第38話 妹への呪文
夜11時30分過ぎ。
もうすぐ翌日になろうとしている時間帯に、オレは妹たちがいなくなった2階のリビングダイニングキッチンに下りて来ていた。
いや、こう表現すると正しくないな。
妹はいる。キッチンでお茶の準備をしている。
正しくは、真白以外の妹がいなくなったリビングダイニングキッチンに下りて来ていた、だ。
数分前にスマホで彼女に呼び出され、この場所を指定された。
用件はわかる。十分に話せなかった、ハンカチの守秘の件だろう。
メッセージのやり取りや電話で終わらせる気はないらしく、だからといってオレの部屋や真白の部屋でふたりっきりで話すのはさすがにちょっと避けた方がいい。
そうなれば自然と他の妹たちが部屋に戻った後の、家族での団らんの場所が選ばれる。2階にはせつろの部屋もあるが、小学生なのでとっくに就寝時間だ。邪魔される心配もないし、オレと真白が静かにしていれば邪魔する心配もない。
「お茶どうぞ」
「……ありがと」
急須から注がれた緑茶の香りが鼻をくすぐる。普段使わない淡い色の湯呑をオレの前に置いてから、真白は向かい合う椅子に腰掛けた。
夕食時は妹4人が騒がしくピザを食べていたテーブルだが、小さなパーティーのような名残はどこにもなかった。
静かな空間に響く、ことっという陶器の音。落ち着いた表情をした真白がオレとお揃いの湯呑からお茶を飲んでいる。とりあえずオレも温かい緑茶を口にして心を整えた。
「柊桃さん。先程は取り乱してしまって、すみませんでした」
話はまず、真白の謝罪から始まった。
その場でしっかりと頭を下げられてしまい、オレの方が慌ててしまう。
「い、いやいや。事故だし、あれは仕方ないっていうか……」
正直オレでもどうすればいいかわからなかった。
「美砂たちが来た時、私と柊桃さんが一緒にいて何の話をしていたのか聞かれたら困るって思ったんです。……だから咄嗟に隠れてしまって……いないふりを……」
顔を上げた真白は申し訳なさそうにして頬を赤らめていた。あの場面を思い出しているらしい。
密着した彼女の体温や柔らかさが甦ってきて、オレまで申し訳なくなってきた。
忘れよう。頼むからさっさと忘れてくれオレ。
「冷静になればもっといい方法があったと思うんですけど、とにかく何も発覚しないように乗り切ることしか頭になくて。美砂すごく勘が鋭い所があるからちょっとでもあの子の疑問になる部分を作りたくなくて……結局もっとひどくなっちゃったんですけど」
「ああー、勘が鋭いのはわかる……」
何を考えてるのかはわかんないけど。
「柊桃さんも、変な追及に巻き込んでしまって本当にすみません」
「オレは別に気にしてないから」
「……はい」
そもそもこの話はなかったことにしたいレベルだ。すっと流して終わりにしてしまいたい。
ソファに押し倒された件も、もちろんハンカチの件もだ。
「それで、これなんですけど……」
真白がテーブルに乗せたのは、上質な黄緑色のハンカチだった。
きたぞ本題だ。
「改めて確認させてください。柊桃さんがこのハンカチ見つけてくださったんですか?」
「……ああ。オレが拾った」
「駅近くのラーメン店で、ですか?」
「……そうですね」
緊張からか変に敬語になる。
オレたちの会話が途切れた。
間が。とにかく間が辛い。
オレは真白の用意してくれた温かな湯呑を、安心感を求めて少し握る。
正面に座る妹は、下を向き何かを考えるように黙ったままだ。前髪が目にかかっているせいで感情が読めない。このまま膠着状態が続くのかと焦りそうになる。しかし、沈黙はそう長く待たずに破られた。
「ありがとうございます」
顔を上げた真白は思っていたよりもすっきりした表情をしていた。
「まず、何よりも先にそれを言わないといけなかったのに。……本当にありがとうござます」
「……あ、ああ。偶然見つけただけだし、そこまでお礼を言われるようなことでは……」
また夕食前の時のような、「黙っててください!」という勢いのある責め方をされるのでは、と身構えていたが余計な心配だったらしい。
やんわりと優しそうな雰囲気でオレを見つめる彼女は、すっかり普段の真白だった。
何なら表面的に親切でも奥で一線引いているような拒絶感も今はない。
「お店では、私がいること最初から知っていたんですか?」
