第二話「濡れた手で抱きしめてもいいかな」
二丁目の通りの本屋は、学生時代によく利用した場所だ。丁度、晴市と待ち合わせたこの最寄り駅近カフェからすぐで、最近では店主が世代交代して立て直されたこともあるそうだが、まだ続けられているという。一応、彼なりに色々と考えて分かりやすい所を選んでくれたのであろうが。
(それならお前も付いて来いよ!)
心底思い、今度、甥が見ていないとこでゲンコツしてやる。そんなことを腹に決め、冬の足音のする枯れ葉が散らばる小道を、早足で歩いていると。
どん。
──誰かと、ぶつかる。ただし、小柄な相手だった。
「何処に目つけて歩いてんだ」
などと、学生時代の逸陶。もとい、家永なら言っていたのかもしれないが、口の悪さをパッと見は、菩薩にも窺える今の店長から鬼のような指導で正されたので。
「すいません」
比較的、無難な。当たり障りのない謝罪をして振り返ると、そこには重い色、長い黒髪があった。
「ご。ごめんなさい」
写真の中の、少女だった。
……彼女は目も合わせず、何故か頭に手を置いており逃げ去ろうとしたが、その時、彼女の髪にガムが付いていることに気が付く。おい待て。声をかけるとビク付いて止まり、少し迷った様子の後、振り返る。
顔を真っ赤にし、泣いていて怯えていることは明白で、髪もぼさぼさで酷い状態ではあったが、眼鏡の奥のやさしい黒い瞳は、確かに自分を映していた。
「あの。もしかして」
「はい……?」
懐からメモを取り出し、一度心の中で音読した後。確認、名を呼んだ。「
「あんた、そんな名前だったりしないか?」
「……、……」
「此処で誰かと約束してたりー……とか」
「……家永、さん……ですか」
そう、家永さん。頷き、その後はお互いに黙る。
駅前の喧噪が耳に飛び込んでくるかとも思ったが、彼女の髪に付いたガムが気にかかって仕方がない。
「それ、どうした」
ガムを指を差し小首を傾げて問いかけると、あかりは視線を外して涙をぶわっと溢れさせた。
「何でもありません……」
──そう、と家永は頷いたが、そのまま歩くのかと問えば、家に帰って取りますと彼女は言う。
しかし、黒髪にべったりとついた不快な黄緑の軟体は、糖分とねばついた樹脂成分でねっとり絡んでしまい、簡単に取れることはないと思う。
「ちょっと、ついてこい」
「え?」
「いいから」
「で、でも」
言うこと聞けボコすぞ。口癖を紡いで歩き出していたが、途端にあかりの足音が消える。
あ、と振り返れば、やはりボコすという言葉に驚いて怖がっているようで、彼女は怯えて涙をぼろぼろ零していた。
「あ。ちがう、そうじゃない。
えっと、冗談、今の。だから、その。癖なんだよ。
ああもう、ここに居たらお前……俺が泣かしたみたいだろおぉ、……や、俺が泣かしたんだけど……と。とりあえず」
ガムを取ってやるから、百均行くぞ。焦り気味にチョイチョイ手招けば、あかりは少しずつ泣き止みつつ、何故百均に行くのかといったようすの疑問を抱いた表情を浮かべてきた。
そりゃあ、と答えようとしたが。
「何でもない。いいから来い、別に、子供にあぶねーことなんて、しねぇから」
それだけ言って、ゆったりとしたペースで後ろの彼女を誘うように、歩き出す。
呆気に取られていた彼女だが、ガムを手で隠しながら一生懸命に家永の後を追いかけた。
*
駅前の百均で購入したのは、何の変哲もない赤い持ち手のハサミひとつ。それを見て
「まさか」
といったようすの怯えた表情しか、あかりはしていなかったが、傍にあった公園へ立ち寄ると、家永は彼女をベンチに座らせる。姿勢を少し良くしろ、と言った後に少し見渡して、丁度落ちていた新聞紙で、簡易クロスを作る。
