第二話 ブラムヘン領辺境伯③

(なんで、こんなに苦しいんだ?)


 自分はまだ役者の世界を捨てきれない。『サンヴェロッチェ』の再建を成し遂げて見せる。そしてもう一度自分があの舞台に立つんだと。


 ――そんな夢物語、叶うはずないのに。


 ロザリーはわかっていた。たとえエルメルト卿に手を貸してもらっても、ロザリーが聖騎士バイヘンを演じていた、あの時の日々が戻ってくるわけではない。父も、仲間もとうにロザリーを置いていなくなった。ロザリーが一人、『サンヴェロッチェ』を守ろうとしたって、もうそこにはロザリー以外何も残っていないのに。

 ロザリーは胸元を押さえて必死に涙を堪えた。早く戻らないと、あの男にまたからかわれる。いや、それ以前にフロレンツィアの影武者としての役目を果たさないと。


(早く収まれ、早く)


 深く呼吸をしてようやく平静を取り戻す。だが、すっかり気が動転していたロザリーは背後に忍び寄る影がある事に気が付かなくて、


「――っ⁉」


 肩を叩かれた瞬間、心臓が飛び出すかと思うくらい吃驚びっくりした。思わず反撃の体勢も取れずに振り返ると、


「ちょっと……、こんなところで何やってるのよ、ロザリー」


 不機嫌な少女が、小動物みたいなくりくりした目でロザリーを睨んでいた。


「……、フロレンツィア様⁉」


 一拍遅れてその小動物がロザリーの主人である事に気づき、さらに驚愕に口をあんぐりと開ける。

 ロザリーの目の前にフロレンツィアがいる。ここ数か月屋敷に謹慎しているはずのフロレンツィアが、何故か使用人の恰好をして町の薄暗い路地に立っていた。


「ちょ……、なんでこんなところにいるんですか⁉」

「なんでじゃないわよ! ずるいじゃない! 私を置いて辺境伯様とデートするなんて!」

「デートって……あのですね、これはそんなんじゃなくて」

「街で買い物して馬上大会見て、カフェでお茶して。これがデートじゃなきゃ何なのよ!」

「……」

「私だってずっと出かけたかったのに!」


 キャンキャンと喚くフロレンツィアを目の前にロザリーは逆に一瞬で冷静になった。さっきまで取り乱していたのが嘘のように熱が冷め、ゆっくりとフロレンツィアに詰め寄る。


「お嬢様」


 自分でも思いの外低い声が出て笑ってしまった。喚いていたフロレンツィアがぴたりと止まる。


「一体いつからついてきてたんです?」

「えっ、それは……、最初から、かなぁ」

「その恰好は何です?」

「……だってそのまま出てきたらばれちゃうし」


 あからさまに目を泳がせてフロレンツィアは口笛を吹く始末だ。ロザリーは深い深いため息をつくとがっくりと項垂うなだれる。


「な、何よ……。だって面白くなかったんだもん! ロザリーもお兄様も私の事け者にして!」

「あのですねお嬢様。貴女命を狙われる立場だという自覚が――」


 あるんですか、と問いただそうとしたまさにその時、後方で砂利を踏む複数の足音が響いてロザリーは振り返る。

 そこに立っていたのは明らかにこちらに敵意を向ける不審な男が二人。ピリリと肌に緊張が走った。


「フロレンツィア=エルメルトだな?」


 抑揚の無い男の声。ロザリーはすぐさまフロレンツィアを背にかばった。


「ロ、ロザリー……」

「私から離れないでください、お嬢様」


 男たちから目を離さずロザリーはフロレンツィアに耳打ちする。ロザリーの背に震えたフロレンツィアがすがりついた。しかし、男たちの方がその様子を見て何故か首を傾げお互いに顔を見合わせる。


