第五話 獅子と溝鼠⑧
◆
長い、途方もないルートヴィッヒの話。それはロザリーにとって他人事ではないはずの話。
「あの舞踏会で、フロレンツィアだと紹介されたお前を見た時、俺はすぐにお前だとわかった。……あの時はまじでビビったよ。どんな侯爵令嬢が現れるかと身構えていたら、お前だったんだから」
ルートヴィッヒは呆れたように笑った。でも、ロザリーは全然笑えなくて。
「『サンヴェロッチェ』が瓦解してお前が行方知れずになっていた事を知ったのはつい最近でさ。ザイルにもその事を
「そ、んな……」
「お前も消息不明だって聞かされた時は死んでたらどうしようかと怖かった。でも、――お前に会えた」
ルートヴィッヒの手がロザリーの頬に伸びる。優しい手つきでどこか懐かしい。
――でも、思い出せない。
「俺は過去を捨てた。本来なら、俺はお前に顔向けできる人間じゃない。俺は、お前に酷い事をした。記憶を失くさせる位恐ろしい経験をお前にさせたんだ」
「それは、違うだろ。私を傷つけたのは他の奴らで――」
「違う、俺のせいだ。俺がそれまでしてきた悪行が、全部お前に返った。悔やんでも悔やみきれなかった」
ルートヴィッヒはロザリーの手を取った。今まで見たいに軽率に触れてくるのではない。
その温かな掌には、確かな愛情が宿っていた。
「ずっと忘れようとした。この十二年間、何度も何度もお前の事を忘れようとして、でも、出来なかった。お前と再会して、改めて思った。俺はやっぱりお前が好きだ。あの時は子供に対する愛情だと思った。でも、違う。一人の女としてお前の事を愛しているんだ」
ロザリーは身体から火が出るかと思うくらい紅潮した。飾らなすぎるくらいストレートな愛の告白。自分を本気で愛してくれる人にそんな風に言われたら、誰だって感情は揺らいでしまう。でも、
「……無理だよ」
絞り切れそうな声でロザリーは首を横に振った。彼の想いに応えるわけにはいかない。
「どうして?」
「私はお前に愛される資格なんてない」
「だが俺はあの日お前と約束した。『いつか家族になる』って、お前と一緒に――」
「そうだとしても……!」
ロザリーはルートヴィッヒの手を払った。
「今のお前はフロレンツィア様の婚約者だ。この縁談は王家とベルクオーレン家を繋ぐものなんだろ?」
今のルートヴィッヒには正式な婚約者がいる。それも政略に
ロザリーは本来蚊帳の外の人間だ。なにより、フロレンツィアを裏切れない。ルートヴィッヒに好意を抱き、彼と一緒になる将来を待ちわびている彼女を押しのけて、ルートヴィッヒの想いに応える事など誰が出来るのか。
「私はお嬢様を守ると誓ったんだ! 無事にお前たちの婚約が成立して、そうすれば……旦那様が『サンヴェロッチェ』を再興すると約束してくれた!」
「……」
「そうだ! 私には使命がある! 『サンヴェロッチェ』を立て直すんだ! それ以外に望むものなんて何もない。お前には悪いけど――」
ロザリーは必死で笑顔を取り
どうして父の劇団があれほど円満に公演をこなせていたのか。ロザリーはひとえに父の人望と努力だと思っていた。そんな父を尊敬し、
――でも、それだけじゃなかった。
劇団を支えていたのはザイル=ベルクオーレンで、彼が援助をしてくれていたのはルートヴィッヒが彼の取引に応じたからだ。『サンヴェロッチェ』を――ロザリーを守りたいと思ってくれた彼の犠牲があったからだ。
「それに、もしいつかこの先戦争が始まったら……この土地は真っ先に狙われるんだろう?」
先日見た、国境の向こうの
「ベルクオーレン卿は、お前を戦争の盾にするためにここに置いたんだ。何よりも危険な役割をお前が担う事になった。私たちのせいで――」
戦争で母親を失ったルートヴィッヒが再び戦争に
ロザリーの方こそ、ルートヴィッヒの人生を滅茶苦茶にしてしまった。そして何より許せないのは、この話を聞いた今でもロザリーはその事を一切思い出せない事だ。
「俺はそんな事気にしない。確かに母親を失った
「嘘を……、つくな」
「嘘じゃない。俺はお前が――」
「やめてくれ!」
ロザリーはとうとう我慢が出来なくなって、ルートヴィッヒを拒絶した。息が苦しい、どうしてか呼吸が上手くできなくて、その苦しさに目尻から涙が溢れた。
