溜息をつくと澄明は足駄をはんだ。外はまだ、暗い。

「いくか?」

父である正眼が声をかけた。

「父上」

「苦労であったの。主膳殿にもあかせず。しかし、因縁を通り越そうとは、また、思い切った事を」

「いえ、どうなるかは」

「悪童丸の子を孕み易い日を選んで教えたのも、因を解いておいたのもお前の采配であろうが?」

「はい。姫が鬼であらば姫と三条の子もやはり、鬼。さすれば、かなえ様の父の様に、また、主膳殿のように三条も鬼の子を何処かに嫁がせてしまいましょう。その苦しみを業を受けるのはもう、終わりにせねばなりますまい?

姫が御心が真であらば必ずや悪童丸を…」

「うむ。それがよい。早う行け。人に見られてはなるまい」

「はい」

この日が来るのを予期していた。

いや、この日にさせた澄明は先んじて自然薯を掘り起しにゆくとそれを今日まで風通しのいい場所に陰干しにしてからからに乾かしておいた。

「うむ、よう、似ておるわ」

正眼が笑って言ったが、親子で男根の話などすることに流石に照れたせいである。

なくなった悪童丸の陽根の替わりにしょうというのである。

今日は、出来上がった社にその陽根を移す儀式を執り行う。

当然、主膳も来る。無いではすまされない。主膳さえそれが本物であると信じ込めば良いのである。とにもかくにも、親の気を晴らしてやらねばならない。

鬼の来る事もなくなり、三条の妻となって幸せに暮らすだろうと主膳を思わせればそれでよい。

勢姫にも言った言葉である。

「行って参ります」

「うむ」

かくして朝の内に包み込んだ自然薯を前に澄明が祈りをあげ久世観音の台座の下に(悪童丸の陽根)を埋め込むと、観音像を安置した。

主膳は安堵の顔を見せると政勝と澄明に深深と頭をさげた。

軽く礼をしながら祝詞を上げ続けている澄明を政勝はじっと睨んでいる。

「おのれ、おのれ、殿を謀りおってから」

式が終ると政勝の気が治まらないのであろう。

いっても甲斐無い事であるに関わらず、澄明を捉まえると言い出して来た。

「どうなることやら、斬首もやむをえずと腹を括って来て見れば、あれは、なんだ。山芋でないか?あんな物で、暴かれる事もなくすませられると、よう、思うたものよ」

怒り心頭に発している政勝をみやりながら澄明はさらりと言ってのけた。

「はい。でも、殿には、ばれませなんだ」

その、ふてぶてしい答えにあっけに取られていた政勝だったが、ふっと、吹き出した。

「確かに、殿には、ばれておらぬ」

山芋を見るのも怖気が震えて成らなかった主膳がまともに見るわけもない。

よもや、山芋に謀れるなぞ、主膳も思ってもみぬことであろう。

「ははははは」

大きな声で笑うと政勝は

「わしも山芋にこの命救われるとは思うてもみなんだ。もう、それを食う事は相成らぬ事になった。」

「はい?」

「命の恩人をくうては、神罰がくだるやもしれぬ」

「はい」

澄明もとうとう、くすくすと笑い出した。

「しかし、肝が冷えたわ」

「はい。澄明も同じでございました」

「そう?なのか?」

「はい」

「見えぬかったがの」

「震えておりました」

「ほおおう、御主でものう」

澄明のなよけた外見に似合わず、豪胆な所があるのを知った政勝である。

小太刀の腕もさながら、あの悪童丸の舌を斜にさく様子など畏れ一つも見せず迷いも無かった。馬の扱いも良い。

気転もきけば、しゃあしゃあと芋を替え玉にして、顔色一つかえもしない度胸もある。

『どうも陰陽師風情と言う言葉は取り下げねばなるまいの』

そう、思う政勝であった。


夕刻になるのを待って下城すると、政勝は、かのとを呼んだ。

今日の事を奉納と呼んでいいのかどうか定かでないが社が一つ完成したのである。小さな押し菓子が、法楽に配られたのである。

「かのと、かのと。良い物がある。茶を入れて、食べるがよい」

「はい」

いつも、政勝の帰る頃を楽しみに待っているのか潜り戸を開ける頃にはその音を聞き付けて玄関から飛び出るように政勝を迎えるかのとである。政勝に呼ばれるまで出てこぬ事はないかのとであったが、今日に限って中々でてこぬかった。

「どうした?」

怪訝そうにかのとを見やる政勝であった。

「はい…」

よくよく、見れば、顔色が冷めた様に青い。

「な?どうした?」

「はい。夕刻より、下腹が痛みまして…だんなさま、申しわけございません」

迎えに出なかったのを、謝るかのとである

「よいわ、何をいうておる。それよりも、ひどく痛むのか?」

「いえ、時折、きりりと。今は、もう、大丈夫です。だんなさま、夕餉の仕度…」

そこまで言うと、かのとは、腹を抑えてしゃがみ込んだ。

「いかん」

身重の身体である。それが腹が痛むと言う。政勝の顔が自分でも蒼白になるのが判る。

産婆を呼べば良いのか、医者を呼べばよいのか、政勝にも判らない。

が、家に近いのは医者の東鉄である。

「かのと。辛抱しやれ。医者を呼んでくる」

言うが早いが政勝は家を飛び出した。東鉄がくる間かのと一人になるのが気にかかるが、成す術がない。

引っ張るように東鉄を連れ戻ると東鉄は黙って、かのとをみた。

薬草を煎じた物を白湯で含ませると

「政勝殿。無茶が過ぎる」

と、言う。

「?」

其れだけでは政勝に解せないのである。

「うむ」

東鉄は軽く咳払いをすると、

「政勝殿。仲のよろしいのは良いが、乳をせめてはならぬ」

と、いう。

「た、たわけ」

夫婦の睦み合いの様を言い当てられて、政勝が狼狽した。

当たっているだけに政勝が、どぎまぎしながらもむっとした顔をしている。

まして夫婦の事をとやかく口に出されて、己の痴態の様をあからさまにされればどのような顔をすればよいのか。

が、東鉄の顔は真顔であった。

「何も、御主の秘め事を言い当てて楽しんでいるのではない。子を孕んでいるのであろう?乳を責めるとな、女子の中が締まってゆく。それが、過ぎると、子に良い訳がなかろう?」

