君が隣にいない春が来る

くろねこどらごん

第1話

 ―――また一緒に桜を見たいねと、彼女は言った。




 僕には三人の幼馴染がいる。


 一人は秋川由姫あきかわゆきという、隣の家に住む同い年の女の子だ。

 肩に届くブラウンの髪と、少し垂れた目尻が特徴で、穏やかな性格の子でもある。

 彼女の浮かべる優しい笑みを見ることが、僕は昔から好きだった。


 二人目の幼馴染の名前は、宮下慎吾みやしたしんご

 長身でスポーツ万能。頭も良くて性格もいいという、完璧超人を絵に描いたようなやつだ。

 運動も勉強も平均程度の僕にとって、慎吾は憧れの対象であると同時に、自慢の親友だった。


 最後の一人は、秋川沙姫あきかわさき

 幼馴染の中では一人だけひとつ年下の由姫の妹。

 彼女に関しては、女版慎吾と言えば手っ取り早いだろうか。

 どんなことでも卒なくこなし、少し天然気味な姉の面倒を見ることが多い、しっかりものの女の子という印象が僕の中にある。

 髪色は由姫とは違う黒髪。長さは背中まで伸ばしており、目つきも鋭く、外見は姉とは似てないところが多い。

 だけど姉妹仲は昔から良くて、ふたりはどこに行くにも常に一緒だった。


 そんな彼女達と僕、鈴城優介すずしろゆうすけと慎吾の四人で、小さい頃はいつも遊んでいたものだ。

 その関係は若干の変化こそあれど、高校生になった今でも続いている。


 …いや、若干というのは、訂正する必要があるだろう。

 僕にとって、由姫との関係の変化は、とても大きなものだったのだから。



 それは今年の春のことだ。

 高校二年生に上がった僕らは、別々のクラスになった。

 沙姫を除く僕ら三人は、なんの因果か小学生の時からずっと同じクラスだった。

 だから今年もそうだろうと思っていたのだけど、由姫と慎吾は同じクラスで、僕だけは違うクラスに離れることになってしまったのだ。


 二人はそのことを惜しんでくれたし、僕も彼らと離れたくなかったけど、別々になってしまったものは仕方ない。

 大人しく自分の教室に向かい、そのまま席につくと、新しいクラスでの時間が始まり、そして過ぎていった。


 幸いというべきか、話せる相手はそれなりに出来た。

 ふたりの教室とは離れていたため、中々行きづらいのもあったので、それ自体はとてもありがたいことだった。

 一応ぼっち生活は回避できたものの、ふたりと離れた後、僕の胸にはなんとなく刺のような、モヤモヤしたものが渦巻き始めた。

 それがなんなのか、上手く言葉に出来なかったが、やがて僕は知ることになる。


 ある日、幼馴染達の教室に用があった僕は、二人のもとを訪ねることにした。

 二人の交友関係に関しては心配していなかった。

 由姫も慎吾も顔がいいし、なにより僕よりずっと社交的で、人から好かれる性格の持ち主だ。

 天然でぽやぽやしたところのある由姫のことも、慎吾なら完璧にサポートしてくれているに違いない。

 僕は幼馴染である親友に全幅の信頼を寄せていたし、人柄を疑ってもいなかった。

 事実、ガラリと開けたドアの隙間から見えた人の輪の中心に慎吾はいた。


「しん―――」


 良かった、やっぱり慎吾は人気者だ。

 そう安堵し、声をかけようとしたとき、僕は気付いてしまった。

 慎吾の隣で、楽しそうに笑う由姫の姿があることに。


 それを見た途端、チリッと、胸のどこかが痛んだ。

 声をかけるのをやめ、そっと教室から離れた僕は逃げるように誰もいない廊下まで移動すると、壁にもたれかかり息を吐く。

 脳裏に浮かんだのはさっき見たばかりの、由姫の笑顔だった。


 ああ、そうかと僕は気付く。

 今まで抱えていたモヤモヤは、由姫の笑顔が近くになかったからなのだと。


 この時、僕はようやく幼馴染に恋心を抱いていたのだと自覚した。




 それからの行動は、自分でも驚く程早かった。

 とある休みの日。ふたりきりで出かけないかと由姫を誘うと、彼女はあっさりと了承してくれた。

 駅前を適当に散策し、デパートで買い物ののち映画館。

 恋人がするようなデートコースをぐるりと巡りながら、僕は心臓が暴れるのを必死に押さえつけていた。

 由姫に「まるでデートみたいだね」と微笑みを向けられながら言われた時など、本当に口から飛び出してしまうのではないかと思ったほどだ。

 はやる気持ちと跳ね続ける心臓の鼓動を抑えながら、最後に訪れた夜の公園で、僕は彼女に告白した。


 拙い言葉で自分の気持ちを伝え、付き合って欲しいと頭を下げた僕に、由姫が微笑んでくれた時の気持ちは、言葉で言い表せるものではなかっただろう。

 ただひとつ言えるとすれば、その時の僕はとても幸せだったということだ。

 気が早すぎるかもしれないけど、この子を一生大切にすると、密かにそう決意するくらいには、由姫のことが好きだった。


 それからの毎日は、とても輝いていたと思う。

 由姫を見るだけで心が躍り、由姫が隣にいるだけで、自然と心が満たされた。

 言葉を交わすと、由姫の声以外はなにも頭に入ってこない。


 由姫がいればそれでよかった。

 僕の世界の中心に由姫がいた。

 由姫と出会えたことで、一生分の運を使い切っていたとしても後悔はないと本気で思った。

 ただ好きな人がそこにいるというだけで、世界がとても綺麗に見えた。


 いや、正しくは、彼女以外を見ようともしなかったというべきなんだろう。

 僕の心のレンズのピントは常に由姫へと固定されていたのだから。

 だから分からなかったし、知ろうともしなかった。


 僕らが付き合うことを報告したときの親友の顔に、どこか陰りがあったこと。

 登校するときいつも隣に並んでいた彼女の妹が、一歩後ろを歩くようになったこと。

 そして、僕らの背中をどんな目で見つめていたのか。

 気付くこともなく知ろうともしないまま、時計の針だけは進んでいった。


 別に目をそらしていたわけじゃない。

 有り体な言い方をすれば、僕らは恋に盲目となった子供だったのだ。

 お互いが初めての恋愛に夢中になり、周りが見えていなかった。

 だけど、それを僕は良しとしていた。きっと由姫もそうだろう。


 だって、僕らは幸せだったのだから。


 この人がそばにいてくれるならそれでいいと、僕らは本気で思っていた。

 それは僕だけが抱いていた身勝手な想いでなく、由姫も同じだったはずだ。

 幸せな夢を見ているのに、目を覚ましたいと思う人がどこにいるというのだろう。

 幸せな時間がずっと続けばいいと、そう願うのは、当たり前のことじゃないか。


 だからもし、望んでいないのに幸せな夢から覚める時がきたとしたら。

 時計の針が戻って欲しいと思う時がきたのなら。

 ―――それはきっと、その人が幸せではなくなってしまった時なんだろう。


 12時を過ぎて、魔法が解けてしまったシンデレラのように。



 四月のある日。とある放課後。


 僕と由姫は、事故に遭った。

 由姫を庇うように前に出ようとしたが、間に合わず、一瞬だけ身体に走ったドンッという衝撃とともに、僕は意識を手放した。


 桜の花びらがひらひらと舞い落ち、地面に吸い込まれる直前に広がる水面に受け止められ、やがてその色は真紅に染められていく。


 まるで、幻想を侵食する現実そのものであるかのように。


 夢の時間が終わりを告げたのは、僕らが高校三年生になってすぐのことだった。



 ※



「今日も、会えないんですか」


 とある病室を前に、僕はそれだけを口にした。


「…ええ。ごめんなさい」


 そう謝るのは、小さい頃から見知った由姫の母親であるおばさんだ。

 いつもは家に遊びに行くと、明るく出迎えてくれていたのに、今は少し憔悴しているように見える。


「身体のほうに、異常はないんですよね」


「そっちは大丈夫。優介くんのおかげで、ほとんど外傷はなかったから。明日には退院の予定で、後は少し自宅療養したら学校にも行けるみたい」


 言いながら、おばさんは僕のことを見てきた。

 視線はギプスに包まれた右足と、両脇を支える松葉杖を行き来している。

 幼馴染の母親が浮かべる沈痛な表情に気付かないふりをしながら、僕は会話を続けることにした。



 季節は五月。

 世間ではゴールデンウィークが終わりを迎えようとしている頃。

 僕と由姫は、居眠り運転をしていたトラックによる事故により、病院へと運び込まれてから既に二週間が経っていた。


 運転手に関しては逮捕されたとしか聞いていないが、幸い僕は身体にいつくかの裂傷による出血と、足の骨を折る怪我をしたものの、命そのものに別状はなかった。

 ただ、数日間は傷が原因の発熱によりうなされ、目を覚まさなかったらしい。

 僕自身は覚えていなかったが、病室で目を覚ました僕を抱きしめてきた両親の顔を思い出すと、随分心配をかけてしまったなと思う。

 由姫も頭を打ち、僕同様数日間目を覚まさなかったようだが今は目覚めており、精密検査を行った結果、彼女もまた命に関わるような怪我ではなかったと聞いた時は、心の底から安堵したものだ。


