第29話 妹と感謝のバレンタイン
久しぶりの登校日から無事に帰宅し、間もなく夜という時間帯。
喉が渇いたオレは、2階のリビングダイニングキッチンまで下りて来ていた。ドアを開けて右側のキッチンでは、コンロの前で今夜の食事当番小槇が準備中。左側のリビングでは、テレビ前のソファに美砂が陣取っている。
部屋に入って来たオレに一番に声を掛けたのは美砂だった。
「あ、しゅうぴ~。ハッピーバレンタイン! チョコちょうだい」
「ないぞ」
「えマジ? バレンタインなのに?」
「バレンタインを何だと思ってんだ」
「ワタシのためにチョコが用意される日!」
「……へえーそう」
本気で言っているようには聞こえないが、ほんと意味わからん奴だな。「あーバカにしてるなー」と不満たっぷりの美砂には構わず、オレは冷蔵庫へとお茶を求めて向かう。
ちょうどペットボトルの緑茶をグラスに注ぎ終わったタイミングで、隣の食器棚に用事があったらしい小槇がオレの横に並んだ。
「ごはん、もうすぐできるよ」
「わかった」
ちらっと振り返れば、野菜らしき物が入ったフライパンから湯気が立っていた。前回の小槇の食事当番の時もそうだったが、また野菜炒めらしい。
飯と野菜炒めだけなので持って行きやすいし、ひとり部屋で食ってもいいな。
「ごはんの後、真白の作ったバレンタインのお菓子みんなで食べるから、今日は部屋じゃなくてここで食べてね」
「おー、了解」
見透かされていたかのような小槇の発言に、内心ぎくりとする。夕食ぐらいいいか。一緒の食事を断って兄妹間に波風を立てても得るものはないし。
それに冷蔵庫の中にあった謎の何かの正体も解決できそうだ。種類名は知らないけど、あれ真白作のチョコレート菓子だったのか。
「そういえば、今日学校でくれたチョコさっき食ったよ。ありがとう」
バレンタインの話題からまだできていなかったお礼を小槇に伝える。よく知った既製品のコンビニ菓子の味を語られても困るだろうし、感謝の言葉だけに止めた。
「安心安全のいつも食べてる味だなって思ってもらえるように選んだ」
「でしょうね」
「いつも通り美味しかった?」
「いつも通りうまかったよ」
「だよね」
どこかやりきった顔をする小槇は、食器を持ってコンロの所へ戻って行く。グラスのお茶を飲み干し、オレも準備ぐらい手伝おうと小槇の元へ移動しようとしたタイミングだった。
「みさねえちゃん! しゅうにいちゃん!」
廊下側のドアが開いて、ドアノブの位置と身長があまり変わらない少女が弾むような声と共に部屋へと入って来る。動きに合わせ元気よく跳ねる短い黒髪と、淡い紫の花の髪留めで左耳の上を飾っているのは、5番目妹のせつろだった。
一緒にバレンタインの買い物を済ませたあの日から、彼女から怯えはあまり感じなくなり親しげに『しゅうにいちゃん』と呼ばれるようになった。
出会って1年間微妙な距離感を保っていたのに、驚きの変化だ。
「お、せつじゃん。どしたのワタシたちに用あった?」
ソファの縁にだらりと頭を預け、美砂は実妹に手を伸ばしている。
「いつもありがとうみさねえちゃん! これバレンタインデーのプレゼント!」
後ろに隠していたらしい水色のラッピング袋を、ニコニコしながらせつろは取り出した。美砂は軽く目を見開くと勢いをつけてソファアから立ち上がる。そして末っ子妹に近寄ると大げさに抱きしめた。
「せつは良い子だね~。感激なんですけど!」
「えへへ」
よしよしと頭を何度も撫でられ、せつろも満更でもなさそうだ。
「朝にね、ましろねえちゃんとこまきちゃんとうららちゃんにはわたしたんだけど、2人にはまだだったから」
「そっか~。でもいつ作ったの? 昨日の夜はうりゃちゃんで朝はねーちゃんがキッチン使ってたのに」
「うららちゃんとこっそり作ったの!」
「あーそれで、キッチン立ち入り禁止にされたのか。うりゃちゃんもやるのう」
「作り方とかね、おしえてもらったー」
「そっか頑張ってくれたんだね。ありがとね、せつ」
姉の腕からせつろは抜け出ると、続いてオレの元へとチョコレートを持って来た。
「しゅうにいちゃっ! お買い物いっしょに行ってくれてありがとう!」
「わざわざオレにも用意してくれたのか。……ありがとう」
まさか貰えるとは。
オレと出掛けたショッピングモールで手に入れた水色のラッピング袋には星の形をしたシールがたくさん貼られている。紙製の袋は下の方が透明な窓のような作りになっていて中に入っているチョコクッキーがよく見えた。
ハートなどの形をした小さなクッキーが複数と、凝ったデコレーションがしてある大きなクッキーが1枚ある。
「すごいこのクッキー絵が描いてある!」
はしゃぐ美砂は手元のラッピング袋をじっくり眺めていた。
「なんだろうこのキャラクターの絵かわいいな……」
「みさねえちゃんの好きな物だよ! 何だかわかる?」
「わかった! こんにゃくの妖精かこんにゃくの妖怪かこんにゃくでしょ!?」
「……オオサンショウウオだもん」
「今のなしなし! どっからどう見てもオオサンショウウオだよすっごくかわいいオオサンショウウオだなぁ!」
せつろの絵心は通じなかったらしく、しょげかえる妹を美砂は必死に励ましている。オレは見ていないが、クッキーに描こうとするにはかなり難しい題材だろう。
というか美砂オオサンショウウオが好きなのか。何か意外だ。
「しゅうぴは? せつにどんな絵のクッキーもらったの?」
話を逸らそうとした美砂から話題が飛んでくる。