言われてみればさもありなんであった。

「ゆっくり、休ませてやれば良い。しばらくは控えおれよ。それとな、二つ身になれば、今度は逆にいくらでも御主の思う様に乳を責めてやればよいわ」

又、政勝がむっとした顔になる。

「また、怒りよるか?あのな、二つ身になりて後ならば産後の肥立ちがようなるのとな、次の子が直には、できにくうなる。立て続けに子を孕ませてやっては、かのとも辛かろう?」

そうなのかと得心顔になる政勝に今度こそ東鉄がからかった。

「それに、すぐ孕むと、御主の辛抱が持たぬまい。次を作るは、しばし、待って抜かず放たずでよう、睦めばよいわ」

「と、東鉄」

さすがの、政勝もひどく赤面すると二の句が継げなかった。

『男ぶりが良いのに浮いた噂も流れなんだが、かほど精の強い男であったか。それとも余程かのとが、かわゆいか?』

ようやく、薬がきいてきたかすやすやと寝息を立てているかのとの寝顔をちらりと東鉄はみた。

政勝は二十五。男の盛りでもある。

どちらともであるな。そう、頷くと東鉄は辞去を告げた。


翌朝になると、かのとは早くから起きてやはり立ち働いていた。

「もう、良いのか?」

「はい。ご心配をおかけ致しました」

「いや。すまぬ。わしのせいなのだ」

「はい?」

東鉄の言葉を聞いていなかった様であった。

「あの?なにか?」

「いや、色々と心配をかけたのが障ったのであろう。すまなかったの」

「いえ。だんな様。とんでもない」

「かのと、無理をするな。草臥れておったら、ゆっくり、身体を休めておればよいのだぞ。此度のこともあるし端女をつこうたらどうだ」

「厭です」

妙にはっきりと断りを口に出す。

「だんな様の事は、かのとがします」

きつい口調である。かのとにとっては人には譲れぬ事なのである。

思わせぶりな言葉に政勝の頬がつい緩むのであるが、問題はそんな事ではない。

「かのとが一人で居て倒れこんだらと思うと、心配でならぬのだ。かのとの話し相手のつもりで良いでないか?それに、ややも産まれれば、気も急いて、どちらにも出来ぬ様になるぞ」

「は…い」

やはり、かのとの返事が渋いのであるが

「まあ良い。誰か、かのとの気にいるような者がおらぬかきいてみる。それより、かのと、腹が減っておる::」

「あ、はい」

昨日のかのとの事で政勝は夕餉らしいものを食べ損ねている。

膳も用意されていたのだが、かのとが側におらぬと味気なく、ほとんど口をつけなかった。子供のようなものである。

ゆっくり寝やるかのとの横で政勝はごろりと横になって静かな寝息を確かめてほっとしている内に気がつくと朝だった。

いつの間にやら、政勝に夜具がかけられていた。

さすがに政勝の体を起こしてまでの着替えは難しいのと、政勝の眠りを妨げたくなかったのであろう、昨夜のままであった。

それでも、足袋だけはきちんと脱がせてあった。

「だんな様。着替えをなさってくださいませ。その間に朝餉を用意いたします。あの、すみませぬ」

着替えの手伝いをするのもかのとの仕事なのであるが、いつもより政勝が早く起きてきたのであり腹が減っているといわれるとかのともそう言わざるをえない。

「おお」

きれいに畳まれた着替えを出してきたかのとの顔色を政勝はもう一度窺った。

ほっとするほど頬の色も良い。

これなら大丈夫だと思うと政勝は、かのとを急かした。

「かのと。背と腹がくつくわ」

苦笑を漏らしながら、かのとは台所にたった。

『可愛いだんな様』

なのである。


登城する政勝の背を叩く者が居る。振り向けば、澄明であった。

「おお」

「おはようございますな」

「うむ。取りあえずは、事が納まったゆえな」

「そうです、ね」

「どうした?歯に挟んだような返事だの?まだ、何かあるのか?それで、呼ばれて来たのか?」

「あ、私ですか!?私は今日は」

「きょうは、どうした?」

「お忘れですか?」

「?」

「かのとさまは、御元気であらせられますか?」

また、これか。と思いながらふと気がついた。

「ああ、なんぞあるというておったな?うん。昨日、かのとが、少し、臥せっておったが、別になんでもなかったし、原因も判っておるし」

あらぬことまで喋りそうになって政勝は口を噤んだ。

「まだでしょう?今宵あたりが、そうかと、思っておりますが?」

「???何をいいおる?」

「夕刻には、私が参りますゆえ、その時に話しましょう。安心なされ。もう、式神は飛ばしませぬゆえ」

来るなといっても無駄であろう。

その上、蟷螂の一件で命拾いをしたのもこの澄明の差配があったと判ってしまうと借りができている。

尚更無碍な断りができない弱みになってしまった。

が、今更済んだ事を穿り返して、己のやっかみでまた夫婦の事に口を挟むのなら、この際はっきりとかのとの口から澄明がこと、乳のと兄弟としか思うておらぬと言い聞かせてやった方が良いのかも知れぬ。と、考えながら政勝はそれとなく話を変えた。

「で、今日の登城は?」

「姫の婚儀をどうするか、産土様をどちらの産土様にするか?こちらの産土様は姫の生まれた時からの差配もございますが、三条殿の土地にもやはり三条殿の産土様がいらせられる。氏子総代が寿ぎの祝いをしたいのはどちらも同じで、」

「格式は向こうが上だが,身分は今の世ではこちらの方が重い。か」

「ええ」

「そんな事より、澄明殿は何故、妻帯できぬ?もう、嫁を娶っても、おかしくない歳であろう?」

いつまでも、かのとを思うておってもいかぬだろう?と、政勝はやんわりと匂わせている。

「…あっ…」

澄明の顔が暗く沈んだ。

「聞いてはならぬかったようだの?」

「そのようです」

妙な返事をすると、政勝がずばりといい加減かのとを諦めてはいかがかな?ときりつけてやろうとするより先に

「政勝殿、塩と米はございますな?」

と、聞いてきた。

変った事を聞く澄明であるが、それをきかれた政勝の答えもすこぶる、明答であった。

「判らぬ。かのとの聞かねば某は、それが何処にあるかさえも、判らぬ」

「左様でございましたな」

この男の事である。台所になぞ入るわけもない。万が一台所に入るとしたら、かのとに食事の催促には入るか、摘まみ食いには入るが関の山である。それより先にかのとの事である。

