第24話 兄の知らない妹の話(ごばんめ)

 三姉妹の末っ子。せつろという少女の世界は姉たちによって守られてきた。

 物心つく頃には父親はおらず、せつろにとってはそれが当たり前。

 母親と姉たちとでこの先もずっと暮らしていくのだろうと思っていた――1年ほど前までは。



 母親から再婚したい人がいると告げられた時、せつろは正直どうしたらいいかわからなかった。


 上の姉の真白は『お母さんが決めたことなら』と笑っていたし、下の姉の美砂は『いいんじゃない? 母さんが選んだんなら』と納得していた。だからせつろも受け入れるしかなかった。


 2人の姉は父親との記憶がある。だから新しくできる父親という枠がどんなものか理解している。

 けれどせつろにはわからない。見覚えのない男の人が赤ちゃんの頃の自分を抱いている、そんな認識の写真でしか父親を知らなかった。しかも新しい家族には父親だけではなく、年上の少年と少女たちがいるらしい。姉はともかく『兄』という枠もせつろには未知数すぎた。


 本や漫画やドラマのフィクションの世界から、いない家族は何となく想像できる。

 でもあくまで作り物だ。せつろにとって現実になってしまう『父親』『兄』はすぐそこまで差し迫っていた。できるだけ心の準備がしたくて、得体の知れない家族の枠の情報を埋めたくて、友達に聞いてみる。


『お父さん、ってどんな感じ?』

『よくねてるー』

『たまに勉強してるか、かくにんしてくるよ』

『お仕事いそがしそう』


『お、にいちゃんは?』

『部屋入るとすっごく怒る』

『あんまり話しないー』

『きげん良いとおかしくれるよ』


 父や兄がいる同級生たちの感想は様々で、いまいちイメージが像にならない。想像しようとすればするほどぐずぐずと崩れていく。

 結局せつろは、事前に新しい家族を想定することを諦めた。


 不安は不安なまま。仲良くできればいいな、という小さな願いが残っただけだ。

 そのためにもできるだけ怖い人じゃないといいな、と至極当然のことをせつろは考えていた。



 顔合わせの日。

 姉の真白が誕生日プレゼントにくれた金色のハートの形の髪留めを、落ち着いた紺色のスカートに合わせた。今日のための気合を入れたせつろなりのおしゃれだ。

 事前にカフェで新しく父親となる男性と会った。とても愉快で楽しい人物だったこと、お気に入りの髪留めを褒めてくれたこと、姉たちともすぐ打ち解けたこと。

 想像以上の彼の態度のおかげで、せつろはすっかり安心していた。


 夕食を一緒に食べる、という約束でせつろたちは予定通り父親の家へと案内される。

 そこで初めて『兄』や『姉』たちと会う予定だった。


 玄関を開けて父親が中へと呼びかける。着いたぞとか挨拶しろとかそんな彼の言葉にぱたぱたとスリッパで廊下を駆ける複数の足音が近づいてきた。

 どきどきと、せつろの心音が大きくなる。

 がちゃりと誰かがドアを開け、外で待つせつろたちの前に出てくるのだと思った途端。


『あああー!!! あたしの靴踏んでる!!』

 怒りに染まった少女の第一声が、家の中から響いてくる。

『あ!? ちょっとバランス崩して足置いただけだろ!?』

『マジありえないんだけど!? あ、跡ついてる最悪! 謝って』

『だからワザとじゃねえって!』

『……しゅうちゃん、うらら。先に挨拶しよ』


 ぎゃんぎゃんと男女が言い争う声が止み、父親が頭を抱えている。せつろの母親は元気で仲が良いんだなと隣で笑っていた。しかし、驚いたせつろは思わず真白の後ろに隠れてしまう。美砂に仕方ないなという呆れた顔で頭を撫でられた。

 言葉を交わさなくてはいけないのに、上手くできない。ただ真白の服を強く握り締める。


 姿を現した3兄妹は、先程の騒ぎなど無かったかのように母親たちと会話している。

 少しつり目の気の強そうな少女と、その少女によく似た怖そうな少年。何を考えているのかよくわからないぼんやりとした少女。

 この人たちが家族になるのだとわかっていたのに、自己紹介もしてくれたのに。

 その後の夕食会でせつろはほとんど黙ったまま時間を過ごした。好物だからと用意してくれたオムライスの味もあまりよく覚えてない。


 夕食会の後。

 会ったばかりだからゆっくり仲良くなればいいと母親に言われて、そうしたいとせつろも思って頷いた。もし嫌だとか悲しいとか辛いことがあれば無理をしなくていいとも母親に言われ、せつろは強く首を横に振った。


