白蛇抄 第1話~第17話

@HAKUJYA

蟷螂  白蛇抄第1話

行けども、行けども、葦原の中である。

きちきちきち、という音とともに政勝の足元から精霊飛蝗が軽やかな薄い羽を広げ飛んで行く。

蟷螂が降りたった辺りにはただ、ひりひりと蟋蟀の鳴く声がする。

日は西にかたぶき始めているが、まだ見上げる頭上の空は鰯雲を並べながら、深く抜けるような青空を残している。

その陽光もやがて朱色に染まれば秋の日のつるべおとしさながら、あっという間に辺りが夕間暮れにまぐれてゆくであろう。

「おかしい……」

小谷城を出て、裾野を見渡した時にその葦原の向こうに道があるのがみえたのである。

ならば、その葦原を突っ切った方が早道である。

かたぶく日を追うように歩けばよい。

それだけをはっきり確かめると政勝は葦原の中に足を踏み入れた。

手を切らぬように葦を掻き分けては、進んで行く政勝に押しやられた葦がもたげなおしてくるとへちゃと顔に滑った感触を残した。

そっと、頬をなで葦を見やると産み落としたばかりの蟷螂の卵があった。

それが頬をなで上げたのだと解ると政勝はしばらくその場にたたずんだ。

みまわす周りは葦原。

いや、もう、もはや葦原のど真ん中に立ちておればそれがどこまで続くのかさえ判らない。

ぱさぱさと蟷螂が飛び立つのがみえた。

良く、見ればあちこちに蟷螂の姿があり、そちこちの葦に卵がうみつけられていた。

夏も終り、蝉の声も聞こえなくなっている。

『こんなに早く、卵を産み付けるかの?冬がくるのが早いか?今年の冬は厳しいやもしれぬ』

そんなことを思いながら政勝は空を仰いだ。

まだ、空は青くはある。

日のある内に早く木之本の須磨道守の所へつきたいのである。

が、やっと、小谷城を、下って来た所である。

まだ木之本まで五里はある。政勝は主膳の命を受けて北近江の木之本まで行こうとしている。

小谷城主に同じ手紙を渡すと残るは木之本に行くだけであるのに、小谷城をあとにしてからの道のりがさっぱり判らなくなってしまっていた。

小谷城は伊吹山と、近江の琵琶湖のほとりの木之本を結ぶ南西に延びる線の間中にある小さな山城である。

政勝は懐に包んだ手紙を確かめる様にぐうと、おすと先を急いだ。

道を聞こうにも、誰とも、ゆきあたらないのである。

心もとない思いをしながら政勝は木之本がここから西にある事だけを頼りに先を歩んできたのである。

照り返した夕日が葦に陰をつくる。その日と同じの方を目指してなおも、政勝は歩んだ。

「おっ」

突然、葦原が開けた。だが、山の上から見た場所ではない。

『迷ったか?』

嫌な予感である。

政勝は東の空を見あげた。山の端に白く冴えた寒天の押し菓子のような月が見える。それを見ると、政勝は多少ほっとした。

闇にまぎれても方向は月を頼りにできる。

満月に近い月であらば、足元もなんとか、見えよう。

迷う事を覚悟したかのように考えを廻らすと政勝はその広い野原を歩んで行った。

足元が緩やかに斜面を描き競りあがっているのである。

が、先にある黒い森が政勝の目をくらましている事に気がつかなかった。

「鎮守の森であろう」

簡単に政勝は考えていた。

さすれば、もう、人家もあろう。

どうやらこれでは、何処かに宿を頼むしかないだろう。

政勝の予定では今頃はせめても琵琶湖のほとりの近江街道に出ているはずだった。

今頃は琵琶街道を北に登り、木之本の関にたどり着いているはずであった。

が、やむをえない。

「西日が落ちる前までにはなんとか、畳の上で眠れる場所に辿りつこうぞ」

そう決めると政勝は、又、西を目指し歩んでいった。

一刻がすぎたであろうか。

山の中をしゃにむに歩く政勝の姿があった。

辺りは、とうに夕まぐれにまぐれてとっくに闇の中であった。

「くそおおお…迷ったか……」

とっくに迷っているのであるが、諦めてしまわぬ限りは迷っているのではない。

政勝らしい負け惜しみであるが詰まる所、迷っているのには、かわりがないのである。

昼間の温かさと夜間の冷え込みの差が辺り一帯に緩やかな霧を生じさせる。

政勝の着物も、露を玉に結んだ葉ずれに触れて、そこかしこに沁みてき始めていた。

これ以上歩き回らぬ方が良い。

そう判断するともう一度油紙に包み込んだ懐の書状を確かめて政勝は仮眠を取れる場所を探し始めた。

枝振りの良い大きな木の下なら、地面も濡れておらず振りくる霧を枝葉が受けてくれる。

目前を月明かりで、すかす様に見てみれば、目下に大きな枝振りが見える。

どうやら山の斜面はなだらかにくだりその下にくぼ地がある。

その中にひともと、立てる木の枝の高さが目の前にあるらしい。

その木を目指して政勝は斜面を降り進んだ。

「?」

目の前がいきなり開けると、そこは平たく和んだ場所である。

「かむろい?」

神がおりたち、遊び戯れる場所として聖地を切り開くことがある。

ならば、ここまで人が入ってきている事は確かである。

かすかな安堵が胸をよぎると、政勝は目指す木の下まで歩んでいった。

大木の幹に背をつけて政勝はへたりこんだ。そして、辺りをみわたした。

もやが浮かびあがり、月の明かりが薄っすらと辺り一面を鈍く照らし出している。

降り下ってきた反対のほうに目をやるとまだまだ山が続くのであろう、黒く暗い山の稜線が漆黒の様に重なって見える。

その稜線に入る手前に大きな暗い塊がかすかな葉ずれを重ねているのがみてとれる。

薄明るい月がその固まりの足の中に光をおとしている。

その様子でその塊が竹の林である事を判らせた。