「殿方が台所に入ってはなりませぬ」

そういって政勝を追い出してしまうだろう。

そんな想像に澄明はふっと笑みが浮かぶ。かのとの事だ。

米と塩を切らすような抜かりもあろう筈もない。

抜けた事を聞いたものだと思いながら澄明は主膳のもとへ向かった。

虚を取られ悪態を言いそびれた政勝も態々澄明を呼び戻してまで言い募るきもない。政勝はやはり、かのとからじかに言わせろという事らしいなと苦笑しながら詰め所入って行った。

久方、櫻井と口を利いていもない。

ここ、しばらくは昼を鬱々と居眠っては過ごしていたし、櫻井も姫の婚儀が整うとなってからはあちこち嫁入りの支度やら調度を誂えに行ったりしていた。

その櫻井の事がやっと気になりだした。

「おう。早いではないか?いつもこうなのか?」

櫻井が帳面を引寄せ何か印を書き込んでいたが政勝の声に筆を止めた。

「おはようございます」

「うむ。何を早くから帳面と睨みおうておる?」

「あ、これですか!?これは、姫の輿入れの時の持参品を作らせておるものやら、いろいろ、ありまして、それを書き記しておるのです」

「ほう?」

「急ぎ作らせておる、絹の羽二重なぞも様子を見に行かねばなりませぬし、親ですな、手紙を書く様にと言いたいのでしょう、すずり箱まで誂えてやれと:::あれやこれやで、大変な荷物になります」

「ほう」

「ご苦労様でしたな」

鬼退治の事である。

「お、いや、さほどのことではなかった」

「そうですか」

「のう、」

「はい」

「櫻井は因縁を通り越すと言う事を聞いた事があるか?」

「因縁を通り越す?」

「うむ」

「それが、なにか?」

「いや。よう、意味が判らんのでな」

「はあ?」

しばらく考えていた櫻井であった。

「そうですな。例えば政勝殿。貴殿の家は代代、男が一人しか授かりませぬわな。

例えば、それが、一人も出来ぬとなれば、これは因縁通りではない。が、なおかつ男を設ければ因縁通り。

さらに、もう一人男が産まれればこれで因縁を通り越した。と、なるのでは?」

「ふむ」

判ったような気がするが、それをどう、勢姫のことに当てはめて考えればよいのか、政勝には以前と府に落ちない。

「まあよいわ」

「はあ?」

櫻井もくどい男ではない。政勝が黙り込むと、又先ほどの帳面を睨みつけだした。

物の目端がよく聞く男である。何時だったかも茶の湯の道具立てに駆り出され、あれやこれやの品定めに一役かっていた。下手に品の悪い物をつゆ知らず大事にしている御仁にやんわりと事実を告げるのも、この男の性にかかると言葉の棘がないせいもある。相手に嫌な思いもさせないですんでいる。それが一番役に立つのであろう。

主膳も櫻井を呼んではせいぜい品定めの不味さを教えられているようであった。

「しかし、久世観音には、まいりました」

社を百日で仕上げろはまだしも、観音像を掘り込ませるのに流石に百日は、と引かれたと言う。なだめ透かし頭を下げ頭領をうんと言わせる方に骨をおったという。

「脅してやればよかったものを」

「私がですか?私じゃ駄目ですよ」

「かもしれぬ、の」

が、実際の所、櫻井のした事はやはり脅しであった。

それが出来ねば腹を切ってお詫びせねばならない。まだ、妻も子もないこの身あらば嘆くのが父母だけである事が救いである。嗚呼。しかし、心残りはこの世の妻に逢いもせず死ぬることよのう。と、泣き脅しであった。

そうする内に次々と嫁入りの支度が増えて来る。主膳が雛の飾りもという。それは、もうございましょうと言えば産まれてくる子の為にと言う。殿、それは節季の御祝いに送れば宜しゅう御座いますと言うと、ポンと手を打って、おう、その方が良いと言う。

そのような調子なので主膳の相手をしているのか調度を誂えているのか櫻井の中も目まぐるしい有り様であった。

『やっと、姫を手放す気になったのも、鬼のお陰かも知れぬ』

政勝はそんな事を、思いながら一抹の不安を拭いされない。

留め置かれた情念を振り絞った悪童丸も諦めたのか、気がはれたのか姿を見せない。

澄明の言う通り、確かに悪童丸も三条殿との婚儀を望んでいたのが、本意なのかもしれない。それなら、それで目出度し目出度しなのであるが、あの百日目の有り様を考えると姫が悪童丸の胤を孕んでいるのではないかと、思えてならない。

そして、あの澄明の言葉。因縁を避けられないと言う言葉である。

かなえの父が鬼の子を孕んだかなえを主膳の妻に与えた。それが繰返され、又、主膳も鬼の子を孕んだ勢姫を三条に与える。これは因縁と言わずばなるまい。

すると、どう、考えても因縁通り子を孕んでいる事にもなる。

が、澄明は尚且つ、因縁を通り越すと言う。

どうすることが因縁を通り越す事なのか。櫻井の言うを例えれば、鬼の子を産みて後々に三条との間に人の子をもうけるという事であろうか?

