第13話 勝利者(マンスーラ)は誰そ

 射出機から放たれた焼夷弾が、轟音と共に宙に弧を描き、着弾して炎を上げる。

 性懲しょうこりもなく十字軍が築こうとしていた木橋は、たちまちにして燃え崩れた。


「ふん、何度やっても無駄なことだ」


 ファクルッディーンは鼻でわらい、意気揚々と引き揚げて行った。


 スルタンは亡くなっているのではないかという噂は、すでに軍内に広がり、もはや公然の秘密のような状態となっている。

 ただ、それが士気の致命的な低下や混乱にまでは結び付いておらず、ファクルッディーンとしては胸を撫で下ろしているところであった。

 そうなってくると、むしろ王太子トゥーラーン=シャーを呼び寄せたことにより、彼が率いてくるであろう軍勢とで、十字軍を挟み撃ちにできる可能性も出てきたわけだ。あとは、十字軍が何とかの一つ覚えのように渡河のための橋を築こうとするのを撃退しながら、時間を稼いでいればいい。

 総大将殿の機嫌が良いのも当然だった。



 そんな敵の様子を対岸から眺めやって、ロベールも鼻でわらった。


「まあ陽動としてはこんなものだろうな」


 スルタンが死んだらしいという情報は、すでに十字軍側にも伝わっていた。最初は朗報かと思われたのだが、そのことによる敵の動揺はさほど大きくなく、それに渡河とかもままならぬ現状では、付け入りようもない。

 さらには、遠くメソポタミアの地に赴任しているという王太子が召喚され、その手勢に背後をかれるのではないかという懸念も生じていた。

 そんな中、渡河可能な浅瀬の情報が得られたのだ。十字軍にとっては現状打開の千載一遇の好機であった。



 1250年2月8日未明。王弟ロベールの手勢と、テンプル騎士団、ソールズベリー伯率いるイギリス人部隊などで構成された奇襲部隊が、朝霧の中浅瀬を踏んでタニス分流を渡り、マンスーラから半ファルサフ(約3km)ほど離れた地点に上陸した。


 奇襲の目的は、アイユーブ朝軍本隊に打撃を与えること。その目的を達したら深追いはせず、続けて渡河予定のルイ王の本隊と合流するという手筈てはずだ。

 ただ、奇襲の後の方針に関しては、ルイとロベールとの間には若干の齟齬そごがあった。


 事前の話し合いにおいて、ロベールは兄に主張した。敵軍がマンスーラの町に逃げ込むようなら、それを追って町になだれ込み、一気に制圧すべきだと。

 スルタンの死にもかかわらず、敵に大きな混乱が見られないのは、どうやら王妃の手腕によるものであるらしい。その女の身柄を押さえておかねば、敵が息を吹き返す原因にもなりかねない――。


 それに対して、ルイはこう答えた。


「確かに、世の中には女傑というものも存在する……」


 そこでわずかに眉をしかめたのは、少年期の彼の摂政として辣腕をふるった「女傑」であり、いささか煙たい存在である母親のことを思い出したからだろう。


「存在するが、スルタンの後嗣こうしはあくまで、メソポタミアの地にあるトゥーラーン=シャーとかいう男。その生母でもない元奴隷に、そこまでの価値はない。少なくとも、路地が狭く入り組んでいて大軍の利をかせぬマンスーラ市街に踏み込んでまで、押さえるほどの価値は、な」


 兄弟はしばらく議論、というか言い合いを続け、例によって末弟シャルルが仲裁に入ったりする一幕もあったのだが、ひとまずは深追いはせぬということで議論は決した。



 渡河可能、とは言いながら、騎馬ごと流されてしまいかける者も出る中、どうにか対岸に辿り着いた部隊は、そこでアイユーブ朝軍300騎あまりと遭遇した。

 これも事前の取り決めで、先鋒はテンプル騎士団と決まっていたのだが、ロベールは部下を率いて駈け出した。


「あ、王弟殿下! 約束が違いますぞ!」


 テンプル騎士団長が叫ぶ。しかし、ロベールは抜け駆けで一番槍をかっさらおうとしたわけではなかった。

 敵部隊と本隊との間を遮断するように展開し、本隊に伝令が走るのを阻止する構えだ。

 激しいが短い戦闘の末、不意を突かれた上に数でも劣るアイユーブ朝部隊は壊滅した。


 壊滅した部隊の生き残り数騎が、近くの村落に逃げ込む。奇襲部隊はそれを追って村落になだれ込み、敗残兵を討つ。そして、戦闘に巻き込まれて右往左往する住民たちをも、老若男女を問わず手当たり次第に殺戮した。


