第2章「ゆるやかに水面を伝う嵐」
第2章第1節「ゆるやかに水面を伝う嵐」
世界魔法史博物館の崩壊は、月城財閥にとって大きな痛手となっていた。ラストリゾートの報道機関である『デイリーレンダリング』や『楽園日報』は博物館の損失は財閥の損失であり、会長なき財閥にとって深刻なものだと表現している。
それは紛うことなき真実だった。
財閥の御曹司である
数年前、会長である
もはや、財閥の屋敷には人がほとんど残っていない。使用人たちは時宗の失踪と同時に辞職し、抱えていたスポンサーの多くは契約を破棄した。屋敷の中は依然として明るいが、無人に近い状態なのはそういった背景がある。屋敷には悪霊が潜んでいるという噂も、そこを起源に発生したものだ。
こうして孤立無援となった財閥だが、誰一人として味方がいないわけでもなかった。星雲の輝く幻想的な夜空の下、屋敷へ入っていく一人の女性。彼女は屋敷内の構造を把握している様子で、案内もなく真っ直ぐに書斎へと向かった。かつて会長だった時宗の私室として使われていた場所だ。書斎前の扉へ向き合い、彼女は慣れた手つきで数回ノックする。
返事はない。会長は数年前に失踪したのだから、当たり前かもしれない。彼女は数秒待ってから、扉を開け放った。
「返事くらいしたらどうなの?」
出迎えの言葉がないに関わらず、彼女は中にいる誰かに向けて呆れた声をかける。時宗はいないにしても、彼の息子である時成がいることを知っているから。
彼は父の席に座ったままで伸びをする。デスクには空になったビール瓶がいくつも倒れていて、酔いつぶれたまま眠っていたようだ。
「……いま何時?」
眠気の取れない声で、時成は書斎に入ってきた女性に尋ねる。
「もう八時過ぎですよ。会長」
腰に手を当てて言う彼女の名は、
────つまり、時成に髪を編み込むことを教えた張本人だった。
「よしてくれ。せっかく良い夢見てたのに」
大きな欠伸をしながら冗談をかわす時成。
「はいはい、どうせ女の子にチヤホヤされる夢でしょ」
こうした他愛もないやり取りはいつものこと。時成が見る夢といえば女の子にチヤホヤされる内容ばかりだし、会長と呼ばれることを本気で嫌っていることも分かっている。実のところ、彼は瑛里子の言葉を冗談と受け取っておらず、嫌味にしか聞こえていないだろう。
本来であれば、時成は財閥の御曹司として跡を継ぐべきなのだが、自由を愛する彼は運命を拒んでいる。だからこそ、寝起きということを抜きにしても彼はやや不機嫌そうなため息を吐いた。
「夜ご飯は?」
「まだ食ってねーよ」
「だと思ったわ。これ、買ってきたから食べなさい」
彼女がデスクの上の空き瓶をどかして代わりに置いたのは、ファストフード店からテイクアウトしたもののようだ。美味しそうな匂いを嗅ぎ、ようやく目が覚めてくる。
「サンキュー」
時成は買ってきてもらったハンバーガーを食べ始めた。立場で言えば瑛里子は秘書であるが、ここまで世話をする義務はない。あくまでも善意でやってくれていることを、時成もよく理解している。だからこそ、彼女には頭が上がらなかった。
「そういえばDSRが来たよ。桜井と浅垣っていうヤツだ」
「そう。彼らはなんて?」
大して驚きもしない瑛里子に、時成は桜井たちから聞いた名前をぶっきらぼうに口にした。
「えっと確か、ポーラ・ケルベロスっていうやつを探してるらしい。なんでも、博物館の魔具をそいつが狙ってるとかなんとか。なんか知ってる?」
「ふーん、彼らも彼女を追っているのね。それなら大助かりだわ」
瑛里子の口ぶりから察するに、DSRにはある程度の信頼を置いているらしい。その点については時成も同意できるし、彼らが協力を拒む理由はない。
「こっちも人手が足りてないし。猫の手も借りたいくらいなんだから」
瑛里子からの視線に少しばかりの痛みを感じる。財閥が置かれている状況に対して、時成は遊んでばかりで机の上にあった空き瓶を瑛里子がわざとらしく片付ける。
「……まったくだよ」
どこかバツが悪そうに縮こまる時成。少なからず反省の色が見えたことで、瑛里子はそれ以上の嫌味を口にしなかった。
「あなたの代わりにシャンデリアへ出向いてるんだから、留守番くらいはしっかりしてよね」