かなえ様はそれが叶わぬまま、この世の人で無くなってしまった。

「どうなさいました?」

櫻井がふと政勝を見れば一人でぶつぶつと呟いている。

「いや、なんでもない」

「はあ?」

その日一日は只ぶらりぶらりとするだけで、これといったことも無かった。

政勝のような男はこういうときには、あまり、役に立たないようであった。

刻限が来るのを待って早々に政勝は退出した。

下足箱の所まで来ると澄明が待っていた。

「もう、よろしいのですか?」

「御主ずっと待っておったのか?」

「いえ、たった今、ここに参りました」

「御主こそ、良いのか?」

「ああ、あの事ですか?あれは、勢姫がお決めになられたらよろしいとの一言で、片がつきました」

「成るほどの」

「所で朝方にかのと様の具合が悪かったようにいっておいででしたが?」

「ああ。それは、治ったと言うたであろう」

「政勝殿。それは東鉄の看立て違いです」

東鉄に診せたとも言ってもおらぬうちから一言の元である。

「な?」

「御家に帰って、驚かれぬよう今から申上げておきます。かのと様は妖かしの物を孕んでおります。ご自分で気が着くわけはないのですが、その、妖かしの性をかのと様の血が浄化しようとして、それが、出来ぬと判るとそれを体の中から押し出そうとしているのです」

