第2章第2節「ゆるやかに水面を伝う嵐」

「親父の尻拭いなんてしなくたっていいんだぜ? うちの財産があれば一生遊んで暮らせるんだ。酒も飲み放題だぞ!」

 言ってしまえば、時成は無責任だと非難されても仕方がないだろう。だが、瑛里子はそんな彼を黙って見守っている。

 時成の父である時宗は失踪した。そんな中で、父が築いてきた遺産を託されても重責に押し潰されるのは目に見えている。いくら遺産が巨大で誇らしい財閥だったとしても、彼一人が背負うにはあまりにも重すぎる宿命だ。

 だからこそ、自由を謳歌する時成を責めることはしなかった。責任から逃れるように酒を飲んで眠っていようと、街に出て豪遊していようと、咎めない。彼が負っている傷は、そうでもしないと癒せないのだ。

「せめて、酒に付き合ってくれる弟が生きてればな」

 ふと、時成は思い出したように呟いた。名残惜しい過去、胸を焦がす恋しさの滲む声色で。

「…………」

 憎悪とも哀愁とも違う感情は、彼自身にしか分からないもの。月城財閥の秘書でありながら彼らの家族ではない瑛里子にとって、聞くに堪えないことだった。

「家族はバラバラだ。時矢が死んじまった時から全てが変わった。ある日突然親父がいなくなったかと思えば、おふくろは静養をとったきり帰ってない。残ったのは俺だけだ」

 暖炉の上には四人家族の写真が飾られている。並んで立っているのは父の時宗と母の牡丹ぼたん。二人が抱えているのは幼い時成ともう一人、少年は双子の弟の時矢ときやだ。

 瑛里子は時成と時矢の兄弟の仲が睦まじかったことをよく知っている。彼らのことを見守っていたのは、秘書としてだけでなく家族としての想いも少なからずあっただろう。もちろん、そんな烏滸がましい感情は持たずただ秘書としてその場にいた。

 そう。たとえ家族ではない秘書としてであっても、家族を失った時成にとっては大きな支えにもなっている。

 もっと言えば、今の財閥はそうした絆という細い糸の上で成り立っていた。

「あなたたち兄弟は本当に仲が良かったわよね」

 会話の中で、瑛里子は昔のことを思い出していた。彼女が時成の世話を焼くことに慣れているのは、彼が幼い頃から面倒を見ていたから。また、秘書と会長の息子という主従関係を感じさせないのも、付き合いの長さがあってこそ。

 時成も昔を思い出し苦笑いを浮かべてみせた。その表情には、先ほどまでの父への意地や憤りの色はない。

「親父はいつも仕事ばっかりで偶に顔を合わせればあーだこーだ叱りつけてきた。でおふくろは俺たちを慰めてくれたから、親父に何を言われたって平気だった。だから、俺と時矢は好き放題できたのかもしれないな。おふくろだけは味方でいてくれたからな」

 時成が話した通り、時宗は厳しく牡丹は甘かった。飴と鞭とでも言うべき関係性だったが、だからこそ兄弟は仲がいい。時成と時矢が伸び伸びと屋敷を走り回っていたのは、瑛里子もよく覚えている。

「仲がいいのはよろしいけど、魔法で色んなイタズラをしてきたのには本当に参ったけど。私の靴を隠したり、服を溶かしたりね」

「あれはもう時効だろ? それに俺じゃなくて時矢が思いついたんだ」

 過去の思い出は、現在と違って優しい。なぜなら、己に何かを強いたり傷つけたりすることがないからだ。時に苦しい思い出が残ることもあるが、そんな時こそ楽しかった記憶は慰めてくれる。

「でもあれがあったからこそ思い知ったんだ。本当に怒らせちゃいけないのは親父じゃなくておふくろだって」

 とはいえ、いつまでも思い出に浸っているわけにもいかない。月城財閥の現状は決して楽観視できるものではないのだ。どれだけ辛くても、前に進まなければならない。

「親父め。帰ってきたらタダで済むと思うなよ」

 忘れてはならないが、会長はあくまで失踪しただけである。つまるところ、死んだわけではなくどこかで生きているかもしれない。

 そうした希望は、時成と瑛里子にとって生きる活力になっていた。

「何か手がかりは見つかったの?」

 瑛里子が財閥の雑務をこなす間、時成は本当にただ遊んでいただけではない。

「まだ見つかってない」

 失踪した会長──父に繋がる手がかりを探す。それはある意味、財閥の雑務をこなす以上に最重要かつ優先されることだった。

「とりあえず今は『宝物庫』の鍵を暗黒街の連中より先に見つけないとな。あのクソ親父め、どこに隠してるんだか」

「私もシャンデリアの中を探したいところだけど、相変わらず会長の執務室には自由に出入りできないの。入れたとしても、警備付きだから露骨に探し回れないし」

 父への手がかりを探す途中で発覚した、屋敷の地下空間にあるという『宝物庫』。その存在は定かではないが、二人は鍵を探していた。中に何があるのかは見当もつかないが、父の行方に関する手がかりになり得るかもしれない。二人が鍵を探すのは、藁にもすがる思いだ。

 しかし正直なところ、屋敷中を探しても見つかりそうになかった。そこで時成が目をつけていたのが、シャンデリアにある時宗の執務室だった。が、秘書である瑛里子でさえ容易には侵入できないようだ。

「焦らなくても大丈夫さ。エリーゼのやつがきっとなんとかしてくれる」

「……このまま上手く騙されてくれるといいんだけど」

 シャンデリアにある時宗の執務室へ入るために、彼らは前もってある計画を立てている。それが成功する確率は未知数だが、賭けるしかない程度には他に方法がないのも事実だ。

「なんとかなるさ」

 やるべきことはまだまだある。休む遊ぶことも大切だが、立ち止まっている時間すら惜しい。

「それじゃ、私はもう行くわ。この後も用事が立て込んでるの」

 何も時成に限ったことではなく、瑛里子も同じ。どうやら彼女は時間の合間を縫って屋敷に訪れたようで、向かう場所があるらしい。

 目的地がどこかは聞くまでもない。時成は彼女が水面下で行っていることを把握している。

「気をつけてな」

「お互いにね」

 短く別れを告げて、書斎の扉が閉じられる。

 一人残された時成は、今一度深くため息を吐いた。


 ────その時、棚に置かれていた煙管が不自然に落ちる。煙管は真下の暖炉の前に転がった。


 不気味な怪奇現象は今に始まったものではない。時成は固唾を飲んで煙管を見つめた。

 月城財閥の屋敷には悪霊が潜んでいる。しかも、その悪霊は失踪した会長そのものではないか。街ではそんな噂が立っているが、時成は気にしていなかった。

 しかし奇遇にも、不自然に転がり落ちた煙管はかつて父の時宗が愛用していたものだった。

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