「おっ?」

ふと…灯りを目にした気がする。

よもやという思いと妙なという思いが交錯する。政勝はいっそう目をこらした。

「ある…」

竹の林の奥に人のすむ屋敷がある。

政勝は落した腰を浮かび上がらせるとその屋敷に向かって歩んで行った。

「すまぬ……あいすまぬ。誰か…おられぬのか」

政勝は屋敷の門を叩きながら大きな声で、家人を尋ねてみた。

程なく玄関の戸を開ける音がして、ひたひたと土を踏む音が近づいてくると政勝はほっと安堵した。

「すまぬ……道に迷うてしもうた。軒先なりと…一夜の宿をかりうけたい」

頼みこむ政勝の耳に

「お待ち下さい。今、閂をあけます」

女の声がきこえた。

夜であると言うのに、女が独りで相手の素性を確かめ様ともせず閂を開けるという。

なんという無用心な事だと思いながらも、政勝はただ、ただ宿を乞いたい一心が先だった。

「すまぬ。道に迷ったのだ。怪しい者ではない。できるならことなら一夜の宿を頼めぬか」

扉越しに政勝が言う内に、かちゃりと音がして扉が開いた。

扉を開けた女が顔を覗かせると

「どうぞ」

承諾と共に、女が政勝を屋敷内に招じ入れると再び閂をしめた。

「あいすまぬ……当家の主に…」

じかにことわりと礼を言わねばなるまいと思った政勝がそこまで言わぬ内に、女の方が

「かまいませぬ.。姫ぃさまにいわれてまいりました。さ、どうぞ」

女に案内されるまま政勝は屋敷に入って行った。

政勝が足駄を脱ぐと女はそのまま

「こちらでございます」

言いながら長い廊下を向こうに政勝を促がした。

女の後を歩きながら再び政勝は

「当家の主殿に一言お願いと御礼を申し述べなくては」

某の気もすまぬ……と言いかけるが女は静かに廊下を歩いて行く。

どうやら政勝の言葉を聞いている素振りではない。

政勝の言葉が途切れてしまうと、女が

「夜もおそうございます。今日はごゆるりとおやすみくださいませ」

たちどまった。

その立ち止まった所の部屋の襖をあけて

「こちらへ……どうぞ……」

女がいう。

部屋の中にはすでに政勝が来るのを待っていたかのよう夜具が敷かれてあった。

枕元には着替えの夜着がおいてさえある。

『他の者が先にしいていたおいたのだな?』

姫ぃさまと呼ばれた家の主は政勝を屋敷の中に招じ入れてやることを女に言いつけると同時に他のはした女に夜具を整えさせたのであろう。

『きはしのきく方のようだな……』

礼を言うのは当然の事ながら政勝は姫ぃさまと呼ばれる女主を一目みたくなってもいた。

政勝が部屋に通されて細やかな気配りに保然としている間に政勝を案内して来た女は部屋の襖を閉めて出ていってしまった事に

政勝が気が着いたのは、しばらくしてからだった。

湿った着物を用意されている夜着に有難く着替えさせて貰おうとして

「かたじけない…夜着まで……」

女をふりむいたがそこに女はいなかった。

政勝が着替え終えて、湿った着物を手にしたままどうしたものかと鴨居をみつめていると、廊下越しから女の声がした。

「はいります……」

女は盆の上に湯気の立つ菜粥をもってきていた。それを窓辺に寄せてある小さな文机の上におくと

「こんなものしかございませぬが……御着物をこちらにおわたしくだされませ」

政勝が着物をわたすと女は

「寝間で……もうしわけございませぬが……どうぞお食べください」

部屋を出て行くとしばらくして着物をかける竹衣文をもってき政勝の着物をつるしてくれた。

しっかり腹の減っている政勝が女がもう一度来た時には椀の物をすっかり食べ終わっていたことはいうまでもない。

「なにから…なにまで…かたじけない……」

空になった椀を女は盆に乗せ

「おやすみなさいませ……」

と、だけ言うと部屋を出て行った。


明けやらぬ、薄闇の中を人が歩き廻る気配が聞こえてくる。

蚊遣りの向こうから、漏れて来る月明かりが細って見える。

朝は近い。

が、まだ早すぎる時刻である。

『何事?』

政勝は床に起き上がると薄闇の中で目を凝らした。

枕もとに置いた刀の所在を確かめると政勝はもう一度床に潜り込んだまま、うとうととまどろみながら朝が明けるのを待つことにした。

まだ空気が動き出さない朝の内に出立した方が良い。

そう、決め床の中にじっとしている政勝の耳には、かすかな人の動き回る気配が聞こえ続けていた。

外が白んできたのを感じると政勝は起き出し、自分の着物に着替え外にでることにした。

日の差してくる方向を見定めたかったのである。

昨日とは逆に廊下をたどり外に出ても、誰とも会わなかった。

夜のざわついた人の動きが鎮まりかえって奇妙なほどの静寂が漂っていた。

あれほど政勝に気を配った女に、無断で外に出た事が、政勝の心を咎めさせてもいた。

 が、まずは自分の所在がどの辺りにあるのか。

この先どちらへ向かえばよいものか。ここはどこになるのか?

政勝はぐるりと辺りを見渡した。

「おや?」

向こうの屋敷の外れから人が歩んでくるのが見えた。

昨日の女かと思ったが、違う。

顔立ちも違えば、年恰好も違いすぎていた。凛とした顔である。格好も作務衣をまとっている。

男かと思ったが、肩の丸みや項の細さが女であることを語っていた。

女は政勝の目の前までゆくりと歩いて来たが、政勝を気にも止めようとせず、見ようともせず、まっすぐ前を向いて政勝の前を通り過ぎていった。

女が政勝を見ようともしない様子に政勝の方が虚を突かれ、呆然と女の姿を見送るだけになってしまった。

どこに行くのだろうか?

あれがこの屋の女主、姫ぃ様であるのだろうか?

