ロック・アラウンド・ザ・クロック

雲峰くじら

I. ツイステッド・トランジスター

 BBD遅延素子。

 BBDはBucket Brigade Device、つまりバケツリレー式素子を意味する。

 コンデンサで受け取った電位をスイッチして次のコンデンサに引き渡すというシンプルな機構を数千ステージという単位で重ねた、実際には〈リレー素子群〉というべきものだ。この素子は、電位変換された信号を受け取ると、クロックと呼ばれる指示ICが提示する速度に従って、ドミノ倒し式にコンデンサからコンデンサへと信号を受け渡していく。クロックからの速度指示は、ポット、つまり可変抵抗器の抵抗の値として信号がコンデンサ間を移動する速度をコントロールする。

 これが実際にどのような現象として出力されるのか。きわめて単純化して言えば、入力された信号が遅れて出力される。時間は平等なものだと言ったりするが、この素子の中ではそれはスローダウンする。並んだふたつの道路を同じスピードで走る車が、それぞれ同じ長さのトンネルに入っていく。ところが、トンネルの出口では片方の車だけが先に出てくる。もう片方の車は少し遅れて出てくる。片方のトンネルでは時間が操作されていて、ゆっくりと流れていたのだ。真ん中からガラスで隔てられた並行するふたつの通路を通過すると、片方の通路を通過したものだけという映画を見たことがあるが、それに少し似ている。

 このような驚くべき時空干渉機構が小さな基盤の上に金属接合(ハンダというらしい)され、手のひらサイズの箱に収まっている。戦慄を覚えざるを得ない。

 しかし、この機構も非の打ち所のない完璧な代物とはいかなかった。信号は、コンデンサ間を移動するたびに徐々に劣化するのだ。タマテバコという神具についての物語を聞いたことはあるだろうか? 自分だけが違う時間の流れの中にいて、享楽の時間を過ごしても、ひとたびその外に出れば流れた時間のツケを払わされる。BBD素子の中をくぐる信号も、束の間引き延ばされた時の中を生きるが、外部へ出力されたときにはそのツケを払うように劣化しているのだ。

 ただ、わたしにとって興味深いのはだ。この星の人間は、とりわけ音楽というものに関わる人間は、こうして生じる劣化をこそ美しいものとした。信号の波形がガタつき、耳障りなノイズが混じり、音のハリや艶のようなものは無様に失われている。そのことをだと言った。


 経年の退色による深い赤色で彩られたリッケンバッカー660の寸胴のボディは、一見愛らしかった。しかしその表面に少し注目して見れば、ピックの打痕やタバコの焼き痕、その他もろもろの傷が幾つも散らばっているのが分かる。そんな傷を覆い隠すように乱雑に貼り付けられたステッカーもまた、擦れたピックによって切り裂かれていた。

 満身創痍のボディの中心線上にやや距離を置いて設置された二基のハムバッカー・ピックアップが、まだらな血錆びの滲むニッケル弦の振動を受け止めた。振動──微かな音は、ピックアップを介して電気信号として増幅され、粗い作りのシールドケーブルの中を身を削りながら泳いでいく。銀と黒の大柄なディストーションペダルにプッシュされ、クリップした信号が、いよいよそこに辿り着く。

 ダークグリーン・メタリックの小さな筐体。MXR M169 カーボンコピー・アナログディレイだ。BBD遅延素子を用いた最大六〇〇ミリ秒の信号遅延を経て出力されるトーンは甘暗い劣化を伴う。そこに更にヴィンテージのテープエコーをシミュレートした揺れが加わる。

 ギターソロはスケール内の踏破域を徐々に広げながら、同時に音数も増していった。ピックのスクラッチや合間に呻くようなフィードバックのノイズをふんだんに散りばめて、混沌とした世界に足を踏み入れていく。ディレイペダルから遅れてやってきた自らの似姿とダンスを踊り、その歩調が乱れたかと思うと、リズムもテンポも関係のない領域に雪崩れ込んだ。

 背を思い切り丸めて自分の体にギターを巻き込むように握りしめる可思議カシギは、目を閉じて口元を笑みの形に歪ませていた。スタジオの半分落とされた照明の光をあつめて、知恵の輪のようなピアスが鈍くきらめいた。

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