第六話 十二年越しの婚約指輪⑥

 ◆

 事件から数日後、身体の調子を取り戻したロザリーはルートヴィッヒの屋敷で懐かしい顔と談笑していた。


「へぇ、じゃあモディボはあれからずっとリベルタ家に仕えていたのか」


 目の前に座っているモディボは『サンヴェロッチェ』を去った時より少し瘦せたような気がする。それでも思慮深い穏やかな居住まいは変わらなくて、幼い頃からずっと兄のように慕ってきた事を思い出して少し懐かしくなった。


「ああ、当主のニクラス様が護衛として雇いたいと。あそこには同郷の者も多くいたからちょうどよくてな」


 モディボは東南諸国の出身で、昔見世物奴隷として欧州の貴族に買われた。戦争でその主人を失い放浪していたところをエドヴィンにスカウトされ『サンヴェロッチェ』に入団したのだ。


「ニクラス様は、とても良い方だった。俺たちの様な異邦人を一人の人間として扱ってくれた。本当に人柄はいいんだが、神経質でちっとも商売に向かんでな。だがあの男……ヨハンが側近としてあの方の側についていた。奴はニクラス様に麻薬の横流しを勧め、そうしてリベルタ商会の経営を無理やりに持ち直させたんだ。悪事に手を染めている事に主は大変心を痛めていた。そこに今回の侯爵令嬢の暗殺計画だ。リベルタ家の検挙も、あの男が情報を漏洩ろうえいさせて主をスケープゴートにしたからだ」

「そうだったのか……」


 主を最後まで支え続けようと思っていたモディボは結局主の破滅を止められなかった。そして彼を陥れたヨハンに復讐するため、彼についたふりをしてその機会を伺っていた。


「しかしすまなかったな。仕方ない事とは言え、お前を何度も危険な目に遭わせた。俺は演技が上手くないから、あいつにばれないように必死でな」

「いや、いいよ。路地裏で顔を合わせた時、なんか訳ありだなってわかったし。それに、モディボはちゃんとあいつを騙せてただろ? 十分役者だよ」


 モディボは照れくさそうに笑った。


「そう言えばお前の友達も大丈夫だったか? 気絶程度に収まるように殴ったつもりだったんだが……」

「ああ、ハンゼなら――」


 あの後、意識を取り戻したハンゼは開口一番にロザリーに土下座をして謝ってきた。兄のためにロザリーを陥れた事。罪悪感の中で彼もずっと戦っていたのだ。


「……王都に戻ったらまた会おうって言った。多分大丈夫だよ」

「そうか」


 二人して神妙な顔で目の前のカップに手を付ける。明るいサンルームからは広大な庭が一望できる。なんとなく、その明るさにかつて同じ劇団で過ごしていた日々を思い出した。


「ロザリー、俺たちの事を恨んでいるか?」


 不意にモディボが問いかけてくる。恨んでいる、どうしてか、という事は口にしなかったが、ロザリーはその真意を理解した。


「恨んでないよ。――皆、それぞれに事情があって、抱える想いがあったから劇団を去ったんだろ?」


 そう思うとあの劇団で、あのメンバーで過ごした日々は奇跡の時間だったのかもしれない。人生は一期一会と父がよく言っていたが、あの劇団の仲間もまたそういう存在だったのだろう。だから、