 交通事故の死傷率に詳しくはないけど、最悪の事態が避けられたことは確かだろう。

 ふたりともこうして生きていることは、不幸中の幸いというべきなのかもしれない。

 ただ、命が助かったからといって、全てが解決したわけではなかった。


「それは…良かったです。少し、安心しました」


「ただ…」


 言葉を区切るおばさんの顔が、明確に曇る。

 おばさんの言いたいことは、もう分かっていた。

 その内容こそが、僕が由姫に会えない理由そのものであるのだから。


「事故のことが、トラウマになっちゃってるみたいで、少し記憶に障害が残ってるようなの」


「…………」


「大きな車の音がするとね、怯えるの。ブレーキ音は特に…それと…」


「僕を見ると、記憶がまだフラッシュバックするんですね。事故の瞬間のことを、思い出してしまうと」


 言いながら、吐きそうになるほどの苦痛が僕を襲う。


 事故が引き起こした、由姫の後遺症。

 それは事故前後の記憶障害とPTSD。

 それに伴い、僕に関する記憶をほぼ失っていた。

 何故なら、彼女のトラウマを呼び覚ます引き金となるのは、ほかならぬ僕だったのだから。



 事故の後、由姫の顔を一目見ようと痛む足を引きずりながら訪れた彼女の病室で僕を迎えたのは、僕の顔を見た途端、引きつった表情を浮かべる恋人の姿だった。

 どうしたのと声を掛ける間もなく次の瞬間には金切り声をあげ、由姫はベッドの上で暴れだした。

 それは半狂乱としか言いようがなく、普段の穏やかな由姫からは想像も出来ない光景を前に、僕は動くことすらできなかった。

 必死に娘を押さえつけるおじさんとおばさん。

 慌てて病室に駆け込んできた白衣の人たち。

 呆然とする僕を支えて部屋の外に連れ出した沙姫のことも、まるでドラマの登場人物かのように思ってしまったほどだ。


 後から聞いた話では、自分を守るための防衛本能が働いた結果らしい。

 事故の記憶を忘れようとしたら、現場にいた僕の記憶も引きずられるように消去せざるを得なかったのだろうと。

 まるでドラマみたいだなと、他人事のように思った。

 それほどリアリティーがなかった。まだ夢を見ているのではないかと。そうであってほしかった。


 だけど、現実はどこまでも残酷だった。

 僕がようやく現実を受け入れたのは、再び由姫の病室を訪れ、怯え切った由姫を見たときのことだ。

 恋人だった女の子が、赤の他人どころか怪物を見たかのように身を縮こませる姿に、まるで奈落に落とされたような絶望感に襲われ、僕は逃げるように病室を去った。


 あれ以来、僕は由姫の病室に入ることを許されていない。

 僕もまた、許されるまで、踏みこむ勇気を持てずにいる。


「…ごめんなさい」


「おばさんが謝ることじゃないですよ。僕こそ、由姫のことを守れなくてすみません」


「そんな…優介くんが悪いはずないじゃない。だって貴方は、由姫を守ってくれたのに…」


「いえ、僕はなんにも出来ませんでした。本当に、申し訳ないです」


 互いに謝り、謙遜しあう。

 ここ最近、ずっとこのやりとりを続けているような気がした。

 多分お互い、相手に責めて欲しかったんだろう。

 拒絶してもらえば、当面顔を合わせずに済む…辛い思いをせずに済む。


 だけど、そんな打算と甘えを、口には出来なかった。

 僕は由姫の家族を決して嫌ってなどいないし、嫌われたくもない。

 おばさんもそうなのだと思う。憎まれ役を買って出ることができるほど、心を鬼にできない性格の人であることは知っている。

 おっとりしている由姫の性格は、この人からの遺伝なんだろうなと、常々思っていたことだ。

 だからこそ、こうして疲弊した姿を見ることが、僕にとっても辛いことだった。


「…また来ます」


 そう頭を下げて、僕は踵を返した。

 会えない以上、ここに留まる意味はない。お互いに心を痛めることにも、意味なんてないんだ。


「あ…」


「……よっ」


「………」


 すると僕の背後で立ち止まっていたふたりの人影があったことにふと気付く。

 視線の先には、手を挙げて答える親友と、無言で頭を下げる恋人の妹がそこにいた。


「慎吾。それに、沙姫も来てたんだ」


「ああ…まぁ、心配だからな。足、大丈夫なのか」


「もう少しかかるみたい。後遺症が残るかもしれないとは言われてるから、しっかりリハビリはしないといけないみたいなんだ」


「…そうか」


 ふたりの表情は目に見えて陰る。

 …仕方ない。話題が話題だ。どうしたって雰囲気が良くなるはずもない。


「だからさ。由姫の相手、頼むよ。もう退院するんだろ?僕じゃ会えないから…」


 気まずい空気が漂い始めてるのが分かるが、なるべく明るい声をかけた。

 慎吾なら安心して、由姫のことを任せられるけど、こう言わないとあるいは距離を取ろうとするかもしれないからだ。

 恋人である僕が会えないのに、自分が会うことに引け目を感じる。

 僕の親友は、そういうやつだった。


「……ああ、任せろ。お前の分も支えてみせる」


