第12話 バイバルスという男
1249年11月末。ようやくナイルの流れも落ち着き、十字軍はカイロへの進撃を開始した。兵糧や武具は船に
「おお、ついに動き出したか」
その様子を、見晴らしの良い丘陵の上から見つめている者たちがいた。
一人は、ターバンの
いま一人は、栗色の髪に同色の瞳。もう一人より幾分年上で、二十代後半といったところか。
二人とも鍛え上げられた
「整然たるものですな。中々に統率が取れているようだ。……さて、副長殿、見つからないうちにそろそろ引き揚げますか」
美形の男が若い上官に声を掛ける。
「もう少し見てからでもいいだろう。どうせ、重い鎖帷子を着込んだ
そう言いかけた赤銅色の髪の男の側を、一本の矢がかすめていく。矢を射かけられた方向に目を向けると、そこにいたのはヨーロッパ風の騎士、ではない。ベドウィン族の男たちが三騎。
ラクダの遊牧を
どうやらこの者たち、十字軍に雇われて
「だからさっさと引き揚げようと言ったじゃないですか! 馬鹿たれ!」
「あ? 今馬鹿って言ったか!? 上官に向かって馬鹿って言ったか!?」
「言ってません! バイバルス
「嘘つけ! “
「そのあだ名はやめてくださいって! 俺の名前はカラーウーンだと何度言ったら!」
漫才じみたやり取りを交わしながら、馬を駆けさせる二人。しかし、追うベドウィンたちの馬術は巧みで、次第に距離を詰められていく。
「うわぁ、こりゃやばい……なぁんてね」
カラーウーンは左向きに上体をひねり、その美しい顔立ちに余裕の笑みを浮かべながら、半身の体勢で後方に弓矢を向けた。騎馬民族のお家芸、
狙いを定めるや立て続けに矢を放ち、二人を仕留める。
最後に残った一騎は、恐れをなして逃げ出したりはしなかった。仲間の仇を討とうと、冷静に
左手に弓を持って矢をつがえる以上は、どうしても右斜め後ろは死角となる。相手が反撃できない位置を占めて矢を放とうとするベドウィン。その喉笛を、一本の矢が貫いた。
呆然とした表情で、ベドウィンは自分を射抜いた相手を見た。その瑠璃色の瞳の男――バイバルスは、確かについさっきまで前を向いて必死に馬の手綱を操っていたはずだ。弓矢を構えた方の男を仕留めようと、意識を集中したその瞬間に、振り向きざま射た矢が正確に自分を射抜いたというのか……。
我が身に起きたことが信じられぬまま、ベドウィンの男は馬から転げ落ちて絶命した。
二人はそのまま、10ファルサフ(約60km)以上もの道のりを走り抜け、マンスーラの町に辿り着いた。
「さて、隊長のところに報告に行くか」
「副長ともあろうものが軽々しく
「敵を自分の目で見ずに、
軽口を叩き合いながら、バフリーヤの隊長・アクターイの姿を探す二人に、若いバフリーヤの一人が話しかけてきた。
「お帰りなさいませ、副長。アクターイ隊長なら、カイファー(ハサンケイフ:現在のトルコ領南東部)へ向かわれました。何でも、スルタン直々のご命令だとか」
「スルタン直々の?」
顔を見合わせる二人。そこへ、別のバフリーヤが駆け寄ってきて、バイバルスに声を掛ける。
「ああ、やっと戻られた。バイバルス副長、王妃殿下がお呼びです」
「王妃殿下が、ね……」
バイバルスは小さく呟くと、スルタンの
宦官に案内されて入った部屋には、三十代半ばの美しい女性が
「王妃殿下におかれましては、ごきげん
かつてスルタンの衣装係を務めていた頃に何度も顔を会わせている仲とは言え、いささかの遠慮もないマムルークの態度に苦笑しながら、王妃・
「変わらぬな、そなたは。バフリ・マムルークに配属されてほんの三年ほどで副長にまで登りつめたのには驚かされるが……。いや、今日からは隊長を務めてもらう。臨時の、ではあるがな」
バイバルスはさほど驚いた様子もなく、軽く小首を
「はあ、俺、いえ私が隊長ですか。アクターイ隊長は、王太子殿下がおられるカイファ―に向かわれたと伺いましたが」
「うむ。我が君の思し召しでな。殿下をお呼びするように、と」
「ほほう、陛下の、ね」
あくまで不敵な態度を崩さぬバイバルス。
「どうやら察しておるようじゃな。ならば率直に申そう。我が君は
スルタンの死を告げられても、バイバルスは
「やはりそうでしたか。陛下の
「うむ。十字軍と称する
「勝てますよ」
何の
「根拠は?」
「私が指揮を執るからです」
圧倒的なまでに屈強な身体に、赤銅色の髪、そして不敵な面構え。まだ二十歳をいくつも超えてはいないはずだが、老成した雰囲気と、
(これのせいで中々買い手がつかなかったと聞いたが……ほんに、世の男どもは
それは同時に、この若者の才を見抜いて重用した亡き夫への
サーリフのマムルークの一人であった、アイダーキン=アル=ブンドゥクダーリー。それがバイバルスの買い主の名だ。そして、バイバルスはその主人の名を
このアイダーキンという男が、サーリフの不興を買って失脚し、その際に彼のマムルーク達もスルタンのものとなった。そして今に至るわけである。
ちなみに、この後、