「私は、今でも皆の事家族だと思ってるよ」


 ロザリーが笑うと、モディボも同じように頷いた。


「さて、俺はそろそろおいとましよう。こんな豪勢な屋敷に俺みたいなのが居座っていたらおかしいからな」

「なんだ、そんなこと気にする事ないのに」


 出来ればもっと話をしたかった。だが、モディボは躊躇ためらう事なく席を立つ。


「そうだ、ロザリー。お前『サンヴェロッチェ』を復活させるつもりなんだよな」


 サンルームを出ていく寸前、モディボが振り返った。


「ああ……、出来たら、の話だけど」

「なら、もし本当に『サンヴェロッチェ』が再建出来たら、――俺もまた混ぜてくれないか?」


 その瞬間、ロザリーの心の中のおもりがすとんと外れた音がした。一体いつから、囚われていたのかもわからないそのくびきが外され、ロザリーの視界がぱあっと開ける。

 もう二度と叶わないと思っていた。家族だと思っていた仲間と、再び華やかな舞台に上がるその時が、もう一度来るかもしれない。


「ああ……、ああ! 勿論!」

「そうか。俺もそれまでに演技の練習をしておくよ」


 そう言って、モディボは嬉しそうに去っていった。



 ◆

 それから数日後、カインから王都へ戻ってくるようにとの一報があり、ロザリーたちは王都へ戻る事となった。思えばこの屋敷に来てあっという間に一か月が過ぎていた。

 正門前に見送りに現れたルートヴィッヒはフロレンツィアに近づくと、


「じゃあな、お前帰ったら手筈通り頼むぞ」


 何やら牽制けんせいでもしているのかと思う程刺々しい声で低く告げた。


「わかってるわよ。あんたこそ、ちゃんと父親と和解しなさいよ。むしろそっちの方が心配だわ」

「……大きなお世話だ」


 やけに親密に話し合う二人におやと、ロザリーは首を傾げた。そういえば洞窟に助けに来てくれた時も仲良さそうにしていたが、


(いや、仲が良いというよりもこれは……)


 ロザリーが思い描いていたような色めいた空気ではなく、ピリピリと張りつめた緊張感。たとえて言うならそれは歴戦の盟友同士というのか、あるいは好敵手というのか。


「私、先に馬車に入ってるわ」

「あっ、お嬢様――」


 さっさと馬車に乗り込んでしまうフロレンツィアを慌てて追いかけようとして、ロザリーはルートヴィッヒに手首を掴まれた。

 ルートヴィッヒは不意に真剣な目でロザリーを見つめてくる。その熱っぽさにロザリーはどきりとすると共に、先日のやり取りを思い出して気持ちは暗く沈んだ。


「ロザリー、俺はあの時の気持ちは一切変わってないからな」

「……わかってる。でも――」


 事件が解決したとしても、ロザリー自身の気持ちに気づいても、ロザリーは結局フロレンツィアや協定の事を考えるだけで前に進めない。


「だから、半年待ってくれ」


 そんなロザリーの不安を一掃するかのように、ルートヴィッヒが力強く宣言した。


「半年……?」

「そうだ。半年、それでどうにかならなければ俺は諦める」


 ルートヴィッヒの目は真剣だ。彼の真意が読めず、ロザリーが眉を寄せると、彼は可笑おかしそうに笑った。


「……お前は頑固だからな。どうせ言っても変わんないだろうし、だから――今は何も考えず待ってくれ」


 ルートヴィッヒは内ポケットから何かを取り出す。ロザリーの左手をとると、その薬指に何かを通した。

 それは黒ずんだ歪な形の銀の指輪だった。随分年季が入った代物で、それほど高価にも見えない。


「十二年前のあの事件の日、お前に渡そうと思ってたんだ」

「えっ」

「婚約指輪。俺が初めて稼いだ金で買った奴。すっげー安物だけど、捨てられなくてさ」


 ロザリーは自身の薬指に嵌められた指輪を見つめた。もうすでに輝きを失った、そもそも元から価値の低い安物だ。

 でももしロザリーがあの日ジャックドーに攫われ大怪我を負わなければ、きっとロザリーはこの指輪を貰って嬉しくてはしゃいだのだろう。ずっと、ずっと、忘れられない思い出になって、そのまま大きくなってもこの人の事を何の躊躇ちゅうちょもなく愛せたかもしれない。