「うん。ありがとう。それじゃ、僕はもう行くね」


 慎吾が頷いてくれたのを見て、僕は松葉杖を前に押し出した。

 後はもう任せるしかない。ここにいても、僕は由姫になにもしてあげることはできない。

 おばさんや慎吾。それ沙姫だっているんだ。皆が由姫を支えてくれるはずだ。


「私、付いて行きます」


「え…」


 そう思っていた時、不意に後ろから声が聞こえた。


「兄さんをひとりで帰すの、心配ですから」


 そう言って僕の隣に並んだのは、沙姫だった。

 ひとつ年下の女の子は、おばさんに一言断りをいれると、僕の歩調に合わせて足を進める。


「えっと…」


「行きましょう。なにか困ったことがあったら、すぐ言ってくださいね」


 心配そうに声をかけてくる沙姫だったが、僕は少し困ってしまう。

 僕のことを兄さんと呼んで昔から慕ってくれる子だったが、今は由姫の傍についていてあげて欲しいというのが本音だった。


「僕のことはいいから、由姫の傍にいてあげてよ。ちゃんと自分の病室には帰れるからさ」


 だから歩きながらそう諭したのだが、沙姫は何故か下を向くと、


「……あそこには、居たくないんです」


「え?」


 どういうことだろう。

 尋ねる前に、沙姫が話を続けた。


「今の姉さんは、兄さんのことを覚えていません。話をしていても、兄さんの存在が抜け落ちているんです。私や慎吾さんのことはちゃんと覚えているのに、兄さんだけが…」


「…………」


「あの時以来、病室では兄さんのことについて触れるのは禁句になってます。元の姉さんに戻る保証なんて、どこにもないのに楽観的なことを言って現実から目をそらしてるんです。落ち着いたら思い出してくれるだろうって…皆姉さんの心配ばかりで、兄さんが一番辛いはずなのに…!」


 憤りを見せる沙姫。

 普段冷静な彼女が、こんな姿を見せることは滅多にない。

 それだけに、沙姫が内心どれだけ溜め込んでいたのかがわかってしまう。


「それは…仕方ないよ。由姫だってなりたくてなったわけじゃないし、事故に遭いたかったわけでもないんだ。第一、僕は由姫を守れなかったから…」


「兄さんは悪くありませんよ!だってあれは事故じゃないですか!どうしようもないことだったって皆…」


 そう言ってくれるのはありがたい。

 沙姫が僕を庇ってくれようとしてくれてるのも分かる。

 だけど、それを素直に受け入れることは出来なかった。


「うん、だから、仕方ないんだよ。今更、事故をなかったことにするなんて、できないんだから」


 そう、仕方ない。

 僕らが事故に遭ったこと。

 由姫が僕に関する記憶を失ったこと。

 それらを全部なかったことになんて出来ない。


 いくら慰められても、時計の針は戻せない。

 だから、事実は事実として受け止めなくちゃいけない。

 そこにあるのが例え諦めの感情であったとしても、仕方ないことだったと思うしかない。


「仕方ないって、そんな」


「ここで僕らがどれだけ話し合っても、今さらどうにもならないんだよ。由姫にトラウマが残ったのは確かなことで、今の僕は由姫に会えば傷付けてしまうのが分かってる。沙姫は皆が目をそらしているっていうけど、向き合ったところで解決すると決まったわけじゃないんだ」


「…………」


「時間が経って由姫の心の傷が癒えることを待つことだって、立派な解決法だと僕は思う。それまで、僕はいつまでだって待つつもりだよ」


 僕がそう言うと、沙姫は口惜しそうに顔を歪ませた。

 だけど、なにも言ってこない。

 これ以上は、水掛け論にしかならないことは、頭のいい沙姫ならわかってるんだろう。

 表情から本人の中では納得できていないことはありありと伝わってくるけど、この件に落としどころなんて存在しないんだから、どうしようもない。

 無理矢理僕が病室に突撃し、恐怖で暴れる由姫に無理矢理抱きついて記憶を取り戻してくれることに賭けるなんて、そんなこと出来っこないんだ。

 それで由姫が更に壊れてしまったら。それで僕をより拒絶するようになったとしたら。

 そんな嫌な想像しか、頭の中には浮かんでこない。

 強引なやり方でハッピーエンドを迎えられるのは、上映時間の決まっている映画の世界だけのことだ。


「…人間って不思議だよね」


 だからというわけでもないが、僕は少し話の方向を変えることにした。


「え?」


「僕は特にあの事件にトラウマを持ってるわけじゃない。少なくとも今はそうだ。車が怖いとか、由姫の顔を見たくないとか、そんなことは思ってない。多分怪我が治ったら、いつも通りに学校にだって通えると思う」


 これは幼馴染の女の子の前だからと虚勢を張ってるわけでは決してない。

 車に怯えたり事故のことがフラッシュバックするなどの過剰反応を示すことがないのは、今日までの検査で分かったことだ。


「だけど由姫はそうじゃなかった。由姫は今でも事故に囚われて、とても怖い思いをしている。僕と同じ場にいて、同じ体験をしたのに、どうしてこんなに違いがでるんだろうなって、そのことがちょっと不思議に思ったんだ」