 母も姉も新しい家族も。誰も彼も悪くはない。

 ただ現状を飲み込めない自分が悪いのだと、せつろははっきり理解していた。



 実のところ、せつろは人の大声があまり得意ではない。

 さらに言うと、自分の名を呼ぶ大きい声が苦手だ。


 内向的ではないがそこまで主張せず。賑やかで激しい子どもたちと遊ぶよりも、室内でおままごとをしたり少人数で絵を描いたり粘土で遊んだり。比較的穏やかな環境で過ごすことをせつろは昔から好んでいた。もしかすると、姉たち2人に優しく守られる状況を与えられてきたせいもあるかもしれない。

 しかし成長し触れ合う人物が増えれば、自分と違う性質の子どもたちと是非もなく関わりができる。


 そういう子たちは、決まって大きな声で楽しそうに名を呼んでくる。


『せつろ!』

『せつろちゃん!』


 悪意はなく全くの偶然なのだが、名を呼ばれるとせつろには不幸が降りかかる。


 休み時間の中庭で、学年が上がってクラスが分かれた友人に大声で名を呼ばれた。振り返ると同時に近くで遊んでいた生徒たちのドッジボールの球がせつろの後頭部に命中。

 体育の授業後、急ぎの用があったらしい友人が校舎の中から手を振って大声で名を呼ぶ。慌てて駆け寄ろうと走り出したところにタイミング良くハトのフンが落下して命中。

 掃除の時間、後ろから同じクラスの女子に待ってと大声で名前を呼びかけられた。男子トイレ前で偶然立ち止まったせつろに、トイレ掃除中ふざけて遊んでいた男子の持つホースから飛び出した水が命中。


 もう例を挙げればきりがない。


 共通点があるとすれば、元気な声の大きい積極的な性質を持つ男子や女子。彼らは何も悪くないとわかっているのに、名前を呼ばれるたびドキリとする。

 姉の真白から大声で名前を呼ばれた時も近くの看板にがっつり足を打ち付けたし、姉の美砂とも同じようなことがある。


 きちんと考えればわかることだ。

 久しぶりに会って嬉しくてとか、慌てていて呼び止めたくてとか。近くを車が通って危なかったからとか。せつろを不幸にしてやろうなんて思って名を呼ぶものなんていない。

 それでも回数が重なれば、せつろにとっては嫌な記憶として焼き付いていく。


 偶然だよ、たまたまだよ、と他人から見れば何でもないようなことだがそれは本人にとっては関係ない。

 楽しみなイベントに限って雨が降るような。絶対受かりたい試験に限って落ちるような。人によっては存在する自分の中の不幸のジンクスが、せつろの中で完成してしまっていた。



 だから初めて晴丘家で兄妹を紹介された時、せつろは思ったのだ。

 この兄と姉は何かあれば大声で自分の名を呼ぶと。


 もう1人の何を考えているのかわからないぼんやりした姉はともかく。よく似た兄と妹の方は、どうみても大人しいタイプではなく騒がしく会話をするような性格だった。

 ぴりぴりとした空気を放ち一切喋らないかと思えば、一度話始めると大声での喧嘩が続く。あの雰囲気でもし名前を呼ばれたらどうしよう、と。

 そんなくだらないことを考えてしまうほどに、せつろには嫌な思い出が染みついている。


 本当はそんなこと気にせずに仲良くしたい。個人的な確証もない迷信をバカみたいだと理解しているのにあと一歩が踏み出せない。


 同じ家で時間を共にすれば、それぞれの良さもだんだんと見えてくる。


 晴丘うららは、何事もはっきり言う性格だがらこそ好意を隠さない。せつろが後ろで様子を伺っていれば気にしてくれる。仲良くなりたいとはっきり伝えてくれる。みんなには内緒と言ってこっそりお菓子をくれたりする。せつろのお願いも嫌な顔をせず一緒に考えてくれた。


 晴丘柊桃は、こちらに興味がなさそうに見えて大事なところは手を差し伸べてくれる。そもそも初手の好意的な態度に上手く返せなかったせつろに呆れてもいいのに普通に会話してくれる。いつも柊桃とうららが喧嘩した後に、縮こまるせつろに謝ってくれるのは彼が先だ。


 だから変な苦手意識を持っているせつろが変なのだ。

 ただ大きな声で名前を呼ばれたくないだなんて理由で、あまり近寄ろうとしないだなんて他人には言えない。些末な問題として一笑に付されて終わりだ。


 けれど、もうこんなことは考えたくない。

 名前を呼ばれたって何も無いに決まっている。

 同じ家に暮らし始めてもう1年経つのだから、うじうじ悩み続けたくない。


 せつろは勇気を出して前よりも仲良くなったうららに、お菓子作りで姉たちにお礼をしたいと協力を求めた。予想通り、真っすぐで優しいうららは提案に乗ってくれる。彼女にもお礼をしなければとせつろは心に刻む。

