雲隠れのロビン
草群 鶏
師匠と弟子
見習いの朝は早い。
ロビンは勢いよく布団をはねあげて体を起こした。栗色の髪が跳ね回る頭を厚ぼったいセーターに無理やり押し込んで、うーんと伸びをする。作り付けの寝台、手頃な大きさの書き物机、衣類その他をおさめた長持。ぐるりは城壁のごとく本が山積みになっている。与えられた小部屋はそれだけでいっぱいだ。
屋根裏の自室からおりると、居間は少しだけ暖かかった。火の名残にまじって薬草のにおいが鼻をくすぐる。闇に慣れた目にぼんやりと浮かぶ輪郭だけをたよりに、そろそろと暖炉へ向かう。
たまった灰はていねいに掻き出し、熾火の上に乾いた薪を組む。ランタンに火を灯したマッチをそのまま投げ入れると、暖炉がぶるっと身震いした。
「おはよう」
ほいほいと火中へ投げ込んだ木の実は、やがてぱちんと音をたててはじけた。暖炉の主、めざめた〈火の手〉は中身だけをさっと器用に拾い上げ、どこにあるとも知れぬ腹へおさめる。
壁面のすべて、扉の上にいたるまで、この家は棚と物入れでできている。大小かたちもさまざまな瓶や鉱石、人を含む動物の骨、逆さに吊るされた薬草の束や燐光を放つ菌類のかたまり。道具は硝子や琺瑯、銅には緑色の錆。乱雑に積まれた紙の束は埃を吸って嵩を増し、いつでも崩れる準備ができているので掃除のさい悩みの種になっている。ここにはおよそ統一感というものがない。正直手に負えないのと、この混沌こそが魔法使いの家らしいこともまた事実だったので、ロビンも手入れは事故が起こらないていどにとどめていた。
不意に視界が暗くなり、見れば〈火の手〉がふてくされていた。どうやら朝食が足りなかったらしい。
「まあ、ちょっと待っててよ」
すぐ戻ってくるからそのまま起きててよね、となだめすかしながら、ロビンはランタンを手に霧のたちこめる森へ出ていった。
「うう」
用事をすっかりすませ、朝食の支度が出来た頃に、師匠が奥の自室から這い出してきた。食卓のそばでやっと二足歩行に進化して、ぬうっと立ち上がると急に部屋が狭くなる。
魔法使いイグニス。
一夜にして一国をも滅ぼすともいわれた、伝説の魔法使いである。
縦に長く彫りが深い面立ちは、無精髭のために盗賊めいていかにも人相悪くうつる。朱銅色の髪は朝陽に透けて炎のよう。ひょろりと大柄な体躯には、くぐり抜けた死地のぶんだけ傷が刻まれているという。
とはいえ、大あくびをしているとひどく年若く無防備に見えた。実際の年齢はともに暮らすロビンも知らないが、歴史上の事柄を世間話の調子で話すのには時折ぎょっとさせられる。
「師匠、のんびりしてる暇ないですよ」
ロビンがフライパンを火からおろし、めいめいの皿にさっと盛り付けると、食卓にかぶさるように背を丸めていたイグニスがスンと鼻をひくつかせた。
「おお、今日は焦げてない」
「黄金胡桃が見つかって。今日の火加減は最高です」
暖炉からどうっと炎が噴き出した。滅多にお目にかかれない好物に機嫌をよくした〈火の手〉がこちらに手を振っている。おざなりに手を振り返して、ロビンも厚切りのパンにかぶりついた。
香りにつられて、使い魔たちも起き出してきた。物陰からあふれるようにすべり出た二匹の眠り猫にも、黄金胡桃を少しずつ分けてやる。ぺろりと舐めたとたん、かれらは群青の毛並みをぶわっと逆立てた。弄ぶように転がしたのちようやく飲み込むと、ロビンの脚にぐるりとまとわりついた。期待に満ちた青と金のオッドアイがふたたびこちらを見上げる。
ファゴとファル、見た目はそっくりだが、右目が青いのがファゴ、金色がファル。目を見れば見分けがつく。