「……泣くなよ」


 知らないうちにロザリーは大粒の涙を流していた。ルートヴィッヒは指輪をはめたロザリーの左手を掌で包み込むと、もう一方の手を頬に添えて上を向かせた。


「……っ!」


 ロザリーの唇が静かに塞がれる。

 陽だまりみたいな温かさに、ロザリーは幸せで、泣きたくないのに涙が止まらなくて。氷の様に固まった身も心も嘘みたいに解けていく。


 ――私はもう疑いようのないくらい、この人に恋している。


 名残惜しそうにルートヴィッヒの唇が離れた。至近距離で見つめあうその瞳の中に、お互いだけが映っていて、


「――じゃあな。また、いずれ」


 そしてルートヴィッヒから離れた。背中を押されて馬車に乗り込む。視界が涙で滲んでも彼の姿が見えなくなるまで、ロザリーはずっと窓の外を眺めていた。




 馬車は軽快に王都への帰路を進んでいく。フロレンツィアと二人、並んで馬車に揺られていると、ここにやってきた一か月前の事を思い出してなんだか懐かしくなった。

 あの時は暗殺者の影に怯えるフロレンツィアと、彼女を必死に守ろうといさんでいたロザリーの二人で不安を抱えながら未踏の地に降り立った。

 今はそういった不安はなくなったものの、どこか気まずい空気が流れる。

 フロレンツィアとはあの時の話をしていない。役目を放棄したロザリーが彼女の側にいる権利はないというのに、彼女は何も言わずにロザリーを今まで通り側に置いていた。


「またこうしてロザリーと旅ができるなんて夢にも思わなかったわ」

「お嬢様……その節は失礼いたしました」


 フロレンツィアと別れた時、ロザリーは二度と彼女と会うまいと心に誓ったから、こうしてまた肩を並べられるなんて本当にいいのだろうか、と思ってしまう。


「本当よ、まったく。私を傷つけた分、これからは私のいう事には絶対服従してもらうから」


 それでも変わらない彼女の勝気で素直な態度に、ロザリーは叱られているにも関わらず喜びが溢れて、思わず笑みがこぼれてしまう。


「でも結局貴女、一度もドレスを着てくれなかったわね」

「……当たり前です。私は従者ですよ」

「じゃあ、私がどうして貴女にドレスを着せたがったのかもわからないわよね」


 不意にフロレンツィアがうれいを帯びた表情をした。それは成熟した淑女を伺わせる。いつもいとけない令嬢からは想像しがたいもので、ロザリーは今までと違う彼女に当惑を抱いた。


「貴女に女の格好させて、勘違いだって思い込もうとしたの。でも……無駄な足搔あがきだったかもね」


 フロレンツィアはするりとロザリーに身を寄せると、ロザリーの手をすくい取り指を絡めた。


「ねえロザリー、私はね、貴女の事が好きよ」

「え……」


 情感を込めた重苦しさにロザリーは全身を絡めとられた様な気がした。どうしてか、何か捉えようのない大きな濁流にのまれる、そんな心地を抱いた。


「私にとって世界で一番大切なのは貴女。貴女さえ傍にいてくれれば、他に何にもいらない。前にそう言ったわよね?」

「……はい」

「だから私は、この世で何よりも貴女の幸せを望んでいるの」


 そして彼女は、ロザリーをまっすぐに見つめて、


「ロザリー、私のために本当の気持ちを教えて。ロザリーは……、ルートヴィッヒ様の事、好き?」


 大きな瞳がロザリーを捕らえて離さない。もう絶対に逃がしはしないと、目の前の大蛇は華やかに笑った。


「――好き、です」


 嘘をつく事は出来なかった。ここで噓偽りを述べる事は、フロレンツィアに対して不敬に当たると思った。そしてそれ以上に、――もうロザリー自身がその気持ちを偽れない。


「――ん、そっか。わかった」


 フロレンツィアはどこか吹っ切れた顔をして離れた。あっさりと元のフロレンツィアに戻ったのでロザリーは拍子抜けする。もうすっかりいつもの天真爛漫なお嬢様に戻ったフロレンツィアは、ロザリーに向けて太陽のような笑みを向けた。


「じゃあ、私も頑張らないとね」

「頑張る? 何をですか?」

「まだ内緒。そうね……半年後にはわかるかしら?」


 半年後、そういえばルートヴィッヒもそんな事を言っていた。半年後に、いったい何があるのか。


「ね、ロザリー。ロザリーは影武者の任務が終わったらエルメルト家を出ようとしてたのよね?」

「ええ、そのつもりでしたが――」

「……じゃあ、今この時からは私からの依頼」


 フロレンツィアは居住まいをただすとこちらをまっすぐに見つめた。


「もう少しだけ、私の従者でいて。貴女がいなくなるその日まで」

「お嬢様……」

「貴女をもう少しだけ独占させて。これが私の――最後のお願い」


 フロレンツィアはロザリーに頭を下げた。ロザリーはフロレンツィアの右手を取ると、白い手の甲に口付けた。


「はい、お嬢様の仰せのままに」


 そう言うと、フロレンツィアは悲しげな顔をして笑った。


 しばらく馬車は開けた草原の横を走っていく。草原には美しい花が咲き誇っていた。


「お嬢様、見てください。シオンの花ですよ」

「えー、ああうん。そうね」


 フロレンツィアはぞんざいに返事をする。その反応が以前と違うのでロザリーは首を傾げた。


「お嬢様、お花お好きだったのでは?」

「ああ、あれね、嘘。私、正直花には全然興味がないの」

「えっ……」


 思わぬ告白にロザリーは目を丸くする。そんなロザリーに構わず、フロレンツィアは満面の笑みをロザリーに向けた。


「だって、貴女が花が好きって言ったから。だから好きだと言ったのよ」


 どこか吹っ切れたような返事にロザリーはぽかんとして固まった。

 窓の向こうでは、満開のシオンの花がさらさらと朗らかに揺れている。

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