第33話 兄の知らない妹の話(さんばんめ)

 真白は幼い頃から自身の役割を十分すぎるほど理解していた。

 妹たちがいない時分は誰しも一人っ子だが、あまりにも昔のこと過ぎて記憶に残っていない。

 妹の美砂とせつろがいる。だから姉として振舞うことが真白にとって当たり前だった。




 小学校に入学してしばらく経った頃、父親が交通事故で死んだ。

 嵐が到来したような騒がしさで親戚などの大人たちが騒ぎ、二つ下の妹が大泣きし五つ下の妹が意味もわからず泣いている。混乱した事態に真白の心はただただ置いていかれるばかりだった。

 そんな中、気丈な母親だけは人々の対応に追われていた。交通事故の被害者家族ということで心配する周囲に大丈夫だと言い、真白たちには笑顔を見せ、慌ただしく日々を過ごす。娘たちのあずかり知らぬところで父親の問題は収束していた。


 しかし、事件が終わることなど一生ない。残された者は、失ったまま日常を生き続けなければならない。平和な毎日というのは、どんなことがあっても平気なふりをしている人間たちのおかげで形作られているのだと真白はこの時初めて知った。


 いつものように学校に行き母親も仕事へと復帰したある日。

 夜遅くにトイレのために起きた真白は、明かりのついた台所でひとり項垂れる母親を見た。支度を急がせる母でもなく、娘を元気づける母でもなく、忙しそうに働く母でもなかった。抜け殻のように座り込む憔悴しきった姿は、真白たちにも見せない母の奥底の真実だった。


 夫を失って、娘と共に残され、平然としているしかなかったのだ。薄暗い廊下側からドアの隙間に母を覗きながら、真白は途方に暮れる。

 笑ってほしいのに、幸せでいてほしいのに、今はどんな言葉も母には届かない気がした。


 だからこれ以上母親に縋るのはやめようと、真白は思った。

 自分は妹たちの中でも1番の年上で姉だ。残された4人の家族でやっていくには、真白自身が姉としてしっかりしなければならない、と。

 母親の辛そうな顔は二度と見たくなかった。



 妹たちの世話を進んでやった。料理も必死で勉強して、母親の代わりに作るようになった。洗濯も掃除も何もかも真白が『好きだから』という理由で押し切って望んでやった。母は仕事に集中するようになり、妹たちも手伝ってくれる。続けていくうちに、それが真白たち家族の基本的な在り方になった。


 役に立ちたい。

 孤独な母をドアの隙間から立ち尽くして見ることしかできない、無力な自分に戻りたくない。

 真白を突き動かしていたのは、親と妹への愛と無価値な自身への拒絶だった。



 父親を亡くして、頑張って働く母親とそれを支える娘たちというのは世間的には立派に感じるものらしい。

 親族や教師、関わる大人たち。様々な人に出会えば同情的な眼差しで『偉いね』と褒めてくれる。まだ小さいのに立派ねと繰り返される度、真白は心が満たされた。

 テーブルに用意した食事を並べて笑顔で母親を出迎えれば、『ありがとう』と言ってくれる。優しい妹たちにも『ねえちゃんはすごい』と抱き締められればもう十分だ。



 ある程度の肯定感を得て、真白は大切な何かを見ないふりをした。



 家のこと以外も真白は真剣に取り組んだ。

 学校では進んで先生の用事を引き受けたし、委員会にも喜んで所属した。塾に行くつもりはなかったので、夜遅くまでこっそり勉強して成績は常にトップ。このままなら高校受験も問題ないだろう。

 何事も順調で、恐れるものなどない。

 そのはずだった。



 中学1年生の12月中旬。冬休みに入る前のことだ。

 夜、ご飯を食べに行こうと母親に誘われた。

 妹の美砂もせつろも友だちの家に泊まりに行って、久しぶりに母親と自分だけの夕食だった。お金がもったいないし自分が作ると真白が準備をしようとすれば、今日はいいからと無理やり街に連れ出された。


 冷たい印象の街路樹はたくさんのイルミネーションでぐるぐる巻きにされ、カラフルに冬の夜を染める。厚着をした多くの人たちの間を歩きながら、真白は凍えた手に息を吹きかけた。幾ばくか熱を持った気がする手を母親が不意に握る。真白の手より温かいそれに感謝するよりも、子ども扱いされているようで気恥ずかしい。