 あの時の光景は脳裏に焼き付いているし、夢に見ることだって勿論ある。

 心に傷を負ったのは同じだけど、それでも由姫と僕とでここまで違いが出るのはどうしてだろう。

 そんな疑問がふと浮かんだので口にしてみたが、やっぱりどうしてかは分からない。

 沙姫もどう答えていいのか分からないのか、一瞬目を泳がせたが、やがてぽつりと呟くように口を開く。


「…姉さんは、昔から怖がりでしたから。慎吾さんが肝試しをしようって言い出して、夜中に墓地まで連れて行かれた時も、私と兄さんの後ろでビクビクしてましたし」


「あ、なるほど。そういえばそうだったね」


 合点がいった。

 言われてみれば、由姫は確かに怖がりなところがあった。

 付き合って以降は笑顔ばかり見てたから、そういう一面があったことを忘れてしまっていたのかもしれない。


「そっかぁ。僕、まだまだ由姫について分かってないこと多いんだなぁ。僕も由姫について忘れていることがあったし、ある意味お相子かもね」


「……兄さん」


「由姫に謝らないとなぁ。怖い思いさせてごめんってさ。許してくれるかは分からないけど、それでも謝らないと。僕は由姫の彼氏だし、なにより僕は由姫がやっぱり好きだから…」


「兄さん!もういいですから!」


 突然、沙姫が大きな声を出した。

 僕の病室まであと少しだったとはいえ、まだ廊下を歩いている最中だ。

 幸い周りには誰もいなかったとはいえ、場所が場所だけにいきなり大声を出した沙姫に、僕はつい渋面を向けてしまう。


「沙姫、いきなり大声なんて出しちゃ駄目だよ。ここは病院なんだから…」


 言いかけた途中で、言葉が詰まる。


「もういいです。それ以上は、なにも言わなくていいですから…だから…」


 見ると、沙姫は泣いていた。悲しそうな顔で僕を見つめて、頬から大粒の涙を零している。


「お願いだから、どうか泣かないでください」


 だっていうのに、沙姫はそんなことを言う。

 変なことを言うなと、僕は思った。

 だって、泣いているのは自分のほうじゃないか。

 僕はただ、由姫のことを考えていただけで、泣くようなことなんてなにも考えてなんて…


「え…?」


 そう思ってたのに、つぅっとなにかが頬を通り、下にポトリと落っこちた。

 見ると、透明な雫が小さな点を作っている。最初はひとつだけだったのに、ポトリ、ポトリと、だんだん数を多くしていった。


「兄さんも傷ついてるのに、思い出させてしまってごめんなさい。兄さんだって辛いんだってこと、わかってたのに…」


 だから、僕は大丈夫だって。

 そう言いたかったのに、言葉が出なかった。

 喉が震えて、力が出ない。

 両腕にも力が入らなかったけど、それでもなんとか倒れないように踏ん張った。

 沙姫が抱きつくように身体を支えてくれたけど、本当に倒れないようになるだけでそこまで意味があるわけじゃない。


「ぅ…くぅ…」


「姉さんが元に戻るまで、私が兄さんの傍にいますから。私が支えますから。だから兄さん、どうか…」


 最後まで沙姫の言葉が耳に届いたわけじゃなかった。

 なんとか自分の病室にまで歩くのが精一杯で、余裕なんてなかった。

 ただ、誰かが隣にいてくれるのは、とても暖かいことなんだと、それだけが心に残った。



 ※



「桜、もうすぐ全部散っちゃうね」


 散り際の桜が、視界に飛び込んでくる。

 それは、あの日の光景。

 僕と由姫は、一緒に帰り道を歩いていた。


「そうだね。でも、これはこれで綺麗だと思うよ」


「じゃあ私は?」


「んー、同じくらい綺麗、かな?」


「あっ、ひどい!そこは私って言ってくれないんだ」


「あはは。冗談だって。由姫のほうが綺麗だよ。少なくとも、僕にとっては由姫のほうが、ずっと魅力的だ」


「……ありがと」


 ああ、そうだ。

 この時の僕は、赤い顔を背けながら、お礼を言ってくる彼女を、可愛いと思ったんだっけ。

 次の会話のことも、なんとなく覚えている。


「今年も同じクラスになれなかったね」


「その分は、大学で取り戻そうよ。志望校は一緒なんだしさ。今年は受験勉強があるから厳しいけど、大学に入ったら、ふたりで色んなところに行こう。由姫と一緒にやりたいことが、たくさんあるんだ」