「敵本隊に情報が伝わるのを少しでも遅らせるのだ。一人も生かすな」


 ロベールが部下たちに命じる。

 いささか血の気は多いものの、妻子を愛し、部下からも慕われるフランス王の弟は、しかし、異教徒にとっては無慈悲な殺戮者に他ならなかった。


 十字軍の主計官しゅけいかんの職にあったサラザンという人物は、積み上げられた屍の山をの当たりにした感想をこう書き残している。「もし彼らがキリスト教徒の敵でなかったら、本当に哀れを催したことだろう(意訳:いくら異教徒相手でもやり過ぎだ)」、と。



 一方、ファクルッディーンはこの時、朝風呂にかって鼻歌を歌っていた。そこへ伝令が駆け込んでくる。


「閣下、大変でございます! キリスト教徒フランクどもが渡河を果たし、わが軍本隊に迫ってきております!」


「何だと!」


 ファクルッディーンは風呂から飛び出し慌てて服を纏って、軽装のまま馬に跨り駈け出すも、十字軍の部隊に取り囲まれ、斬り刻まれて落命する。

 かつてカーミルの治世を支え、ヤッファ条約の締結にも一役買った功臣、フリードリヒにも愛され騎士叙任まで受けた男は、かくして、腰抜けで無能という汚名をもって晩節をけがすこととなった。



「ちいっ! してやられたか!」


 本隊の後方に置かれたバフリーヤの陣営から、十字軍による本隊奇襲の様子を目にしたバイバルスは、手にしていた鞭を思わず地面に叩きつけた。

 だが、彼としてもここで地団駄じだんだ踏んでいる場合ではない。


「どうする、隊長殿? 本隊の救出に向かうか?」


 彼の副官的な立場になっていたカラーウーンが問いかける。


 バフリーヤは仲間同士の結束が極めて強い反面、それ以外の者たちに対してはいささか冷淡だ。総大将ファクルッディーンをはじめとする本隊の連中に対しても、アイユーブ朝軍の仲間、というような意識はほとんど無い。それでも、敵と戦う上で友軍となる部隊が壊滅してしまえば、今後の戦いが厳しいものとなるのは道理だ。

 少しでも救出できれば、それは自分たちのためにもなる。

 しかし、今から救出に向かって、どの程度救い出せるか……。それどころか、本隊を壊走させた十字軍に、余裕をもって迎撃される可能性さえある。


 判断に逡巡しゅんじゅんするバイバルスの元に、斥候せっこうとして様子を探りに行っていたバフリーヤ兵の一人が戻って来た。


「奇襲部隊の指揮官は誰かわかるか?」


 バイバルスが斥候に問う。


「は、三弁の百合フルール・ド・リスの旗印を掲げておりました」


「フランス王自ら出張でばって来たということか!?」


 驚くバイバルスに、斥候は首を振って、


「あ、いえ。どうやら王弟おうていアルトワ伯の軍勢のようです」


「そうか。アルトワ伯か……」


 十字軍の指揮官の顔ぶれについては、王妃から手渡された神聖ローマ皇帝の手紙に詳しく書かれていた。何度も熟読したそれによると、アルトワ伯というのは中々に血の気の多い人物であるらしい。

 それに、十字軍内に潜り込んでいる間者かんじゃからの報告でも、いささか功を焦っているらしいという情報があった人物だ。


 十字軍内の間者。それは彼らが味方に付けた――つもりの、現地キリスト教徒達だ。

 キリスト教徒と言っても、カトリックの割合は高くなく、ほとんどが正教徒、あるいはコプト派などの諸宗派を奉じる者達である。

 長らく中東に暮らす彼らにとってみれば、勝手に押しかけて来て都合の良い時だけ同門扱いするかと思えば異端として爪弾つまはじきしたりもする西欧人達は、本心から歓迎できるような存在ではない。そして、中には金で転んでイスラム教徒の間者を務める者もいるという次第だ。


 さすがに、十字軍幹部達による会議にまでは入り込めないものの、エジプト征服のあかつきにはこの地の統治を任されることになるらしい王弟が、功を焦るあまり兄王や諸侯としばしば衝突しているという噂は拾って来てくれている。


