第11話 兄の知らない妹の話(いちばんめ)
小学校に入って数年後の事、小槇の苗字が『晴丘』に変わって世界は一変した。
父親と、兄と、妹ができた。
これは、小槇にとって人生が変わるほどの出来事だった。
血の繋がった父親は物心がつく前に亡くなり、母親と2人暮らし。幼い頃の小槇は、よく親戚の家に預けられていた。活動的な性格ではなかったので、ひとり部屋の隅でゲーム機を使って時間を潰す。そうすれば気遣って話しかけてくれる親族も距離を置いてくれる。
小槇は別に親切な大人たちを嫌っていた訳ではない。ただ、誰とも関わらずにじっとしている方が楽だった。母親といるのは好きだったけれど、職場と病院へ行くことが多かったので、無理をして傍にいてほしいとはどうしても言えなかった。
小柄な母親が精一杯の笑顔で接してくれる裏で、身体に無茶をさせていることはわかっていた。
だから小槇は、求めない。
じっとしている。自分のために余計なエネルギーを使ってほしくない。同じ年の子どもたちにも関わっていかないし、周りの大人たちにも要求しない。自分ひとりで過ごせるようなそういう子どもだった。
母親の体調が暫く好調な時期があった。そんな時に家族になりたい人がいる、と母親から告白される。自身の要望などほとんど言わない人物からの言葉に、小槇は黙って頷いた。
母親の決めたことに文句などなく、受け入れる以外の選択肢など思いつかない。
ただ、ひとりでいることが得意な小槇にとって、家族という近しい人間が増えることは、少しだけ不安だった。少し、本当に少しだけだが。
とうとう出会った母親の再婚相手は愉快そうな男性だった。愛想のよくない小槇にも太陽の様な笑顔で挨拶してくれる。そして、彼には子どもが2人いた。
新しい父親に似た年上の少年と活発的な年下の少女。
父親だけではなく、生まれて初めて兄と妹ができた。
『なあ、こまき何してるんだ?』
『ん……ゲーム』
『それしらないやつだな』
『あー、あたしもする!』
血の繋がらない兄妹たちは、小槇をひとりにはしてくれなかった。
何度も何度も話しかけてくるし、同じゲームを買って対戦しようと言ってくるし、一緒にご飯を食べようとしてくるし、外へ遊びに行こうと誘ってくる。
忙しそうな新しい父親も少し元気になった母親も小槇に構ってくれたけれど、兄妹のそれの方が頻度も多くうっとおしいぐらいに激しかった。
でも、不思議と嫌ではない。
ひとりのほうが楽だったはずなのに、家族といるのも何だか楽しい。
小槇の心は確実に変化していた。
母親が再婚して、住む場所が変わり学校が変わった。転校先はやかましい兄妹たちと同じ所だ。
ある日、新しい家族になってから初めての参観日の出来事だ。両親共忙しそうだったけれどどちらかは予定を空けて行くと約束してくれて、珍しく小槇の心は浮足立っていた。
しかし、授業の時間が近づいても親の姿は見えない。
学校にいる父親や母親の姿にはしゃいで、話しかけに行くクラスメイトたち。奇しくもその日は両親が揃っている生徒が多かった。楽しそうな、嬉しそうなたくさんの声。
ひとり座ったまま、時折後ろの出入り口を確認する。いない。まだ来ていない。
小槇は必死に、自身に言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫、だと。
どちらかは来ると約束してくれていた。遊びに行く約束も、美味しい食事に行く約束も、守ってくれた。新しく家族になってから、遠慮がちにお願いしてみたことは、父親も母親も兄も妹も、嫌な顔せず叶えてくれた。
わがままを言いすぎたから叶わなくなったんだろうか、と悲しいことを考えて小槇は慌てて首を振る。そんなことはないと思いたい。
一番初めに小槇を見に行くよ、と言われたけれど気が変わって他の兄妹の所に行っているのかもしれない。そうに違いない、と不安な鼓動を隠す様に小槇は俯く。
ざわざわと落ち着かない教室で、クラスメイトに声を掛けられた。
『こまきちゃん、お母さんかお父さんは?』
『……まだ来てない』
何故か、その質問は責められているように感じた。
『どっちが来るの?』
『たぶん、お父さん』
今朝の会話では、父親が午後の予定を空けられそうだと笑っていた。無理そうなら母が何とか向かうと約束された。だから大丈夫。
『ほんとうのお父さんじゃないのに来てくれるの?』
同級生に悪気はない。当時の小槇でもわかった。
再婚だと親同士の会話で伝わっていて、何気なく出てきた質問だ。
なので、悪意はない。悪意はないのだ。