いきなりの言葉は寝耳に水どころでない。

「ま、ま、待て。今なんといった?」

言われた事なの意味合いが良く判らない。聞きただすのに

「あれほど、止めたのに、お聞き入れくださらなかった」

と、澄明が政勝を詰る。

「おい?」

何がなんだか。

「東鉄の看立てで間違っておらぬかったのは、それが政勝殿のせいだということだけです」

「…」

澄明の矢継ぎ早にいう事が政勝にはさっぱり要領をえない。

「これが、かのと様であらばこそ、私も貴方の我が侭を許しました。

政勝殿に寄せる思いが真で有らばこそ、こんなことですみます。

下らぬ女の情念なぞよりどれほど、かのと様の思いのほうが強いか。貴方はかのと様に助けられておるのです。

かのと様には苦しい思いをさせてしまいますが、貴方の為にはその方が良い。

貴方がなさった事の帳尻をかのと様がつけようとしておるのです。

これから、起こる事を見て精々、苦しんで、御考えの甘さを正す事です」

「…」

そこまで言うと、足を早め歩き出す澄明の横顔を見ると、政勝は何も、聞く事が出来なかった。

初めの物言いは、かのとが妖かしの物に犯されたとでもいうような言草だった。

が、いつかの時のように澄明が妙に興奮して喋り出したので政勝は黙ったのである。

どうも、かのとの事が絡むとこやつは我を無くす。

そう思いながら、こんな時には澄明自身が落ち着くのを待たねば仕方ないのであるが、

その内、どうも、そのかのとが妖かしの物に、犯されたのは政勝のせいだと、いっているように聞えてくる。

どう、自分のせいであるか判らぬがかのとの身にそんな事があったのさえ信じられない上に、腹の子の事まで妖かしの胤だと言う。

ぶん殴ってやろうとする手を止めたのは、家に帰ってこやつにかのとの様子を見せたほうが早いと思ったからである。

その後、この馬鹿者を殴ってやると政勝は腹に決めている。


くぐり戸を開けると、玄関から走り出る音がする。

ふん、ざまを見ろといわんばかりに澄明を見る政勝に

「あ、政勝さま。かのと様が大変でございます」

政勝の親元に古くから仕えている、お梅である。

何故お梅がここにいるかなど、今はどうでもよい。

「ど、どうした」

昨日の今日である。政勝もじとりと汗が滲む。

「政勝様を呼びにやるというてもきかぬのです」

訳の判らぬお梅の言い訳なぞどうでもよい。

政勝はかのとの元へ走りよった。

寝間で、臥せりこんでいるかのとの声が苦しげに聞こえて来る。

「いかん。かのと」

「あ、は…い。おかえり、なさい…ませ」

臥せ込んでも、なお、政勝の帰宅を迎える言葉が先なのである。

「馬鹿な事を。薬を飲まなんだのか?」

「いえ。だんなさま、此度のことは」

かのとの言おうとしている事が政勝には判る。

「構わぬ。そんな事はよい。ややなぞかのとが元気であらば、また、できるわ。それより」

かのともこの腹の痛みは子が堕りかけて居るのだという事が判っている。つうううと流れる涙を政勝は拭ってやるがかのとの瞳からは、次々と涙の雫が零れ落ちてくる。

「かのと。かまわぬから。己の身体の方をいとうてやれ」

子供を諦めろと言う政勝である。

「は…い」

政勝は居間に戻るとお梅を呼んだ。

「産婆を呼んで来てくれぬか?」

「え?」

「東鉄は、男であろう」

「政勝殿、無駄でございます」

後ろから、澄明の呼ばわる声がしたが、政勝は振向かなかった。

「…」

「早ういけ」

怒鳴り上げた政勝の声が聞こえたかと思うとお梅はあわてて産婆を呼びに走った。

しばらくすると、よぼけた婆を背負いたぜいぜい息を切らしながらお梅が帰ってきた。

産婆はそのお梅の背からおりるとそのまま奥の部屋に入っていった。

当然、かのとの傍らにいた政勝は部屋の外に追い出された。

諦めるしかないだろうと思うし、その覚悟もついているのだが、腹の子を掻き出される苦しさを思うと政勝はかのとが憐れでし方がない。

「すまぬ」

まだ自分の責め過ぎのせいであると思っている政勝でもある。

しばらくすると、婆がでてきて

「わしじゃ、無理じゃ、これは神主か巫女か、とにかく神様事に縋るしかない」

と、言うと後も見ず帰ろうとする。慌てて止める政勝に

「どうも、通じない方だ」

横から澄明はお梅にむかい重湯をありったけ作れというと塩を持って来るようにいう。

呆気に取られている政勝を尻目に

「私がします」

と、いう。

「な、ばかな、」

澄明ががやにわに肩袖を脱いだ。

「御気になさっていることは、心配なさらなくてよい。私は女です」

げと思ってみれば晒しで括られた胸はきつく絞られてはいた。

が、それでも押さえ切れない膨らみがある。

政勝の眼を追っていた澄明だったが

「お解かりですね?よろしゅうございますね?」

そう、言い捨てるとかのとの居る寝間に入って行った。


「かのと」

澄明が呼ぶが返事がない。

せいて、

「お梅殿。まだできませぬか?」

と、襖越しにお梅にたzyぬれば

「あ、もう、よろしゅうございましょう」

と、お梅の声がかえってきた。

「ならば盥に移し込んで持って来て下さい」

とは、言ったが女一人で抱え込める物でない。

澄明がそれを手伝うとかのとの側に盥を据えた。

「米は人が八十八の手をかけて作った物です。その、米の精にかかればどんな物でも浄化します。かのとの身体も妖気で冷めて血が滞うております」

「はあ」

「向こうに行っておいで下さい。後は私がやります。それと塩を」

慌ててかけ戻ると、台所の棚を見て塩つぼをだくと、お梅は寝間にきた。

澄明は塩を受取ると部屋の四隅に塩を盛る。

その様子をぼうと見ていたお梅がまた澄明においやられた。

「かのと」

うっすらと眼を開けるが返事がない。

かのとを引き起こすと澄明はその手に塩を盛りかのとになめさせた。

「きついが、よう、きく」

「はい」

かすかに眼に生気が戻ってきている。

湯気を立てている粥が見えたのであろう。かのとが

「浄化ですか?」

と、尋ねた。本当のわけは話せない。

「かのと。蟷螂を番を誤って死なせたようであるな。怨念が腹に飛び込んでしまったようだ」

「ああ。それで…」

「うむ。生殖に命を賭けておるゆえ、小さな虫ほど恐ろしい。人のように色んな物に思いが振られる物ならかほどのことにならぬのだが」

「人を誤って殺したりできませぬ…」

「物の例えだ。茅を切るのなぞ政勝殿に任せておけばよい。やっとうの腕では政勝殿に勝る方はおらん」

「ひのえ…」

澄明の実の名である。その名を思わず呼んでかのとは少し笑った。

「もう、冷めたであろう」

人肌には、ちと熱いくらいであるがその方がよい。

かのとも孕みおとしを何度か手伝っている。

起き上がると重湯のはいった桶に腰をかがめて入り込んだ。

「他所の人のはそう思いませなんだが、このような事に米を使うのは勿体無く思えます」

「それほど、尊い物ゆえ助きの力が大きいのであろうな」

「はい」

ぼそぼそと聞こえる声を聞きながら政勝とお梅は微動だにしない。

「政勝様?」

「…」

お梅の声にじっと中の様子を窺う政勝の返事はない。

「御梅殿、湯をわかしてくるるか、あ、風呂の湯だ」

「はい」

澄明の襖越しの声に慌ててお梅は返事をすると風呂の用意に行った。

部屋からお梅がでてゆくと澄明が寝間から出て来た。

が、すぐに台所の手洗いの桶をもつと又、中に入った。

やがて

「政勝殿。庭の隅に穴を掘って下さい」

と言う。

政勝も言われた通りにするしかない。

てこねを持って二尺も掘っただろうか、そこに澄明がさきの手桶を手にして現れた。

手桶の中には、真白な泡粒のような、ちょうど森蛙の卵のような物が入っていた。

「なんだ?」

思わず尋ねる政勝に

「蟷螂の卵です」

そういうと政勝の掘り下げた穴に手桶ごと落とし込んだ。

「悪童丸の物が切り離されてもなお、百日、精を留め置いた様に采女の情念が貴方の竿の先に留まったせいです」

「あっ」

思わず声を上げた政勝であった。

「すると?」

「そうです」

澄明の声に刺すように冷たい響きがある。

「くそうおぉ。蟷螂の分際で」

よもや、ここまで撫でられるとも思わずご丁寧に手まであわせてやったのである。

憐れとも、少しは愛しとも思った。

かのとと並べ比べてもみた。当然かのとの方が良いことを比べる為にしろ虫けらなどと、かのとを並べてみる愚か事もやっている。

それも何処かで采女の真を信じての事である。

確かに恐ろしいほどの真である。

が、それを真と信じていた己の甘さに、傲慢ぶりに、政勝はやっと気がついた。

若し、かのとを失う事になっていたら、それでも、采女を真であると戯けた事を言っていられるか。

それに気がつかず何処かで誇った気持ちさえもっていた。

「くそおおおお。くそおおお」

慟哭を抑えきれない政勝である。

「かのと様には蟷螂の番いを切った恨みであろうと言ってあります。此度は政勝殿のお胤は落ちてない。ひろうてないといってあります。その、おつもりで」

「あいすまぬ」

子を流したと聞けばどのように苦しむか、ましてやかのとが自分のせいであると思いこんでしまえばそれを責めて苦しむのはかのとである。

かといって政勝と采女の事をさらけてしまえば、それもかのとを苦しめる。

「かのとの腹を借りようとしたのです。どの道、かのとの子ではありませぬゆえ、子を流したと言えはすまいと、思いますが」

「そう、なのか?」

「ええ。御二人のお子を蟷螂が性を映したのではありませぬから、子供のことで泣くことはいりませぬ。ただ、かのと様を」

「判っておる。いや。よう、判った。頼むから責めてくれるな。わしも己が情けない」

「かのと様に免じて」

こやつは又、かのとかのとか、と思うた政勝が小首を傾げた。

「???澄明。わしは御主がかのとに横恋慕をしておると思うておった」

「はああ?」

「いや、男であると思うてみておった故に。その…」

「私と、かのとは、双生で生れ落ちたのです。双生を悪しき物とする風潮があるのはご存知ですね?」

「うむ」

「それで幼き頃より仕えていたかのとの母のたっての願いもあって里子に出したのです。とは言うものの、それも形だけで人目には隠し通して来ましたが、かのとの母も変らず白河の家に通うておりましたゆえ」

「なんと、それでかのとに寄せる思いが深かったのか、それをわしが見間違えたわけか」

「はい」

「陰陽師の娘であったと聞いて厭になりましたか?」

「いや、それはない」

「心配なさらぬとも、かのとは先ほどゆうた母がそれはそれは、よう、仕込みましたゆえ、家事一般、よくこなせましょう?陰陽の事なぞ、ほとんど教える事もせず、父は、かのとを嫁にだすことを、人の妻になる幸せをねごうて八葉に託しておりますゆえ」

