II. エレクトリック・レイディランド

 耳の半ばほどまでの短い黒髪の上に乗ったキャップ、洗濯機のイラストの描かれたオーバーサイズのパーカー。少年とも少女ともつかない小柄な体躯。可思議カシギは、わたしをこの〈異文化実習〉に巻き込んだ張本人だった。

「こいつ、音楽やりたいんだって」

 やりたい、と言ったつもりはない。わたしは、「音楽を学びたい」と言ったはずだ。わたしの星──ラムズヘッド──にはない〈音楽〉というものを、知りたかった。時間というものと無関係に、時間のない世界で、停止した姿でも存在しうる他の芸術とは異なる。時間がなければ存在することすらできない、純粋な時間芸術。そしてそれは、〈記録〉、及び〈再現〉と深く結びついている。どちらも、個としては短命だが個体数が多いという地球人の特性に合致した概念だ。そして、音楽の〈時間を操作する特性〉に関わっている。わたしはこれを理解したいと考えた。わたしの星にない音楽というものについて、学びたかった。

 そんなわたしの言葉を受けて「音楽知らねーの」と言う可思議は、にやにや笑っていた。わたしはその表情を善意と勘違いして、言われるままに彼女のあとについていった。ここは大学だ。この国の最高教育機関だ。わたしの必要とする文化講義の場に案内でもしてくれるのだろうと思っていた。こちらを振り向くこともなく進む可思議の後について辿り着いたのは、敷地の隅の別棟だ。504と書かれたプレートの埋め込まれたドアをノックもなく開けて、可思議は言った。

「こいつ、音楽やりたいんだって」

 可思議の言葉に、パイプ椅子に座って話でもしていたらしい二人が顔を上げた。二人の視線がこちらに向く。一方は冷たく、もう一方は熱く、品定めするような目だった。

「何かできるのか」

 長身、黒と茶の衣服に長すぎる黒髪の、陰気な女が言った。その目がこちらに向く。眼鏡の奥、月の海のように暗く底が知れない瞳にわたしはたじろぐ。女がじっとこちらを見つめていて、それでやっとわたしは質問が自分に向けられていたのだと理解する。

「単独での星間転移」

 わたしは己のうちで最も誇るべき技術の名を堂々と答えた。単独での星間転移はきわめて希少な技術だ。ちなみにラムズヘッドではわたしが最年少の修得者だということになる。

 わたしの言葉を聴いて、陰気な女はもう一人のほうに問いかけるような目線を向ける。目で問われたほうの女──金というよりは白に近いほど脱色された髪を、頭上で結い上げている──は、マ、ムデロ、というようなことを呟いた。この国の言葉ではないようだった。

 あとから思い返せば、音楽はこのときに鳴り始めたのだ。可思議とのばら、ナレ、そしてわたし。〈オレンジジュース〉。ナレがモドプタだせえなと笑うその名前がつく、まだ前の話だ。


 陰気女──のばらが壁にかけられたケーブルの一本をほどいて、片方の端子を投げる。白金女──ナレがそれをキャッチする。そのまま手の中でくるくる回すナレに、のばらが「冷蔵庫でいい」と言った。頷いたナレは、その端子を壁際に斜めに置かれたスピーカーに接続した。。なるほど。黒の外装に銀の網をかけられた巨大なスピーカーは、見た目はまさに冷蔵庫だった。そのスピーカー部分の端に、カタツムリを思わせる渦巻きのロゴマークが鉄板でネジ留めされている。

 わたしは可思議に手を取られるままに扉をくぐっていた。先ほどの小部屋の向かいの扉の先は大部屋になっていて、部屋の四方の壁は穴の開いた防音材で作られている。様々な形のバッグやスピーカー、各種スタンドが、壁際に乱雑に放ってあった。

 のばらがそのうちのひとつ、とりわけ大きなバッグを引きずるように持って、わたしの方にやってくる。ジッパーを開けて中身を取り出し、それに簡単な調整を施すと、わたしの肩に掛けた。ずしりと食い込むような重みがある。

 ふたつのつのを持ち、なめらかな曲線で構成された重厚なボディ。濃色のブラウンが外側に向かって黒へとグラデーションを形成する、美しいカラーリング。鼈甲柄のプレートと回転式のふたつのノブ。中心を四本の太いニッケル弦が貫く。その行き着く先に、Van Zandtヴァン・ザント、と流麗な筆記体でロゴが焼き付けてある。そのときは知る由もなかったが──このあと長い付き合いになるプレシジョン・ベースだった。

「左手──そうだ。弦に軽く触れてミュートしていろ」

 のばらが後ろから抱くようなかたちで、楽器の上で行き場をなくしていたわたしの手を誘導する。後ろでナレが〈冷蔵庫〉のスイッチを入れたのが分かった。獣が威嚇するような目の粗いホワイトノイズが空気に混じった。

「一番太い弦──Eだけを自由にして。そう、それでいい。ナレ」

 声をかけられたナレは、いつの間にか私の脇でドラムセットの中心に座っていた。両手に持ったスティックを軸に両手や背中をしならせてストレッチをすると、ドラムセットのいくつかのネジを回し、スイッチを操作した。空気の中にざらついたホワイトノイズがもうひとつ合流して、音の方を見ると、部屋の対角の真向かいで可思議が自らの楽器のストラップを肩にくぐらせている。

 ナレのリズムをとる足踏みに呼応して、二枚重ねのシンバルが上下した。

「ナレの音を聴いて。親指はその四角い──そう、ピックアップの上。人差し指でE弦を弾いてみろ。できそうなら、中指も使っていい」

 のばらの声が心もち大きくなる。

 わたしの拙いEの上に、刃を研ぐような鋭利なノイズが重なった。可思議がギターをミュートしたまま弦を引っ掻いている。なぜかわたしの感覚は部屋全体に意識が回るほど鋭敏になっていて、そのリズムを全身で受け取る。音を添わせることに集中する。

「……いいぞ。踊っロックしてる。もしもう少し遊びたくなったら──」

 ここ、と、ここ。

 わたしの左手を取ってネックの上で滑らせると、指板上に打たれた目印を辿り、弾いていたE弦の七番目のポジション、それからひとつ下りた弦──A弦の五番目のポジションを、それぞれ人差し指と薬指で押さえさせた。

「五度と七度。好きなタイミングで、ここがいいと思ったタイミングで、差し込んでみろ」

 鉄板の上でバターと蜂蜜を焦がすような声で、のばらはわたしにそう耳打ちした。

 リズムを刻んでいただけだった可思議のギターの音が徐々にリフのかたちをとり始めた。地下に圧さえつけられた熱が出口を求めて蠢く響き。

 わたしから離れたのばらが眼鏡を外すと、スタンドに据え付けたマイクに囁きかけた。十年ぶりの雨で潤った古木のような声が旋律をなぞる。

落ち着きなよ、そうさ、ふざけてなんかないユー・ニード・クーリング、アイム・ナット・フーリング──」


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