第274話・変身

「ぐうう……」


 唸る。


 体が動かない。


 動かそうとすると全身がギシギシ言う。


「ぐううう……」


 走る痛みに耐えきれず、呻き声を漏らす。


 精霊神は……何しやがった……!


 いや、何したかは……分かってる。知識としては。


 ぼくの意識が認めたがらないだけで。


「ぐお……う……」


 立ち上がろうとして手を地面につける。……手じゃない。


 どう見ても、これは、前脚。


 くそっ。何処だ、ここは。


 とにかく、水……。


 水があれば鏡代わりに自分の姿を見られるのに。


 それに、水を飲みたい。


 喉がひりつくように乾いている。


 立ち上がろうとして……ひっくり返った。


 そうだった、手が前脚になってるんなら、二本足で立ちあがることは出来ない。


 よろ、よろと四つん這いで歩く。


 微かに鼻をくすぐる水の匂い。


 歩くたびに体が斜めに揺らぐ。


 川が流れている。飲めそうだ。


 何とか川の傍に辿り着き、倒れ込み、そのまま顔を水につける。


 川から直に水を飲む。


 ぺちゃぺちゃと音を立てて、必死で喉に水を送り込む。


 しばらく水を飲み続け、やっと渇きが癒される。


 そして、やっと川から顔を離して、微かに流れのある水面を覗き込む。


 ……やっぱりか。



     ◇     ◇     ◇



「アナイナの料理は美味しいな」


「あはは、お兄ちゃん、何度同じことを繰り返してんのよ」


「いや、事実だから」


 食べながら、は聞く。


「それより、神殿に戻らなくていいのか? お前も一応聖女だろ」


「大丈夫。神殿にはちゃんと言ってあるし。何か用があったらオルドナンツが教えてくれるって」


 オルドナンツ。元は西のポリーティアーで飼われていた伝令鳥。今は神殿で扱われている。自由に動き回れる聖職者たちを集める際に使われている。


 精霊神の告げにより、聖職者は神殿から放たれた。


 それがまずいとは、は言わない。むしろ、それはいいことだと思ったから許した。


 神殿に閉じ込められて、外のことを知らずのことを祈るしかない聖職者が本当の信仰を集められるはずもない。外のことを知り、現状を知り、必要なものを知ってそれに対して祈るならばの元にも届こうが、ただ毎日役割のように祈られても何を下せば良いか分からない。


 故に小神が信仰されるのだ。


 小神には限られた力しかない。が、分かりやすい望みがあれば、正しく力を下せる。


 小神を信仰することはも認めている。小神はの力を分けた精霊たち。精霊小神を信仰することは即ちを信仰することだから。


「アナイナ、ちゃんと精霊神様に祈るんだよ」


「分かってるよぉ」


 アナイナは笑って部屋を出て行く。


 いい娘だ。


 些か甘えたがりだが、いるだけで周囲の人間によい影響を与える。初めて作った町で踊った精霊神へ捧げる舞は、美しかった。


 彼女を使えば、グランディールを新たなスペランツァへと認識させることも難しくはないだろう。



     ◇     ◇     ◇



 やっぱりな。


 精霊神あいつはぼくを追い払いたかった。ぼくがいるとあいつはグランディールを自在に操れないから。


 だけど、ぼくを消すことは出来ない。


 あいつの言う通り、ぼくはあいつの分身。ぼくの意識を消すと、ぼくに残された一割の力が宙に浮くことになる。しかもあいつ曰く、の入った力を精霊神はそのまま取り込めない。浄化してからでないと、人間の感情がたっぷり混ざった力が残る九割にどんな影響を与えるか分からないからだ。精霊神の力の一割があいつに取り込まれる前に、その力が、別の人間に取り込まれたら。


 だから、ぼくを追い払ったんだ。姿も形も変えて!


 水面に映るのは、ぼくの今の顔。


 尖った耳、黒い目。黒い鼻。茶色の毛皮。


 それは、仔犬の形をしていた。


 あの野郎……!


 人の形を変えてまで追い出して、グランディールをスペランツァに変えようというのか!


 許せない!


 許さない!


 熱い怒りが沸き起こる。


 あいつだけは……絶対に!


 そこで。


  ぐぅぅ。


 ……腹が減った。


 畜生、腹の中身まで空っぽにして行ったな?!


 人間の食い物の怨みは怖いぞ。あいつなら「今の君は人間ではない」とか言いそうだけど!


 この身体の大きさだと、狩りは無理だ。


 辺りを見回す。


 うん、土地勘は働かない。これが何処かさっぱり分からない。


 この気温からして、北でも南でもない。西でもない。スピティに近い気候だ。


 とは言えスピティではないな。今グランディールはスピティに物凄く近い。ぼくが自力で帰ってこれる場所に転移させているわけがないし、スピティの周りはまちづくりの勉強のためにそこそこ歩き回っているんで、ここまで見覚えのない場所はない。スピティにこんなきれいな水の流れる川はなかったと記憶している。恐らく一年を通して流れている川だ。そんな川がスピティにあったら、水路天井を作る必要もなかったはずだ。


 まず、自分の居場所を特定して……。


 その前に腹を満たして……。


 でも、食事がない……。


 これからどうすればいいのか。


 悩んでいた、その時。


「あ! わんこ!」


 甲高い声がぼくを凍り付かせた。

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