主の通した客に頭ひとつ、下げずに通り過ぎてゆくからにはその女こそが主であるゆえと考えるしかなかった。

だとするなら一言礼を述べねばなるまいと思うと政勝は女の跡を追いかけ始めた。

前を歩く女は、小さな手桶を抱え込み歩んでいる。

近寄りがたい空気を感じ取りながらも政勝は、声をかけようとした。

その時。女が朝露に滑ったぬかるみに足を取られ転びそうになった。

「あ」

と、思ったが女はことのほか身が軽かった。

平衡を失ったものの転びはしなかった。が、女の抱え込んでいた手桶の中身がこぼれた。

「え?」

政勝が息を飲むのも無理はない。

桶から零れた物が女の手に飛び散り、どろりとした血が女のたっつけを伝わり作務衣の足元にまとわりついた。

「!」

血である。生臭い血の匂いがかすかに動き出した空気に乗って政勝の鼻に届いた。

血のこぼれた辺りに立ち止まると、政勝は地面をくいいるように見た。

「まちがいない・・・血だ」

が、女は一向に気にならないのであろう。

先へ先へと歩んで行くのである。

「な、なんなんだ?」

立ち止まって考えてみたとて判るわけはない。

女を見るとはるか向こうの竹林の中に入り込んでゆく。

怖気がしないでもない。

が、政勝は女の跡を追うことにした。

「居た・・・」

よってくる政勝をものともせず、気にもとめず相変わらず見ようとさえしない。

女は小さく掘られた穴の中に桶の中身をあけた。

赤黒い塊がどさりと音を立てて穴の中に落ち込んでゆくのが聞こえるほどに政勝は女の近くに来ていた。

桶から滴り落ちる血が途切れると女は手桶をかざし返して地べたに置き、穴に土をかけると政勝の方に向き直った。

女の目が確かに政勝を捕らえていた。

だが、顔色ひとつ変えずまるで政勝をそこに生えている竹の一本のようにしか思わないという素振りでそのまま元来た道を歩んでいった。


竹林の中に、立ち尽くしたままの政勝に沸いてくるぞっとする想いが細かな身震いを起こさせていた。

「な、なんなんだ」

とにかく、ここを早く出たほうが良い。

そう考え付くと政勝は屋敷の方にもどり始める為に向きを変えた。

その時、その場所のかすかな残り香に気が付いた。

―伽羅の香―

女の物であるのは間違いがない。

何者か判らぬが、女であることだけは間違いないと政勝は思った。

慌てふためくように竹林を後にして政勝が屋敷に戻ってみると昨日の女が政勝を待っていた。

「朝餉ができております」

政勝に言うと女は歩き出した。

早く出立したほうが良いと思いつつも政勝は戸惑った。

突然夜中に押しかけた見も知らぬ者を親切に世話をしてくれて、今もまたもこうやって朝飯まで用意してくれているのである。

それであるのに、礼の一つも述べずに出てゆくのは流石に政勝も人理におつる気がするのである。

「かたじけない」

女の跡を歩くようについてゆくと昨日とは違う部屋に通され、質素な膳が置かれ味噌汁の香りが湯気だち政勝の食欲をそそり始めていた。

政勝が箸を取ると女は、

「粗末なものしか御座いませんが:どうぞ、御代わりも遠慮なさらずに」

口をつぐんで傍に座り政勝への給仕を待つようであった。

一口汁をすすると政勝は尋ねる言葉を舌の先にとどめて迷っていた。

『一体、なんであるのか?』

今しがた探るように女主を見た己の行状にも恥じ入る物がある。

が、なんだったのか?

自分の見たものが何だったのか?

妖怪狐狸などの類のわけもあるまいが、釈然とせぬまま怖気を奮っている自分では、これも失礼きわまる胡乱な見方でしかない。

「先程当家の主人らしき方にあったのだが・・」

政勝はやっと口を開いた。

「ぁ、ああ。姫い様に?」

女はふっと考えていたようだが

「それでは、竹林に行く所をご覧になったのですね?」

政勝がいた場所と女主の行動を考え合わせていたようである。

「あ。ああ。それで」

政勝が言葉を繋ごうとする前に女が微かに笑った。

「それは、さぞおどろきになったことでしょう」

政勝が目撃した物も政勝がそれに驚愕の念を抱いているのも女にはわかっていた。

「あ?いや、まあ」

何ぞわけがあるのである。それを女も判っている。

「あれは、えな、です」

女は説明した。

「え・・な?」

「殿方が見るべきものではございませんでしょう・・

子をはらみ子を産み終えた後、腹の中で赤子を包んでいたものが体外に出てまいります」

「あ・・」

「聞いたことがございますか?」

「いや」

「それでは尚の事、驚かれた事でございましょう」

確かに事実がわかれば何の事はないのであるが、しかしまた、何故そのような物を扱う事をしているのかが、判然としない政勝なのである。

「姫い様は産婆のような事を生業にしております」

「え?」

若い娘がである。不思議なことである。

「理由あって姫い様は婚姻を許されぬ沙汰をうけております。姫い様は本来はお子がほしい。

なれど、叶わぬことゆえ、仲間の産を助ける事でお心をまぎらわしておるのでしょう。えなひとつとてもそうなのです。

今まで赤子を守ってきていた物ゆえと御自らの手で埋めてやりたいと・・。貴方はそれをごらんになったのでしょう?」

すると昨日の夜半からの人のさざめきも、どこか屋敷の中の一角で産を成す者がいた故であったのかと政勝は遅ればせながら得心させられていた。

「仲間といわれたが?」

姫に所縁のもの全てが、ここに囚われているという事なのであろうか?

由縁の者は子を孕む事をゆるされている?

その世話をしてやるしかない姫なのだ。と、思うと、ますます酷い仕置きに思える。

「いえ。いえ。女同士ということでございますよ」

女は己の失言と政勝に気取られないように、やんわりと言い添えた。

「近在の者がここにやってくるんですよ」

「生まれようというに、山をのぼってか?」

「いえ。もう、直ぐとならば、早めにおあずかりして::あのように::」

女の言うところはくどの奥である。

奥には二、三、女がいて、かなり大仰な鍋で朝餉をしつらえている。

産を成すまでここで寝起きする女が他に何人かいるということであろう。

「冷めますよ」

女が政勝の食事を促すと押し黙ってしまった。

慌てて汁をすすりながら政勝は考えていた。

何故婚姻を許されぬ沙汰を受けこの山の中にひっそりと暮らすのか判らぬが、そんな沙汰を与えた木之本城主の差配が腑に落ちぬのである。

若い娘の未来さえも取り潰しておきながら、生かしておけるなら、何も・・・。

「姫い様は、どんなにか、お子が欲しいやら」

黙りこくっていた女がふっと言葉を漏らすと袖で頬を押えた。

「・・・・」

女子の幸せという物が子だけであろうとは思えないが、子を望むほどに嘱望されるよき伴侶にさえ巡り合う事を赦されない女主の顔が、

あの手桶をあけた時のむくろのような冷たい無表情の顔が政勝の中に浮かび上がってきていた。

「すみませぬ。見ず知らずの方に・・」

女は拭った袖をひらとはためかせると政勝に手を差し出した。

「あ。すまぬ」

椀がからになったのを見届けた女が政勝に給仕を継ぐと政勝に微笑んだ。

はじめて見せた女の笑顔は政勝にいくばくか心を開いたように思えた。

「お急ぎの御用でございましょう?」

「ああ。そうではあるが・・」

礼の一つを述べねばならぬと思っている政勝の胸のうちを推量したのであろう。

「姫い様は、夜中からの産褥のあとで、泥のようにくたびれておりますゆえに、もう、ふせこんでしまわれておりましょう。

私から伝えおきますにどうぞ、急ぎ出立なされてくださりませ」

「あ。いや。それでは」

政勝の躊躇いに女はふっと考え込んで見せた。

「それでは、もし御用時を終えて、暇(いとま)があるようでしたら、もう一度ここへ立ち寄って下さいますか?

