第5章第6節「想像の地平線へ臨む」

「自分にとって都合のいい可能性を見ればいい」

 正直なところ、かなり抽象的な表現だった。とはいってもせっかく話してくれたことである。澪はなるべく噛み砕いて理解しようと努めた。

「えっと……都合のいい可能性?」

 適当なところを掻い摘んでみると、桜井は「そう」と頷く。

「母は病院のベッドで俺にこう教えてくれた。私はこれから旅に出るだけだから、しばらく会えなくなるけれどまた会えるって。当然、あの日母は死んだんだ。それでも俺には死ぬとは言わずに嘘をついた。あの頃はまだなんでそんなことしたか分からなかったけど、今なら分かるよ」

 母が亡くなったのは桜井が十代の頃で、母の意思で彼に死が伝えられることはなかった。当時思春期ながら死というものと向き合った桜井は、母が嘘を吐いた理由について疑問に思っていた。

 あれから長い月日が経つに連れて、その疑問は徐々に解きほぐされていった。

「人間はいつかは死ぬかもしれないけど、それがいつの日かなんて分からない。いつ来るかも分からないものを怖がってたら、きっと生きづらいはずだ。だから俺の母はさ、死なんていう悲しい未来を、俺に想像してほしくなかったんだと思う。それがただの現実逃避で、間違った真実だったとしてもな」

 つまり、母は死んだわけではないのだから、桜井には死や病を恐れずに生きてほしい。もちろん現実には理不尽なこともあるが、子どもの自分にはそれらに左右されず、自らの意思で生きてほしかった。

 彼の母はきっと、絶望や不条理に抗う術をその命を以てして最期に教えてくれたのだ。少なくとも桜井はそう解釈している。

「現実は一つしかない代わりに、可能性はたくさんある。一つの事実はどう見るかで真実は大きく変わるんだ。でなきゃ、世の中に嘘は生まれない」

 小さい頃まで、桜井は母が旅に出たと思い込んでいた。それは真っ赤な嘘だったとしても、桜井はその間だけは死という理不尽さを知らずに生きていた。いずれは知ることになるにせよ、母は少しでも長く彼に自由を与えたかったのだ。

「世の中は思い通りにいかないことだらけなんだから、せめて心の中だけでも都合の良いように考えればいい。そうすれば、多少は気が楽になる。たぶん、そう言いたかったんじゃないかな」

 話を聞いた澪は、どこかを見ている桜井の目を見つめた。自分の信じることだけを信じる、彼の物事の見方は独り善がりとも言えるだろう。だが躊躇いのない彼の言動を見れば、おそらく彼はとっくにそれをも受け入れている。そしてその自信の源は、母から教えられた都合の良い可能性の捉え方があった。

「……いいお母さんね」

 そっと言葉をかけると、桜井は今一度彼女と目を合わせた。彼女は何か思い詰めるような顔をしていて、その心に浮かんでいた気持ちを素直に告白する。

「実は私もね、あなたみたいに割り切って考えられたらどれだけ楽だったか、考えたことがあるの。超能力者になりたくてなったわけじゃないし、その運命から逃げちゃえばいいって。世の中諦めが肝心って言うでしょ? でも、私は割り切れなかった。ううん、割り切っちゃだめだった」

 彼女の言う通り、選択の余地はなかっただろう。しかしだからといって、彼女は選択しなかったわけではない。たとえ半ば強制されたとしても、結果として決めるのは自分。

「現実から目を背けても、逃げられるわけじゃない。だから、力と向き合うことにした。自分の……弱さにもね」

 桜井は澪の過去を知っているわけではないが、彼女の口から紡がれた声と言葉を聞いてきた。そこには一言では言い表せない感情があり、同時にあるものを感じていた。

「理由がどうあれ、逃げなかったのは君が強いからだ、暁烏」

 ──それは挫けない強さだ。

 過去を嘆くのは乗り越えた傷や痛みの証であり、それに耐え抜いたことの証明でもある。

 そして今、桜井の前にいるのは過去を嘆き超能力者という運命に疲弊した女性。そんな澪に、彼は寄り添う言葉をかけた。

「君は自分が思ってるよりずっと立派だ」

「桜井くん……」

 世界を都合よく考える桜井と、本当の自分を押し殺した澪。彼女のそれは超能力者として見れば都合のいいことで、押し殺される本心からすれば都合の悪いことだった。つまり、都合の良し悪しは容易く反転する。そのことを知っていた桜井に出会い、澪は初めて本当の意味で自分に都合のいい生き方を知ることができた。