 思いがけず買い物は兄の柊桃と行くことになってしまったが、彼も真剣に材料を選ぶせつろに付き合ってくれた。

 良い人だ。ずっとわかっていたことだ。だから大丈夫だとせつろは自身に言い聞かせる。


 晴丘柊桃と2人だけでここまで長時間一緒にいるのは、せつろにとって初めてのことだった。


 名前を何度か呼ばれたが、今のところ何もない。当たり前だ。

 人が多くて移動するのにも苦労する中、文句も言わずにせつろの先を歩いてくれる。時折スマホを見つめて複雑そうな表情をしていたが、別にせつろを怒ることもない。


 バレンタインイベントの会場地図が大きく書かれたパネルの前で立ち止まった時。後ろの通路をせつろと同じ歳くらいの小学生の女の子とお母さんらしき人が楽しそうに歩いて行った。その親子は離れないようにしっかりと手を繋いでいた。


 近くに来た男の人の邪魔にならないよう、せつろは柊桃の傍へと身体を寄せる。

 ふと、兄の手が目に入った。

 はぐれたら困るから。ちょっとだけだから。だから。


「せつろ、入り口の辺りに店あった。そこで買い物してうららのとこ戻るぞ」

「……う、うん」

「どうした、調子悪いか?」

「……ううん大丈夫、です」


 だめだった。これだけ共にいて親しくなりたいとも思うのに、さらに距離を詰める勇気が出ない。せつろは踏み切れない自分に嫌になりながら、店に向かって歩き出した柊桃の後ろを付いて行く。たくさんの客に押し流されそうになりながら、はぐれないよう必死だった。


 目的の売り場について、可愛らしい商品を見ながら待っていて良いと言われた。

 ぬいぐるみの抱きかかえるチョコレートや宝石みたいなチョコレートなど、素敵な商品が棚には飾られている。もらえたら嬉しいだろうなとか、こんな風にお菓子を贈ってみたいなとせつろが考えていた時だった。


 ずるり、と髪を何かが滑り落ちていく感触。

 かつんと、金色の何かが足元のフロアを転がってく音。

 瞬間何が起きたのかせつろは理解する。髪留めが外れて落下してしまったのだ、と。


 少し前に兄に指摘され、ずり落ちていた髪留めを元の位置に直したつもりだった。けれど綺麗に固定できていなかったらしい。

 ころころと転がるハートの形を追いかける。途中大勢の客の誰かの足に当たって、もっと遠くに髪留めは去ってしまう。


「……う、あっ……」


 情けない声がせつろの口から零れ落ちた。

 ようやく拾えた時には、せつろは自分がどこにるのかわからなくなっていた。ずっと下を向いていたせいで、どこまで移動したか見当がつかない。見上げてもたくさんの大人たちがまるで壁のように視界の邪魔をする。


 どんどんと、心が暗く暗く落ち込んでいく。

 遠くに行くなよと言われたのに、そんな簡単なことすら守れなかった。


 何とか見回して、柊桃が並んでいたはずの店のレジを見つける。しかし客はいても、せつろの求める人物ではなかった。


「どうしよう…どしよう」


 はぐれた。迷子。情けない。どうしようもない。

 ひたすら落ち込むしかない感情が溢れて、せつろを埋め尽くしていく。

 せっかく楽しく買い物できていたのに、お気に入りの髪留めを付けていたことを気が付いてくれたのに。感謝の気持ちがあるからこそ、申し訳なくて涙が滲む。


 誰かに助けてほしかった。

 だが一番頼りたい姉たちは、今この場にいない。


 誰か、誰か、誰が?


 店内BGM、足音、雑音、誰かの声。ぐちゃぐちゃな頭と世界の中で、はっきりとその音だけは響いた。


「――せつろ!?」


 せつろ。

 大きな声で、名前を呼ばれた。

 声の方へ夢中で進むと、急に人垣が割れる。おそらく全くの偶然で特別なことでもなく、客が動いてただ道が空いただけ。名を呼んでくれた彼へと続く通路が綺麗に現れて、天井の照明の光がフロアに反射する。

 まるで導く様に、その道は輝いていた。


 その先に良く知った男子高校生が立っている。

 眉間に皺を寄せて、怖い眼をして。買い物袋を強く握り締め、不愉快そうに。

 だが、せつろの姿を認めた途端安堵からか表情が柔らかくなる。


「……よかった」


 彼の言葉だったが、それはせつろの心の言葉でもあった。


 あんなに大声で呼ばれることが苦手だった名前が、呼ばれてこんなにも嬉しいなんて。

 見つけてくれた、呼んでくれた喜びに、自分勝手なジンクスを一瞬忘れて。


 せつろは笑顔で、兄へと走り寄った。


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