 しばしの思案の後、バイバルスは決断した。


「マンスーラの町に、罠を張る」


 それを聞いて、カラーウーンは不安気な表情を浮かべる。


「本隊は見捨てて、ですか? しかし、食い付いてきてくれますかね? 俺が奴らの大将だったら、わざわざマンスーラに手を出そうとは思いませんぜ?」


 彼の言うことにも一理ある。現在この地にはアイユーブ朝軍の主力が集結しており、それさえ打ち破ってしまえば、首都カイロには少数の守備兵が残るのみだ。

 そして今、アイユーブ朝軍本隊に奇襲で打撃を与えた十字軍にとっては、敗残兵がマンスーラに逃げ込んだなら、部隊を割ってその片方で町を包囲し、もう片方の部隊で一気にカイロをく、という選択肢が生まれている。

 マンスーラの市街地が狭隘きょうあいで、入り込んでしまえば大軍の利をかせぬ、というような事情も、おそらく十字軍は承知しているだろう。


「そうだな。慎重な指揮官なら、マンスーラに手は出さないというのは十分あり得る話だ。だが、アルトワ伯という奴なら、食い付いてくる可能性はむしろ高い」


「はあ、なるほど。ですが、もし食い付いてこなかったら?」


「そん時ゃお前に任せるわ」


「はあ!? どういうことですか!?」


 思わず、甲高い声を上げるカラーウーン。


「マンスーラ市内で奴らを迎え撃つのには、そんなに兵力は必要ない。町の男衆も動員すればいいしな。だから、俺は少数の精鋭を率いて罠を張る。お前は残りの部隊を指揮して、奴らが罠に食い付かなかった場合に対処する」


 隊長の大胆な策に困惑しつつ、カラーウーンはなおも問う。


「はあ、承知しました。ですが、具体的にはどう対処しろと?」


「まあ臨機応変にだが、そうだな、何ならカイロアル=カーヒラを囮にする、とか……」


「また無茶なことをおっしゃる」


 げんなりした様子の副官に直接は答えず、バイバルスは町の方に目を向ける。


「マンスーラ。どういう意味かは知ってるな?」


「“勝利者”でしょう。御先代(カーミルのこと)が名付けられたと聞いてますが」


「そうだ。勝利者マンスーラっていうのはな、カラーウーン。最後に立っていた者のことを言うんだよ。たとえ、どんなを使ってでも、な」


 副官の方を振り返り、バイバルスはにやりと笑った。



 マンスーラ市街に設けられたスルタンの御座所ござしょ。今はそのあるじとなっている王妃・真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッル。彼女の前に、一人の宦官が駆け付けて急を告げる。


キリスト教徒フランクどもの奇襲により、わが軍本隊は大打撃を受け、総大将殿も戦死なされたよし。ここは一刻も早く町の城門を閉ざさねば、敵が攻め込んできて御身おんみにも危険が及びましょう。どうかご決だおわ!?」


 そんな彼の首根っこをつかみ、軽々と後ろに放り投げたのは、赤銅色の髪に瑠璃色の瞳の偉丈夫であった。


「まったく、乱暴な男よな。して、何用じゃ?」


 苦笑しながら問う王妃に、バイバルスはひざまずいて言った。


「マンスーラの城門は開放し、敗残兵を受け入れていただきたく、奏上に参りました」


「何を仰るのか、バイバルスきょう! そのようなことをすれば、敵が一緒になだれ込んでくるではございませぬか!」


 起き上がり抗議してくる宦官をじろりと睨みつけるバイバルス。王妃は面白そうな表情で、


「敗残兵を救うため……というわけではなさそうじゃな。なるほど。この町をおとりにしようてか」


「御意」


 うやうやしく答えるバイバルスに王妃はすぅっと目を細め、冷ややかな声音こわねで問うた。


「それは、わたしの身も含めて、ということかな?」


 それに対し、バイバルスは全く動じることなく答える。


「恐れながら。されど、わが命に替えましても、この御座所にはキリスト教徒フランクどもを、一歩たりとも踏み込ませはいたしませぬ」


 しばし冷ややかな眼差しを向け続けていた真珠シャジャル・の木アッ=ドゥッルは、ふっと笑って言った。


「よかろう、バイバルス卿。そなたを重用なされし我が君の目に誤りなきこと、そのつるぎもて証明して見せよ」

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