姫い様は外に出た事もなくここで暮らしております。貴方の故郷の珍しい話一つでも姫い様にきかせてやってくだされませぬか?」

それは持って礼に代えさせてもらえるなら政勝にとってもお安い御用という事になる。

政勝の心が定まると、政勝は懐の中の書状をゆくりとなであげた。

予定の定刻を無駄にすごしてしまっていたが、用事を済ませれば急ぐ旅ではない。事実、物見遊山という表向きでもある。

せいて帰ってあざとく人の口の端(は)にのぼり間者の耳に入ってもおもしろくないことである。

とにかくは書状を届ける。これを済ませるのみである。

食事を終えると政勝は立ち上がった。

「では、お言葉に甘えてまいります」

軽く会釈をする政勝に女がつげた。

「ここをでて、右手に屋敷を曲がれば小道がみえます。それをたどれば小半時もせぬうちに町外れにでましよう」

「ありがとうございます」

深く頭を下げると政勝は足駄をはんだ。

暗くくぐもった屋敷の中を出ると明るい日差しが政勝を包んだ。

女のいわれたとおりに屋敷の右を曲がり歩いてゆくと、熊笹の生い茂った中に続く小さな小道が見えた。

わずかに傾斜した斜面をあがってゆく小道であれば政勝も教えられていなければその道を歩もうとは思わなかったことであろう。

「もう一山こえなばならぬということか」

道の傾斜は緩やかに競りあがり政勝の予測したとおり小さな山を上り詰めていた。

「お?」

眼下に広がってゆく光景に政勝は息を飲んだ。

湖北のまなじりはそこが湖の端と教えている。

眼下はるかに琵琶の海が銀色にまばゆいていた。

その湖に守られるかのように岸辺には小さな家々が見える。

木之本の関を越えれば

「木之本だ」

政勝は下り始めた道を一気に駆け下りるかのように足を速めていった。


主膳の書状を渡す。この用件を勤め終えると、昼過ぎには政勝は城を出た。

これで、一安心。

三つ子でもあるまいに、道に迷うたなど、くちがさけてもいえぬことであるが、

それでも、とにもかくにも肩の荷は下りた。

このまま、元通り琵琶街道に出て、長浜に下った方が良いだろうとは思った。

家にはもろうたばかりの嫁が居る。

早く、帰ってかのとを安心させてやりたいとも、思った。

だが、

『よく、解らぬ』

昨日の屋敷の女主はここの城主によって婚姻を禁じられているということである。

何故の沙汰なのかは判らないが、城主に対面してみれば凡そ、激を飛ばすような男には見えない。

女子の幸せを平気で握りつぶすような男の顔には程遠い。

だが、事実は事実。確かにあの城主が裁断をくだしているということであろう。

『どうにも解せぬ』

何ゆえ。これが判らぬ以上いくら考えてみても同じ事である。

山の中にひっそりと暮らし、己の叶わぬ夢を晴らすかのように産婆の生業にいそしむ事だけが女主の生きる術。

これが現実である。

涙ぐんだお女中の言葉を政勝はかみ締めていた。

ここをでた事さえない。

外の珍しい話を聞かせてやってください。

取るに足らない。あるいは当たり前に過ぎない季節の移ろいの景色栄えさえ、女主の心には珍しく、嬉しい話になるのだ。

『礼もいうておらぬし・・の』

迷うは今回のたびに付き物のようである。

『急ぐたびではない・・・』

かのと。もう少し遅くなるぞ。

やってきたばかりの初々しい嫁が恋しくもあったが、政勝は山への道を

選んだ。

                                     


