第六話 十二年越しの婚約指輪①

 ◆

「北部行きの馬車は間もなく出発だよ。乗車する方は荷物を荷台に詰めてくれ」


 御者の声掛けでロザリー他、待合場所に座っていた人々がのろのろと立ち上がった。

 ブラムヘンの町から出発する乗り合いの馬車はこれから国内を北上し王都に向かう。商人が運用するこの馬車は、武装の護衛兵も同行させる大所帯の隊商のもので、空いた荷台に数人旅行者を乗せてくれるというので、ロザリーは慌てて御者に話をつけその定員の中に滑り込んだ。

 荷物を積み込むロザリーの身体は重い。もう一度、丘の上にそびえたつ立派な屋敷を振り返ってロザリーは胸を痛める。


「エゴール様に叱られるかな」


 フロレンツィアの事を頼むといわれたのに、結局途中で投げ出して傍を離れてしまった。約束を破ってしまった以上、もう会う事もないだろうとロザリーは自虐的に笑った。


「にいちゃん、荷物はもう積んだか?」

「あ、ああ……」

「じゃあ定刻になったし出発するから車の中に――」

「待ってくれ!」


 その時街の方からドタバタとかけてくる一人の男がいた。


「まだ空いているなら俺も乗せてくれ!」

「ああ、ギリギリもう一人ならいけるぞ」


 御者が快く頷くと、その男は安堵して息を吐いた。その大ぶりなリアクションと明るい声。どこか既視感を覚えてロザリーがその男の顔を注視すると、


「……ハンゼ?」


 先日王都の下町で別れたはずの友人がそこにいた。ハンゼも顔を上げるとロザリーを見てあんぐりと口を開ける。


「え……、ロザリー? 何でここに?」

「それはこっちのセリフだ! 何でハンゼがここに――」


 二人で驚愕して顔を見合わせていると、


「おい、お二人さん話は車に乗ってからにしてくれ、出発するぞ」


 御者に促されて、とりあえず二人は馬車の中に入った。




 馬車に揺られながら、ロザリーはハンゼとここに来た経緯を話し合った。日が落ちると馬車は見晴らしのいい高原で停止し、乗客皆でたきぎを囲みながら夕食を取ることになった。


「ほい、おまえの分」


 炊き出しを取りに行ってくれたハンゼが戻ってくると、ロザリーにお椀を差し出した。


「ありがとう。しかし大変だったな、ハンゼ。沖仲仕ステベドアの知り合いの言伝をわざわざ届けに南部まで来るなんて」

「その人の母親が急病になったとかでさ。その人は母親のそばを離れられないし、いつもお世話になってる人だから断れなくて。でもそこまで苦でもないさ。謝礼も貰えたしな」


 ハンゼは指でお金の形を作って笑った。相変わらず現金な奴だ、とその変わらなさにほっとしてロザリーは笑う。


「ロザリーは?」

「私は……」


 ロザリーはなんと説明していいかわからず黙り込む。フロレンツィアの影武者として雇われた事、刺客に狙われ彼女を連れて南部へ逃げてきた事。でも、彼女の婚約者であるこの町の領主がロザリーに想いを寄せていた事。フロレンツィアを裏切りたくなくて、全てを投げ出して屋敷を出てきた事。

 何をどこまで話していいのかわからない。ハンゼの顔をまともに見られないまま黙っていると、ハンゼは苦笑してロザリーの肩を叩いた。


「俺はお前の抱えてる問題に首を突っ込める資格はないのかもしれないけどさ、話だけならいくらだって聞けるぜ。俺たち、あの町で一緒に働いた仲だろ?」

「ハンゼ……」


 ハンゼの気安さが今はひどくロザリーの身に染みた。その優しさに涙腺が緩み、ロザリーの口も軽くなる。

 ロザリーは少しだけ、ルートヴィッヒとフロレンツィアとの事を話した。詳しいことまでは話せなくとも、ただ彼に聞いてほしいと思った。


「事情はよくわかんないけどつまり……、お前のご主人の婚約者がお前の事を好きになっちまったから、お前が引いたって事か?」

「正確に言うと婚約が決まる前から私の事を好きだった、っていうか……」

「それで劇団を立て直す約束も反故ほごにして飛び出してきたってわけか」


 ハンゼは眉をひそめて不服そうに唸った。


「私は……、本当にお嬢様の幸せを願ってたんだ。あの人が無事に婚約して、それで王国もベルクオーレン家も安泰になればそれが一番正しい事なんだって」


 ロザリーは膝を抱えてこうべを垂れた。もはや顔も上げられないほどに、それを口にする事が罪深い事だと思っている。


「でも私は……、やっぱりあいつの事が、好きなんだ」


 口に出した瞬間、ロザリーの中にあったもやが明確な質量を持って顕現した。それはまるで水のように、あるいは火のように、ロザリーの身体中に染み渡り全身を熱くうるおしていく。


 昔を正確に思い出したわけじゃない。今でも幼い頃の空白の記憶は埋まらないままだ。でも、再会してからの彼に振り回されながら惹かれていた自分が確かにいる。意地悪で人を翻弄ほんろうするのに、温かくてロザリーを想ってくれる彼に。

 ロザリーはそれをずっと悪いものの様に押し込めている。フロレンツィアの従者として、こんな気持ちを持ってはいけないのだと。それは主に対する明確な裏切りなのだと。でも、


「なら、それでいいんじゃないか?」


 ハンゼは柔らかく笑顔でロザリーをさとした。


「人を好きになる感情に悪いものなんてないよ。それを表に出すかはともかく、否定する必要なんてない」

「ハンゼ……」

「だからこそ、そいつもロザリーの事ずっと忘れられなかったんじゃないか?」


 そう言われて初めてこの十二年間、ルートヴィッヒがどんな気持ちでロザリーの事を思い出していたのかと考えた。彼もこんなに苦しかったのか、もう二度と会えない――会わないと決めた少女の事を忘れようとしても忘れられなくて、ずっとずっと心に留まり続けていたのか。


(だとしたら、私はなんて事を)


 お願いだからもうやめてくれと、彼を拒絶した時、彼は一体どんな気持ちになったのか。


(お嬢様にも酷い事を言ってしまった)


 最後に聞いたあの悲痛な叫びが忘れられない。出来る事ならもう一度会って謝りたい。


 ――でも、もう何もかも遅い。


 ロザリーは胸が痛くて歯を食いしばった。温かいはずのスープがちっとも美味しくなくて、苦い。


「――でも、わかったよ。何で俺がこの仕事を任されたのか」


 もう一度、ハンゼがロザリーの肩を叩く。次の瞬間視界がぐらりと水面みなもの様に揺れた。


(――え)


 身体に力が入らない。食事の椀を取り落とし、自立できなくなったロザリーが音もなく傾くと、その身体をハンゼが支えた。


「ハ、ンゼ?」

「ごめんな、ロザリー。大丈夫だよ。少しの間眠くなるだけだから」


 暗闇に溶けて見えるハンゼの目は虚ろで、まるで人形のようだった。けれどどこか苦しそうで、ロザリーは不思議と申し訳なくなってしまう。


 ――どうして、そんな顔をするんだ?


 尋ねようと思ったのに声が出なくて、ロザリーの意識はゆっくりと夜の闇に沈んでいった。

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