「入って来た時には」
「でも声かけないでいてくれたんですね」
「……あー、何か一人で過ごすために来てたみたいだし、邪魔かと思って」
「柊桃さん実は結構そういうこと気にしてくれますよね」
「そうか?」
「そうですよ」
口元を押さえてくすくすと真白が笑う。オレやうららには出せない上品さだ。
「さすが年上というか、お兄さんみたいというか」
「みたいというか立場的には兄なんだが……」
「ふふっ。そうでしたね。兄で家族なのに今更変ですよね」
彼女とこんなに穏やかに話したのは初めてかもしれない。一緒に住みだしてもう1年も経とうとしているのに。
出会ってから、仲良くなろうとして距離を感じて。オレと真白の間には明確に見えない壁があった。相手が歩み寄りを避けているんだと判断して、オレも必要以上に関わらないようにしてきた。
だが、同じ家にいて過ごしているのだから、『近寄らない』という気遣いさえ正直めんどくさい。
態度的に小槇もうららも厄介な相手だが、そういう意味でのめんどくささはない。そこそこ親しい知り合いへの上っ面は、こつらのために用意しなくていい。
要するに煩わしさの種類が違うのだ。
だから、真白との間にそれが無くなれば、卒業までの間オレの家での時間は少しましになるかもしれない。
そこまで考えて、今日相談を聞いてもらった多岐川のことを思いだした。
真白にラーメン屋にいたことがバレて何事もなかったかのようにできなかった場合、『諦めて』とばっさり言われた後の話だ。
『前にさ、ここのコーヒーショップで一緒にコーヒー飲んだじゃん? あの時別れ際に言った、オレもう卒業だからって呪文使った?』
まだ残っているコーヒーを飲んでいると、多岐川にそんなことを尋ねられた。
『使ってない。というか使い時何時だよ。意味わからなかったし』
『えーっせっかく教えてあげたのにー。妹さんにぐっと踏み込みたい時に使うんだよ』
『ぐっと踏み込みたい時なんてねぇよ』
『それはどうかなー? 晴丘次第だと思うけど』
『ないない。たぶんない』
『妹さんと仲良くしとこうよ。私のためにもさ』
『それ聞きたかったけど、どういう意味なんだよ』
『え、わかんない?』
『なんでわかると思ったんだ』
『だって、晴丘が言うには私は妹属性らしいじゃん。妹の扱いならプロ級(ランク5姉妹)なんだから。ね?』
『ね? じゃねえよ……変な階級作るな……』
相変わらずわけのわからない多岐川は、対面で嬉しそうに笑っていた。先程会った美砂が勘違いしたように、知らない人が見ればオレたちはカップルに見えるのかもしれない。全然違うけど。
『例えばほら、私にあの呪文使ってみなよー』
『どうやって?』
『お手本やるね』
そこで多岐川はキリっと表情を引き締めると、芝居がかった動きと喋りでオレへと手を差し出した。
『オレもう卒業だからさ、これで最後なんだよ! だから多岐川付き合ってくれ! ……はい、真似してください晴丘くん』
『嫌です』
『ちぇダメかー』
『なんでいけると思ったんだよ』
『まあとにかくこんな感じでね。頑張ってみなよ』
多岐川に最後に言われた頑張れは、大げさなものでもなく雑に励まされたものでもなかった。純粋に願うような響きだったせいで、オレの中に抵抗なくすっと入ってきたのだ。
だから、ちょっとは信じてやるかという気分にもなった。
無理やりとはいえ、オレの好きな店のコーヒーを奢ってくれたし。ほぼ騙されたみたいなもんだけど。
「真白」
回想から戻ってきたオレは、椅子に身体を預け真っすぐ彼女を見つめる。
『見る』という行為を少し意識してしまうのは何処かの誰かのせいだ。
「今日ラーメン店で会ったことを誰にも言うつもりはないから、不安に思わなくていい。オレはあと少しで卒業だしこの家を出て行くから、そうすればもっと気にならなくなるだろ」
誰かに言われてしまうかもという脅威に、あの時の真白は追い詰められていた。
いくら約束されてもその思いは緩和されないかもしれない。だが、オレが目につかない場所へと行けば多少心が楽になるだろう。
多岐川の言うぐっと踏み込むという目的ではないが、オレはこの日初めて妹に対して『呪文』とやらを使った。
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