「……おい、そっちのドレスの女が『フロレンツィア』だよな?」

「どう見てもお嬢様はそっちだろ」


 どうやらドレスを着たロザリーと使用人の服を着たフロレンツィアの見た目に困惑している。

 ロザリーの方をフロレンツィアだと思っているのならチャンスだ。自分がおとりになってフロレンツィアを逃がす隙も出来る。だが、


「いや、どちらも標的だ。両方捕まえろ」


 今度は明らかに雰囲気の違う二人組が合流した。薄暗がりに浮かぶそのシルエットにロザリーは目を凝らす。

 一人は先刻の二人とは明らかに異なる高価なジャケットを着た男。朗らかな笑みを浮かべるその表情は温厚そうに見えて目に一切光が灯っておらずどこか虚ろだ。

 そしてもう一人。二メートルは優に超えそうな長身に丸太のような腕、浅黒い肌にぎょろりとした黒い眼を持つ男がそのかたわらに立っていた。明らかに異質なその男が路地に入り込む僅かな光源を遮る。


(……こいつは)


 ロザリーは本能的に震え上がった。鍛え上げられた体躯からは全くの隙が感じられない。他のごろつきとは明らかに格が違う。


「さて、出会いがしら不躾ぶしつけで申し訳ないが、一緒に来てもらおうか、お嬢様方。――お前ら」


 身なりのいい男が他の三人に命令する。どうやらこの男がリーダー格のようだ。

 ロザリーは後方で声も出せずに怯えているフロレンツィアを垣間見て唇を噛む。間合いを詰める男たちを前に、じりじりと後退するロザリーは頭をフル回転させて突破口を探す。

 今二人がいる場所は建物と建物の間の幅二メートル程の路地だ。入ってきた方の道は男たちに塞がれているが、まだ後ろに退路はある。しかし道は直線でフロレンツィアを引っ張って走ってもすぐに追いつかれてしまうだろう。早く手を打たないとそちらの退路も塞がれてしまう、それでは終わりだ。

 ふと、足元に視線を落とすと通路の脇に何か大きな毛皮の塊がうずくまっていた。


(犬……?)


 それはよく見ると地面に横たわって眠っている大型犬だ。汚い路地に暮らしているにしては毛並みがいい。恐らくどこかの飼い犬が密かなお昼寝の場所としてここを使っているのだろう。大人しそうだが図体はでかい。そして幸いなことに、目の前の男たちからは道に置いてある木箱の死角になっていてこの犬の存在に気づいていない。


(いちかばちか……)


 ロザリーは足元に転がっていた石を手に取った。すると男たちが嘲笑を浮かべる。


「おいおい、そんなんで俺たちと戦おうっていうのか?」


 ゲラゲラと不快な笑い声にロザリーは一切耳を貸さなかった。追い詰められるふりをしてじりじりと男たちの注意を引きながら後ろに下がる。にじり寄る男たちが例の犬の側にやってきた瞬間、ロザリーはその石を男たちではなく、犬に向かって投げた。


「――うわっ! 何だこいつ⁉」


 石を当てられて目覚めた犬が突然起き上がり、完全に虚を突かれた男たちが動揺する。さらに男たちに攻撃されたと勘違いした犬が、彼らに向かってえ始めた。


「走って! お嬢様!」


 ロザリーはフロレンツィアの背を押して一目散に駆けだした。男たちがこちらに向かって叫ぶが、どうやらあの犬が足止めをしてくれているらしい。石をぶつけてしまってすまない、と心の中で犬に謝りながらなんとか路地を抜けようとしたその時、突然右足が動かなくなってロザリーはつんのめった。


「ロザリー!」


 一足先に通りに出たフロレンツィアが振り返る。


「早く行ってください! さっきのカフェにルートヴィッヒ様がいる!」


 ロザリーが叫び声をあげると右足首に激痛が走る。鎖のようなものが巻き付いてロザリーを引きずり込もうとしているのだ。


「早く!」


 もう一度ロザリーが一喝するとフロレンツィアは弾かれたように駆けだした。それでいい、と安堵した瞬間身体が再び路地の中に引きずり込まれた。砂利の上を転がされてロザリーは呻く。ようやく止まったと思ったら、目の前にはあの得体のしれない巨男が立ちふさがっていた。