屋敷の戸を叩くと件の女が顔を出した。

政勝を一目見ると

「まあ」

おおきな花がほころぶような笑顔を見せた。

「きてくださったのですね」

「うむ。礼の一つも述べぬはやはりこころぐるしゅうていかぬ」

「まあ」

優しいというか、律儀というか、礼節を重んじるは武士の習いであろうがそれでも、

「姫いさまがよろこびます」

政勝の手を取りかねないほど浮き立つ女の様子がさらに政勝には哀れを覚えさせた。

こんな事位がそなたにも嬉しく思えるほどに。

姫いさまの暮らしはもの寂しいという事になる。

「ぁ、ささ。どうぞ。おはいりください」

女にあないされ屋敷の中に入った政勝はさらに驚く事になる。

来るか、こぬか判りもしない政勝をまっていた。

それほどに日常に無い外の人の来訪をたのしみにしている。

座敷の中は政勝が来る者としてかのような馳走の膳が運び込まれ始めていた。

政勝が主席に座れと促されるだからやはりこの膳は政勝のためのものである。

並ぶ馳走はどこをどう手配したものか。

山女が焼いてある。横の小鉢の中は春に摘み取り一旦干した山菜である。

貴重なものであろうに水に戻され柔らかく煮含まれ膳の上で白和えになっている。

筍も塩に漬け込んだ物を何度塩抜きしなおしたことであろう。

川海老が赤く煮付けられているが、これも朝の内に誰かが川にとりにいったものである。

「いや。これでは、かえって・・」

困ったことになった。

だが、それほどに人のくる事が稀なのであろう。

こうまでに歓待されるとならば、尚程に来てよかったと政勝は思った。

政勝が来ぬとしても、それでも来るかもしれないと膳は用意されていたのであろう。

それほどに待たれていたと言うに政勝は取り立てて話す事が思いつかない。

何を話させて貰って礼に変えようかと考えていると、

「姫いさまは・・・。また一つ産褥をかかえておりましてな」

と、おずおず女が政勝に告げた。

「おって、参りましょうから、どうぞ、お先に」

と、ささを継ぐ手をよせてくる。

「ぁ・・いや主殿がおらぬというに」

「構いませぬ。お待たせする方が却って心苦しい」

「いや・・しかし」

返す言葉の政勝に杯を持たせると女は芳醇なつややかな液体をそそぎこむ。

甘気な匂いが発ち込め酒は上等な部類のものと直ぐわかる。

「ささ、どうぞ」

女の言葉に迷ったがこれ以上断るのも愚とおもえ、政勝は杯をあおった。

「ああ・・・」

確かに上等な酒である。

口の中に甘みが残るとくうううっとのどをすんなりとおる。

いかがですかと問いかけるまなざしの女に政勝は豪放でてらいがない。

「いや、うまい」

素直にきっぱりと美酒を称えると証拠についとてがのびた。

「いける御口でございますな」

嬉しげに女が微笑み政勝の杯が充たされた。

川海老をむしりとる間に猪口が充たされる。

「うまい・・・」

口の中に入った海老は薄い醤油の味だがそれを超えたあまみがある。

「おきにいってくだされましたか?」

山の者にとって川海老など茶飯事の食物でしかないのかもしれない。

だが、政勝には美味である。

「湖の物とは違うの。甘味が芳しいと言うていいか::」

「さようでございますか?」

朝から用意をした苦労が報われる以上に政勝の堪能ぶりが嬉しい。

「いやああ。これはいい。これも旨い」

じゅんさいもきっと朝早くから山の湖か沼にもとめにいったものであろう。

つるりと喉を通るぬめりに舌鼓をうつと、

女が慌ててうごきはじめた。

どうしたものかと見ていると女は立ち上がり、

「姫いさま・・・」

と、襖を開け放った。

「ご苦労」

女主は政勝の歓待を用意したはしためをねぎらい、つづいて、政勝に深く頭をさげた。

「おいそがしい御身であるに」

「いや」

昼過ぎる時刻からささを飲める自分が忙しいとはいえまい。

むしろ、忙しいのは女主のほうであろう。

たっつけの姿のまま湯浴みもできずに、政勝の来訪に礼を述べに来る。

かといって、先に湯浴みでもなさってらっしゃいませは女主を追い出すようにも聴こえかねない。

政勝は

「ごくろうさまでありましたな」

置かれたちょうしを取ると我が酒ではないがと主に酒をすすめた。

「もったのうございます」

どちらが主格か判らぬ有様になったが主は杯を取り政勝の酒を受けた。

「わざ、わざに・・」

「いや」

政勝が礼の為にここに訪れた事を言うが既にこの様子では礼にさえ及ばぬ尽しである。

「かえって・・」

余計に迷惑をかける事になったと政勝は言う。

「いえ・・そんなことはございませぬ・・・

軽く頬を染めた娘は昨日と違って無表情ではない。

「お武家さまはどちらから?」

政勝の旅の用事を終えた事は判っているが、用事がなんであったかを聞かぬは武家筋の暗黙の了解のことではある。

いずれの姫であったか、無造作に括った髪であるのにあでやかな気品がある。

婚を禁じた木之本の主とても、さてはいかにか惜しかろうと思うたおやかさがある。

「某は・・・長浜から・・・」

主はやぶさかでないとみえて、小首をかしげた。

「琵琶の海をもう少し南に下がったところが長浜です」

「まあ。それでは竹生島がじきに見える所ですか?」

裏山の尾根に上ると微かに島がみえるという。

それが竹生島ときいているという。

「そうですか」

琵琶の海は眼下にみえれど、その水にふれたこともないという。

「この山の中から出た事がないとおおせられる?」

「はい」

「おさなきころから?」

「はい」

一体、どういう咎をかせられているというのであろう。

血筋を絶えさすに命を取り果てるは哀れとの救いにしろ、流刑の方がましかもしれない。

「それでも、山家の暮らしも季節の移ろいは同じでしょう?風情が御座います。長浜は如何です?」

それとなく女主が己の身の上から話をそらせてゆきたいのだと感じると政勝は長浜の時の移ろいをおもいうかべていた。

「そうですなあ・・」

政勝の頭に浮かぶ風景がある。

時は春。

春は宵。

生暖かく湿気を含んだ風が爛漫の桜をちらす。

風に乗った花びらが朧に霞む月に照らされる銀鱗の湖に舞い踊る。

有情無常。

まさしく言葉どおりの風景がよみがえる。

「琵琶の海に春が来ます。爛漫の桜より散り急ぐ花が哀れでうつくしい・・・」

政勝は己の胸の中の風景を語り始めた。

「まあ・・。めにうかぶようです。薄桃色の花びらが惜しげもなく湖面をあやどる。あなたは湖面に船をさしのべたのでしょうか?」

あなたといわれるに政勝はてらいがあった。

「某は政勝といいます。あるじどのは?」

初めて個別の名を名乗りあってない事に気が付くと女は

「采女・・・采女ともうします・・」

「うねめ・・?」

「はい」

女のほほがそっと染まるようであったが政勝は気が付きもしなかった。

が、女は個別の名を尋ねられ己と言う女を意識された事にほほを染めていた。

「私は船も出さず岸辺で舞い散る花びらが湖に落ち銀鱗の波を薄桃色に染めるのをみつめつづけるだけでしたが・・・圧巻でした・・・」

「さぞかし・・・」

綺麗でしょうねと女は言わずほうううとためいきをついた。

心のそこでの哀れみがせめても女を喜ぶ顔にして見せたいと必死の政勝であった。

「秋の奥琵琶湖も絶景です。もみじが色づき湖が色を映しだし::」

「まあ・・・」

政勝の一言でさえ女は驚嘆してみせる。

「みてみたいものです・・・」

己には無理であると判っている故に政勝にとってありふれた風景さえ羨ましく美しい。

「あ・・あ」

女の身の上にとって酷い事でもあるのだと気が付いた政勝は外の話をこれ以上話し続けるのが気の毒になってきた。

政勝は杯をあおり、間を取り繕うかのように

「この酒は?」

と、突然のように話を変えた。

「地の酒です。おくちにあいましたでしょうか?」

「いや・・本当にうまい・・」

嘘ではない。つい手が伸びる芳醇なさけである。

甘い酒は政勝の五体を快くしびれさせてゆく。

軽い酔いに眠気が催してきて政勝は何度も目をみひらいた。

「おつかれのようでしたら・・」

女は政勝の酔いを察すると女にそっと、床を伸べるように指図した。

「いや・・そんなことはない・・ないが・・」

確かに微かな酩酊がある。

女の哀れより、礼を返すことより快い酔いが政勝を捕らえだしていた。

政勝がいても立ってもおられぬ睡魔に部屋を出るのは寸刻後のことである。

寝間に付き添う女に

「いや・・すまぬ・・あいすまぬ」

何度か詫びながら廊下をあるいた。

「長旅でおつかれだったのでしょう。そこにお酒が入ればむりなかりましょう」

眠気を追い払えなくなった政勝の弁解を替わりて喋ると女が部屋の前で立ち止まった。

開け放たれたふすまの向こうに柔らかな夜具がしかれてあった。

政勝は躊躇する事もなく布団の上に寝転がる。

子供のような政勝の所作にくすりとわらう女の耳に早くも軽いねいきがきこえはじめていた。

「ゆくりとおやすみくださいませ」

既に掛けられた声にこたえられる政勝ではない。

邪気のない寝顔をもう一度見直し女は政勝の身体を押して上掛けを掛け直し部屋の外に出て行った。


どのくらい眠っていたものだろう。

熟睡の果てが睡魔を破り突然のように政勝の瞳を覚醒させた。

突然の覚醒に政勝はあたりをみまわした。

芯を短くされた行灯がほの暗く部屋を照らしていた。

「そうか・・・」

此処は旅の途中の屋敷の一室。

不覚にも礼を述べにきながら酔いに負けたのだ。

不思議なほどに静まり返っている今の時刻は一体いつごろなのだろうかと政勝は障子の向こうをうろんげにながめた。

月灯りは細く天空さらに西の空のものか。

突然の覚醒は何かの気配を感じたせいではなかったのかと政勝が考え直していたそのときだった。

廊下をさえぎるふすまが静かにひらいた。

政勝の武士としての習い性であろう。

刀を掴み取ると夜半の侵入者にかまえた。

「あ?」

ふすまを開け放ったのは件の女主である。

『采女・・?』

この屋敷の主である。

どこをどう歩こうが立ち入ろうが勝手ではある。

掴んだ刀を置きなおさねば無礼であろう。

刀を置きなおして女主をみつめたものの、どうかんがみても今は真夜中。

ましてや男がいる部屋に・・・。

政勝の胸中に過ぎる思いを頷かせる物がある。

采女の手元の蝋燭に浮かび上がる采女の姿は先ほど見たときとは違い髪を結い上げ美しい着物を羽織り、その顔には秀麗な化粧を施している。

どういうことなのだ?

そういうことなのか?

