最終話

 熱い。

 

 この部屋も、体も、頭の中も。そして──首元で感じる彼の吐息も。


「ごめ……ごめん……」


 しきりに謝る圭人に、どうして……とそう言葉にしたくても、唇の端から零れるのは自分では耳を塞ぎたくなるような掠れた声ばかり。

 こんなこと、初めてなのに──圭人が触れる場所はどこもかしこも気持ちが良かった。


 布の擦れた音に閉じていた瞳を薄く開くと、私に跨る圭人が焦るようにシャツのボタンを外していく。いつも表情を崩さない圭人が……いつも冷静な圭人が……呼吸を乱しながら自分のシャツを脱ぐ姿に体中の熱が溢れだしそうになった。

 

 まだ、何もしていないのに。


 目の前の光景に胸の奥の方がじりじりと焼かれていくような、喉の奥から何かが込み上げてくるような、経験したことのない苦しさが指の先まで広がった。


「……っ、ぁ……」


 目の前に広がる圭人の素肌にたまらずまつ毛を伏せると、床に落ちるシャツの音と胸のリボンが外れる音が同時に響く。躊躇うことのない圭人の指が、リボンからファスナーへ伸びて小さく体を震わせた。

 ほんの少しの恐怖と、不安。熱に飲み込まれるように侵食される意識の中で、微かに残るそれに縋りそうになるけれど、熱の宿る瞳に見つめられるだけで体は全ての自由を奪われるようだった。怖いのに、私はこの先を知りたい。

 

 このまま、圭人の好きにして欲しい。

 圭人が望むままに触れて欲しい。

 欲の中に一緒に沈み込みたい──。



「ぁ……っ、ん」

「は……咲希……」

「ぅ……熱……い」

「どこが熱い?」

「全部……」

「ここ?」


 圭人が舌で辿っていた跡が、順を追うように熱をもつ。


「ぁ、や……だ」

「いや……?」

「……っ、ん、ぁ」


 酷くしないようにと、確認するように圭人の手は少しずつ私に触れていく。でも──骨張った手が胸を包み込むと、圭人は奥歯を噛み締めるように顔を歪めて首元へ頭を埋めた。

 耳に触れる唇も、苦しそうに吐き出される息も、何粒も零れ落ちる汗も。何もかもが限界だと訴えかけてくるみたいだった。

 でもそれは圭人だけじゃない。小さな刺激が大きな快感に変わって、このままじゃ私の方がおかしくなりそうだ。


「圭人……」

「ん……」

「もっと、して……」

「は……、ばか、煽るな」

「お願い……」


 熱情のこもった瞳が切なそうに揺れる。イケナイことを言っているのかもしれない。それでも私は──。


「も……っと、深く……」

「おい、やめろ……それ以上言うな」

「圭人……」

「はっ……咲希、お願い、やめ……て」


 重ねた指に力が入ったかと思うと、圭人は勢いよく体を起こした。遠くなった熱が恋しくて反射的に伸ばした手をもう一度優しく握ってくれた後、圭人はベルトへとその手を移す。カチャカチャと聞きなれない金属音が鼓膜を揺らしている間、圭人でいっぱいになりかけている脳みそが、ほんの少しの力を振り絞るように思考を巡らせた。




 ──圭人は、遠かった。

 いつ会いに行ってもどこか一つ線を引かれているようで、隣にいてもずっと遠かった。後一歩の距離を縮める術を知らなくて、友達という関係を越える何かがいつも私には足りない。

「好き」と伝える勇気も、「ごめん」という言葉を受け入れる勇気もない。ずっと臆病だったはずなのに……。







「咲希……力抜いて」

「……っ、う……ん……ぁ」


 息を止めたくなるような圧迫感。固く目を閉じたままシーツを掴んで、体を駆け巡る痛みや恐怖を逃していく。思わず閉じそうになる足を圭人が押さえると、生理的な涙がシーツへ伝った。


「……は……ごめん」


 圭人の言葉に必死に首を振った。


「……っ、も、少し……だから」


 苦しそうなその声にゆっくりと瞳を開くと、目の前には血が滲むほど唇を強く噛み締める圭人がいる。


「け……圭人!何して……」

「……っ、大丈夫……」

「だめだよ!血が出てる!」

「酷いこと、したくない……これで、大丈夫」


 正気を取り戻すために自分の唇を傷つけたのだと分かって、その優しさに胸の奥が締め付けられた。

 『薬のせい』なのだとしたら、圭人はもうとっくに限界を超えているはずなのに。私でさえ、もう、この衝動を抑えられないのに。


「圭人……本当に……好き」

「はっ……待て、今言わないで……」

「本当にずっとずっと好きだったの」




 舌を絡め合いながら与えられる刺激を受け入れると、さっきまで感じていた痛みが少しずつ快感へと変わっていくのが分かる。汗と涙が混ざりあって生まれる甘い雫も……吐息ごと飲み込まれるような深いキスも……お互いの熱を伝え合うように重ねた体も。全てが深い快感へと変わっていく。


「咲希……っ」

「圭人……」



 薄れゆく意識の中、遠くでドアの鍵が開く音が聞こえた。

 

 すぐにでもこの場所から出たいはずなのに。圭人の腕の中で眠るように私は意識を手放した。



























「……咲希」

「おい、起きろ」


 誰かに呼ばれる声がして、重い瞼を上げる。


「……え」


 目の前にいるのは、不機嫌そうな顔の──圭人。


「起こしてくれって頼んだだろ。お前まで寝てどうするんだよ」

「え……ここどこ……?」

「何寝ぼけて……バスの中に決まってるだろ。って言っても二人で乗り過ごして終点まで来ちゃったけどな」

「バス……?」


 ぐるりと辺りを見渡すと、確かに乗りなれたバスの中だ。圭人の後ろで困り顔の運転手さんも見えた。


「すいません、ここ終点なんです」

「あ……っ、こちらこそすいません!すぐ降ります!け、圭人行こう」


 慌ててバスを降りると、圭人は次のバスの時刻を見るために時刻表の前に向かった。



 夢──だったの。



「あ、よかった。バスすぐ来る」


 振り返った圭人の顔が見れなくて思わず視線を下げる私の様子を気にもせず、圭人は溜息をつきながらベンチへと腰を下ろした。


 なんて夢を見ていたんだろう。


 そうだ、どう考えてもおかしな話だった。気が付いたら訳の分からない部屋にいて、あんなことをしなければ出られないなんて。しかも、あんな生々しいことを私は夢の中で……。


「雨止んだな」

「えっ、あ……そ、そうだね」

「でも明日も降るから、明日は傘持ってこいよ」

「う、うん」

「なんで下向いてるんだ?気分悪いのか?」

「違っ……」


 だめだ、あまりに生々しかったからちゃんと顔が見れない。今顔を上げたらきっと私……。


 バスのライトが近付いてきて、隣で圭人が立ち上がった。いつもと違う胸のどきどきに、申し訳ない気持ちとほんの少しだけ切ない気持ちとで泣きそうになった。


 あんな夢を見ていたのに。あれが夢で残念だったなんて、どうかしてる。


「おい、足元気を付けろよ」

「あ……ありが……」


 バスの段差を上がる時、振り返った圭人の顔に息が止まりそうになった。


「どうした?」

「圭人……唇、どうしたの」

「唇?あぁ……どこかで切ったんだろ」


 そのままバスへ乗り込んだ圭人の後ろ姿に、体の奥がじわりと熱を持った。

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