第5章第5節「想像の地平線へ臨む」
DSRのエージェントたちは本部を中心に活動している。他に大きな拠点と呼べる場所は支部以外になく、様々な状況によって本部に戻れない場合もある。そんな時のために、ラストリゾートの各地には隠れ家が用意されていた。隠れ家というだけあって目立つ場所にはなく、一般的な集合住宅の中の一室を借りて紛れ込んでいる。部屋には任務に必要な道具が保管されているほか、本部との通信機器も備わっている。また、隠れ家は任務以外にも利用されることが多く、エージェントが使う臨時の家として寝泊まりすることもできた。
桜井に手配された部屋は、ラストリゾート・S2セクターにある七階建てのアパートの一室。リビングとダイニング、バスルームの三つの部屋があり、普通の一人暮らし用の間取りだ。もちろん冷蔵庫やエアコン、ベッドなどの生活魔具を含んだ家具は設置され生活する分には何も問題はないはずだ。あるとすれば、食料は非常食ぐらいしかまともなものがない程度だろう。
近くのコンビニで買ってきたもので食事を済ませ、床に座ってベッドに背中を預ける桜井。なんだかんだとやることを済ませると、時刻は十時を過ぎている。
ラテランジェロ総帥から魔法郷アルカディアへの遠征を命じられ、二日後には出発する。未だ実感が湧くものでもなかった。今日でさえ、ポーラが主導した魔具の取引を囮にして戦い、かと思えば月城財閥で『宝物庫』で甦った時成の弟の亡霊を鎮めた。そして二日後、魔法郷アルカディアへ向かう。
彼には外国に渡った経験はない。ラストリゾートに暮らす前のことはあまり覚えていないが、長閑な田舎で過ごしていたふうに思う。というより、住んでいた場所がラストリゾートと呼ばれるようになったのだから、そういう言い方はやや違うかもしれない。とにかくラストリゾートでの生活に慣れ、今ではDSRのエージェントとして活動している。振り返ってみると、色々なことがあった。
一人感慨に耽っていると、インターホンが鳴る。こんな時間に誰かと思ってモニターを見ると、写っていたのは予想外の人物だった。
「暁烏か?」
『あ、桜井くん? 私、澪よ』
エントランスのないアパートであったため、澪が立っていたのは部屋の外。彼女は無意識かカメラに顔を近づけて言った。
そもそも桜井がいる隠れ家はDSRの関係者しか知り得ない。彼女も関係者といえばそうかもしれないが、よほどの理由がない限りは秘密にされるもの。特にルールに厳しい浅垣が教えるわけもないが……。
ひとまず玄関を開けると、澪は手を後ろにやったままぎこちなく時折目線を逸らしながら話す。
「ごめんなさい。急に来たりして……えっと、コレットさんから聞いたの。この家のこと」
「あぁ、コレットか。そんなとこかなとは思った」
どうやら澪に場所を教えたのはコレットらしい。余計なお世話というか、変なところまで気を回すのは彼女らしい。
すると、彼女は後ろ手に持っていた茶色の紙袋を前に出した。
「えっと、さっき来る途中でチョコを買ってきたの。よかったら食べて? 口に合うか分からないけど」
差し入れされるとは思っていなかった桜井は少し驚きつつ、彼女から袋を受け取った。
「ありがとう。ちょうど甘いものが欲しかったんだ」
彼が笑ってくれたのを見て、澪もようやく顔を綻ばせた。ここに来るまでずっと緊張していたようにも思える。
「よかった……」
安心から静かに笑い合うと、再び静まり返り始める。黙り続けるのは気まずく感じ、桜井は完全に静かになる前に何か言おうと考えた。
「えーっと、……立話もなんだし入ってく?」
とりあえずの気遣いだったとはいえ、彼の言う通りに夜の外は肌寒い。どうせ話をするなら、と澪は彼の肩越しに中を覗き見ながら頷いた。
「う、うん。じゃあ少しだけお邪魔します」
そうして、隠れ家の中へ入る二人。二人きりになるのは博物館に連なる事件以来だが、あの時とも違う緊張感があった。あの時はお互いに利害一致から一緒にいただけに過ぎないが、今回は望んでこの状況になっている。わずかだが大きな違いは、二人の態度にも影響を及ぼしている。
桜井は澪をリビングへ案内し、背の低いテーブルを囲う。桜井は窓際に座り、貰ったチョコをテーブルに置いた。ようやく腰を落ち着かせ向き合う時間を得て、澪は本部で聞いたことを本人に改めて聞き直した。酔ったコレットが嘘をつくと思っているわけではなく、単純に事実を確かめるために。
「聞いたわよ。アルカディアに、……行くんですってね」
彼が遠くへ行ってしまう。自らが口にすることで事実は浮き彫りになり、彼はそれを肯定した。
「あぁ。出張を任されるなんて俺も出世したもんだな」
冗談を交えて話す桜井だったが、澪の表情は明るいものではなかった。
仕事上、危険な事柄に関わるのは仕方のないことだとしても、彼が担う役割は次第に大きくなっている。それは誰の目から見ても明らかで、ついには外国に派遣されようとしているのだ。
二人はそれほど付き合いが長いわけではないが、苦難を共に乗り越えてきた。その過程で芽生えた感情は少なからず彼女にとっては尊いもので、無碍にしたくない。だからこそ、彼が遠くへ行ってしまうことを不安に──そして寂しく思っていた。
「……気をつけてね」