「お願いだ……、お願いだから、もう……」
――これ以上、私を惑わせないでくれ。
彼はロザリーに対しあってはならない感情を抱いている。フロレンツィアの従者としてその想いに応えてはいけない。
(応えてはいけないんだ……。絶対に――)
けれどそれは裏を返せば、ロザリーにはルートヴィッヒの想いに応えるという選択肢を持ってしまっているという事。つまり、ロザリーは――、
「――わかった」
突き放した手が今度こそ本当に下ろされた。今ルートヴィッヒがどんな顔をしているのかわからない。涙で滲んだ視界では、去り行く彼の背中すら捉えることが出来なかった。
◆
荷造りは
「何してるの、ロザリー?」
荷物を抱え立ち上がると、部屋の扉の前にいつの間にかフロレンツィアが立ちふさがっているのに気付いた。夕暮れ時の締め切った部屋は暗闇に沈んでいて、フロレンツィアの顔はよく見えない。
「見ての通り、帰り支度ですよ」
「なんで帰るの? 私はまだここにいるわよ」
「帰るのは私だけです」
ロザリーは動揺を懸命に隠した。努めて冷静に、声が震えているのがばれないように。
「私の役目は終わりました。貴女はもう安全です」
「なんでそんな事が言えるの? まだ残党がいるかもしれないって言ってたじゃない」
「あとはベルクオーレン卿とルートヴィッヒ様が守ってくれますよ。元々私の仕事は貴女の影武者ですから、もう私はお
もうフロレンツィアは隠れる必要がない。それに護衛ならロザリーよりベルクオーレン家が手配した者の方がよほど安全だ。もしまた王都の路地裏で襲われた時のようにロザリーにすら太刀打ちできない
「今までお世話になりました。短い間でしたが――」
「待ちなさい」
フロレンツィアが強く命令する。ロザリーはドアノブに掛けた手を止めたが、フロレンツィアの方を向く事は出来なかった。
「理由を言いなさい。どうして突然出ていくの?」
「今言った通りですが」
「違う。本当の理由を言いなさい」
ロザリーは返答に迷った。彼女が納得いく答えが見当たらない。
「ルートヴィッヒ様との事?」
だがフロレンツィアは
「……私がいるとお二人の邪魔になります」
ルートヴィッヒはロザリーに想いを寄せていた。それはフロレンツィアと婚約するにあたって持ってはいけない感情だ。ロザリーがここにいる以上、彼はずっとその想いを抱え続ける。それだけは絶対に避けなくてはならない。
背に刺さるフロレンツィアの視線を無視して、ロザリーは部屋を出ようとする。だが、
「――嘘つき!」
フロレンツィアの叫び声が、ナイフのようにロザリーの身体を
「ずっと側にいるって言ったくせに! 私の事守ってくれるって!」
「……」
「どうして私から離れるの⁉ 私は……っ、貴女さえいれば何も怖くない! 何にもいらないのに!」
悲痛な叫びにロザリーは歯をくいしばって耐えた。
温かい。フロレンツィアは身も心もこんなにも温かい。張り詰めたロザリーの心も覚悟も容赦なく溶かしてくる。
「わがままを言わないでください、お嬢様」
それでもロザリーは断腸の思いでフロレンツィアを引きはがした。
「私の本当の望みは、劇団を再興させる事です。そのために貴女や、貴女の父上に手を貸したんです。貴女の付き人をやっていたのはただの成り行きです」
「……っ」
「最初から貴女とずっと一緒に居るつもりなんてありません」
フロレンツィアが息を呑む。ロザリーは初めてフロレンツィアの方を振り返った。絶望に満ちた少女が必死にこちらに縋り付いている。酷い罪悪感がロザリーの身を焦がし、この数か月という短い間に生まれた彼女に対する感情が溢れ出た。
「でも、――それでも私は貴女の幸せを望んでいるんです」
ロザリーはフロレンツィアを優しく抱きしめると、彼女の小さな額にキスを落とす。その大きな瞳からつうっと零れ落ちた宝石のような涙を拭うと、ロザリーは力なく笑った。
「さようなら、フロレンツィア様。――私の愛しい主」
後悔も心残りも全て振り払うように今度こそロザリーは部屋をとびだした。厚い扉に
坂を駆け下り、町を縫って。
息が切れても必死に走って、
「――」
そして大声で、泣いていた。
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