第338話・今はまだ早い
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で俯いたアナイナは、小声で言った。
「勝手に町を出た」
「うん」
ぼくは右の拳を突き出して、指を一本出した。
「お兄ちゃんの印影勝手に使った」
「うん」
二本。
「お兄ちゃんが嫌がってることやらせようって思った」
「うん」
三。
「スピーアの言うことにつられて一緒に出て行った」
「うん」
四。
「聖女なのに居場所を知らせずにいた」
「うん」
五。
「ソルダートを騙した」
「うん」
左手の指も一本出す。
「お兄ちゃんも騙した」
「うん」
七。
指が一本増える度に、アナイナが落ち込んでいく。
「……お兄ちゃんの嫌だって言ってたことを、お兄ちゃんが嫌だっていう理由も聞かないで、わたしが動けばお兄ちゃんも動くしかないと思って、勝手に始めた……」
「それくらいかな?」
目を真っ赤にしてこくりと頷くアナイナ。
「……そこまで分かってるなら」
静かに言うぼくに、アナイナがまたびくっと竦む。
「なんで実行に移しちゃったの?」
「お兄ちゃん……優しいから……わたしが動いちゃえば……きっと……動いてくれるって……」
「思っちゃったんだな?」
「うん……」
また目から涙がポロポロ。
「ごめん……ごめんなさいお兄ちゃん……ごめん……」
「お前の気持ちは分からないでもないんだよ、アナイナ」
自分の髪をわしわしと掻きまわして、ぼくは言葉を選びながら言う。
「言った通り、あの精霊神がこのまま大陸の頂点に立っているのはどうかっていうのは思ってる。大陸が崩壊するかも、という話も聞いている。そして精霊神に真っ向から対抗できるのがぼくしかないってのも理解してる」
ハッと顔をあげたアナイナに、ぼくは苦笑いして首を横に振った。
「ただね。ただ、今のぼくでは、あいつに対抗できるだけの力がないんだよ」
「え? でも、お兄ちゃんは精霊神の」
「だから、一割。精霊神の力の一割を削って生み出された。分かる? 相手は九割なんだ。ぼくが九人集まらないと、対抗すらできないんだ」
「!」
アナイナはいきなり身を乗り出してきた。
「じゃあ、信者をたっくさん増やせば、お兄ちゃんが」
「だからぁ」
先走る癖のある妹の手綱を取るのは大変だ。
「相手は大陸中で信仰されてるんだぞ? 確実に御利益を与えている精霊小神ですら追いつけないほどにね。そこに、ぼくみたいな
しゅん、と俯くアナイナ。
「今はね」
アナイナの肩に両手を置く。
「ぼく自身の力の限界を知り、それを超えることが必要なんだ。当然のことだけど、精霊神から分けられた力だけじゃ精霊神には勝てない。既に大きさで差がついてるからね。精霊神に勝つためには、ぼくだけの力が必要なんだ。そのきっかけを見つけるまでは、目立った行動は起こさないほうがいい。精霊神はぼくが死んで力だけが残った状態になるまで手を出さない、と約束したけど、あっちに「約束を忘れれば無効」って卑怯技がある限り、精霊神がグランディールに付け入るスキを与えちゃダメなんだ。」
「卑怯って?」
「精霊神は記憶を操ることも出来る」
「え……つまり、自分の記憶もってこと?」
「そう。その証拠はぼく」
ぼくは自分を指す。
「精霊神の分霊、つまり分身なのに、生まれたぼくに精霊神としての記憶はなかった。つまり、精霊神は自分の記憶を消去できるってことだ。そして、消去してしまえば約束を破っても問題はない」
「ちょ、それって」
「そう。あいつは自分でした約束を自分で破ることが出来るのさ。唯一の救いは、あいつが光の存在で……悪意で行動を起こすことはないってことだ。でなきゃあ今頃ぼくの記憶から精霊神のことは消されて、そして自分で頑張っていると思わされながらあいつの思い通り第二のスペランツァを作ってたろうな」
「…………」
アナイナも黙り込んだ。
「だから」
ぼくは右手でアナイナの手を取って、軽く左手で叩いた。
「お前は、何もしないでくれ。精霊神を信じろってわけじゃないし、ぼくを信じるなってわけじゃないから。ただ、今は聖女としてグランディールで大人しくしていて欲しい。いずれはお前の力は絶対に必要になるんだから」
ぐずっと水浸しの顔を腕で拭って、アナイナは頷いた。
「うん。分かった。……ごめん、お兄ちゃんを弱虫とか言って」
「それは間違ってないからね」
ぼくはアナイナの手を離して肩を竦める。
「ぼくは怯えている。自分が人間じゃなくなることに。自分がみんなと同じ時を生きられなくなるかもしれないことに」
アナイナが不安そうな顔を向けてきた。
そう。神とは本来肉体を持たないもの。力を持った精神体。精神体は構成する力が尽きない限り生き永らえる。精霊神が大陸創世から今まで平然と生き続けているように。
ぼくが神になるということは、クレー・マークンという存在を捨てること。ぼくが築き上げてきた全てと別れて人間とは別の位相で生きること。
てか、聖女ならそれに気付けよアナイナ。
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