「……!」


 伸びてきた手を咄嗟とっさに身を捻って躱す。その勢いで上体を起こすと右足で男に足払いをかけた。男のくぐもった呻き声がしたが転倒させるには至らず、すぐに立ち上がって右足に巻き付いた鎖を掴んでこちら側からも引っ張った。

 男がバランスを崩した瞬間、先の細いヒールで腹に蹴りを加えたが、まるで岩でも蹴ったみたいに硬くてビクともしない。ロザリーはすぐに男との距離を測り慎重に鎖を手繰たぐり寄せた。


(また足をすくわれたら終わりだ)


 渾身の一撃は全く効いていないのか、男は平然と体勢を立て直す。


「へえ、そいつと互角にやりあえるとはなかなかだな」


 対峙する二人を傍観していたのはリーダー格の男だ。まるでロザリーを値踏みするような視線に不快感が浮上する。


「だが女のお前がそいつに勝つのはさすがに無理だ」


 次の瞬間男の姿がぶれて、一気に間合いを詰められる。


(速い……⁉)


 図体がでかいくせにとんでもない瞬発力だ。ロザリーはあっさりと捕えられ喉を掴まれ壁に押し付けられる。


「ぐっ……!」


 息苦しさにロザリーは喘いだ。自身の喉を締め上げる大きな手には包帯が巻かれていた。昨日舞踏会の時ロザリーを掴んで投げ飛ばした時のものと同じだ。


(昨日のは、こいつか……)


 情報を得られたのはいいがもはやそれどころではない。大男の握力はますます強まり、いよいよもってロザリーの意識が遠くなる。


「――そいつはここで殺しておけよ、俺は逃げた方を探してくる」


 リーダー格の男はそう言い残すと、もうこちらに興味がないといわんばかりにきびすを返した。ロザリーは遠ざかる背中を凝視する。奴が脅迫の主犯格なら、何者かを暴かないと――。

 苦しい、息が出来ない。脳に酸素が送られなくて、チカチカと眩暈めまいがしてきた。


(こんなところで、死ぬのだろうか。私は)


 フロレンツィア様の身代わりとなって、こんな薄汚い路地で死ぬのか。役者としてではなく誰かの代わりとして、『サンヴェロッチェ』の復活すら果たせずに――。

 チカチカと途切れる視界の中で、ロザリーはまた一瞬だけ既視感のある光景を思い出した。

 その既視感に思い至れぬままロザリーの意識は遠くなる。だが意識を失う寸前で急に体が軽くなった。視界を遮っていた男の身体がぐらついて横に飛ぶ。解放されたロザリーは大きく呼吸をして、身体がぐらついたところを誰かに抱き留められた。

 ぼやけた視界で自分を支えてくれている者の顔を見た。それは高貴ないで立ちをしているのにどこか手負いの獣の様な獰猛どうもうさを秘めている、そんな男。


「――ルッツ」


 ロザリーは朦朧もうろうとした意識の中で彼を呼んだ。憤怒ふんぬに燃えたその瞳が、一瞬驚きに見開かれる。男がロザリーを凝視した。その顔は、優雅な貴族のものでもなく、意地の悪い彼のものでもなかった。

 大男が予想外の人間の登場にそのぎょろりとした目を見開いた。先ほどとは打って変わって動揺し後退する。そして、


「――失せろ」


 地獄の底から這い出てきたような、魔王のごとき形相ぎょうそうで、大男を一蹴した。


(ああ、そう言えば前にもこんなことが――)


 でもはっきりと思い出せなくて、ロザリーは自分を優しく抱きしめてくれる恐ろしい男の横顔を眺めたまま意識を失った。

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