『ほんとうのお母さんの方は来てくれないの?』
ぽたり、と。頬を雫が滑る。
わからない。小槇自身にもどうしてこうなっているのか、さっぱりわからない。それなのに涙が静かに流れた。戸惑いに溢れた、頭が真っ白になる様な、涙だった。
どうしたのと慌てて心配されて、変なことを言ってごめんねと謝られた。
周りの生徒たち数人が集まって来て、騒ぎになりそうな空気になる。小槇は急いで涙を拭って何でもないと繰り返した。目にゴミが入ったんだと誤魔化して、何でもないふりをした。
その後先生が教室に現れて、授業参観が始まった。
――だが、小槇の父も母も、どちらも姿を見せることはなかった。
45分の授業が終わって、誰か別の先生と話していた担任が険しい顔をして小槇の所にやって来た。
母親が倒れて、病院に運ばれたらしい。
がんがんと、心臓が早鐘を打つ。そのくせ凍り付きそうなほど心は冷えていく。
兄と妹と共に、急遽病院まで送ってもらう。焦ってたどり着いた病室には、予想外に健康そうな母親と憔悴しきった父親がいた。
ちょっとフラッとしただけなのと笑う母と何故か苦しそうな父に何度も何度も謝られた。
行けなくてごめんね、と。小槇だけではなく兄も妹も謝られていた。そんな様子の両親に、小槇たち子ども3人は気にしなくていいよと言う他なかった。
母親の体調は良くならなかった。
病院に通う頻度が増えた。気が付かないように、普段通りに、なるべく深くは聞かないように。ただ穏やかな日々が続けばいいと、小槇は感情に蓋をして過ごす。
求めないことには慣れている。だから、再び訪れた授業参観のお知らせも、ランドセルの奥底に仕舞って見ないふりをした。
何でもないことだ。親が来るのは別に当たり前ではない。様々な事情があって、色んな子どもがいる。小槇の親が来ないのもそんな当たり前のひとつ。
だから、誰もいない参観日になるはずだった。
『ちょっとあなたたち何してるの?』
授業を始めようとした担任の教師が、後ろに向かって呼びかける。なるべく他のクラスメイトの家族を見ないようにしていた小槇も思わず振り返る。
『ちょっと妹のじゅぎょう見に来ました』
『あたしたち家族なので』
兄と、妹がいた。
大人たちに隠れるように隙間にいたらしが、発見されると自身たっぷりに兄妹は言ってのけた。彼らは当然のように主張して胸を張っている。
『今、あなたたちのクラスも授業でしょう!?』
『いや、そんなことより、こまきのじゅぎょうさんかんの方が大切なので』
『あたしたちはほら、いつでもじゅぎょう受けられるし』
『いやね、そういう問題じゃないでしょう!』
『大丈夫です。今日やる勉強は予習しておきました! なのでこっち来てももんだいないです』
『こまちゃんのじゅぎょうのじゃまはしないわよ。しずかにしてますから』
『早く教室に戻りなさい!』
担任に連れ出されながらも、2人は小槇に手を振って叫んでいる。『お兄ちゃんがいるぞ!』とか『妹もいるわよ!』とか、『心配するな』とか『遅れるけど来れるって!』とか。
びっくりしながらも、ただただ去って行く兄妹を見送った。
生徒たちも保護者たちも驚いたように囁き合っていたが、やがて何事もなかったかのように授業は再開された。だが小槇は内容を半分も聞けていなかった。
そして、ふと、斜め後ろを振り返る。
後ろのドアの所、廊下から窺うように小槇を見ていたのは――母と父だった。
視線が合って、母親に柔らかく微笑み返される。隣の父親が口元に人差し指を当てたので、うっかり声を上げそうになった小槇は自身の口を押えて頷いた。
来てくれた。教えていなかったのに来てくれた。
ただそれだけが小槇を満たしていた。
その夜、家族5人揃ってファミリーレストランに行った。
授業を抜け出したことを兄と妹は叱られ、小槇は参観日があると言わなかったことを叱られた。同じ学校に通う兄妹がいるのだから、バレるのは当たり前だ。くしゃくしゃになった授業参観のお知らせのプリントをテーブルに広げられ、小槇は恐縮するしかなかった。
皆が好きなものを注文し、笑いながら語り合う。
今日の授業の話をして、ちゃんと手を上げていて偉かったと褒められた。
隣に母がいる。前には、兄と妹と父が座っている。ドリンクバーから選んで持ってきたメロンソーダは良く冷え切っていて、結露が小槇の手を濡らす。頬を抓る必要は無く、間違いなく現実だった。
『ほら、目玉焼き』
兄が自身のハンバーグプレートから、小槇のチーズハンバーグの上に目玉焼きを移動させる。
『好きだろ? たまご?』
『あーーずっるい! こまちゃんあたしのもあげる!』