 僕は未来を見ていた。

 幼馴染の恋人と一緒に居続ける未来を、無条件に信じていた。


「…ふふっ、ユウくん。もう来年の話をするなんて、ちょっと気が早くない?」


「そうかな?まぁ確かに先の話ではあるけどさ。それはそうと、三年でも慎吾は一緒のクラスだし、話し相手には困らないじゃない?」


「うーん、最近は慎吾くんとは、あまり話せてないんだよね。なんだか避けられている気がするの」


「え、そうなの?いつから?」


 僕が聞くと、由姫は少し困ったような笑みを見せる。


「私達が付き合い始めてからくらいかな。なんだか遠慮されてるように思えて、私から話しかけることも、ちょっと控えてるの」


「そうなんだ…」


「それに、沙姫もそうなんだ。どこかよそよそしいっていうか…上手く言えないんだけど…」


 僕らのことを気遣ってくれてるのだろうか。

 沙姫や親友の配慮に気付けずにいたことに、少し申し訳なく思っていると、ふと由姫が寂しそうに呟いた。


「私達が付き合い始めてから、なんだか皆バラバラになっちゃった気がするね」


「…………」


「また皆で、桜を見たいね。今年は結局、予定合わなかったから」


「そうだね。来年は、四人で観に来ようか。その後に、ふたりでも」


「うん。約束だよ」


 僕が答えると、由姫は小さく笑った。


「…あーあ。それにしても、最後はユウくんと、一緒のクラスで過ごしたかったな」


「由姫…」


「ねぇユウくん。私達、離れ離れになったりしないよね?これからも、ずっと一緒だよね?」


 問いかけてくる由姫の瞳が、不安そうに揺れている。

 目に見えないなにかに怯える幼馴染に、僕は胸を締め付けられる思いがした。


「そんなの…」


 当たり前だよ。由姫と離れるなんて考えられない。

 僕らはずっと一緒にいよう。そう言いかけたところで、なにかが視界にふと映る。


「!ゆ―――」


 それが何か気付いた瞬間、僕は由姫を守るために彼女の前に立とうとして―――そこで、目が覚めた。







「…………夢か」


 嫌な夢だった。本当に最悪の夢。

 見たくもないのに何度も見る。脳裏にこびりついて離れない、悪夢。


「はぁ…」


 ぼんやりと、白い天井を眺める。

 ここ数週間ですっかり見慣れたそれは、今日も染みひとつ見当たらない。

 それはいいことなんだろうけど、同時に退屈でもあった。

 身体を起こすと、窓の外には6月の澄んだ青空が広がっている。


「由姫、大丈夫かな…」


 由姫が退院したのは、もう二週間以上前のことだ。

 骨折した僕にはリハビリが残っていたが、由姫は外傷も残っておらず、後は自宅療養をしながら学校に通い、様子を見る手筈で事が進んだと聞いている。

 直接顔を合わせることが出来ないため、遠目での確認となったが、おじさんの車に乗って病院を後にした由姫の様子は少なくとも元気そうではあったと思う。

 沙姫からは最初に車が止まった時は怯えていたが、乗ってみるととりあえず落ち着いた様子ではあったようだ。


 そのことは僕にとって朗報であったし、リハビリを頑張る原動力にもなった。

 おかげで僕ももうすぐ退院することになっているし、学校に通うこともできるだろう。

 当面は杖をついての移動になるが、その点は両親が学校に説明してくれているそうだし、慎吾を通して事故の件は既に周知されているらしい。

 現在は沙姫とともに由姫のフォローをしてくれているらしく、見事に世話になりっぱなしだった。


「慎吾にはいつかお礼をしないとなぁ」


 自分の部活だってあるのに、由姫のことを頼むのは心苦しくもあったが、一も二もなく快諾してくれた幼馴染には本当に頭が上がらない。

 おまけに、「お前も早く退院して元気な顔見せろよな」なんて言ってくれるのだがら、どこまでも出来たやつだ。

 慎吾が幼馴染であったことは、由姫とともに僕の自慢のひとつである。

 慎吾なら、上手くクラスメイトにも説明してくれているはずだ。


「ふぅ…」


 起きていてもやることがないため、もう一眠りしようと目を閉じる。

 どうかまたあの日の夢はみませんようにと、願いながら。


 ―――本当は、僕が由姫の助けになりたかったんだけどな


 心に芽生えた小さな嫉妬心は、すぐに訪れたまどろみとともに、闇の中に消えていった。



 ※



 それからの日々は早かった。

 退院し、学校に通い始めると、杖をついて登校した僕を、クラスメイト達は温かく受け入れてくれた。

 授業についていけないところは勿論あったけど、それも補修や友人達から借りたノートなどで、なんとか追いつこうと頑張った。

 不自由なことは多かったけど、それでも人の優しさに触れることができたのは、悪いことではなかったのかもしれない。


 ただ、少し困ったのは登下校の際、必ず沙姫が僕の家や教室まで迎えに来ることだった。

 入院中も毎日僕の病室に訪れていた沙姫だったが、それは学校に通う際も継続するつもりのようで、強引に僕の世話を焼こうとしてくるのだ。

「兄さんのことが心配ですから」の一点張り。断ろうとすると、今度は「やっぱり私では姉さんの代わりになりませんか」と言ってくる。

 落ち込む恋人の妹、それも長年見知った幼馴染でもあるだけに、そこまで言われると断りづらく、夏休みに突入した8月の現在も、夏期講習のために通う学校の送迎を許してしまっているのが現状だった。


「今日も日差しが強いですね。今年の夏はこれからもっと暑くなりそうです」


 そう言って眩しそうに顔に手をかざす沙姫の髪は、前に比べて大分伸びていた。

 ぼんやりと横顔を見ていた僕は、目をそらす。由姫に似てきたなと、一瞬思ってしまった自分がいたからだ。

 そんな自分を誤魔化すように、僕は気付けば沙姫に由姫のことを尋ねていた。


「由姫は、最近どう?勉強頑張ってるのかな?…僕のこと、思い出したりは、してないかな」


 学校で受験勉強をしている僕とは違い、由姫は現在塾に通って受験の対策をしていると聞いていた。

 理由は言わずもがな、僕と顔を合わせないようにするための、彼女の両親の配慮によるものだ。

 僕からの質問に、沙姫は少し悩む素振りを見せた後、ゆっくりと口を開くと、


「……はい。慎吾さんも一緒ですから、分からないところは色々聞いて教わっているそうです。兄さんのことは、その…」


 答えながらも、申し訳なさそうに口ごもる。

 それに対し、僕も「そっか」と、一言返すのみだった。

 由姫の通う塾に、部活を引退した慎吾が通い始めたことは知っていた。


 僕が学校に通うようになってからは、沙姫が僕の送り迎えにつくようになり、由姫には同じクラスでもある慎吾が登下校に付き合うようになっていた。

 自然と幼馴染がふた組に別れる形となっていたが、慎吾は頭もいいし、幼馴染なんだから頼るのは当然だろう。

 だから僕は、最近すっかり口癖になってしまってる言葉を口にした。


「まぁ、仕方ないよね。僕らは受験生なんだから。時間は待ってくれないし、思い出す前に考えなきゃいけないことはたくさんあるから、さ」


 慎吾に嫉妬なんてしていないし、別に沙姫の答えに失望したわけでもない。

 ただ事実を事実として受け止めた。そのだけだ。

 諦めとも言えるけど、何度も同じことを聞いて、何度も同じ返答をされていたら、いつの間にか慣れてしまっている自分がいた。

 由姫の記憶が戻らず、顔を合わせることもままならない今の状況を、僕は仕方ないことだと受け入れつつある。


(仕方ない、か…)


 だけど、本当にそうだろうか。

 僕は、僕達は、このままでいいんだろうか。

 だって、由姫は僕のことを覚えてないんだ。なら、同じ大学に行こうという約束だって、きっと覚えてないだろう。

 なら、由姫は今なにを目標に勉強をしているんだろうか。


(慎吾なら知っているのかな…)


 慎吾は僕よりも頭がいい。

 僕が志望しているところより、上の大学を目指していてもおかしくない。

 県外に出ることを考えているかもしれないし、それに由姫がついていく可能性だって―――



 そこまで考えて、僕は咄嗟に頭を振った。

 思考がおかしな方向に行っているのを自覚したからだ。

 そりゃ由姫が慎吾と同じ大学に行くと考えてもおかしくないけど、それなら慎吾だって僕に相談してくるはずじゃないか。


 だって、僕は由姫の彼氏なんだから。


(彼氏、だよな?)