『寒いねー、お母さんラーメン食べたいなー。真白は?』

『私は何でもいいよ』


 真白に特に希望はない。母に引っ張られるまま、近場の新しくできたばかりらしいラーメン店に入ることになった。

 暖かい店内に足を踏み入れた瞬間にスープのいい匂いと賑やかな声に出迎えられる。目の前を餃子の皿を持った店員が通り過ぎ、真白は思った以上に空腹だったことを自覚した。


『真白は、何食べる?』

『……しょうゆラーメンの小さいの』

『他には?』

『いらない』

 しょうゆラーメンを選んだ理由は一番安かったから。だから他の商品を頼む気は真白にはなかった。


『えー、絶対足りないよ。他にも頼みな。あたしはねえ、とんこつと、からあげと餃子、チャーハンと……あ、チャーシュー丼だって! これもおいしそうだねえ』

『そんなに食べきれないよ』

『お、真白は母親の胃袋を侮っているな……大丈夫だよ。それに今日は食べてもいい日なの!』

『……何それ』


 普段よりもはしゃぐ母の様子が可笑しくて少し笑ってしまう。

 差し出されたメニュー表をもう一度手に取ってじっくりと眺めた。客たちの話声に紛れて真白の腹が鳴って空腹を訴える。気が付かれていないと思ったが、ニコリと笑う母親と目が合って頬が赤くなる。ここで我慢をした方が子どもっぽくて恥ずかしい。


『私、ぎょうざも食べたい……』

『だよねー。じゃあ2皿頼もう』


 あれよあれよという間に、真白の頼む予定だったしょうゆラーメンのサイズは小ではなく中になったし、餃子もからあげもシュウマイもチャーハンとチャーシュー丼も真新しいテーブルに並んでいた。

 湯気を上げ美味しそうな匂いのする料理を小皿に取り分けて、母親と一緒にご飯を食べた。


『……あったかい、おいしい』

『ほんとだねー。来てよかった』

 満足そうにとんこつラーメンのスープを母親は飲んでいる。同じようにレンゲですくった茶色の澄んだスープを口に入れれば、凍えた身体に旨味がじんわりと広がった。

 昨日遅くまで勉強していた疲れも少しましに感じる。


『お母さんね、たまにこうやって知らない店に入って思いっきりご飯食べて休むことがあるんだ』

 食べる手を止めて、真白をじっとみる母は穏やかな瞳をしていた。


『何もかも忘れてただ食べて、深呼吸して、力を抜いて、ああ疲れたー頑張ったーって思って、また仕事とかに戻るの。……あ、これ美砂とかせつろには内緒ね』

『お仕事、嫌なの?』

『ううん、大変だけど楽しいよ。でもずっと楽しいを続けようと思ったら充電しないと』

『……充電』

『人によって違うし、やることは何でもいいんだけどね』

 母が目を細めると、昔はなかった皺が寄る。


『真白はちゃんと息抜きできてる?』


 質問に答えられなくて、真白は静かに箸を置いた。

 仕事もしていないし、母親のように家族の中心で支えているわけでもない。勉強と家の手伝いぐらいで、充電や息抜きが必要だとは真白は思わない。社会人になったら、そうしたいと考えることもあるかもしれないが。


『よく、わからない。土日は学校ないしお休みはしてるよ』

『友だちと遊びに行ったり、真白の好きなことをしたりしてる?』


 すぐには答えられなかった。

 友人になった子に遊びに誘われても断ったし、学校がない時は妹の相手をしたり家事をしたりだ。中学になってから小学生の時よりも気合を入れて勉強するようになった。でもやっていることは真白にとって日常の当たり前で、自然なことだ。


 違和感もなく続けてきたが、母親の『好きなこと』の一言に思考が停止する。


『私は大丈夫だよ。休んでるし、平気……だけど』

 そのはずだ。だけど母親の質問にはきちんと返答せず、ずらしたことを言った。


『お父さんがいなくなってから、真白はずっと頑張ってくれてるでしょう。中学生になってさらに無理してるんじゃないかって思ってどうしても伝えたかったの』


 わけもわからず、目の奥が熱くなる。


『いつもありがとう』


 慣れているお礼の言葉だ。だけど母の口調は全てを労わるように優しくて、無性に悲しくなった。


『……ごはん作った時とか毎回言ってくれてるし、わざわざ何度も言わなくていいよ。本当に大したことなんてしてないし。お母さんの方がお仕事忙しくて大変なのに』

『それはそれとして、今は真白の話をしてるの。美味しいごはん作ってくれて偉い! 洗濯物も掃除も率先してやってくれて偉い! 美砂とせつろの面倒みてくれて偉い! 勉強もしてるしお母さんの心配もしてくれるし、真白は本当に頑張ってて偉い!』

『私ができる程度のことだよ、頑張ってなんか』

『頑張ってるよ』


 唇を噛み締める。指先を握りこむ。

 瞳が潤んでいるのを真白は感じ取っていた。

 自分自身よりも無理をして歩き続けている母に褒められて、申し訳ないのにどこか嬉しい。でもダメだ。家事も勉強も何もかも真白が無力な自分にならないための抵抗で、褒め称えられるのは違う。