妹が、自分の頼んだ皿からエビフライを突き刺して小槇の皿に追加する。
『好きだよね!? エビフライ? たまごよりも』
『なんだよいらないのかよ、オレにもエビフライくれ』
『じゃあそっちもハンバーグよこしなさいよ!』
2人が言い争ういつもの光景。ほどほどにしろよと父親は窘め、母親は追加で頼むかと聞いている。
『あ、こまき、顔!』
『やったー笑ってくれたー!』
『……?』
兄妹に指摘され、小槇はようやく気が付く。
家族になってから、彼らの前で笑うのは初めてのことだった。
数か月後、あっさりと母親は他界した。
覚悟はしていたが、小槇は朝も夜も泣き続け、休憩してはまた泣いた。悲しんでいる間、父親か兄か妹は必ず傍にいて、優しく背を撫でてくれる。だからまた、涙腺が刺激されてずっと泣き続ける。
小槇には、どうしようもなかった。
母を愛してくれた父も、母を大事にしてくれた兄妹も、落ち込みたかっただろうに。
ひたすらに小槇の嘆きを受け止めてくれた。
『心配するな、こまき。これから先何があってもオレたちは家族だ』
『大丈夫だよ。あたしたちがいるから、何でも言って。ね?』
『ずっと一緒だ』
『約束する』
晴丘柊桃と、晴丘うららは、必死になって小槇を慰めた。
血も繋がっていない、他人のはずの少女を抱きしめてくれた。
言葉に嘘はなく、透き通った善意に心は癒された。
欠けてしまったものは永遠に戻らないけれど、それでも生きていけるのだと小槇は知った。
ひとりでいるのも楽だけれど、みんなといても楽しいのだと小槇は悟った。
小槇を大切にしてくれた家族が、小槇にとっても大切で。
ずっと、永遠に気持ちはこのままだと信じていた。
年月が経ち、小槇たちは中学生になり、高校生になる。
少しずつ、兄の態度がおかしくなっていく。よそよそしくなって、高校に入ったら学校で話しかけるなと言われた。バイトの日が多くなり家にもいない、いても勉強と言って部屋に閉じこもる。
妹も前よりは小槇にべっとりと甘えてこない。友人も増えて学校に遊びに忙しそうだ。
幼いままではいられないのだから、付き合い方が変わるのは仕方がない。
小槇にも学校やゲームで家族以外の世界があり、兄や妹に昔のように縋り付かなくても平気だった。そう、小槇は平気だと思っていた。
新しい母親や妹たちが加わると聞いても、何も変わらない。小槇自身がしてもらったように、新しい家族を大切にしていけばいい。
これまでの積み重ねがあったからこそ、摩擦など無くあっさりと父の再婚は許容できた。
根底にある、ずっと一緒だという約束が小槇を支えていたのだ。
関係の変化に違和感に、大丈夫だからと言い訳して。家族のままなら恐れることは何もないと、小槇は必死に誤魔化していた。
誤魔化している時点で、おかしいのに。
幼い頃からの呼び名で兄を呼ぶと、彼の眉間の辺りに皺が寄る。それが嫌で、怖くて、名前だけで呼ぶようになった。踏み込んで色々と聞けなくなった。
これ以上、信じた家族を壊したくなかったからだ。
血の繋がらない妹はいらないと言われたら、もう立ち直れない。
中途半端な距離のまま、兄は高校3年生になって――進路を聞かされた。
県外に進学すると、家から出ていくと。
もうなりふり構っていられなかった。なんとか家族でいたかった。
でも小槇にはどうしたらいいかわからない。わからないまま無駄に時間が過ぎていく。妹が嫌なら別の形でもいい、恋人でも妻でも、何でも。とにかく傍にいないと不安でたまらない。
父親とうららと新しい母親と妹たちと、繋ぎ止めておかないと兄は二度と帰ってこない、そんな気がした。
焦燥感に駆られる小槇に、ある日妹が教えてくれた。
『あたしのバイト先でさ、ハートのハンバーグがあってね、カワイイんだよ!』
『ハートの?』
『うん、前こまちゃんさ、ゲームでバレンタインの料理あるって言ってたじゃん? あんな感じでバレンタインメニューやってるの』
『えー、と、これ? みたいな』
『え、まじで。結構似てるかも。期間限定だからさ、暇なとき来なよー。あ、でも1日30食限定だから、日によってはお昼終わる頃には無くなるのよね』
『……限定』
『午前中に来てれば、大丈夫! もうちょっとで期間終わっちゃうから、来店するならお早めにね』
終わっちゃう、うららの言葉が小槇の胸にのしかかる。
待っていては、何もかもが終わる。
ならば、小槇の取るべき行動はひとつだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。