女が一人あでやかに装い男の下に訪れる。

その目的がなんであるか。

政勝も男であらば考える必要もない。

しかも・・・。

男のもとに訪れるのは判るとしても結い上げられた髪の丹念な事。

采女一人の技ではない。

橋女達が采女の渡りに装わせたとしか思えない。

―姫い様はどんなにおこがほしいやら・・・―

女が拭った袖の涙と共に女がなぞをかけてきたのだとやっと政勝は気が付いた。

采女は部屋に入ると政勝の近くに寄ってきた。

手燭をおき布団の上に端座する政勝の前で手をつき深々とあたまをさげる。

「お情けをちょうだいにあがりました」

か細く恥じらいを含んだ声がそれでも告げねばならぬと必死の声色であった。

「な・・なんと?」

よもやと思いながらも、まさかと思い呆然と采女の所作を見詰る政勝であった。

采女の申し出の意味はわかる。

が、采女は子を孕みたいと言うだけで暴挙を行う余りに恐れを知らぬ娘でしかない。

どう見ても身体の中にともった火に抗えず男を欲して来てしまったとは見えない。

子を孕みたい。

その一念に突き動かされているに過ぎない。

「ば・・ばかなことを・・・」

情を交わす睦事ならうけもしよう。

欲にまみれてのいざなぎ事もよかろう。

だが、見ず知らずのどこの馬の骨ともわからぬ男の種を宿す?

たった、それだけのために?

他に情を通じる方がおられよう?

宥める言葉を政勝はのみこんだ。

誰も来ないのだ。

思い浮かべてみれば屋敷の中も女衆ばかりだった気がする。

婚を禁じられた姫の屋敷に男と言う者が立ち入る事が許されるわけがない。

男なら・・・この際だれでもよいというか?

くもの巣にかかった政勝を捕らえた采女にとってはそれでもこれが千歳一隅の機会でしかないということか。

「どうぞ」

采女がつとにじりよってきた。

「政勝様であらば・・・」

采女はけして、子を孕みたい為だけでないという。

「政勝様であらばこそ、お子が・・・ほしゅうございます」

采女の言葉につと下を向いた政勝は己の浅ましさを意識させられただけである。

己の考えの債分どおりに行かぬ物が既に怒張し始めている。

政勝の手が戸惑いに反して采女に伸びてゆくと采女を引き寄せていた。

しなだれかかる采女の襟元から手を差し延べ胸をさぐった。

形の良いたなごごろにおさまる娘らしさを残したまだ固さの有る乳房だった。

采女はたじろぐようにあっと声を上げたがそれは驚きでない。

身体は既に熟している。

男を受け入れる事が出来る女の態を現していた。

政勝の指が胸の先をつまみあげるのに堪えるように采女が小さく声を漏らしていた。

「そつ・・・が。ない・・」

女が男を誘う様がである。

が、政勝はまだとどこまっている。

これだけで女が本当に女はどうかわからない。

嫁であるかのとも同じように政勝の所作にこえをあげたが、むろん。その時のかのとは生娘だった。

政勝が戸惑うのはここにある。

子を孕ませ采女の生涯を変える男になるかも知れない政勝であるが、

采女にとって初めての男であるなら・・・。

子を孕もうと孕むまいと政勝という男との一夜の契りは采女にとって虚しいだけのものになる。

これが既に女であるのなら・・・。

政勝は再び己をあざ笑った。

心に残るを恐れているだけでしかない。

生娘を女に仕立て上げる罪の重さにまどっているに過ぎない。

かのとのように後を共に暮らす相手でない。

無責任な男の欲情に塗れ、采女を女にしたてあげ・・・。

後は素知らぬ顔。子を産んだとしろ・・・素知らぬ顔。

だが・・・・。

政勝が今己を留め置いたとしてもいずれにしろ采女はこれを繰返すという事ではなかろうか?

迷い込んだ男に身体を開き子を望む。

遅かれ早かれ采女は時期を迎える。

戸惑う男が自分であるか他の迷い人であるかの違いだけではなかろうか?

それなら、せめても、采女の政勝様であらばという言葉を信じてやりたくなった。

男の欲を宥める勝手とはきずかぬまま政勝は采女を引き寄せ布団の中に包みこむと帯を解き始めた。

俯く采女の耳元に

「よいのだな・・・」

政勝はねんをおした。

政勝の帯を解く手馴れた所作がどこに由縁があるかも思いつく余裕があるわけがない。

采女はじっと政勝の手に解かれる帯を眺めやがて政勝の手が解き終えた帯を布団の縁に討ち捨てるようにたくされた。

たくされた帯がへなりとしなを作るかのように見えたとき采女の身体は襦袢を解かれ白い裸体を手燭の灯りの中にさらけだされていた。

政勝の顔が采女の胸にうずもれると

「あ・・・」

羞恥の声を堪える采女の陶酔があった。

声を漏らし始める采女の身体をなでさする政勝の手は采女の太ももにしのび始めた。

途端に、采女の手が政勝の手を弄りおさえつけた。

政勝の次の所作を感じ取る采女はおそれをいだいている。

『やはり・・・生娘か?』

政勝の戸惑いを感じたのか采女は緩やかに政勝の手を押さえた己の手の力を抜いていった。

采女の手が緩やかに成るのがわかると政勝の中に奇妙ないとしさが生じだした。

恐れを抱きながら政勝を受け入れようとする采女の心を本意と見直した。

『だいてやろう・・・』

今、政勝の欲望にはっきりと情がからんだ。

決めると采女の秘部に手をのばした。

生娘。男を知らぬと思っていた女のその場所は既に濡れそぼっていた。

「ならば・・・・」

政勝の躊躇いは綺麗にすっかりとうせはてた。

が、生娘でないとなると・・・。

采女は既に何度か迷い込んだ男と情を交わしたという事になる。

ちりりと胸に妬きつくような嫉妬を覚えると欲望と絡んだ情が今度こそはっきりと采女を我が物にしたいと政勝を促し始めた。


采女は甘美であった。

政勝の精が吐き出されるまで采女は見事に政勝に喘いだ。

叩き込まれた精を受け漏らすまいとするかのように采女は放出の後も政勝に縋り付いていたが、

やがて・・・。

「うれしゅうございます」

政勝の胸の中に埋もれたまま涙を見せ始めていた。

一夜限りの男にかほどに情を移せるものかと政勝は不思議な気持ちがあった。

あったが、政勝を振り返ってみれば己の中にも采女をいとしく思う気持ちがある。

情交が生み出した一時の感情なのか、情が生じた故で情交を重ねられたのか今となっては定かではない。

「采女・・・宿ればよいの・・・」

長年連れ添った夫婦のような言葉が口をついた。

采女へ返る言葉が采女の心をうがっていった。

「ずうううと・・・おそばにいられたら・・・」

政勝はついとうつむいた。

「判っております・・政勝さまには・・・」

奥様がいらせられる。つづく言葉を政勝はその口で塞いで采女を黙させた。

何もかも覚悟の上。

一夜限りの情。

明日になればこの地をでて、采女と言う女の子となぞもう思い出すことさえない。

それでいい。

それでこそ、采女も宿った子を心置きなく我が物だけの子として考えられる。

采女の一夜限りの情念が結実されたらそれだけでいい。

黙りこくる采女の心の内が手に取るように判る。

政勝も明かして見せた己の情念を悔やみはしない。

既に采女を抱きおおした己が今更なにを悔やむと言う?

