第三話「水面には君という波紋」
駅から徒歩十分ほどの、賃貸マンションが家永の住まいだ。さほど古くもない。さほど新しくもない。が、セキリュティのしっかりした場所の中にある一室は、2LDKで一人暮らしの彼には少し広めであった。
ま・あがれ。ゆるく言われ、あかりは五階建ての三階、一番西側にある彼の部屋へ、おじゃまする。
既に先ほど、この場所へ来る間、同じマンションに住む友人に荷物を入れてもらったそうで、(合鍵も渡してあるとか。)段ボール箱が廊下を占領していた。
「ツイてるな、お前」
「え?」
玄関に上がり、洗面所へ行って手洗いうがいをしている彼を、半ば壁に隠れながら見ていると。さすがに家永も良い気はしないのか、そんなに俺が怖いのかと思わず零す。
慌ててあかりは首を横に振り、そっと壁から離れて彼に続いて手を洗い、そのまま言葉を聞き続ける。
「別れて、出てったばっかなんだよ」
「恋人さん、ですか?」
「そ。元、な。だから、2LDK」
二人暮らしにはちょうどいいだろと、少々自嘲気味に笑う家永は、上着を脱いでリビングへ入ってハンガーに。丁寧に、壁にかけた。ちょこちょこと足を動かし、あかりは少々不安げだが、きちんとついて行く。
──語彙が少々貧困な人間が表現すれば、お洒落な部屋。
少し詳しく付け足せば、成人男性として見ると、なかなか落ち着いた部屋。
観葉植物が置いてある角部屋で、窓が多く、開放感があり、採光性を感じさせる。2人掛けの白いソファー、三・四歳の子供が両手を広げたほどの三十七インチ薄型テレビ、ベージュにチェックのカーペット。時計は壁にかかった丸くモダンなスカーレットカラー、棚は黒くコーティングされた木製の物のようで、そこには専門学校時代のコンテストで手に入れた、優勝カップやトロフィーなどが並べてある。
解放的な白い部屋の奥には、小ぎれいなキッチンがあり、そこもよく掃除をされていた。
何よりよく目に入った物が、テレビとソファー前の黒いテーブルの上だ。
ヘアカタログや、ヘアデザインのラフ画、恐らく上手くいかなかったり、想像と違う仕上がりになったデッサンを丸めた紙、流行を掴むため女性のファッション雑誌も置いてある。
美容師と一度聴いているだけではあったが、あかりには家永が、とても勉強熱心な人物のように感じることが出来たのだ。
思わず、初めて入る男性の部屋に立ち尽くしてしまう。けれど、家永の気に障らない程度に、部屋を眺めていた。
「とりあえず、荷物片すぞ。ほら、上着脱げ。預かる」
暖房を入れつつ、家永は腕をまくって言う。はい、とあかりはグレーのジャケットを脱ぐと、家永はそれを手にして、自分と同じくハンガーへ、そして丁寧に部屋の壁へかける。
「見られたくないとかいう、荷物は?」
「あ、えと。とくに、ないです」
「じゃあさっさと出して、仕舞う。お前の部屋、とりあえずそこな」
「はい。ええと。家永さんは」
家永が指差した先の部屋は、きちんとした寝室で、ベッドが置いてある、が、それはダブルだった。
恐らく、前の恋人と利用していたのだろう。
思春期のあかりは少し不安になって、免疫がないゆえに目も合わせられず問いかけるが。彼は、俺はしばらく此処で寝る。と、リビングを指差す。
「え、でも」
「二人で寝るわけにもいかないだろ」
「そ……それはそうですが、それならわたしがここで寝ます」
「いいんだよ。引っ越したばっかで、睡眠もろくにとれないとキツいだろ」
いいからさっさと用意。着替えも荷物の中だろ。言いながら、家永は早速荷物の整理に向う。
あかりはぼうっとしていたが、少しだけ赤くなって視線をうろつかせたあとに、はい。と、きちんと返事をして彼のあとを追った。
*
──荷物の整理は、二十分ほどで終わる。
あかりの荷物がもともと少なかったこともあるが、家永の手の動かし方が迅速であったということも、事実だ。私服へ着替え、彼に紅茶を淹れてもらい、二人して一息をついて。
「ありがとうございました、お手伝いしてくださって」
ぺこりと頭をさげ、お礼を言うと、砂糖とミルクを淹れて紅茶を口にする家永は、別に大したことじゃない。と、すましたようすでいる。
「段ボール箱を山積みで置かれるのが、迷惑だっただけ」
「……でも、とても、とても。助かりました」
本当にありがとうございました。もう一度言うと、言われた彼は少し眉をひそめる。
いいよ別に、と言ってティーカップをテーブルにコト、と音を立てながら、丁寧に置く。それから、口を開いた。
「お前さ」
「はい」
「とりあえず、自分磨けって言ったよな、俺」
「? はい」
居候になるうえでの代わりで、実験台。
そう言うと席を立ち、棚に飾ってあった、ホワイトにゴールドの文字が刻まれたシャンプーとリンス、トリートメントを、家永はサッとあかりの前に差し出した。
え、と、思わず驚く。顔をあげた。
「これは?」
「うちのサロンで、贔屓にするか店長も検討してる、ある会社の新商品。とりあえず効き目を確認しておきたいから、お前使ってみろ」
「で、でも、これ。すごくお高そうな」
冷や汗交じりに三つの品を見つめているが、俺が金出したわけじゃねーし。と、家永は紅茶を口にしながら言う。「試供品だし」
「お前の手入れがされてない、ボサボサ頭にどれだけ効くか」