「桃だな」
ハートをひっくり返した形がピンク色のチョコレートで描かれていた。特徴をよく捉えているし、美砂へ好きな物の絵だよとヒントを出していたのですぐに答えられた。
と言ってもオレは桃の味が好きなのであって姿を愛しているわけじゃないんだが。まあ細かいことはいいや。
「こまきちゃんからしゅうにいちゃんがモモ好きって聞いたから」
「ん、わたしが教えました」
オオサンショウウオを理解されず萎れていたせつろが少し元気を取り戻している。
キッチンで夕食準備中の小槇は無表情だが、何処となくドヤ顔をしている気がした。
「てか、せつ~。いつの間にそんなしゅうぴと仲良くなったの? 前はそんなんじゃなかったのに、買い物って何の話だよお~?」
「ないしょだもん!」
「隠し事しちゃってー。悪い子はこうしてやる!」
「ちょっとみさねえちゃ、やめ!」
再びせつろを捕らえた美砂は、妹の髪をぐしゃぐしゃと撫でて更に脇をくすぐっている。耐えられなかったのか、せつろは頬を赤くしてくすくすと笑い出した。
その後、真白とうららが加わり夕食の時間になる。小槇から聞いていた通り食後には3番目妹の真白からショコラテリーヌが振る舞われた。
店で買ったのかと思うほどの美味しさで、驚くほど滑らかで濃厚なチョコだった。ショコラテリーヌって何だよと知りもせずに食べたが、そんなことどうでもよくなる味だった。
その時にせつろのクッキーも食べたが、こちらは素朴で飽きない美味しさだ。ありがたく妹たちのプレゼントを受け取り、食器を洗ってリビングダイニングキッチンを出る。
関わるとめんどくさいし良いことばかりではない妹属性だが、今日くらいは素直に感謝だけしておこう。これで最後だろうし。
オレは階段を上り自室に戻って後ろ手にドアを閉める。廊下と部屋が分断されれば、ようやくひとりになれて肩の力が抜けた。
どうせバレンタインなんてと期待していなかったが、予想以上のことが多かった。
まさかこんなにチョコレートを食べるなんてな。
勉強机の上には多岐川から貰った白い紙袋とチョコレートの箱が置いてある。
後で食べようと冷蔵庫に入れて妹たちにごちゃごちゃ言われるのも嫌だったので、帰宅して早々に全部食べてしまった。
聞いたことのないブランドのお高そうな生チョコは、口に入れるとカカオの香りとさっぱりとした果汁感が合わさった不思議なチョコだった。
正直食べたことのない味だ。だが、飲み込む瞬間には好きな味だと脳が理解していた。
白に薄いピンクが交じる箱を開けると、小さな商品説明の紙が入っていてそこに書いてあったのだ。
桃の果汁をたっぷり詰め込みました、と。
せつろからのクッキーにもあったが、桃はオレの好物の一つだ。
それだけで味に加点したくなるぐらいだから、多岐川は良いチョコを選んでくれた。
問題は、これが偶然なのか必然なのか不明な点だ。
いや、オレあいつに桃好きとか言ったことないよな?
たまたまなのか、そうじゃなかったらちょっと怖いけど。
広げたままだった紙袋を片付けようと、オレは手を伸ばし。
「……あれ?」
袋の底に何か入っていることに気が付いた。
手の平サイズのメッセージカードのようだ。文字の面が下になっていたため、周りの色に同化して箱を取り出した時に目に留まらなかったのか。
『初めて買ったブランドのチョコなのでよければお味の感想聞きたいです。時間あったら連絡ください。 たきがわ』
メッセージカードの整った手書きの文字の下には、SNSアプリのIDが記載されている。
今更ながら、オレは多岐川の連絡先さえ知らなかったことを思い出した。
クラスによってはSNSアプリでグループを作っているらしいが、オレのクラスは別に仲は悪くないものの何となく全体でそういうものは作っていない。
スマホを持っていない奴もいたし、たぶん全員心のどこかでめんどくさいなと思っていた可能性が高い。オレも親しい友人たちのIDくらいしか知らなかった。
どうするかな、これ。
メッセージカードを片手に持ったまま数秒ぐらい静止する。
これまでの多岐川との関係性が頭をよぎり、否定的な方向へ結論が傾きかける。だが昇降口でオレの手を握り締める多岐川の表情が浮かび、軽く頭を振った。
ベッドの上に放り出していたスマホを掴むと、SNSアプリを立ち上げ書かれていたIDを検索した。
展望台のような景色の良い場所と満開の桜の写真を切り取った綺麗なアイコンが1件表示される。名前表記も『たきがわ』だし間違いない。
『晴丘です。もらったチョコレート、桃の香りと味がしっかりして美味しかった。ありがとう』
端的に、伝えたいことだけ打って送信ボタンを押す。
ベッドに寝っ転がろうかと腰を下ろせば、スマホの画面が点灯してオレの送ったメッセージの横に既読が付いていた。
びっくりするぐらい反応が早い。
『多岐川です。連絡ありがとう。美味しいとは噂で聞いてたんだけど、よかった。 今度私も自分用に買ってみる』
『ほんとうまかったから、買って損しないと思う』
オレが送った言葉に再び既読は付いたものの、多岐川からの返事は来なかった。
少し緊張しながらのメッセージのやり取りはあっさり終わり、枕元に画面を暗くしたスマホを投げた。軽く息を吐き、体重を後ろにやってそのままベッドに横になる。
食後の満腹感とは別に、何だかオレは不思議と満たされていた。
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