瑛里子について特筆すべきは、楽園政府ネクサスの根城であるシャンデリアに駐在しているということ。彼女の最も重要な仕事は、ネクサスと財閥の関係を取り持つことである。さらには財閥が有する様々な契約も管理していて、DSRに記念公園の部分滅菌を依頼したのも彼女である。もっと言えば、博物館から流出した魔具を回収するべく奔走しているのも、時成ではなく彼女だった。
その時、書斎の暖炉に火が灯されていないことに気づく。暖炉の棚の上にはリスに似た半透明の小動物がいたが、記念公園の中にある屋敷では珍しくもない。彼女は暖炉に近づいてリスを追い払ってから数回手を叩くと、積もっていた白い灰の中から新しい薪が浮かび上がってくる。まるで不死鳥の如く甦った薪を見やり、次に瑛里子は指を鳴らす。パチン、と指先から散った火の粉に息を吹きかけると、暖炉の薪に付着し静かに炎を上げた。
バチバチと燃える薪を眺め、瑛里子はゆっくりと口を開く。
「シェン長官は相変わらず、財閥の資産で好き放題やってるわ。正直なところ、会長のいない今の財閥はいつ潰れてもおかしくない。それなのに存続できてるのは、彼らにとって私たちが都合のいい存在だからでしょうね。極端な話、仮に私が働かなくてもきっとシェン長官はあの手この手で財閥を生き永らえさせるはずだわ」
ラストリゾート最大の財閥である月城財閥。当然その影響力は非常に大きく、莫大な資産を有している。会長の失踪によってそれが野晒しになっているのなら、政府が放っておくわけもないだろう。
「はぁ、まったく。何の為に働いてるのか、自分でも分からなくなってくるわ」
瑛里子が愚痴をこぼすのは珍しいことだった。彼女は熱心で真面目な女性であり、会長の右腕として八面六臂の活躍をしていた。時成は会長ではないにしろ、実質的に瑛里子は彼を補佐する秘書の立場にある。
これまでの時成が悠々自適の暮らしを送っていられたのも、ほとんどは瑛里子のおかげでもあるのだ。時成は考えたくもない雑務の全てを適切に処理してくれる。そんな有能な秘書を持ち、時成とて思うところがあった。
「なぁ、どうして財閥のために働いてるんだ?」
彼の疑問はあって当然のものだ。
事実として、会長の失踪を機にして召使いたちは全員が財閥を去っている。いくら時宗の伴侶である牡丹や息子の時成がいるといっても、財閥の未来は暗く見通すことができない。沈みかかった船を捨てるのは合理的なこと。
「どうしてかしら」
それでも瑛里子が会長なき財閥を去らなかった理由。口では誤魔化したが、彼女の中では既にはっきりしている。
しかし、それを語るのは気恥ずかしくそれらしい理由を編み出した。
「財閥の資産が悪用されないように、かしらね」
そういった意味では、楽園政府に利用される分は十分に妥協できるだろう。暗黒街のテロリストに利用されるより、少なくともラストリゾートの開発や維持の為に使われるなら看過できる。会長がどういった使い道を望んでいるかは分からないが、瑛里子には資産を守る覚悟があった。
反面、時成は相変わらず責任問題には一切の関心を示さない。
「親父の尻拭いなんてしなくたっていいんだぜ? うちの財産があれば一生遊んで暮らせるんだ。酒も飲み放題だぞ!」
言ってしまえば、時成は無責任だと非難されても仕方がないだろう。だが、瑛里子はそんな彼を黙って見守っている。
時成の父である時宗は失踪した。そんな中で、父が築いてきた遺産を託されても重責に押し潰されるのは目に見えている。いくら遺産が巨大で誇らしい財閥だったとしても、彼一人が背負うにはあまりにも重すぎる宿命だ。
だからこそ、自由を謳歌する時成を責めることはしなかった。責任から逃れるように酒を飲んで眠っていようと、街に出て豪遊していようと、咎めない。彼が負っている傷は、そうでもしないと癒せないのだ。
「せめて、酒に付き合ってくれる弟が生きてればな」
ふと、時成は思い出したように呟いた。名残惜しい過去、胸を焦がす恋しさの滲む声色で。
「…………」
憎悪とも哀愁とも違う感情は、彼自身にしか分からないもの。月城財閥の秘書でありながら彼らの家族ではない瑛里子にとって、聞くに堪えないことだった。
「家族はバラバラだ。時矢が死んじまった時から全てが変わった。ある日突然親父がいなくなったかと思えば、おふくろは静養をとったきり帰ってない。残ったのは俺だけだ」
暖炉の上には四人家族の写真が飾られている。並んで立っているのは父の時宗と母の
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