 そんな二人が今の関係を築いたのも、お互いにとってからなのだろうか。

「その点、俺はいつも諦めて生きてきた。世界が都合よくしてくれないなら、自分で都合よくするしかない。卑怯な考え方とか自分に甘いとか、DSRの仲間にはいい顔をされないけど。だからこういう話はあんまり人には話さなくてさ。君だから特別」

 真面目な話になっていたせいか、凝った肩を回す。時間にすれば短いが、かなり長いこと話し込んでいたようにも思えた。母と死別した時から澪との出会いを経て今に至る。それを一瞬で振り返ったのだから無理もないだろう。

「ありがとう、わざわざ教えてくれて」

 澪は桜井から教えられたことの原点を知ることができた。こうして桜井と話をすることができるのにも、彼女にとって大きな意義があることだ。

「あなたのことを良く思わない人もいるかもしれないけど、気にすることないわ。あなたは心の広い人よ。人には受け入れらないことも受け入れられるだけ」

 諦めること。受け入れること。

 それはまったく違う意味を持ちながら、その実よく似ている。傍から見た桜井は諦めがちに見えるかもしれないが、彼は受け入れているだけに過ぎない。

 彼と知り合って日の浅い澪がそう言い切ることができたのは、

「だって、私の責任も受け入れてくれたもの」

 微笑みかけてくれた彼女の言葉に桜井は何度か頷き返し「そうあれるように努めないとな」と呟くと、机の上に外してあった腕時計を見た。もともとの時間が遅かったのもあって、夜も大分更けてくる時間だ。

「さて、今日はもう遅い。君も早く帰った方がいいだろ」

「私の方こそ、こんな時間に押しかけてごめんなさい」

 桜井が立ち上がると、澪も慌てて立ち上がった。

 二人は玄関口へ向かい、澪は靴を履く。

「いいや。君が来てくれたおかげで元気出た。遠征もなんとかなりそうだよ」

 すっかり話し込んでしまったが、桜井は二日後にアルカディアへ行かなければならない。そのことを思い出して少し気が重くなるが、これ以上は野暮になるだろう。

「うん。それじゃあ、またね」

 澪が扉に手をかける直前、

「あとさ、チョコありがとな。暁烏」

 何と言って見送るべきか考えていた桜井は、持ってきてくれたチョコのことを思い出して急にそのお礼を言った。のだが、澪は背中を向けたまま固まっている。変なことを言ってしまったかと思い、桜井は気まずそうに返事を待つ。

 数秒後、彼女は扉の取っ手から手を外し、横顔だけをこちらに見せた。

「その……澪でいいわよ? 暁烏って呼びにくいでしょ?」

 唐突な申し出だという自覚からか、気恥ずかしく思えて桜井の様子をおそるおそる窺う。案の定、彼は面食らったような表情をしていた。

「……あぁ、そうだな。君がいいなら、そうさせてもらおうかな」

 澪が頷きつつ誤魔化すように笑うと、彼もまた笑みを返した。

「それじゃあ、……ばいばい」

 少し早まった心音を悟られぬようにそそくさと外へ出て扉を閉める。

 廊下に出た彼女はくるりと背を向けると、そっと胸に手を当てる。緊張のせいで変なことは言っていないはず──強張った心をほぐすように、「……ふぅ」と小さく息を吐く。そうして自然に口元を緩め、前向きな足取りで帰路へ着いた。

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