 今の由姫がどこの大学を志望しているのか、僕は知らない。

 半年近くまともに会話もしていない。

 顔を合わせていなくても、僕の気持ちは変わってなんかいない。

 僕は由姫のことが好きなんだ。

 だけど、由姫は……


「最近の姉さんは、よく慎吾さんのことを口にします」


 その時だった。

 まるで僕の考えを読んだかのように、沙姫がそんなことを口走ったのは。


「え……」


「今日も勉強を教えてもらったとか、慎吾くんは本当に教え方が上手くて助かってるとか。頼りになるとも、言っています」


「それ、は」


 当たり前のことじゃないか。

 慎吾が頼りになることは、沙姫だってよく知ってるはずだろ。

 なんでそんなことをここで言うのか、分からない。


「その時の姉さんは、本当に嬉しそうで…まるで、兄さんと付き合っているときみたいでした」


 やめろ。


 やめてくれ。

 そんなこと、僕に話さないでくれ。

 聞きたくなくなかった。でも、聞かないわけにはいかない。

 だってそれは。それだけは。

 仕方ないと、諦めるわけにはいかなかったのだったのだから。


「今の姉さんは、多分」


 ぐにゃりと、目の前が歪む。


「慎吾さんのことが、好きなんだと思います」


 目をそらしてた事実を、叩きつけられた気がした。



 ※



「ふ、ぅ…」


 それから数時間後。僕は由姫の家の前にいた。

 さっきから何度も何度も深呼吸して、塾に行っているはずの彼女の帰りを待っている。


 その理由は…言うまでもないだろう。

 由姫に直接会って、今の気持ちを確かめる。

 そのことだけが、僕の頭の中を占めている考えだ。

 これまでは面と向かって会うことを避けていたけど、あの話を聞いてからはいてもたってもいられなかった。


(大丈夫…きっと大丈夫だ…)


 自分に何度も言い聞かせ、今か今かと彼女の帰りを待ち続け…やがて、その時はきた。


「慎吾くん、送ってくれてありがとう。今日はここで…」


(―――来た!)


 懐かしい声。いつもそばで聞いていたあの声を、僕が忘れるはずがない。


「由姫!」


 我を忘れて飛び出すと、そこには大好きだった幼馴染であり、恋人である女の子がいた。


「え、あ…」


「由姫!僕だよ!優介だ!」


 こうして面と向かい会うのは、どれくらいぶりだろうか。

 途端、こみあげてくる愛しさに突き動かされるように、僕は彼女の両肩を掴むと、正面から問いかけた。


「あ、い、いや…」


「君の幼馴染で、彼氏の優介だよ!僕達、ずっと一緒にいたじゃないか!」


 掴んでいる両手が震える。

 由姫の顔が、みるみるうちに青ざめていく。


「あ、あああ…」


「いつまで忘れてるんだよ!お願いだから思い出してよ!!頼むよ由姫!!!」


 だけど、僕はそれを無視した。

 由姫が思い出しさえすれば、全部解決するはずだと、都合のいい解釈をしながら、ひたすら由姫に迫ったのだ。


「また一緒にいようよ!約束したじゃないか、僕らは…」


「やめろ、優介!」


 そんな周りを見えていなかった僕は、唐突にドンと強い力で突き飛ばされた。

 咄嗟に尻餅をつくが、顔をあげると、険しい顔をした親友の姿がそこにある。


「なんだよ慎吾。邪魔をしないで…」


「お前、なにやってんだよ!由姫が怖がっているのが分からないのか!」


 言われて、由姫の方へと目を向ける。

 彼女は両手で自分を抱きしめながら、ガタガタと震えていた。


「え…」


「いや、いやいやぁ…いやああああああああああああああ!!!」


 次の瞬間、金切り声をあげて、由姫は叫ぶ。

 硬直する僕に対し、慎吾は素早く由姫に近づくと、彼女の身体をその大きな身体で抱きしめていた。


「大丈夫、大丈夫だ由姫。怖くないから、な?」


「やだ、やだやだ。やだよぉ。いやああああああ…」


 その光景を見て、僕は自分がしたことを自覚した。


「僕、は…」


 なにをやっているんだろう。


 その後のことは、よく覚えていない。

 気付けば自分の部屋にいて、隣に沙姫がいて、僕に色々話しかけてきたけど、ただ呆然としていたことだけが、記憶の中に残っていた。


 それから、夏休みが終わるまで、僕は全ての呼びかけを無視して引きこもった。


 僕が慎吾に呼び出されたのは、夏休みが明けてすぐのことだった。



 ※



「俺、由姫に告白された」


 予想していた答えを、慎吾はただ口にした。


「…いつ?」


「夏休みの間、だな。塾の帰りに、今みたく公園に誘われて、好きだって言われた」


 淡々と告げてくる慎吾の横顔は、よく見えなかった。

 夕暮れ時のせいだろうか。ベンチのすぐ隣に座っているはずなのに、なんだかとても距離があるように感じてしまう。


「なんて、答えたの」


 自分の声が、とてもか細いように思えた。

 慎吾の耳には届いていないんじゃないかとすら思えるほど、頼りもない。

 たっぷり一分は待っただろうか。慎吾は重い口を開いてこう言った。


「…………分かったって答えた」


 途端、拳に力が篭った。

 握った手がやけに痛い。

 なんでとかどうしてとか、様々な言葉が脳裏によぎる。


「僕が…僕がまだ由姫のことを好きなのは、知ってるよね」


 そんな中、かろうじて絞り出せたのはそんな問いかけだった。

 由姫のことを傷付けてしまったことは、今でもハッキリ思い出せるが、それでも僕は彼女のことが好きだった。


「ああ」


「じゃあ、なんで…!」


 裏切ったんだ。

 そう叫びたかった。だけど。


「由姫は、お前のことを完全に忘れてる…それは、お前だって知ってるだろ」


 親友だったはずの幼馴染に、冷静な声で、そんなことを言われたら、なにも言えなくなる。


「あいつの中に、お前と付き合っていた時の記憶はない。誰かを好きだった恋愛感情もない…初恋だとも言われた。そこまで言われて、俺はどう断ればいい」


「それは…」


「今だから言うが、俺も由姫のことが好きだった。だけど、お前なら仕方ないと思って身を引いたつもりだった…だけど、あの事故があって、俺は由姫を支えることを決めた」


 初耳だった。

 そんなことを、慎吾から聞いたことはなかった。


「由姫がお前のことを思い出して離れていくなら、それでいいと思ってた。だけど、告白されたら断る選択肢は、俺の中になかった。優介に悪いと思っていても、あの目を見たら、俺には無理だった」