 初めの頃はお礼を言われれば安心できたのに、今はただ苦しくなる。

 他人のためなんかではなく、真白は自分のために行動している。

 つまらない役に立たない虚無感から逃げたくてやっていた。だから偉くなんてないと否定したい。


『頑張ってないよ……私がしたかっただけだよ』

『……真白は自分のためにやってるの?』

『そうだよ。だから、そんなに褒めなくていいよお母さん』

『じゃあ、自分のためにやったあと、真白は真白のことちゃんと褒めてるの?』

『……え?』


 自分を褒めるという発想はそもそも真白にはなかった。

 視界の端に映ったラーメンの器の中のスープに軽く波が立つ。


『自分で決めたことなら、それがきちんと達成されたなら結果を受けとめないと。反省したり納得したり褒賞をあげて区切りをつけないとね』


 テーブルの上にあった真白の手に、母親がふわりと両手を重ねる。


『誰かがそれをしてくれることはあるけど、永遠に傍にいてくれることはないから。自分を続けていくためにきちんと休んで自分を褒めてあげてね』


 永遠に傍にいてくれることはないから。


 その一言で、父親のことを真白は思い出した。大切にしながらも今を生きるために奥底に閉じ込めた失った家族。目の前にいるはずの母親はしっかりと実体があるのに、途端に揺らぎ霞んでしまう。

 いつかは誰も彼もいなくなる。

 母親はきっと己がいない未来のことまで見ている。

 真白たちだけになって、急き立てられるように生きかねない娘を心配している。


『お母さんがいる間はこれからもいっぱいありがとうって伝えていくけど、真白も自分に同じようにすること!』

『……うん』


 見ないふりをした『自分自身』の存在が、嫌というほど浮かび上がる。

 外を歩いて冷えていた身体は、すっかり温かさを取り戻していた。


『あたしの娘でいてくれてありがとう。何もしなくたって、真白のことが大好きで愛してるってことは忘れないで、絶対に』


 あの日の無力な自分を、暗い廊下から母を覗き見ることしかできなかった自分を、肯定された気がした。

 うずくまって声を殺して泣いている、役に立たない真白も、どうやら生きてもいいらしい。



 母親とラーメン店で話をしてから、張りつめていた心が緩むように気が楽になった。

 やること自体が大きく変わったわけではない。真白は引き続き家事を進んで引き受けたし、学校も勉強もしっかりこなす。

 でも時折ひとりっきりになって、思いっきり羽を伸ばす。

 延々と泳ぎ続けるなら息継ぎが必要だ。一瞬水面から顔を出すために、孤独になって肩の力を抜いてリセットして、再び泳ぎ出す。

 ちょっとの呼吸の重要性は、母親からしっかり学ばせてもらった。


 選んだ方法も単純で、自分を知らない人がいる場所で過ごすこと。

 その時は何も気にせず思いっきり食べること。

 結局母と同じ行動が一番しっくりきた。このことは誰にも話していない。恐らく母親にはバレているだろうが、真白だけの秘密だ。

 これだけで、何だか普段の日常も苦しくない。そもそも妹たちと過ごすのも母を手伝うのも勉強をするのも嫌なことではないのだ。正直楽しいと感じていた。


 ただその行為に向かう自分の行動理由が嫌だっただけで。


 今でも少し、役割に固執してしまっているところはある。

 前までのようにやらなければ自分の価値が証明できないという焦りではなく、自身の物だという軽い執着だ。

 真白の代わりに誰かが家事をしようとすると、やっぱり助けたくなってしまうのだ。

 きっとそれならば相手も喜んでくれるし、自分も納得できると信じているからだ。




 その日、真白は久しぶりに深呼吸もしくは母の言う充電をしに出掛けた。

 いつもは下ろした黒髪をきっちりとした三つ編みにして、クローゼットの隅にある普段は着ない洋服に着替える。

 お忍び気分を味わうために黒のキャップをかぶれば完成だ。


 家族も友だちもいない状態で街を散策し、SNSのイミスタで気になっていたラーメン店で昼食を済ます。そこまで大食いなわけではないが、こうやって真白がひとりで過ごす日は不思議といっぱい食べられる。見ることのできない謎のストッパーが外れているのかもしれない。


 買い物を終えて家に帰ろうとして、鞄の中を見て血の気が引いた。

 ない。大切にしていた黄緑色のハンカチが見当たらない。

 慌てて今日行動した範囲を探しても一番可能性が高そうなラーメン店に再度訪れても、見つかることはなかった。


 落胆して帰宅する羽目になった真白だが、身体はいつも通り必要なことをこなす。

 朝、兄と姉たちが干してくれた洗濯物を回収して室内に戻り、脱衣所に乾いたタオルを収納する。


 ぼんやりと洗面台の隣に置かれたカゴを見て、真白の動きが止まった。

 見覚えのある黄緑色のハンカチが、別のタオルの下に埋もれるように入れられている。どうしてこんなところにあるのかわからないが、間違いなく真白のハンカチだ。


 家に帰ってきた時、玄関に揃えられた靴で今家に誰がいるのかは判明している。

 その中で今日出掛けると言っていたのは――。

 真白の脳内にラーメン店の奥に座る客の後姿が過った。


 ゆっくりと心が押し潰されていく絶望感。

 どうすればいいのか必死で考えを巡らせながら、真白はハンカチを握り込んだ。

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