魔法使いの鞄

 がつんと蹴躓いて思わず舌打ちする。

 あれから踏んだり蹴ったりだ。身寄りもなく、稼ぎもなく、今度は何をしでかしたか血眼になって師匠を追う輩の来襲に耐え、もうたくさんだと家移りを決めた矢先。行方をくらました師匠が唯一置いていった、こいつは因縁の旅行鞄である。

 開ける気にもならなかったものが、さきほどの衝撃で留め金が弾け飛んだらしい。

ひとりでに開いたその中身に、思いがけず目を奪われる。

 見事なドールハウスだ。

 鞄いっぱい、みっしりとつくりこまれた細工。暗い色合いで揃えた調度にエメラルドのランプ。片隅でのそりと動いたのは……

「師匠?!」

「よう、遅かったな」

 まるで悪びれないその笑顔に腹が立つやらほっとするやら、ロビンは後先考えずに鞄に踏み入り、かっと上った血を叩きつけるがごとく熱線を放つ。あとから振り返っても、この日ぶっ放した攻撃魔法は人生最高の出来だったと思う。

「いてて」

 はっと我に返ると、くっくっと笑う師匠の頬に、朱い筋がつたった。

 攻撃が当たったのだ。

 本来、ロビンごときに後れをとるイグニスではない。これを喜ぶほど、ロビンは幼くも愚かでもなかった。よく見ればイグニスの目元は黒ずみ、ただでさえこけた頬がさらに削げている。怠惰だが最強無敵のはずの師匠は、今ややつれはてていた。

「遅いからだいたいおわっちまったぞ」

「なにが」

「戦争だよ」

 目を見開いたロビンに、「やれっていったのはお前だろ」と、そっぽを向く。

「戦争、してたんですか」

「ああ。正確には」

 真っ青な顔で、それでもニヤリと不敵に笑う。

「殺し合い自体はまだ起きてない。ただ、戦争っていうのはその前から始まってるもんだ」

 裏で糸を引くなんて慣れないことするから疲れちまった、と師匠は力なく笑う。

「人が死ぬ前にどうにかしろって、それだけはお前の言うとおりだと思ってな」

 ロビンはたまらなくなった。

「さあ、最後の仕上げだ。力を貸してくれ」

 思ってもみない展開に面食らったロビンは、その後師匠の作戦をきいて、「無理です!」と悲鳴をあげた。


 イグニスに連れられて鞄のなかを歩きながら、ロビンはまったく上の空だった。

 旅行鞄のなかはあらゆるものが揃っていて、年単位で暮らすこともできる隠れ家になっている。さらに改良をほどこし、壁に据えられた飾り扉はあらゆる場所へつながっていた。イグニスはこの扉を行き来しながら、本格的な開戦を避けるべく暗躍していたのだ。

 何も知らないロビンが興味本位でドアノブに手をかけると、「そこ開けたらお隣さんの参謀本部に出るぞ」と釘を差されてあわてて手を引っ込めた。以来、ロビンはイグニスにドアの行き先を聞いては書いて貼ることにしている。

「おまえには、国をまるごと隠しきってもらう」

 こともなげに言われたとき、ロビンは「あーはいはい」とあやうく頷きかけた。

「国を?」

「うむ」

「まるごと」

「そう」

「無理ですよ!」

 そもそも攻撃する対象が消えてしまえば戦争などできないだろう、と嘯く師匠の正気を疑う。最後の仕上げとは、国家規模のかくれんぼのことだったのだ。

 いや、理屈はわかるが規模がおかしい。だてに勉強ばかりしてきたわけじゃない。一国がどれだけの広さか、ロビンは充分に理解していた。

「だいたい、そんな大きな術、どうやって……」

「目眩ましなら得意だろう」

「得意とかそういう問題じゃ」

 全力で及び腰のロビンに業を煮やしたのか、イグニスはぴたりと足を止めて振り返った。

「なにもお前ひとりでやれというわけじゃない」

 そう言うと、よっこらしょと鞄のふちを跨いで外に出た。たちまちもとの大きさに戻っていくのを見上げて、ロビンもあとに続く。

 イグニスはまっすぐ暖炉に向かい、〈火の手〉の炎に躊躇なく触れてすくい取った。

「口を開けろ」

「えっ」

 いいから、と半ば無理やり指を突っ込まれて、ロビンはなすすべなくえずいた。

灼けるような熱さが流れ込んでいく。不思議と痛みは感じず、ただ意思に反して手足が暴れる。

「こらえろ」

 涙目で頷いた。からだの中が燃える感覚。ばちばちと火花が散り、どっと幻が押し寄せた。荒涼とした焼け野原、破壊のかぎりを尽くす炎。これは誰の記憶だろう。

 目の奥に散っていた火花はやがておとなしくなり、燃える熱さも血流と馴染んで身体中をめぐった。いままで身を潜めるように息づいていた小さな流れがあらゆる堰を押し流して、欠けるところのない完全な循環系として機能しはじめる。

 魔法を使うときに感じていたあのちいさな円環である。ひとすくいがもたらした力の大きさに、ロビンは小さく慄いた。

「力は貸してやる。やるだけやってみるといい」

 その言葉におのずと背筋が伸びた。

「わかりました」

 〈火の手〉の炎にこめられているのは、かつてイグニスが通った地獄だ。これはイグニスの分身、彼がもつ膨大な魔力の、凶悪な一面。

 ロビンは試されていた。

 あっさり人を殺せるほどの大きな力を、人を守るためにのみ使えるか。イグニスが示したその道筋を、踏み外さずにいられるかどうか。

 そんなの決まっている。

「使いこなしてみせます」

「よく言った」

 イグニスは急に若返って、嫌がるロビンの頭をぐりぐりとかき回した。

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