「そんなにたくさんないよ。これは僕のぶん」
皿を持ち上げて隠すようにすると、かれらは急に愛想をなくして立ち去っていった。
眠り猫には催眠のちからがある。そうでなくてもゆったりと尾をくゆらす様子に眠くもなろうというもの、あまりじっと眺めていては寝床に逆戻りだ。長くてふわふわの毛、もちもちとした足先、愛らしい見た目も戦略のうちと思うとなかなかにおそろしい。猫たちを視界に入れぬよう努めつつ、谷間の小さな屋敷にやっと差し込んだ朝日に目を細めながら、ロビンは炙り塩漬け肉をかみしめる。
平和な食卓も長くは続かなかった。使い魔たちがぴた、とうごきを止めたのをみとめて、ロビンはあわてて最後のひとくちを流しこむ。
「おいでなすったな」
「今日はまた早いですね」
そそくさと自室に引っ込もうとするイグニスを、ロビンが咄嗟につかまえた。手にした飲み物がたぷんと波打ち、危うくバランスをとった師匠は心底嫌そうに振り返る。
「俺がいても仕方ないだろう」
「諸悪の根源が何を言ってるんですか。逃がしませんよ」
ファゴとファルも前足を揃えて行く手を阻む。分が悪いとみたイグニスが舌打ちを返事代わりに食卓に戻ると、間を置かず玄関の扉がノックされた。
「おはようございまーす」
「いるんでしょう、わかってますよお」
ドアを叩く音は鳴り止まず、樫の木で誂えた分厚い扉がガタガタと揺れた。息をひそめることしばし、やがて声が止んだと思うと、今度はしゅるりと紙がすべりこんでくる。ファルが右脚ではし、と捕らえた一枚を皮切りに、扉のすきまから次々と紙が吐き出された。
請求書、請求書、督促状、苦情申立書、依頼状、依頼状、督促状……
ひらひらと舞う紙片を戯れに追うファゴとファルについてまわりながら、ロビンがすべて回収する。毎日のことなので、遠目に見ただけで内容の見当がつくようになってしまった。
ああ、胃が痛い。
てんで相手をする気のない師匠に代わって、間に入るのはロビンの役目だ。イグニス本人に食って掛かろうにも、居留守に逃亡と埒が明かない。だからかれらは要求を書類にしたためて投じていくのを忘れない。
「俺はもう引退した身だからな」と言うわりにイグニスの身辺はにぎやかで、こと金銭と女性関係のトラブルには事欠かず、過去の因縁も頻繁に再燃する。おとなしくどこかへ仕えれば暮らし向きも楽になるだろうに、そればかりは断固拒否し、町のひとびとのこまごまとした依頼をこなして暮らしているのだ。
「そろそろ頃合いだな」
「……そうですね」
ロビンは、両てのひらを床に伏せて、ひたりと重ねた。身体の奥で光の円環がまわりはじめ、押さえつけるような力がロビンの両肩にかかる。腕を突っ張って耐えながら、重ねた手をこんどはゆっくり引き離す。
外の物音が止んだ。
一時的に位相がずれたのだ。時空転移を伴う目眩ましの一種で、実体に干渉するので広範囲には使えないが、逃げ足としてはたいへん有効な、そして大変小狡い手段である。
師匠が一向に教えてくれないので、まともに使える魔法はひとつきり。外見をすり替え、見るものを誘導する、すなわち目眩ましである。不思議なことに、この手の魔法だけは幼い頃から何不自由なく使えるのだ。
「毎度のことながら、見事な隠蔽体質だな」
「その言い方やめてもらえますか」
身を隠すことばかりが上達して、このままではこそ泥くらいしかなりようがない。
いいように使われているだけな気がして、ロビンは深い溜め息をついた。
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