第321話・知らずに与えた罰

「ぎゃああああああ!」


 もんどりうつ精霊神。左の小指を握りしめてベッドから転がり落ちる。


 やっぱりか!


 普通の人間なら、小指の先を仔犬に噛まれたところで、悲鳴どころか「わっ」とすら言わない。そもそも今の力はせいぜい甘噛みだ。犬好きな人なら「も~どんどん噛んで」と言いかねないくらいの柔らかい噛み方だ。


 それに、大げさなまでの悲鳴を上げる。


 そう。


 精霊神は、肉体の痛みを知らない。


 肉体を持って生まれたのではないし、長い間肉体に宿っていたこともないので、痛いという感覚がどんなものか、知らないのだ。


 だから甘噛みでもここまで大騒ぎする。


 しかし……軽くかぷっ程度でこれなら、本気でガブって行ったら泡でも吹くんじゃなかろうか。


「クレー! 開けてくれ、クレー!」


「なっ、なっ、なん、なんだっ、これっ」


 外からの声にも反応せず、涙と鼻水をまき散らして精霊神は自分の左手小指を抑える。正直ぼくの身体でそんな顔はやめて欲しいんだけど。


(分からないかい? それが「痛み」だよ。お前が知らないまま生き物に与えた罰だよ)


「い、痛い? これが、痛い?」


(言っておくけど、そんなの痛いの内にも入らないからね)


「そ、そんな、これが、こんなに、ビリビリする、のにっ」


(本気で噛んであげようか? どうせぼくの肉体なんだし、全力で噛んでもは全然平気だし。平気じゃないのは長い間生きてきて痛いってのを全然知らなかったお前くらいだしね)


「ひ、ひぃ……」


 それまでこの大陸で一番上位に立っていた存在が、仔犬の甘噛みで悶え苦しんでいる。


「クレー! 何があった! クレー!」


「うぐぁああああ……!」


(もう一噛み行こうか?)


「やめっ、やめてくれっ、頼む、頼むからっ!」


(ダメだね。ぼく一人なら許したかもしれないけど、ペテスタイの人もいる。その人たちも……)


「だっ、だって、だって」


 泣きながら精霊神は訴える。だからぼくの顔でそう言う表情すんな。


「半精霊、なんだぞ? 寿命、ないんだぞ? 尊い肉体、なんだぞ? それを、与えられて」


(ペテスタイの人たちは誰もそんなことを望んでいない)


 ぼくは冷たく切り捨てた。


(数十年生きて、死んでいく。そんな普通の人間の寿命があの人たちの望みだ。しかもお前、そんな風に思っている人たちを自我を遠ざけてまで大神殿で扱き使ってただろう。ペテスタイの人たちの気持ちに触れてみろ。どれだけ当たり前の願いを五百年、こいねがっていたか分かるだろう)


「ひぃ……ひぃぃ……なんっ、なんで、こんな痛いのに……! あの身体なら、痛いってのはないのに……!」


(まだまだ生き物は大変な思いをしているぞ。病気、熱い、冷たい、苦しい、辛い……。肉体を持っている限り付き纏うその感覚。生き物はみんなそれを乗り越えて生きてんだ。そんなことも知らないで生き物の頂点に立とうだなんて)


 へっ、と、ぼくは嘲笑った。


(おこがましい)


 精霊神は涙にぐちゃぐちゃになった顔でぼくを見ている。


 信じられない、と。


 こんな感覚を持って、平然と生きているなんて、と。


(この感覚を与えたのはお前だろ? 当然、お前がどんなものか受けないとダメだよなあ?)


「むっ、無理だ、勘弁してくれぇ……」


(言っておくけど、さっきぼくが噛んだの? あんなの痛いの内にも入らないよ? もうちょっと力込めて噛んでやろうか?)


「無理無理、無理だ……」


 本当に、肉体がないから痛いとか苦しいとかって感覚は知らないってのは考えてたんだけど、甘噛み一つでここまで追いつめることが出来るとは思わなかった。


「肉体、返すから……ペテスタイの民にも、返すから……頼む……頼む……!」


(そもそも肉体を貸していいなんて誰も言ってないし)


 ぼくは鼻で嘲笑う。


(邪魔になったぼくを犬の肉体に入れて、勝手にぼくの肉体持ってって、勝手に乗り移ったのはお前だろ?)


「痛い、が、これだけ酷いものだとは、思わな、かった……!」


(お前が見下している、肉体ある者は全て、それに耐えてるんだよ)


 ベッドの上で左手を抑えている精霊神の膝を、前脚で押さえつけて、ぼくは言ってやった。


(そんなことも耐えられないで、よくぼくたちを見下せたもんだなあ!)


 ひっく、ひっくとしゃくりあげる精霊神。


(ぼくとペテスタイの人たちの肉体を返せ。そして大人しく大陸から去れ。でないと、もっと人間の苦痛ってヤツを味わわせるぞ)


「わ、たしは、人の世、を、守るため……」


(まだそんなことを)


 ぼくは牙を剥きだした。


(もっと痛い目に遭いたいか?)


「そ、れは、嫌だ……!」


 精霊神はこの大陸を、人の世を守るために行動している。


 だけど、人の世、というだけで、特定の個人じゃない。


 括りが大雑把なんだ。


(人の世というなら、聖地の人たちを守ればいいじゃないか。あの人たちは人じゃないというなら話は別だけど)


「う……」


 精霊神は呻き、項垂れ、そして。


 の身体から、金色の炎が溢れ出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る