「じっとしてろな。すぐ済む」
「は、はい」
手早くガムと少しの髪を手にし、こりゃ酷い付けられ方だなと顔をしかめた後。ふう、と深呼吸をし、シャキンと音を立てて、切り落とした。
あかりは思わず肩を跳ねつかせそうになったが、そのまま毛先を摘まんで少し思考しているようすの家永には、何故だかもう逆らえない。
どうしよう、と混乱してうずくまりそうだったが、杞憂で。家永は切った髪の毛先を先ず整え、バランスよく流れるように、ととのえてゆく。
シャキシャキ、シャキン。その髪を切られる間に怖くて仕方がなかったが、あかりはついに、誰も居ない公園で、慣れた様子のことをしている様子へ訊ねた。「あの」
「何だ」
「……美容師さん、ですか?」
「ああ」
ちゃんとした自前のハサミなら、このうざったく長いうえ、重い髪を切り落としてカットしておきたいところだが、相手に了承も取っていない状態なうえ、ハサミも百均のハサミだ。
一流の職人は道具を選ばないと言うが、家永はまだまだ修行中の身。
「ほら。出来た」
新聞紙を外すと、あかりは恐る恐る髪を触っているが。
「……あの」
「何だ」
「か。鏡、ありますか」
腰にかけていたミラーを外し、手渡す。礼を言っておずおず受け取り、目の前の彼女はおそるおそる鏡の中の自分を見て惚け、ぽつりとつぶやいた。
「ふつう、だ……」
本当に取れたのか、あまりに違和感がないのか。手さぐりでガムを探しているが、だから取ったって、と言うと、鏡を受け取りつつベンチの隣に少しだけ距離を置いて腰かける。
脚を組み、鼻で息をついて、ぼんやりしていたが。家永はバッサリと容赦なく問いかける。
「誰かにやられたのか」
「……」
「古典的なことするガキも、今の時代また増えたもんだな」
無言の返答に、呆れて反吐が出るから、かかと落とし決めた後そのまま踏み詰って、墓穴自分で掘らせて埋めてやりてーわ。
ヤレヤレと肩を落とす家永の一言に、あかりは小さく笑った。しかし、すぐに目を悲しげに伏せて言う。「仕方ないんです」
「私、暗いし、地味だから。」
嫌われ者で。──小さく付け足した彼女は苦笑していたが、もう慣れっこなのだろうか。
家永にとっては、ここまで自分をそう称し、自負することに抵抗のなさそうな人間。初めて出会ったことで、衝撃だった。
「家永さん、ご存知ですよね」
「何を」
「その、もう……ちゃんとした両親……居ないって。それ、学校でばれちゃって」
「それで省かれてんのか」
「……はい」
もともと自分は暗い性格で、学校でも孤立していたからと、あかりは言う。友達なんて幼いころから出来たこともないし、唯一話せる存在が、死んだ母。つまり、家永の小母であったが。
「もう、居ませんから」
「……ああ」
「母はお洒落が大好きだったから、色々と服を選んでくれたり髪型を整えてくれたりもしていたんですが。床に伏してからは、めっきりで」
「そうか」
「お見舞いに行っても、あなた年頃なんだから、ちゃんとお洒落しなさいって、いつも言ってて。でも私、センスも何もないから、一人で、何も出来なくて。……」
「髪だって、もう一年は切ってなかった」今切ってもらったのが、とても久しぶりで、少し緊張しました。そう言って苦笑するが、その目元には隈が出来ていて、泣き疲れた様子を表すかのように目は腫れている。
──自分に、己が可哀想だと思われたくはないのだろう、この少女は。家永は感じた。母である小母のことを話す時は心なしか表情は豊かだし、それで不幸せだったなどとは考えたくないのだろうとも思う。
ありがとうございました、と頭を下げてくるが。それを見て思わず怪訝な表情を浮かべてしまう。