「ではさっそく、迎撃の準備を進めましょう。失礼します」
そう言って立ち去ろうとするバイバルスを、王妃は呼び止めた。そして一通の手紙を手渡す。
「これは?」
「
バイバルスは眉を
「はい? 何で
「さてな。詳しいことは
「はあ、そうですか……。ま、有益な情報なのは確かですな。ありがたく活用させていただきましょう」
バイバルスはすっぱりと割り切った様子で、手紙を懐に入れて部下たちの元へ向かった。
バフリーヤに割り当てられている兵舎に戻ったバイバルスを出迎えた部下たちの一人が、興味津々な様子で問いかける。
「陛下にお会いになったのですか? ご様子はいかがでした?」
「ああ、少々顔色は優れなかったが、お元気そうだったぞ」
涼しい顔で、出まかせを口にするバイバルス。バフリーヤたちの表情がぱぁっと明るくなった。
「そうですか、それは良かった。最近は王妃様とごく一部の重臣の方々以外、どなたともお会いにならぬということでしたので、心配していたのですよ」
今のところ、スルタンが亡くなったという噂は広まってはいないようだ。
バイバルスは重ねて鎌を掛ける。
「ご病気だとは前々から聞いているが、相当お悪いのかな? 今日は
「さあ、どうなんでしょう。お食事はきっちりお召し上がりになっているという話ですが。それに、各方面への命令書もお手ずからお書きになっているそうですし」
「ま、筆跡ぐらいはどうとでも……いや、何でもない。陛下のご快癒をお祈り申し上げるとして、アクターイ隊長が留守にされている間、お前らの指揮は俺が執ることになった。よろしく頼む」
その言葉を聞いて、周囲から歓声が上がった。頭も切れて腕も立つ上、気さくな性格のバイバルスは、やや傲慢なところのあるアクターイよりも、兵たちの人気はずっと高いのだった。
歓呼の声を浴びながら、バイバルスはいささか益体もないことを考えていた。「スルタンのお食事」とやらは、一体誰が食べているのだろう、と。
さて、とは言うものの、バイバルスが指揮を執るのはあくまでバフリ・マムルークの部隊のみ。軍全体の総司令官はファクルッディーンだ。ダミエッタで醜態を
マンスーラの西を、北のダミエッタ方面へと流れるナイルの支流――ダミエッタ分流から、さらに枝分かれして東のタニス方面へ流れる支流――タニス分流。ダミエッタ分流東岸をカイロへ向けて南進する十字軍を
川の向こう岸に布陣した十字軍は、巨大な
それに対し、アイユーブ朝軍は、「ギリシャ火」と呼ばれる秘密兵器で櫓を焼き払う。
これはナフサなどを原料とした燃焼剤を陶製の容器に詰めた焼夷弾で、燃え上がれば水をかけても消えないという厄介なものだ。
元々は
巨大な射出機を用いて投じられた焼夷弾が向こう岸に着弾、激しく燃え上がる様を見ながら、ファクルッディーンはほくそ笑む。
「ふはは、
一方、櫓の警備に当たっていたロベールは消火に大わらわだ。
「水を掛けても無駄だ! 砂をかぶせて空気を断たねばこの火は消えぬ! くそっ、
いささか血の気は多いが
「おのれ、
拳を握りしめて、ロベールは叫んだ。
「おうおう、派手にやってるねぇ」
バイバルスはというと、彼の率いるバフリーヤ部隊は、本隊から距離を置いた後方に配置され、戦闘からは蚊帳の外だった。
「総大将殿、よほど我々に手柄を立てさせたくないと見えますな」
傍らのカラーウーンが言う。
サーリフの元で急速に拡充され力をつけてきたバフリーヤに、これ以上発言力をつけさせたくない、というのは、ファクルッディーンのみならず、多くの廷臣たち、さらにはバフリーヤ所属ではないサーリフのマムルークたちの、共通の気持ちだ。バイバルスたちも、そのことは十分承知している。
「ギリシャ火の威力もたいしたものだけど、総大将殿の指揮ぶりも中々に的確なようだねぇ。これじゃ十字軍のやつらも、そうそう手は出せんだろ」
「このまま終わってしまいますかね?」
「さあ、どうだろうね。やつらもそんなに間抜けじゃないとは思うけどね。“
「またそのあだ名で呼ぶ……」
カラーウーンが顔をしかめる。人並外れて
もっとも、カラーウーン本人はそのあだ名を嫌がっているのだが。
「まあそれはともかく……。
「だといいんだけどね」
バイバルスは本隊の方角に目を向けて、ほんの少し不安げな表情を浮かべるのだった。
櫓を焼かれ、渡河のために掛けようとしていた木橋も焼かれ、流れをせき止めようと築きかけた
「陛下、ようやく探し出しましたぞ。この者が浅瀬を存じておるとのことにございます」
ルイの宰相を務めるボージュ伯アンベールが、一人の地元民を連れて来た。
地元の人間だけが把握している渡河可能な浅瀬。それを教えてくれる者を探し回り、ようやく、報酬次第では教えてもよい、という男を見つけ出したのだ。
「でかした。これで
ルイは弟たちと諸侯を招集し、渡河作戦の詳細を練った。
第七回十字軍の運命を決する戦いが、始まろうとしていた。
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