第4章第5節「縺れ合う絆を解いて」
ガチャ、という開閉音と共に屋敷全体にある変化が起きた。書斎を照らしていた光が暖かいオレンジ色から冷たい青色に変わったのだ。桜井が壁のランプを見ると、そこに灯されていた火は青くなっていた。
「何が起きたんだ?」
変わったのはランプだけではない。書斎の暖炉も、廊下に設置されたランプも書斎以外の部屋も全て、青い炎に変わっていた。まるで先ほどまでいた世界とは違うことを暗に示すかのように。
「裏世界へようこそ」
歓迎の言葉に振り返ると、背後には消えていた時成とコレットの姿があった。
彼女は暖炉やランプに灯された青い火といった書斎の相違点を眺め、腑に落ちる答えを得たように呟いた。
「なるほど。クリップディメンションね」
「……そういうことか」
桜井もまた納得したふうに何度か頷く。その一方で、
「なんだそれ?」
まったく理解できていない様子の時成。対して、コレットは冷静にある理論のことに触れた。
「クリップディメンション理論は、魔導科学で否定された平行世界を再び証明するための理論よ。可能性は無限にあるけれど、現実は一つしかない。その常識を覆すには現実をもう一つ作らないといけないわ。そして魔法は可能性を現実に変える力。魔法を使って現実をもう一つ作りあげることができれば、そこは鏡の中みたいに瓜二つの世界になる。そうやって複製した次元がクリップディメンション。あなたが言うところの裏世界、でしょ?」
彼女なりに噛み砕いて説明してもなお、時成は今ひとつ分かっていない様子で頷いた。
「多分そういうこと。とにかくこの鍵は現実の屋敷ともう一つの屋敷を行き来できるみたいなんだ」
尤も科学的な理論の云々より、大事なのは彼らが置かれている状況だ。秘密の鍵を使って、屋敷の裏世界へ踏み込む。それが導くべきは理論ではなく手がかりに相対する答えだ。
「ってことは、宝物庫はあっち側じゃなくてこっち側にあるってことか」
「その通り」
時成が肯定するまでもなく、それ以外の可能性はないと言っても過言ではないだろう。
「裏世界か。財宝を隠すにはもってこいだな」
最初こそ驚いていた桜井だったが、カラクリを知った今では落ち着き払っている。
なぜなら、DSR本部にもクリップディメンション理論を応用したマルチスペース構造が採用されているから。桜井は疑似的なテレポート装置を用いて行き来したことがあれば、世界魔法史博物館でも経験している。だからこそ、桜井は自分たちが置かれている状況を素早く理解できたのだ。
言うなれば、人工的な平行世界。これまで数々の超常現象を目にしてきたが、常軌を逸した技術だ。平静を装ってこそいても、感心せずにはいられない。中でも驚くべきは、理論すら知らずに鍵を使った時成とも言えるが。
「それじゃ、早速行ってみましょ」
短い物思いに耽る桜井の隣で、コレットは時成に案内を促す。
「宝物庫はこっちだ。ついてきて」
コレットの頼みということもあってか、時成は素直に二人を案内すべく扉を開いて廊下に招く。現実の屋敷も無人のために独特の雰囲気を持つが、裏世界の屋敷となるとより得体の知れない空気の重みを感じる。三人は屋敷の上下を繋ぐ螺旋階段から一階へ降りていく。
「上ってくる時にも見たと思うけど、この階段は地下に通じてない。でもこっち側なら地下に行けるんだ」
確かに階段は一階より上にしか繋がっていなかったことを思い出す桜井とコレット。しかし、二人の目の前には地下へ繋がるあるはずのない階段が現れた。
「もう見に行ったのか?」
桜井が確認を取ると、時成は首を横に振った。
「いや。これを見つけたから、あんたたちに連絡したんだよ」
裏世界。あるはずのない地下へ続く階段。そこに隠された宝物庫。
魔法を使う危険なテロリストばかりを相手にして忘れていたが、DSR本来の仕事には相応しい内容だ。浅垣たちが対応するポーラ・ケルベロスの件も見過ごせないが、こちらもかなり重大な事柄になりそうな予感をひしひしと感じる。
「よし、それじゃ行くとするか」
意気込む桜井は、暗い地下への階段を降りようとする。その直前で、時成は声を上げた。
「ちょっと待った」
引き止められた桜井はため息混じりに振り返る。
「まだ何かあるのか?」
あとは宝物庫に向かうだけ。他に優先すべきことがあるとも思えないが、彼は声のトーンを落として真面目な口ぶりで語りかけた。
「実は二人に頼みがある」