口調は深刻そのもので、桜井との温度差は大きい。それでも彼は心配してくれることを受け止め、あくまでも気楽そうに装った。
「大丈夫。アルカディアに行けば、レリーフや二本の魔剣のことも何か分かるかもしれない。願ってもないチャンスだ」
彼女が思っているよりも桜井は強いのかもしれない。少し前までの彼女ならこんな心配はしなかっただろう。超能力者としての責務に追われ、自分の中の感情は全て押し殺していた。それをしなくて良くなったのは目の前にいる桜井のおかげで、素直に気持ちを出せるようになった。
桜井から見ても、澪は以前に比べると積極的に気持ちを伝えようとしてくれる。自分らしく生きろと伝えたのは彼自身で、だからこそ彼女の気遣いは素直に嬉しいものだった。たとえ空回りしていたり、あの時の恩返しだったとしても。
「ねぇ、もし何か困ってることがあるなら遠慮なく言ってね。私にできることなら、何でもするから。あなたに言わせればあの時の恩返しに見えるのかもしれないけど、私がそうするって決めたことなの。だから、本当に遠慮しないで」
真摯な姿勢は本来の彼女の姿。そして二人は気づいていないかもしれないが、立場はすっかり逆転していた。今までは澪が担うべき責任を桜井が手伝おうとしていたが、今では桜井が抱えている苦難を澪は分かち合おうとしている。それは次に出てきた彼女の言葉が何よりの証だ。
「それと……あのレリーフが桜井くんの分身だったとしても、あなたの中に彼がいるとしても、私の知ってる桜井くんはあなただけよ。それを忘れないで」
桜井はユレーラの正体をはじめとする秘密を澪と浅垣以外にも告白した。皆に不要な迷惑をかけまいとして秘密にしていたが、いざ打ち明けてみると皆は彼を支えようとしてくれた。コレットも蓮美も、事情を知らない未咲希も、そして澪も。彼女に至っては予め知っていた秘密を守り、こうして隠れ家にまで来てくれた。
そう思うと、彼を取り巻く環境は恵まれていると言えるだろう。今回の告白でそれを自覚させられた彼は、なるべく謙虚に努めようとする。
「ありがとな、暁烏。君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
電車での浅垣曰く、桜井は今日までずっと澪のことを気にかけていたという。それと同じように、澪もまた桜井のことを考えていた。
──彼が研究所や博物館で言ってくれた言葉、自分を認めてくれること。
──彼女が秘密を守ってくれたこと、自分を信じてくれること。
二人はお互いに同じ気持ちを持っている。これまで澪は桜井の気持ちに応えようとしてきたが、今改めて桜井が澪の気持ちに応えてくれた。言葉は短くとも、澪には十分に伝わっている。
ついにようやく、お互いの気持ちが同じことを知ることができた澪。彼を見つめていた目を逸らしては瞬きを繰り返し、キュッと口を結ぶ。それを受けて桜井も気恥ずかしさが移ったように頭をかき、別の話題を探そうとする。
「……ところで、浅垣はなんか言ってた? 俺のこととか変なこと言ってないといいけど」
コレットと作戦行動を共にしていた桜井は、浅垣や未咲希といた澪とは別々の班だった。その間、浅垣が何か余計なことを口走る可能性はある。尤も浅垣は無口だが、離れた人の口は塞げない。
これこそ余計な心配ともいうが、澪は首を横に振った。
「いいえ。大したことは聞いてないの。ただ、彼がDSRにいる理由を聞いただけ」
彼女の言いぶりを見るに思いのほか浅垣は饒舌だったらしい。桜井は「へぇ」と興味深そうに続ける。
「そりゃ気になるな。あいつは俺よりも前にDSRに入ってたから、昔のこと聞いたりするんだけどはぐらかされてさ」
「ってことは、桜井くんの方が後輩? いつも仲良さそうだからそうは見えないけど」
彼や彼の周囲の人物とも、澪はある程度親しくなった。とはいえDSRにおける彼らの立場についてはからっきしで、見かけや各々の態度で判断するしかない。桜井と浅垣に絞ってみると、二人の関係は上司と部下というより友達同士といった雰囲気だ。澪の所感もその印象とほとんど変わらない。
しかし、桜井と浅垣の関係は職務の上に留まらない友情というよりも、もっと深いものであることを澪は知らなかった。
「まぁ義理の兄弟みたいなもんかな。俺は母子家庭で、母親は俺が小さい頃に死んじまったからあいつと過ごすことが多かったんだ」
「そう、だったの」
会話の中で過去に母と死別したことをあっさり明かす桜井。その裏にある心情は容易く察せるものではないだろう。澪は彼に気の毒なことを思い出させてしまったかと思い、後悔の念を滲ませる。
反して、桜井は気楽な調子を崩さずに言った。
「そんな悲しい顔しないでくれ。俺の母親は死ぬ代わりに大切なことを教えてくれたんだ。どんなにつらいことも楽にする術をね」
彼の言う母から教わった大切なこと。純粋に気になった澪は、率直に訊ねた。
「どんなことか、聞いてもいい?」
「馬鹿にしないなら」
条件を提示され、澪はそれを呑む。
「そんなことしないわ」
「よし、それじゃ」
そうと決まれば話は早い。彼はこほんと咳払いをしてから一息で言い切った。
「自分にとって都合のいい可能性を見ればいい」
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