「…………そんなこと、言われたって」


 僕のことを裏切ったことには、変わりないじゃないか。

 そう責めるべきなんだろうことは分かってた。

 でも、


「なんだよ、それ……」


 慎吾の目。

 それを見たら図らずとも、慎吾が由姫の目を見てなにかを察したように、この幼馴染がどう考えているのか、分かってしまったからだ。


 慎吾が僕に罪悪感を抱いていること。

 それでも自分の選択を取り消すつもりがないことを。


 僕と由姫を天秤にかけて、慎吾は由姫のことを選んだのだ。

 それが、僕と決別する選択であることを、理解しながら。


「…………ずるいだろ、それは」


 そんな相手に、なにを言えばいいっていうんだ。

 全身から力が抜けて落ちた。同時に、虚脱感が襲ってくる。


「…すまない」


「謝るくらいなら、そんなこと言うなよ。僕ら、親友だったろ…」


 どうしようもないだろ。そもそも、取り戻すことなんてできっこない。

 なんて声をかければいいかさえ、もう分からなくなりつつあるのに、こんな事になってから今更そんなことを言ってくるなんて、ひどすぎる。

 ぐちゃぐちゃになりそうになりながら、僕はゆっくりと立ち上がる。

 そして、慎吾の前に立つ。慎吾も僕の顔を真っ直ぐ見ながら、立ち上がった。


「…………」


 改めて並ぶと、慎吾のほうが僕より頭半個分は背が高い。

 顔立ちも整っている。これで頼りにもなるというのだからなるほど。

 こんな男が傍にいて、親身に面倒を見てくるというならそりゃ惚れるよな。

 そして、告白に至る最後のきっかけになったのは、おそらく僕の…


「はは…」


 結局、僕は自分でふたりの仲を取り持つキューピットになってしまったというわけだ。

 とんだ間抜け。どうしようもない馬鹿だ。

 自嘲の意味もこめ、一度はぁっときく息を吐く。


「一回だけ、殴らせてくれ……」


 我ながらどこか疲れたような、抜け殻みたいな声だった。

 身勝手なことは百の承知だけど、そうでもしないと、行き場のない感情に、押しつぶされてしまうそうになる自分がいた。


「一発でいいのか」


「十分だよ。そもそも、僕は足にまだ力が上手く入らないんだ。僕にもまだ、事故の後遺症が残っているからね」


 冷静に聞いてくる慎吾に、皮肉を混ぜてそう返す。

 小物じみた負け惜しみだと頭では分かっていても、もうこれから話すことはないだろう元親友に、何かしら傷を残してやりたかったのかもしれなかった。


「そうか、分かった」


 だっていうのに、慎吾はどこまでも落ち着いていた。

 ただ僕のことを静かな目で見つめてくる。

 覚悟を決めた男の顔っていうのは、こういうことをいうんだろうか。


「…………ちくしょう」


 かなわないなと、僕は思った。

 親友を信じた結果彼女を取られたっていうのに、その親友を恨む気にすらなれない。

 負けを認めるしかなかった。

 ただ、どこまでも惨めな気分のまま、拳を握る。


 初めて人を殴った感触は、すごく気持ち悪かった。




「なにやってるんだろうな、僕は」


 慎吾がいなくなってから、どれくらい時間が経ったかは分からない。

 家に帰る気にもならず、僕は未だ公園にいた。

 ベンチに腰掛け、ぼんやり眺める夜空には、多くの星が瞬いている。


「女は星の数ほどいる、か」


 そんなことを言ったのは誰だったか。

 どうでもいいことが頭に浮かぶ。ただ、無責任な言葉だなと、なんとなく思った。


 僕が一緒にいたかったのは由姫だ。

 どれだけの女の子がこの世にいたとしても、僕が幸せにしたかったのは由姫だけで、他の子じゃ意味がない。

 そして僕にとっての幸せは、由姫といることだった。

 由姫といられれば、僕はそれで良かったのだ。ただ、それだけだったのに。


「時計の針が、戻ればいいのに」


 仕方ないと諦め続けてきたはずなのに、気付けば願いが口に出た。

 でもすぐに意味がないことがないことだと気付いてしまう。

 そう願うのは、この世で僕だけだ。思いを同じにしていた由姫は、もうどこにもいない。全てはもう過去になってしまった。

 僕の、僕らの幸せは、あの日に置き去りにしたまま、思い出になっていくんだろうか。


「風邪、引きますよ」


 そう思っていたときのことだ。

 不意に誰かが僕に声をかけてきた。

 僕は上を向いたまま、誰であるかを確認せずに言葉を返す。


「まだ9月だから大丈夫だよ。最近は夜でも暖かいしさ」


「…それでも、身体に悪いですよ」


 隣に誰かが座る気配。

 途端鼻をくすぐる香りは、もう慣れ親しんだものだ。

 ここ最近、ずっと隣にいた女の子の、優しい匂い。沙姫だ。


「慎吾に言われてきたの?」


「…………気付いていたんですか」


「そりゃ、ね。嫌でも気付くよ」


 時間が時間だ。普通なら家にいる時間だし、わざわざ僕を探しに外に出る理由なんてない。


「僕と由姫が会わないようにしてたのも、二人で決めたの?」


「…………はい」


「そっか」


 ひとつ気付くと、見えてくるものが色々ある。

 今思えば、二人は明らかに僕らの距離を取らせようとしてた。

 それは配慮によるものだと思っていたけど、別の思惑があったんだろう。

 慎吾は夏休みに告白されたとは言っていたけど、おそらくもっと前から好意を寄せらつつあることに気付いていたんじゃないだろうか。

 そのことを僕に相談しなかった本当の理由は、おそらく。


「私は、兄さんのことがずっと好きでした」


「…………」


 やっぱり、か。

 そう思ったけど、口には出さなかった。


「小さい頃から、好きでした。姉さんも、兄さんのことが好きなことには気付いてたけど、それでも私のほうが好きになるのは早かったと思います」


「だから、兄さんと姉さんが付き合い始めたことを知ったときは、ショックでした。私が先に好きだったのに、兄さんに選ばれた姉さんのことがずるいと、妬みました。後ろを歩く私に気付かず、会話に夢中になっているふたりの背中を見ていて、胸が苦しくなりました」


 沙姫の独白は続いていく。


「それでも、口に出すことはしませんでした。兄さんのことも、姉さんのことも、私は好きでしたから…慎吾さんも、そうだったと思います。ふたりがそのまま幸せになってくれるなら、それでいいと思っていました」


 ―――でも、あの事故が全てを変えました。


「起きた姉さんは、兄さんのことを忘れていました。いえ、厳密には兄さんのことを思い出さないようにしていたんだと思います。兄さんの話になると、姉さんは身体を震わせました。写真を見せると、顔を青くして叫びました。それ以来、兄さんのことを、家族の間で話すことは禁止になりました」


「だから、今の姉さんが兄さんのことをどう思っているのかは、誰も知らないんです。触れないことで、心の傷が癒え始めているのか。それとも薄れて本当に忘れつついるのか。誰にも分かりません。ただ、表向きの姉さんは、慎吾さんに惹かれていったことは確かです」


「慎吾さんは、悩んでいました。慎吾さんは、まだ由姫さんのことが好きでしたから。いえ、常に一緒にいるようになって、頼られることで、ますます想いが強くなっていったように思います。それを咎めることは、私には出来ませんでした」