「ボサボサ……」
「見どころだろ。もう日も沈んだし、とりあえず風呂入って使ってみ。さっき沸かしたから」
「いいんですか? あ、でも。御夕飯は、わたしが」
「今日は、いい。疲れてるだろ。俺が作ってやる。明日から頼む」
「カルボナーラ平気か?」あれ俺、スゲー作るの上手いんだわ。
小さく笑い、家永は風呂場への脱衣所を指差して、行って来いと目で言う。試供品を見つめて少し悩んだようであったが、あかりはコクリと頷いた。
「えと、わかりました。ええっと、カルボナーラは、好きです。大好きです。こちらは、大切に、丁寧に、使わせていただきますね」
「ああ。手順はわかるか? シャンプー、トリートメント、リンスの順だぞ」
「え? リンスのあとにトリートメントじゃないんですか?」
「ちげーよお前」
たまに勘違いしてる人居るけど、シャンプーで頭皮を洗ったあと、トリートメントで傷んだ髪を補修して、リンスで髪を保護してダメージから守るんだよ。
──説明され、ずっと間違えていましたと、あかりは感心したようすでつぶやく。
「まあ、他にも勧めたい使い方はあるけど。とりあえず自分なりに、さっき言った最低限のことだけ守って使ってみな」
「はい。わかりました」
「お風呂、お先にいただきます」そう言って、ごちそうさまでしたとティーカップを手にして洗いに行こうとした。
が、そのままでいいからさっさと入れと息をつかれるので、慌てて部屋へ入り、下着と寝巻きを用意してお辞儀をすると、あかりは脱衣所へ走る。
一人で静かになった部屋の中、家永は少し黙っていたが、もう一度ちいさく息をついて。席を立ち、ティーカップを流しでよく洗い、丁寧に拭いて、戸棚に仕舞いだす。
その間、風呂場からシャワーの音が聞こえてきて──手を止めたが、妙に意識をしている自分が居て頬を叩く。
もう一度息をついたあとに手を拭き、スパゲティを茹でるべくお湯を沸かしていると、先ほど荷物整理中に耳に入れたあかりとの会話。
『こういう風に……誰かと何かをするって。とっても、久しぶりです』
少し赤くなって目を伏せつつ、あかりは手を動かしながらそう言っていた。そんなもんか、と問いかけると、彼女は浅くも頷く。
『母が居なくなって、まともに生活出来ていなかったので……家永さんのような人の傍に居られるだけで、少し楽しいです』
その言葉に、家永は、なんだかよくわからない感情を抱いた。とても不憫であるという想い、同時に、自分という存在が彼女の心の中で活きているという嬉しさ。
(陰で泣くことが、減ればいいんだけどな。)
恐らく毎晩、枕を濡らしていたのだろう。
身寄りもなく、学校でも居場所がない。
父親のことはよく知らないが、その男はあかりと妻を放り、どこかへ行ってしまった男だ。
あかり自身も、父の顔など憶えてもいないと先ほど言っていた。それなら、ある意味では天涯孤独という境遇にあたるとも言える。
(天涯孤独。どんな気分なんだろう)
少し手を止め、考えてみる。
自分は父と母がそろっているし、弟だって居るし、両家の祖父母だって学生時代には居た。学校でだって、友人が居なかったわけでもないし、今のあかりと同じ高校時代では、中学からたまたま続けていて、心血注げるバスケットボールに青春を捧げた。文武両道の学校で勉強とスポーツ、そして友情や時折恋愛などに浸ったのだ。
はたから見たりしなくたって、平凡な人生だ。
自分は、とても恵まれている。
けれど、あかりは。彼女は、友人と呼ぶ存在が出来たことがないと、言っていた。
暗い性格と雰囲気が災いし、染美川という美しい字列の名字でさえ〝ジミ川〟と嫌味なあだ名をつけられて、学校で呼ばれているとも、苦笑していた。
名前はおろか、両親との繋がりであった姓さえ、きちんと呼ばれない。ああ金払うから学校の奴ら全員ボコ殺してえ、──舌打ちをする。
どうあったって、血こそ繋がっていないが、可愛い親戚の従妹分ではあるのだ。
それに、話していて気が付いたが、あかりはとても心配りができる人間で、人の気に障らないように必死に周りをよく見ている。
なのにその人間性を、容姿が暗いからと色眼鏡をかけて決めつけ、腹の立つあだ名をつけて呼び、女の命とも言える髪へガムまで、付ける虐げを行う。虫唾の走る輩ばかりで、教師は何も言わないのかと問うが、どの先生も見て見ぬふりですよ、と。悲しそうに笑っていた。ぎこちなく、笑って、ばかりだ。
キッチンを殴って、痛みが返ってきて打ち震えて自己嫌悪に陥る。
床を蹴りたいところだが、ここはマンションなので、大きな音はさすがに立てられない。
実家暮らしが懐かしい、と感じた。
(何でもいいから、自然に笑ってくれさえすれば気が楽なのに。)
出会ったばかりの少女にそんなことを考え、妙なもんだなと思いつつも、心のどこかでは。その理由が、わかっていた。
お湯に塩を入れ、料理をする手を再び動かしはじめた。
キッチンを殴った拳が熱を持ち、じんじんと痛むので、
「痛え。」
──小さく漏らす。
不思議と息がしづらく静かでいて、あかりの浴びるシャワーの音だけがよく耳に届いていた。
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