改まった態度に面食らったのは桜井だけでなく、コレットも腕を組んで首を傾げる。
「こんな人気の無いところに連れ出してお願いなんて何かしら?」
宝物庫を目の前にしていったいどんな頼み事をするのかと思えば、時成らしくもない用心深いものだった。
「誰か一人だけ残って、屋敷に誰か来ないか見張ってて欲しいんだ」
彼の口調からして本気で言っている。だがなぜ見張りを立てることを提案したのだろうか。
「らしくないな。何に怯えてるんだ?」
時成ほど能天気な男がそれほどまでに警戒しているのには、相応の理由がある。
「実はこの鍵はシャンデリアから持ち出したんだけど、もうバレててさ。もしかしたら奴ら誰かを送り込んでくるかもしれない。最悪、テロリストに情報を漏らされでもしてたらおしまいだ」
そう。時成は鍵を持ち出す際に楽園政府ネクサスの長官に見つかっている。長官は下手に時成のことを詮索することもなく見逃したが、長官の顧問弁護士である
「あたしか桜井くんに屋敷を守ってほしいってこと?」
長官が本気で月城財閥を潰そうとするかは分からないが、警戒するに越したことはない。時成にとって今の財閥は大きなしがらみとなっていて、危機に瀕している。だからこその頼みだった。
「頼む! この通りだ!」
両手を合わせて頭を下げる時成。困った桜井はコレットを見ると、彼女はため息をついて腰に手を当てた。
「ま、いつもなら桜井くんに任せるところだけど、ここはあたしが引き受けてあげる」
思いの外すんなりと受け入れたコレットに、桜井は念のために訊ねる。
「本当にいいのか?」
彼女はこれも仕事の一環としか思っていないのだろうが、宝物庫には何があるか分からない。誰もいない屋敷に残るよりも、全員で宝物庫に向かった方が色々と対応できることも増えるはず。そんな桜井の懸念をよそに、コレットはいつものイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「地下ダンジョンは男の子のロマンだもんね」
コレットの言葉はふざけているようで、宝物庫での出来事を桜井に任せるとも言っている。それは彼女が桜井を信頼しているからこそできることだ。来るかも分からない敵への見張りに立つのなら、優秀なエージェントであるコレットより桜井の方が妥当なのだから。
「助かったよコレットさん……この借りは必ず返すから」
時成は思わずといった調子でコレットの手を握って礼を言う。彼女は「はいはい」と適当にあしらいつつ手近な扉へと向かう。
現実と裏世界を出入りするには、鍵を回す必要がある。厳密に言えば、鍵を回した人だけが行き来することができる。つまり時成は鍵をコレットに一度だけ貸して、彼女が鍵を回した後で時成が鍵を抜けば彼女だけ裏世界から出ることができるのだ。当然、鍵を持たない彼女は戻ってくることはできない。
「もし誰か来たとしても、裏世界じゃなく向こう側に来るはずだ」
「それくらい言われなくたって分かるわよ」
コレットらしくないつっけんどんな言い草は珍しい。裏世界に残らず見張りを買って出たのは曲がりなりにも彼女だが、気が進まない部分もあるのだろうか。
「もしかして怒ってる? 仲間はずれにされて」
普段から手玉に取られる恨みとばかりにちょっかいを出す桜井。対して、コレットは「別に?」とそっぽを向いたまま続ける。
「裏世界なんておっかない場所、さっさとおさらばさせてもらうわ」
捨て台詞を吐いて鍵を回す。次の瞬間には彼女の姿は裏世界から消え、鍵だけが残された。時成はその鍵を抜いたが、桜井はあまり良くない想像をしていた。もし裏世界に自分たちが残ったまま、あちら側から鍵が抜かれてしまった場合、自力で出ることはできるのだろうか、と。
頭を過ぎる妙な考えを振り払い、桜井は戻ってきた時成に話しかける。
「あーあ。普段はあっちからちょっかいかけてくるくせに、意外と繊細だよな」
本人がいない内に言いたい放題するつもりが、時成は極めて真面目に言葉を返した。
「でも嫌いじゃないよ。俺は好き」
忘れるわけもないが、時成はコレットに惚れている。そんな彼に彼女の悪口を理解させるのは、困難を極めるだろう。
「そっか」
時成の彼女への想いに折れ、桜井は気乗りしないまま地下への階段を降り始めた。
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