 私も、まだ兄さんのことが好きでしたから。

 沙姫は遠くを見ながらそう言った。慎吾の気持ちに、きっと共感していたのだろう。なんとなく、わかった。


「私は兄さんの隣にいたい。慎吾さんは姉さんの傍にいたい。私達の思惑は合致していました。だから決めたんです。姉さんの本当の気持ちを、記憶を呼び起こすようなことは辞めようって」


「兄さんを裏切ること。今以上に傷付けることになると知っていながら、姉さんの記憶が戻らずに、このまま時が過ぎて欲しいと願い続けました…私はずっと、兄さんの傍にいたかった。傷ついている貴方を、私が癒してあげたかった。姉さんより、私のことを好きになってほしかったんです」


 自嘲するように、沙姫は言った。


「私達の計画は、成功しました。姉さんは慎吾さんに告白して付き合うことになり、兄さんはフリーに。後は傷ついている兄さんに、私が寄り添い近いうちに告白すれば、私達にとって全て都合のいい結末を迎えることが出来ます。兄さんと本当の姉さんの気持ちを無視したハッピーエンドが、もう少しで手に入ったんです」


 そこまで話すと、沙姫はふぅっと息を吐いた。


「でも、駄目でした。こうして兄さんに、全部話してしまいましたから。最後の最後で、台無しになっちゃいましたね…」


 自業自得とはこのことです。

 そう締めくくると、幼馴染の女の子は遠くを見つめた。

 その姿を見ながら、僕は気になることを聞いてみることにした。


「…なんで、話したの」


 その話が事実なら、ここでネタばらしする意味なんて皆無じゃないか。

 言わなければ、いやそもそもここにこなければ、僕はそのまま本当のことを知らずにいたかもしれないのに。

 僕の問いかけに、沙姫は小さく苦笑すると、


「罪悪感、でしょうか」


「罪悪感?」


「本当は、話すつもりはなかったんです。公園に来たのも、兄さんの姿を確認するだけに留めて、気付かれないうちに帰るつもりでした…でも、無理だったんです。ベンチに座る兄さんが、あまりに辛そうだったから」


 だから全部白状したと。

 それはなんとも、ひどい話だ。


「……勝手だね」


「ええ、本当に勝手です。どうしても好きな人を手に入れたかったのに、その人が傷ついている姿を見たくなかったなんて。全部終わってから、そのことに気付くなんて。私、本当に馬鹿でした。見事に矛盾しています」


 全くだ。

 最後の最後に良心に負けてそんなことを言われても、僕が救われるわけじゃない。

 きっと沙姫も。失うものだけが、ただひたすらに多すぎる。


「私のこと、嫌いになりましたよね」


 そう聞いてくる沙姫の声に、不安の色はなかった。

 ただ、諦めだけがあったと思う。そんな彼女に、僕は言った。


「そうだね。ちょっと幻滅したかも。沙姫がそういうことをする子だって、思ってなかったから」


「…ですよね」


 目を伏せる沙姫。

 当たり前のことを言われたと、受け入れているように僕には見えた。


「だけど、嫌ってまではいないよ」


「え…」


 途端、沙姫が顔をあげる。


「沙姫がどんな思惑を巡らせていたとしても、結末は変わっていなかっただろうから。きっと僕達は、こうなるしかなかったんだよ」


 沙姫はなにを言われているのか、わかっていないようだった。

 でも、それで別にいい。


「仕方なかったんだ。全部、仕方なかったんだったんだよ。だから、もういいんだ」


 誰が悪いとかなにがいけなかったとか。

 そんなことを考えるのは、もう疲れた。


「ただ、こんな僕のそばにいてくれてありがとう。そのことは、感謝してる」


「にい、さん…」


「本当に、ありがとう沙姫。僕は、それだけで嬉しかったよ」


 ただ、一番辛かった時、沙姫がそばにいてくれたことだけが、僕の中に残った真実だった。




 ※




 季節は巡る。

 秋が過ぎ、冬を越えて。

 そしてまた、忘れられない春が来る。



「桜、綺麗だな…」


 三月。

 卒業まであと数日を残した通学路の並木道で、僕は桜の木を見上げていた。


 時間が過ぎるのはあっという間だった。

 あの日から、僕の隣には沙姫がいて、由姫の隣には慎吾がいた。

 僕らが別れたことは学校で噂になったけど、それも受験勉強の忙しさにより、すぐにかき消されていった。


 がむしゃらに勉強した結果、僕は当初の志望校に合格。

 そのまま地元に残ることとなったけど、由姫や慎吾は県外の離れた大学に進むと聞いている。

 結局、僕ら四人はバラバラになったまま、この春を迎えてしまった。


「来年は、四人で桜を観に来れたらいいね、か…」


 あの時と違い、満開となった桜は、ただ綺麗だった。

 綺麗すぎて、泣きたくなるほど、綺麗だった。

 果たされなかった約束を口にして、僕はやっぱり泣きたくなった。


「返事、結局言いそびれちゃったな」


 時間は優しくて、そして残酷だと誰かが言った。

 今は沙姫がいる。こんな僕の隣にいてくれる女の子がいる。

 だけど、未練がないわけじゃない。僕は由姫に、別れを告げることすらできなかったのだ。

 この心の傷も、いつか時間が癒してくれる時が来るのだろうか。


「僕らはずっと一緒にいよう―由姫」


 心残りを口にした途端、ざぁっと大きな風が吹いた。

 春一番、だったかな。この冷たい風が、僕の中に残っている由姫への想いを、全て持ち去ってくれればいいのに―――


「ユウ、くん?」


 そう願いを篭めたというのに。

 仕方ないと、全部諦めたつもりだったのに。 

 それで良かったのに。


「ほんとに、私と一緒にいてくれるの?私のそばにいてくれるの?」


 春風が連れてきたのは、あの日の―事故に遭う前の、僕の彼女であり幼馴染でもある女の子だった。


「ユウくん?」


 あの日見た、不安げに揺れる由姫の瞳が、今僕の前にあった。

 まるで時間が巻き戻ったかのように。

 幸せだったあの頃のように、僕のことを見つめていた。


「あ……あぁ……」


 由姫の記憶が戻ること。

 それは僕がずっと望んでいたことのはずなのに。

 嬉しいはずなのに。

 喜ばないといけないはずなのに。

 仕方ないと諦めていたのに。


(なんで、今なんだよ…)


 どうして、今更奇跡が起こるんだよ


 時間は僕にどこまでも残酷で、優しくなんてなかった。


 今の僕は、由姫の瞳にどう映っているんだろう。


 もうあの頃の僕には、戻れないのに


 由姫の望んでいた未来は、もうどこにもないというのに


 ふたりの夢の続きを見ることは、もう出来ないのに

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君が隣にいない春が来る くろねこどらごん @dragon1250

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