「采女・・・良い子をうめ・・・」

明日の別れを思うと某も本意だとどの口でいえよう。

いえはしない。

ただ、子種をさずくる。それが政勝の誠であり、きっと宿らせて子を孕む、これが采女が明かせる誠の形でしかなかった。

二人のまぐわいが甲斐なきものにならぬよう。

祈ることだけが政勝の見せられる誠だった。

政勝は采女の柔らかい肌を感じ取るためにも抱き寄せた手に力をこめひきよせ采女の身体をさらに密着させた。

若い女の肌はまだほむらを上げるかのように熱く、政勝の身体を包みこむ。

ほてりかえる采女の身体は夜半の肌寒さをぬぐいさってゆく。

政勝には心地よい温もりになり政勝を再びまどろみの中にしずみこませていった。


宵闇の中の静かな寝息が途切れた。

政勝の腕をすり抜けた采女が脱ぎ散らされた着物を羽織るのが暗闇に細る手燭の灯りに影を作っていた。

『いくか・・・』

去るしかない。いくら仕えるもの共々が周知の事といえど男の部屋に朝までいるわけには行くまい。

これ以上引き止める事は却って仇になると政勝は眠ったふりのままの心中で采女を名残おしんでいた。

采女は静かに着物を羽織りなおし足音を忍ばせて廊下にあゆみでた。

開かれたふすまを閉じながら采女が額づく様子であった。

閉じきれない襖から采女が政勝をくいいるようにみつめ政勝の姿を瞳に焼付けるかの様であった。

「政勝様・・・」

いとしゅうございますと采女の心が政勝の胸の奥を開きさけぶようであった。

『すまぬ・・・』

政勝は側におってやることもかなわぬ女への己の薄情さが身にしみて痛まれ、采女の辞去にきずかぬふりでやり過ごす事をえらんだ。

采女の声を最後に閉められた襖の廊下むこうに衣擦れの音が遠く潜まると静寂がはびこり初め、再び政勝の脳髄を闇の沈黙の中におとしこんでいった。


「良い。後首尾でございましたな・・」

遅くに自室に戻ってきた采女を待っていた女が采女の顔色を見た。

采女の心痛は眦の先にまで現れている。

「今度こそ、宿り成されたせいでございますよ」

女は采女の悲しみを宿りのせいだという。

「などか・・・?」

「そうでございましょう?田所さまの時も十内様の時も哀しむどころか・・・」

女の言葉が過去の采女の行状をたどると、采女はわっと声を漏らし手で顔を覆った。

「我らが一族の業のまま、田所さまも十内さまも御祭りもうしあげたときとて、姫い様は苦しむ事は無かった」

二人の男は子を宿す事の無い交接を与え、采女の身体だけをむさぼったということになる。

愚かな欲に穢されただけの采女は、哀しむ思いを沸かす事さえ出来なかった。

ところが、このたびの采女はいかにもかなしい。

「宿ったせいでございます。その証でございますよ」

子を与えてくれた男を祭る事ほど苦しい事はない。

女のいうとおりである。

「私はそれでも・・・いかねばならぬのか?」

采女の言葉に女は頷くしかない。

「いかに、己の業にさからおうとしてもむだでございましょう」

女は俯く采女の前に二振りの鎌を差し延べた。

「手に取らずにおけなくなります」

「い・・いやじゃ・・・。もう、こんなことはしとうない」

宿業の成せる技を哀しと感じなかった過去の交わいは、失敗といえる。

子が宿ったと思える今はかなしとおもえど、宿業のままに動かされるしかない。

「我は業の者。業の成すまま、傀儡になりさがるしかないのか?」

「命の火が灯ったのです。今度こそどんなにあがいても・・・」

頭を伏せた采女の前に鎌がある。

「己の命をすてますか?」

それが良いかもしれない。采女が心のそこで決意しかけていた。

「腹の子もろとも・・・?死ねますか?」

「あ」

ぐっと詰まった思いが、采女の業を開かせて行く。

子が欲しい一心。

「宿ったせいじゃな・・・?」

女に念を押した采女の瞳の奥に子を得た蟷螂の本能が燃え始めていた。


―哀れであるー

子を孕みたいそれだけのために見も知らぬ男に身を委ねる事を選ぶ。

せめても、微かな憐憫を愛というてやりたい。

その憐憫にかける采女がすがる思いを誠といわずにおけない。

必死で恋情に高め一夜の一瞬に己の思いを昇華させる。

―すまぬ・・・―

女の業に押され、男の欲望に押され、胤を落とすだけの政勝にそれでも采女は誠をみせようとする。

ゆめうつつに考えているとは知らず政勝は寝返りを打った。

途端ぞっとする様な怖気を感じ政勝は布団の中で身をちじ込ませた。

眼を見開いてみても辺りはほの暗い。

行灯の灯心がじじっつと音を立てながら、くすぶっている。

油がなくなったせいであるが・・・

これが、ふにおちない。

あれほど行き届いて世話をした女が灯心を短めておいたとはいえ、わざに明かりをともした女が少ない油にしておくだろうか?

政勝は音を立てぬように刀を再び寄せ付けた。

ぞっとした思いがまだあとをひいている。

この怖気が気味悪い。

武士(もののふ)の感というものかもしれない。

身動ぎ一つせず政勝は辺りの気配を窺っていた。

と、

静かに襖があけられた。

手燭も持たないまま、采女の影に違いない。

政勝の眠るあたりを窺うと崩れ落ちそうになる身体を襖に手を添えて支えた。

「政勝様・・・いとしゅうございます・・・」

声が押し詰まり涙がからんでいる。

一度は自室に戻った采女であったが政勝恋しさに戻って来たのであろう。

女の情は憎悪もつなぐ。

正にこの事であるのかと政勝は得心がいかぬでもない。

安珍。清姫の清姫も案珍の薄情さに蛇に身を変えた。

頭で判っていても一度情を交わせば女の業は深い。

政勝への恋情が采女を舞い戻らせ、奥に燃え立った業火は政勝に怖気さえ覚えさせたのである。

―くるがよいー

共に暮らせぬものならばここにいるこの間だけはお前の物になろうぞ。

政勝がそっと手招きをしてみせた。

政勝の影を見詰ていた采女はずいいと政勝のそばににじりよってきた。

「いとしゅうございます・・」

「いとしゅうございます・・・」

熱に浮かされる幼子のように繰り返しながら、抑えきれぬ恋情を訴える。

女子と言う物が身体一つ結ぶだけでかほどに変わるものかと政勝は夜具の縁を持ちあげて、采女に入るようにとうながした。

「采女は誠に政勝様を思うております・・なれど・・・」

頭を下げ額づいてみせる采女の言葉が呪詛のようにこもってゆく。

「この身静まらぬ。どうぞ、采女の思いのままに・・・」

気が触れたかと思うほどの物狂おしさで政勝につめよってくる。

産褥に立ち会うほどの気丈な娘が哀れに取り乱し政勝をしたう。

抱いて抱きおおして、去るしかない。

政勝が采女を夜具の中に引き入れようと手を伸ばしたそのせつな、

政勝の手は紛れもない殺気に采女から手を引き刀をさぐりあてていた。

「いとしゅうご・・ざ・・・」

口中政勝への誓いを立てながら采女の姿は揺らいだ。

「名残りおしや・・・いっそ・・我物に・・」

揺らいだ背の後ろに手を伸ばすと采女の手の先は細る障子からの月光にさえ不気味に光る。

「か?」

それが政勝に鎌だと判るまでに踊りこんでは政勝を切り裂こうとする采女の追撃をなんどかわしただろう。

「な・・・なん?」

なぜ?清姫と同じ業火をせおったのか?

