黒兎
第3話 椎鳴津雲と言う男
11月。冬。秋葉原の電気街。10時。
その男の名前は
どこにでもいるただの社会人オタクだ。
黒い靴、黒い長ズボン、黒い革ジャンに黒い手袋。服装は黒一色。
それだけでもかなり目立っていたが、一番目を引くのは彼の首よりも上の方だろう。その顔は黒いゴーグル付きの
バニナウイルスの蔓延により、うさ耳を生やした人間は珍しい物ではなくなった。
数年前であれば迫害にも似た扱いを受けていた兎耳人間だが、今では日常の一部となっている。世界に受け入れられたおかげで、津雲も外を歩けるようになったのだ。
「今日と言う日をどれほど楽しみにしていたことだろうか」
彼は嬉しそうにしていた。
なぜなら津雲は倍率11000と言われたアイドルとの1対1のトークイベントのチケットを奇跡的に入手することができたからだ。
彼はスマホ画面に手に入れたチケットのQRコードを出し、画面に向かってキスをした。スマホの画面はものすごく汚いと言うのに、彼はそんなことなど気にすることなくキスをする。それほどチケットを入手できたことが嬉しかったのだろう……。
でも、スマホ画面にキスは……さずがに汚いが……まぁ、いいか。
「ホント、幸運だったよな。そんな俺は幸運兎」
しばらく喜ぶと、今度はスンッと穏やかな顔でスマホを眺める。
このイベントはこの5年で二度ほど行われていたが、前回、前々回と彼の推しは出てなかった。それが今回、推しがイベントに出演と言うことで彼は喜んだ。
数か月前、情報が出た時点で激戦は覚悟していた。
予約開始前、彼は『チケットが買えなくても仕方がない』と半ば諦めていた。
しかしそんなネガティブ思考もなんのその。彼は予約開始時刻になると同時に予約ボタンを押し――席の一つを勝ち取った。愛が故の奇跡ということだろうか?
「素晴らしき……ハロイチ推しトーク……」
ハロイチ推しトークとは、ラバー株式会社が運営するハロライブプロダクションの傘下の女性VTuberグループ「ハロライブ」においてVTuberとファンが対面して話せるイベントのことである。津雲はそこに在籍する兎羽ぺこなのファンなのである。
ちなみに彼は前回、前々回と、イチ推しの推しアイドルは出ていなかったが、フタ推しかサン推しは出演していたので、その子たちのチケットに挑んだ過去を持つ。
想像通り、結果は惨敗。
予約のボタンを押した瞬間、アクセス集中によりブラウザーがクラッシュ。次に繋がった頃には『売り切れ』の文字。ハロライブはこの数年で一気に人気が爆発し、イベントのチケットが買えないのは当たり前だ。
当たり前にも関わらず、彼は最推しのチケットを手に入れた。
今回ばかりは奇跡的幸運と言わざるを得ない。
「フフフフフ、フフフフフ、フハハハハハハハ!」
高笑いを浮かべながら、秋葉原の街を歩く。
向かう先はイベント開催地であるベルサイユ秋葉原だ。
「だが、推しにあったらなんといえばいいのか……? 話せる時間は一分だもんな」
そう、推し話せる時間は1分なのである。
天気の話をしたらすぐに経ってしまう時間。
だからこそ、できるだけ有意義な時間にしなくてはいけない。
行く前に、ある程度作戦を練ってからいかねば、と彼は思う。
「個室に入ったらまずは挨拶だよな。どうも? こんにちは? おはよう? いや、こんぴょこー? とか? ……いや、俺は兎羽ぺこな本人じゃないからその挨拶は変か……。普通にこんにちは? がいいのでは? ……あ、でも、こんにちはを言うだけで時間を2秒ほどロスしてしまうのでは? じゃあ、早口でコンニチハ!と言えばいいのか? それなら挨拶に0.5使い、フリートークに残りの時間が使える」
思考をフル回転させながら歩いていると、彼の兎耳がピンッと立つ。
「この気配は」
彼は足を止めて周囲を見回した。
街行く人々。走る車。空飛ぶ飛行機。過ぎていく自転車。
大半の人がマスクをして、ウイルスの感染予防をしている。
「……」
普通の日常であり、異常な所は何も見られなかった。
それでも彼は何かを感じた。感じたからには何かある。
男の勘が彼にそう思わせる。
「仕方ない。試しにやるか」
津雲はスマホを取り出し、突然Twitterを開く。
大好きな18禁イラストレーターさんのページを開き、
「ウヒヒ。まるちゃんの新衣装、脇がエロ過ぎる」
徐々に興奮する。
心がぴょんぴょんし、下半身がワクワクしてきた。
白昼堂々なんちゅう物を見てんだ!? ――と思うかもしれないが、これも彼に取っては必要なことなのだ。彼がエロイラストに抱いた感情は『舐めたい』だった。
能力発動の条件がそろい、彼は小さくある言葉を口にした。
「欲情ベクトル:概念反転」
欲情とは生物が持つ感情の一つ。一種の興奮状態と言える。
彼は今、イラストの子に対して舐めたいと言う感情を抱いた。
それを反転させると言うことは、本来相手に向けている欲情が、今度は自分に向けられると言うことになる。そして今回のポイントは、欲情した相手が兎耳のキャラクターである兎丸まるちゃんだと言うことだ。黒兎も兎耳人間なので、彼に興奮する者がいるとすれば、それはただの人ではなく、同じ兎耳を持つ人間だと言うことだ。
ちなみに暴兎も暴走した兎耳人間なので欲情の対象となる。
「この気配が暴兎なら、間違いなく俺を舐めに来るだろう。ただのラビッツだった場合は、まぁ、事情を説明して普通に謝って許してもらおう」
彼は動かない。
まるで釣りのように、ひたすらに静かに獲物を待った。
「――ん?」
数秒後、前方右側にあったビルのガラスが豪快に割れ、中から巨大な紫色の兎が飛び出してきた。一目で分かる。あの巨大な兎は、暴兎化した人間だろう。
「ビンゴだな」
「きぇぇえええええええええええええええええええ!?」
「え、声、おっさんじゃん……」
暴兎の悲鳴は、大抵の場合が元の人間の声と同じなのである。
「おっさんに興味ねーよ……って、あれ?」
よく見ると、巨大な兎と共に小柄な女性もビルから外へと放り出される。
彼女は傷ついており、動けないのか分からないが、受け身をとる気配がない。
「ヤベーな。あんな高いところから落ちたら死ぬぞ」
巨大兎は地面にたたきつけられたところでたぶん死なないだろう。
だが女性の方は違う。暴兎との戦闘で衰弱し、意識があるのかないのか分からない状態だ。だからこそ彼女を救える紳士的な誰かが救わなければいけない。
「俺しかいねーよな」
そう思い、津雲は脱兎の如き素早さで落ちてくる女性の元へと走り出した。
彼には矢瑠奈ララバイのような【加速】の能力はない。
それでも走る。走る。走る。女の子のために津雲は走った。
「とどけぇえええええええ!!」
↓
↓
↓
全身全霊。
津雲は叫びながら両手を伸ばし――飛び込んだ……。
その姿はまさにホームにスライディングする野球選手だった。
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