少し考えた後、お前さ、と家永は彼女に声をかけた。「家事。できるか」
「え?」
「炊事洗濯掃除、フツーのことだよ。できるかって聞いてる」
「えと……人並みには。母が、仕事で家に居ないことが、多かったので」
それが何か、と恐る恐るといったようすで問いかけてくる。が、その様子を見て。
(こりゃ キマリか。突き放したら小母さんに、枕元立たれるわ。)
逸陶くん、小母さんはあなたをずいぶん可愛がったのに、私の娘を突き放したわね、とかさ。──まあ悲しそうな顔で、あの小母は言うのだろうと思う。
そう、自分は、あかりの母に、ずいぶん世話になったものだ。そんなことを考えて鼻で息をつき、家永はベンチを立つ。なんとでもないようすで、続ける。
「俺、仕事で忙しくて。あんまり、そーいうの出来ないんだよ。だからさ、住ませてやる代わり、馬車馬のように働け。いいな」
「え……」
「で。約束しろ。此処で、今。俺とだ」
「……?」
不思議そうに、何処か不安げに、あかりは家永を見つめる。家永は真剣な面持ちで咳払いをした後、言う。
「死んだ母さんに。小母さんから、心配されないくらい──学校のクソヤロー共に馬鹿にされねーくらい、自分を磨け。
地味だから暗いから、可愛くないからって、そもそもの自分磨きをしないで、独りよがりになる人間が、俺は。いっっっちばん嫌いだ!
誰だって綺麗になろうと努力すりゃあ、絶対綺麗になれんだよ。その努力は無駄にならねえし、必ず人生の何処かで活きてくるってもんだ。
ブスが可愛くなろうといつも笑顔で居るのと、美人が自分が綺麗だからって調子ぶっこいて、いつも仏頂面で居んだったら、俺は間違いなく前者の女を選ぶね。
ブスだろーが何だろうが、綺麗になろうと自分を磨いて、笑顔で居る女の方が、間違いなくイイ女だ。
あと返事。返事と笑顔で女のよさは決まると俺は思ってる。
パーツなんて、二の次なんだよ。胸がでかけりゃ一丁前? 目がでかければ、パッチリ二重なら上等?
アホか、世界的にアジア女性は小柄で一重気味の方が、欧米受けは特にいーんだよ。
日本でたとえそれでも海外行きゃ大和女性もモッテモテだわ、世界なめんな。
いいか、わかるな。お前は、学校行きつつ、俺の世話しながら、自分で自分を磨いて生きてく。
暗いから、可愛くないからってこれ以上言い訳したら、ぶっとばす。
女だろうが子供だろうが、容赦しねえ。
卑屈になったらキレっから。わかったな」
マシンガントークで言い切られ、あかりは呆気に取られ、口を少し開け、ぽかんとし。目をぱちくりさせて──少し紅潮気味に、惚けていたが。
「……えっと、」「返事!」「は、はい!」
どうやら問いかけることも、今は許してくれないらしい。
返事をきちんとすると、それでいい。と、コクリと頷いた彼は、行くぞと言ってずんずん歩き出してしまうので、慌ててあかりもベンチから立ち追いかける。
「あの、家永さん! 私、染美川、あかりといいます」
「知ってる」
「はい。その、家永さんの、下のお名前は」
「……イットー。」名乗ると、それ以上家へ帰るまで何も会話はなかった。怒らせてしまったかな。
あかりは落ち込んでいたが、彼女が心配することなど何もなかった。
(そんな顔で強がる子供を、
放っておけるほど。
ニンゲン出来てねーんだよ!)
とりあえず今日から十以上年下の、しかも思春期ど真ん中の女子高生を何処で寝かせるかが問題だな、と。衝動で言ったことについて、さっそく、小さく頭を抱えていたからだ。
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