「采女?・・正気をもて・・」

政勝の言葉さえ虚しく采女は鎌を振りかざす。

「采女・・・」

「愛しゅう御座います・・・本意に・・采女は・・・」

叫ぶ姿と裏腹になおも采女は政勝をきりはらおうとする。

「などか・・・?」

「采女は・・業の者です。愛すればこそ::政勝様をこの手に掛けなければ」

「ば・・ばかな・・・」

「いいえ・・・」

短く切った語尾が切りあがり采女が政勝の止める手に刃をかすめた。

何が何だか判らぬ有様だが、采女は死ぬ覚悟で政勝に挑んできている。

でなければどこの女子がやっとうにぬきんでた武士相手に鎌なぞで立ち向かってこよう。

「心をしずめられよ・・・」

いうても無駄だと感じ始めながら政勝はまだ刀のこいくちが切れない。

一度はこの身で抱いた女子である。

「でなくるば、采女。御前を・・きりとうない・・・」

この情に絡んだ男の決断が鈍る事こそが敢えて采女を挑ませるのであろうか?

男の心の隙を狙うあざとい女子だというか?

「愛しゅうございます・・嘘ではありませぬ・・・」

「ならば・・・」

鎌を振る手をとめよ。

「采女の業こそ・・・にくい・・・」

女は己が禍を政勝に与えるがそれは得体の知れない業のせいだと苦しく叫んだ。

「なにゆえ?」

「もう、留められませぬ。貴方が采女を愛おしんで下さったその時から・・・采女の業も・・・」

政勝により采女の女が身悶えした様に同時に采女の中の業も悶え始めたとでもいうか?

「それは?その業というはなんだという・・・」

「嗚呼・・口惜しい。わが身人の身であらば・・・」

采女の呟く。

「なん・・?」

人であらば?というたな。人でないというか?

政勝の問いが口を付こうとする前に采女は眼を細め口中で呪文をあやつりだしていた。

政勝の脳裏に幻惑がおそいだしてくる。

「いかぬ」

采女のいうとおりだ。

こやつはひとではない。

山姥のたぐいか?

鬼なのか?

何か判らぬが人をくらおうとしている。

幻惑は采女のかいなに抱かれ頭からむさぼられる政勝がそれでもそれを女子の愛と認め陶酔の内に命をはてていく姿をみせている。

そうなれというか?

それが畢竟采女お前のまことというか?

「いいえ・・」

けして、そうではないと言いながら采女は幻惑を結ぶ呪詛を強めてゆく。

これで・・・さいごか?

こんなところでくちはててなるものか。

政勝が刀のこいくちを切ろうとしたときはすでにおそかった。

うてもゆんてもしびれたようにうごかない。

「政勝さま・・・」

采女がゆくりと鎌をふりあげた。

「南無八幡大菩薩・・・。我に守護を・・・」

政勝の祈りはききとどけられない。びくとも動かぬ腕である。

ところが・・・・。

喉の奥に引きむしられるような痛みが走ると政勝の口をついた言葉は政勝も知らぬ。

「虚空破邪。臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

とたんに采女の動きが止まり

動かなかった政勝の腕がするりと動き出した。

「虚空破邪。臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

呪文らしきものが口をつくに任せ刀を構えなおすと政勝は刀をはらった。

「南無三・・・」

呪文の替わりに飛び出してくるのは采女への決別であった。

知念一刀流のつかいてである。

いくら禍々しい者といえどその閃きを喰らったら一たまりもあるまい。

確かに政勝の手には肉を切り払った錘が残っている。

だが、采女の姿はない。

うーーーーんと政勝の頭の中が唸り酷いめまいがおきた。

これが武術で鍛錬されていない者であればもののけの毒気にあてられたのである、

おこりと称する痙攣を起こしその場にくずれおちたことであろう。

「しそんじたか?」

めまいの中、政勝は刀をかまえなおした。

「南無八幡大菩薩・・・」

守護を背に受けるかのようにもう一度唱え直す。

めまいが潮を引くように政勝の脳裏を去り始めると、呪縛がきれたとわかった。

『確かにてごたえはあった』

政勝のたたずむ辺りがしらみはじめていた。

訝しげに辺りを見回すと

そこは・・・竹。竹。竹。

一面の竹林の中に政勝一人がつったっていた。

確かに呪縛は途切れたのだ。

采女が作り見せたのは人の姿だけではない。

この・・・屋敷。いや・・・あの屋敷。どの?

もう既にそこにはないのであるが、とにかく屋敷とて采女の作った幻影だった。

幻影が破れ実体を明らかにするという事は確かに政勝が采女を切り払ったというあかしである。

「いったい・・・なんであったのか」

政勝はやっと刀を鞘に納めた。


采女をなぎ払ったと思う辺りに目をいこらしてみた政勝はうっとうなった。

政勝が歩み寄って見詰たは

腹を割かれた無残な蟷螂の屍骸であった。

『采女・・・・?』

蟷螂の化身であった。

哀れに生殖を終えると雄を喰らう蟷螂の雌の本能そのまま。

逆らう事もできず采女もまた政勝を喰らおうとしたのだろう。

「采女・・・・」

人の姿に化身した采女が最後に涙を見せた姿が浮かぶ。

政勝は辺りの枯れ笹を寄せ集め、無残な蟷螂の屍骸にかけてやった。

一度は情を交わした女の成れの果てだった。

『采女・・・・哀れな・・・・』

いとしゅう御座いますと誓いだてたその心も、子を孕みたいと言う本能の赴くままに動かされ、

そして、政勝を喰らわなければならなかったか?

流した涙は政勝のためか?

己の身の上をはかなんでのことか?

いずれにせよ。この手で愛でた女だった事に変わりはない。

「采女・・・」

最後にもう一度名前をよんでやると、政勝はてをあわせた。

「南無阿身陀仏」

竹の笹ずれが政勝と共に合掌するようであった。

        

                                     ―終―

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