「ほううう。?しかし、御主は、何故?」

「かのととわたしは性が違います。それだけです」

「ふうううん。顔も似ておらぬな」

何を思いついたのか政勝はぽんと手をうった。

「なるほどの。確かに澄明殿。理由合って妻帯できぬわの」

「さようです。さあ、かのとの身体を洗うてやらねばなりませぬ。これは政勝殿にまかせえると…」

先ほどの穴に土をかけようとしている政勝を止めた。

「まだ、そこにに重湯の精をかけてからです。かのとを宜しく頼みます」

「あ、あい判った」

「政勝殿。もう、大丈夫ですからね。あの、ように、かのとを…」

「わかった。言わずとも良いわ」

心持、頬を染めている澄明であり政勝である。

何をいわんやとするかも、何を判ったのかも頬の色で判ってしまったせいで猶の事、気まずい雰囲気が流れるが、かのとへの思いだけはしっかりと言うた方が良いと思う政勝であった。

「此度の事で、某にとってかのとは、政勝の、いや、その、ようは、龍が玉を持っておろう?それが、かのとであらばむむむ、龍は…」

さすがに照れて言葉を継げないでいる政勝の言いたい事は、判る。

「龍は政勝殿であると、おおせられたい?」

「そうだ」

くるりと踵を返すと家にはいると政勝は慌ててお梅を呼んだ。

「風呂は沸いたのか」

「はい」

後ろでお梅の替わりにかのとが答えるのが判ると政勝はかのとを抱き寄せた。

「あ」

「良いわ。このまま湯殿に、連れていって身体も洗うてやる。よいな?」

「はい」

かのとの小さな返事が聞こえたのは政勝の腕に抱き上げられた後であった。


朝を迎えると政勝は身支度を始めた。

かのとは慌てて、起き上がると台所に入っていった。

「だんな様、あの?」

明日は非番ゆえゆっくり朝寝坊をするといっていた政勝であったのである。かのとを起こさぬように抜け出たつもりであったのでかのとの声に驚いたように政勝が振りかえった。

「おう。起こしてしもうたか」

「あ、いえ」

「あの、どちらに?いえ、その前に朝を召し上がってからお出かけ下さいませ」

「うむ」

朝餉がしつらえられると政勝はかのとを呼んだ。

「食べぬのか?」

茶を沸かすとかのとはやっと政勝の前に座った。

何やら不安げに、淋しげな顔を見せているのは今日は政勝が一日家にいるものと思いこんでいたのがそうでないと判ったせいである。

そんな、かのとを、くすりと笑うと

「白河の家に行って来ようと思うてな」

「澄明様に何か?」

「いや。正眼殿にな」

白河正眼。勝元の事である。

「はい?」

「きちんとな、親子の挨拶をせねばかのとをひっ攫うたようでな」

「あっ」

「凄まじい妹が教えてくれての」

「ああ。そうなのですか。されど、だんな様。ひのえ、あ、澄明の実の名です。が、ひのえは妹ではありませぬ」

「なに?」

又、ややこしい訳があるのだろうか?訝る政勝にかのとが

「ひのえのほうが、姉です」

と、きた。ふっと吹き出す政勝であった。

「なるほど」

まだ、笑いが納まらぬのを立ち上がると

「行って来る」

と、告げて

「よい。食べおれ」

と、かのとを留めた。

「すぐに帰って来るわ」

言うと政勝は家を出た。

白河の家に着くと玄関に出た澄明が驚いたような顔をして政勝を見た。

「どうしました?かのとが?」

「いや。あれから、嘘のように元気なものだ。心配はない。今日は御父上にお会いしとうてな」

「は?父に?」

「おいでであろう?」

「あ、おります」

座敷に通され、ほどなくすると正眼が現れた。

「いかがなされた?」

座りながらも、気に成る事が先に口から出る。

時候の挨拶もせぬ内に政勝ががばりとひれ伏すと

「知らぬ事とはいえ、大変な不調法を致しました。挨拶が後先になりましたが、此度はこちらの娘様を妻にいただき」

そこまで言うと、ぐっと政勝が詰まった。

見上げた正眼の顔がくしゃくしゃになっている。

「いつ、知りてや?」

「昨日、澄明殿に初めて聞き及び慌てて、馳せ参じました」

「ふむ。澄明が話したか。まだまだ子供でそこもとのめがねに叶うような娘ではないが、何、気性の明るいのだけが取得でな。落ち度のうやっておるか、心配ばかりしておる」

「いや。とんでも御座いません。痒い所まで手の届くような気の配り様で、某も痛みつくしております。

良き娘御を手放すのもつろう御座いましたでしょうに、親とも名乗らず、婚礼の席にもお呼びせず、ここまでお育て下さった礼も尽さず我が物にしておりました非礼をお許しくだされ。

それと、その無礼な男の事ですが、かのと殿の事は、私にはもったいないほどの妻であるとたいそう喜んでおる次第です」

照れた口のききように笑い出しそうな正眼だったが、それより先にすでに口元は綻んでいた。

すでに政勝の心遣いが、正眼の心を満たしていたせいである。

「ふむ。かのとの母も政勝殿にめしいられたのを、草場の陰で喜んでおろう」

「あ、お亡くなりであられたのですか?」

「初めから、体の弱い女子じゃったのを、たってと頼んでもらい受けた。

かのとが、五つの歳に風邪をこじらせてな。二人を産んだ後も、乳が出ぬ有り様でかのとの養母の八葉が、ちょうど産をなした後じゃったので、乳を貰い受けた。我が子と他に二人に乳をくれての。

それでも、よう、乳がでたものじゃと思うほど太らせてくれたものじゃ。

が、どうしたことか、八葉の子が一年もせぬうちに患うて死んでしまいおってな。

嘆くのを見かねたのもあったのと、畜生腹と言われて忌み嫌う世の風潮もあるので、この先可哀想であるというて形だけでも、どちらかを預かりたい。里子にくれというてきおってな。

わしも、妻の体の弱いのも、承知した上にもうけた子ゆえ、行く末、案じる事のないように、考えてみれば妻にも、その子にもそれが一番良かろうと、思うてな。二人の性を、見極めてな一人を、八葉に託した」

「はい」

「八葉は、元々、家内に代わって家の事をよう、こなしていてくれての。

後の子もできなんだせいもあって亭主の伴蔵も、子煩悩な男でかのとを、ように可愛がり、慈しんで、育っててくれおった。あれの性の明るいのは、あの夫婦の御蔭じゃと思うておる」

「…」

「八葉も、元親の気持ちもよう察していてくれてな。

ここに来るのに、かのとを連れて来てくれおって、わしの事も、ひのえの事も、母の事も、全て、あからさまにして、かのとを、里子に出したのを僻ませる事も無うてな。

かのとには四人も親がおって良う御座います。と、言わさしめたのには、わしも舌を巻いた事があった。

そのような八葉に育てられておるのだから、わしも、かのとは、大丈夫だろうとは思うておったが、亭主殿がこの様に頭を下げて来てくれるほどに思うてもらえておるとは…この親には過分な礼であったぞ。政勝殿」

正眼が、つと落ちる涙を拭う。

「あははは、わしも、歳かの。あちこち、ゆうことをきかぬようになってきたわ」

と、見せた涙を言い訳すると、今度は正眼の方が頭を下げた。

「色々至らぬことも多かれど、どうぞ、かのとを宜しく頼み申します」

べたと、頭を下げる正眼の前に、また、政勝も、深々と頭を下げた。

「いたみいります」

大の男が二人してべたべたと頭をついているところにひのえが茶を運んで来た。

「どうなされました?」

「いや、なに、かのとのことでな」

「はあ、まあ、御茶になされまし」

接ぎ穂の良い所に御茶が来たものである。二人は座り直すと茶を啜った

しばらくすると、政勝が辞去の礼を陳べて正眼の元を立ち去った。


政勝が去ると正眼はひのえに向って

「ひのえ。気持ちの良い男じゃのう」

「はい」

「横恋慕はならぬぞ」

「え?なんといわれました?」

正眼の意外な言葉にひのえは、問い直した。

この父はひのえの気持ちを知っているのやもしれなかった。

「いや、なんでもない。おおっ。しもうた」

正眼が急に大きな声で言うのでひのえは

「ど、どうなさいました」

「米がないのであろう?今ならまだその辺りにおろう。袋に詰めて一斗ほどもたせてやれ」

慌てて、ひのえが倉に入って晒しの袋に米を詰めると政勝の後を追った。

正眼が昨日の事を知っているのが、ひのえにも判る。

政勝のした事など正眼も男である。四の五の思う事もない。

それより、それとなくひのえに最後に政勝との逢瀬を作ってやるつもりでもあったのであろう。それで、思い残すなと言いたいのであろう。

「父上。すみませぬ」

口の中で呟きながら重い米を持って走って行くと、ぶらりぶらりと歩いて行く政勝の姿が見えた。

「政勝殿」

一声呼ばわると、ゆっくりと後ろを振り向いた政勝であったが、ひのえの重たげな物を見ると、駈け寄って取り上げてくれた。

「何処へ持ちやる?」

使いに出されたと察しが付いているがその袋の届け先が政勝の所だとは思わないようである。見かねて持っていってやろうと言うのである。

「欲の無い方だ」

「?何処に」

「あないしますゆえ、おもち下されますか?」

「おお」

この男の事だ。自分の家にもってはいっても、まだ、気が付かないのかもしれない。かのとに渡そう。ひのえもしばらくは、家を出ることになる。要らぬ心配をさせぬようにことわりを入れておいた方がよかろう。そう、決めると政勝と並んで歩き出した。

「しかし、澄明殿には、いろいろ、愕かされる」

「はい?」

「いや」

考えてみれば、勢姫と悪童丸のそのさまを見てもたじろぎもせず、なおかつ、切られた陽根をその手に取る。

女だてらに馬には乗るは、見事な小束捌きでもあるが悪童丸をものともせずその舌をしゃいてみせてもいる。

政勝の口に出せない様子でそれと察した澄明は俄かに気色ばんだ。

「いや。私も必死でありましたし、自分でも、政勝殿の前では男で通そうと思うておりました故」

「ふうううむ。しかし」

「もう、良いでは御座いませぬか」

「うむ。しかし、何故、そのように男姿に身をやつしておる?別に構わぬでないか?」

「そうは、まいりませぬ。陰陽師が女など聞いた事がありますまい?」

「そうではあるが」

「陰陽事を頼んで来るほうも、女と見れば、今一つ信がおけませぬ。只でさえ不安事を抱えておられるのに、それではもっと、こちらがきづつのうございましょう?」

「なるほど。しかし、女だてらに、何故、陰陽の道などに?」

「女ゆえに可笑しいと、思われますか?」

「確かに、府に落ちぬ事だ。」

「その通りだと、私も思いました。けれど、こうなってみて判る事で御座いますが、むしろ、女ゆえの利点が御座いました。」

「?」

「女には、月の障りが御座います。陰陽道においても、それは汚れとして、やはり忌み嫌われることで御座います。が、不思議な事で御座いますが、妖かしの者の毒気に当てられた時、障りの下血の中にその思いが解けこんで一気に体外へ排出されてゆくのです。」

「浄化されるということか?」

「男は、よほど、精神力を鍛え上げなければならないところを、女子は月の満ち欠けに差配されて守られていると言うところでしょうか」

「ふうん。不思議な事よのう」

「ええ」

「所で、勢姫のことだが、いや、悪童丸かの」

「なにか?」

「いや。あれで、すんだのかと、思うてな」

「さあ。」

その返事を何処かで聞いた事がある。そうである。

「そう言えば、思い出した。あの折、何故、悪童丸はそなたに術をかけなんだ?「さあ」はないぞ」

「掛け忘れたのでしょう」

「そんな答えで得心すると思うておるのか?」

「怒りますまいな?」

「…」

「それでは、「さあ?」ですね」

「もう、よいわ。今更、何をきいても、驚かん。いや、そなたの事じゃ、どうせ、愕く事に決っておる。

ように、腹を括りて聞く故、話してみろ」

「私は悪童丸に」

「悪童丸に?」

「おん・まからぎゃ・ばぞろうしゅにしゃ・ばざとらさとば・じゃく・うん・ばく」

「なんだ?それは」

「愛染明王の真言です。それを百万弁唱えたれば、勢姫様との事が成就すると」

「何?」

「そら、お怒りになった」

「いや、待て、そう、教えてやったと言うのか?」

「はい。愛染明王は愛欲の神。人の色恋を司る力をもっております」

「な、なに?」

「半妖の身なればそれ程、唱えれば、愛染明王も聞届けるでしょう。かてて、月の差配で子も、宿りますので姫に嫁入りに近い日の満月の日を選び教えおきました」

「な、な、な、」

「はい。そうでなければ,余りに早くややができますと悪阻も早うきて、何もかもがあからさまになって、元も子もなくなりますので」

「なにいいいい。貴様。初めから、そういう手筈だったのか?それでは、初めから、初めから」

「無駄事だと申上げました」

「違うわ。貴様が、そうしてしまったのだ。戯けた事を言うな」

「されど、そうせねば、因縁通り越せませぬ」

澄明の言葉に政勝が考え込んだ。

「?それだ。それがいっとう、判らん」

「因縁通り越す。が、ですか?」

澄明はにこりと微笑んだ。

「鬼の子を孕むも因縁。鬼を子を孕んだ娘を嫁がせる。これも、因縁。通らねばなりますまい。

されど、その後姫が人としていきるも鬼としていきるも自由。なれど、すでに姫は鬼の血。悪童丸の物。

孕んだ我を父親でない人の所に留め置いて因縁繰り返すだけなら、通り越せたと言いますまい」

「すると」

「さあ?それも、姫が決めること」

「…」

「さて、ここです」

いつのまにやら政勝の家の前に着いていた。

「なに?ここはわしの家ではないか?」

くぐり戸を開けるとかのとが跳ぶようにでてきた。

「父上が米を届けよというての。かのとの亭主殿は、黙って座れば米が御飯になって出てくる事しか知らぬ御方だから、米を見た事がないらしい。米の有り様も知らぬに比べ、かのと。お梅は賢い女子じゃな。さらえて炊けというたのに今日の分は残して置く気のつき様じゃ。ややができたら。お梅に来てもらうが良いわ。のう。政勝殿?」

「ほ?おおう。それが良い」

かのとの事になったら先ほどまでの、憤怒もどこにやら相好をくずして澄明の提案に気を良くしている政勝であった。

「おおう。それが良い。それは、気がつかなんだ」

独り言を呟いている政勝を見やりながら、ひのえは手短に先行きの話しをした。

「白峰殿の御守をおおせつかってな。三、四月家をあけねばならぬことになる。

私はその間、動いてやれぬ故、もう、鎌を振りて茅を切ってはならぬぞ」

「白峰?」

「ああ。西方の祭神よ」

「あらぶれておるのですか?」

「そろそろの」

「はあ。それがすみて後には、ひのえも、そろそろ、少し白銅の事を考えてやってくださいませや」

「白銅?」

「もう、よろしゅうございます。男心に疎過ぎます」

「ほ」

いつぞや、政勝が澄明の心に気がつきもせぬ有り様をかのとに託けて、皮肉った事があったが今度は自分がそう、言われるとは澄明も思ってもいなかった。

「白銅がの?」

四方の神に合わせて夫々を頂く陰様師がおる。

朱雀を守る正眼。青龍を守る白銅。玄武を守る不知火。白虎を守る善嬉の四人である。

その内の白銅がかのとの話では澄明に懸想しているように聞える。

が、自分の気持ちがどうのより成る事でないのは、判っている。

「白銅が気がついておるわけがない」

男に拵えるようになってかれこれ七、八年も経つ。

女である事など、気取られた事はない。

「体に気をつけて、たまには父をみやってくだされ」

澄明は政勝に辞去をのべるとくぐり戸を抜けた。


春はもうそこまで来ていた。

梅の香りに咽返りそうな道を一人歩く澄明の頬を滂沱の雫が流れ落ちた。

「訳合って妻帯できぬ」

言いかえれば、訳合って妻になれぬ。

その言葉を何度も呟きながら澄明はかのとを政勝に娶らせて良かったと、思った。

かのとで無ければ、諦めきれなんだ。

かのとであらばこそ、政勝に幸振りが有ると思える澄明であった。


澄明が帰ると

「よくよく深き因縁であるな」

と、政勝は呟いた。

双生の境遇。幼き頃に母を亡くして、ひのえとかのと。御互いを思う気持ちも深い。

其れ故に同じ境遇の姫の気持ち、悪童丸の気持ちがよう判るのであろう。

どうしてやるのが、一番良いのかを判るのは、澄明の方かもしれない。

そう、思うと政勝は澄明の選んだ通り越させが一番良いのだとを信ずる事にした。


時守の元に嫁いで二月。勢姫は悪阻を覚えた。時守との睦事はある。

が、こんなに早く悪阻を覚えるわけがない。

「してやったり。悪童丸。悪童丸」

ふた声弟を呼ぶと、勢姫は天守閣から身を乗り出すとそのまま、身を投げた。

「さらばじゃ。海老名」

皐月の空を朧に霞む月を見たいと勢姫にせがまれて、ここまで供をした海老名である。

月に手を延ばすかのように身を迫り出した姫を止める間もなく、宙を舞った姫の身体を何処からか現れた悪童丸が、がしっと、腕の中に抱きとめると二人の姿は何処かに飛び退り消え果てた。

海老名はほうううと溜息をついた。

その顔には安堵の色が浮かんでいる。

姫が心のままに生きることが一番良い事である。

これで勢姫も、かなえが主膳の心に悔いて、身を投げた苦しみを繰り返す事はない。

それにあり得ない事かもしれないが、かなえも、ひょっとすると勢姫のように光来童子を呼んで何処かに飛び退り密かに恋を成就させて暮らしているかもしれない。

僅かに残った肉片がかなえの物であったかどうかさえ定かではなかったのである。

そうに違いない。海老名はそうと決めるとすくっと立ちあがった。

「ひいいいいい。姫様が、姫様が、おちやった。」

打掛を天守閣から投げ落とすと思いきり大声で海老名は叫んだ。

「ひいいいいい…ひいいい、姫がああ……」

天守閣の下は深い掘りがある。姫の死体が上がらなくても不思議はない。

『存分にかなえの存念はらしたまえ』

そして、海老名の胸の中に巣食う、かなえと光来童子の恋の成就させてやれなかった悔いを、今、勢姫がはらしてくれる。

海老名はもう一度大きな安堵をつくと、姫の幸いを喜ぶ気持ちが顔に出ぬように男達が上がって来るのを待ち受けた。

                                              (終)

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